ヂェーヴィチ協会員が行く。~ねじれ幻想郷回遊録~ 作:哲学の階のロッカー
そうしてロウゲツはなんとか親指から逃げ延びた。無論、依頼は完全に失敗。ロウゲツは何週間もの間、入院する羽目になった。
ロウゲツは何日も時間が経って、やっと落ち着いて来た頭で考えた。なんで親指が来たのか……そして、なんでイヴァンが来なかったのか。あのヂェーヴィチ協会に問い合わせれば、なんてことはない。イヴァンは自分が託した依頼を放棄していた旨が伝えられた。それはすなわち、イヴァンはあの場に来るつもりが無かったということになる。
もしかしたらあの親指に捜査のことを教えたのは―――そんな邪推までしてしまう。そんなはずはないと思いながら、可能性は捨てきれない。でもそれはあくまで可能性であって、本気にするようなことではない。そうロウゲツは思っていた。そのはずだったのに―――
入院から数日して、イヴァンはロウゲツの前に現れた。そこで……
「……今、なんて言った?」
「……北部に異動することになったんだ。だから……もう会えない」
「違う、その前だ。なんだって……? "何も言えない"って言ったのか?」
「……あぁ」
ロウゲツはイヴァンに何があったのか問い詰めた。でも、イヴァンは何も答えなかった。
ロウゲツはただ……イヴァンに否定して欲しかった。それだけだったのに。あの場に親指が現れたことは偶然で、イヴァン自身が来れなかったのも何かやむを得ない事情だったとただ一言教えてくれれば良かった。なのに、イヴァンは何一つ話さない。話したくないと口を噤むばかりだ。
結局、イヴァンから明かされたのは、勝手な依頼放棄のペナルティとして降格処分になったことと、まるでロウゲツから逃げるように北部へと異動することになった、それだけだった。
「なんで……おい、イヴァン」
「…………」
「言えよ! なんであんなことになったのか、なんで黙ってるんだ!?」
「……ごめん」
「おい待て……ふざけるなよ、イヴァン! おい! おい!!」
ロウゲツの怒号を背に、最後の最後までイヴァンは何も告げずに去っていった。
「お前が……お前がやったのか!? 俺を裏切ったのか!? お前は!!」
ロウゲツは自分が何を言っているのかも、分かっていなかった。ただこの胸の内の焼き尽くすような熱を吐き出さないと耐えていられなかっただけだった。
ロウゲツの手元には何も残されなかった。依頼を達成して得るはずだった地位の向上も、そして唯一の親友も。それが毒のようにロウゲツの心を蝕み、断続的に怒りで肉体という器を満たす。イヴァンが本当は何をしていたのか、ロウゲツには知る術が無かった。だが、最早関係が無かった。あんな態度で別れられては、邪推が本当だったと言われても何の驚きも無かったから。
退院するまでの数週間を、ロウゲツはイヴァンの去り際を思いだして怒りを覚えながら過ごすしかなかった。裏切られていたのではないのか、と。そんな妄想で頭の中に満たして。
もし、それだけでこの話が終わっていたなら、きっとロウゲツとイヴァンは一生再会することなく終わっていただろう。
この件のオチがついたのは、ロウゲツが退院して初めて南部セブン支部に顔を出した時だった。
「……3課の人たちが全滅、した?」
「あぁ……図書館……ついこの間、都市悪夢へ格上げされた所に向かった結果な……このザマだ」
図書館。そこで死んだ人らを本に変えると言われる比較的最近の都市災害。だがその成長速度は尋常ではなく、ついこの前まで都市伝説程度だったのが都市疾病に、そして都市悪夢へと定められ、今なお猛威を振るっていた。それでも図書館へ向かう人らが後を絶たないのは、そこで勝つことさえ出来れば、勝った人は望む本を得ることが出来るという図書館の招待状に書かれた文言の為だ。
ロウゲツもまた、図書館の本を狙っていた。あらゆる剣技を修め、剣を極めんとするロウゲツには図書館が保有する数多の組織や協会の本に書かれているだろう、それらの戦闘様式についての情報がきっと役に立つと思っていたからだ。
近々、セブン3課は総力をあげて図書館へ向かう作戦を立てていると聞いていた。だからこそ、先の依頼を必ず解決し、ロウゲツもまた3課へと昇進してその作戦に加わるつもりでいたのだ。
だが、その3課はあっけなく全滅した。彼らは既にセブンフィクサーの本として図書館に取り込まれてしまったのだと。
「お前は運が良かったな、ロウゲツ……いや、親指に襲われたのは当然災難ではあったけど……」
「…………」
そう、もしあの依頼を解決して、3課へ昇進していたなら。
自分は図書館で命を落としていたのかもしれない。この場で、自分さえ作戦に加わっていたならセブン3課を勝利に導けた、なんて傲慢なことを言えるような自尊心はもうロウゲツには残されていなかった。
同時に、ここでロウゲツはようやく冷静になった。冷静になって、ようやく思い出した。去り際のイヴァンの表情がどれだけ悲痛なものであったのか。どれだけこの別れを惜しんで、その表情に苦痛が滲まないように耐えていたのか。
「……」
「ロウゲツ……? どうしたんだ?」
「……俺は」
最早、何がなんだか分からなかった。自分はどうすればよかったのか。イヴァンに本当は何が起こっていたのか。
知りたいと思った時にはもう親友はおらず、残ったのは親指に完膚なきまでに負けた力のない自分だけだったから。
それからの数年をロウゲツはほとんど鍛錬に費やした。無論、フィクサーであるから依頼を受け続けながらだが。力が無かったことを強く悔やんだ結果、その反動でロウゲツはぐっと強くなった。結局、自分が強く、全ての困難を跳ねのけることさえ出来ていれば、今回の失敗も無かったのだから。
いつしかロウゲツの金色の義眼にかつてイヴァンが持っていた冷たさが宿っていた。愚鈍な熱が冷めて、過去の自分よりもずっと冷え切って得た、喪失の冷たさ。
センク協会主催の決闘大会にも参加した。もしかしたらこういう場にイヴァンが現れるんじゃないかと思って。だがそれも空振りに終わり、ロウゲツは優勝するだけ優勝して虚しい気持ちで帰路につく。何度も。何度もそうやっているうちに、優勝回数が重なって、遂に殿堂入り扱いで出禁になってしまったが。
そうやってロウゲツはいつの間にか強くなっていた。その頃にはもう落ち着いて、高い等級のフィクサー特有の雰囲気を纏うようにもなっていた。イヴァンが去ったことで突き刺さった憂鬱も鳴りを潜めて、感情にばかり振り回されることももう無くなっていた。だが、それは振り回されることが無くなったというだけで、未だに突き刺さったまま……どういう風にも消化しきれず、奥底に隠されたままであったけど。
何も分からないまま、ここまで来てしまった。あれからイヴァンには一度も会っていない。一度離れた距離はどうやっても縮まることはなかった。
自分も北部へ向かおうと考えたこともあったけど―――イヴァンの最後の表情を思いだす度に躊躇われた。どうしてかまだ近づいてはいけないような……近づこうと心の中で思う度に、胸の中に痛みが走るような感覚があった。いや……それは言い訳だ。単純にそれは自分が怯えていたからだ。だって―――最後に突き放したのは自分だったから。怒りのままに最後に吐き捨てた言葉が、イヴァンのことを思いだす度に同じように思い出される。もしかしたら、イヴァンがそれで自分に対して失望の意を抱いていたなら……そう思わずにはいられなかったから。
まるで見えない刃が突きつけられているかのように、ロウゲツはイヴァンに近づけずにいた。そのまま何年も何年も経って、いつしか1級フィクサーにまでなるほどに時間が経って―――そこまで至ってなお、一歩を踏み出せずにいた。人知れず……見えないものに追い詰められていた。
そんな最中……ロウゲツの下にある依頼がやってきた。消えた南部ディエーチ1課のフィクサー……そしてそこに残されたモノリスの欠片、双方の捜索。そして調査。
それに関連すると思しき、もう一つのモノリスの欠片が北部で見つかったこと。
ロウゲツはイヴァンにメールを寄越した。何の理由も無しに会いに行くことに怖気づいていた自分には、これぐらいしか会う理由を作れそうにないから。"仕事の為"と言って、イヴァンへ依頼を頼んだ。助力を口実に、もう一度だけ会う為に。もし何か時間と共に事情が変わったのなら、もしかしたら真相を聞くことも出来るんじゃないかって。
そもそも依頼を断られるかも、とも思ったが……返って来た返事はOKとのことで、ようやくロウゲツは何か荷を下ろした気になっていた。
なのに、これはどんなザマだ。イヴァンとの待ち合わせ場所、裏路地の一角のビルの中、それは現れた。
「なっ……ねじれ……!?」
水で出来たヴェールを纏ったねじれ。そしてそれに繋がれずに浮かんだ巨大な黒い両手。まだ協会でも未確認のねじれが、壁の隔たりをすり抜けてこの部屋へと現れた。だが、それが並大抵のねじれであれば、今のロウゲツなら倒せるはずだった。
「くそ、こいつどれだけ……!?」
だがそのねじれは戦っていく内に、その巨大な手を無数に増やしてきた。どこからか手が壁をすり抜けて来てロウゲツを取り囲む。
「―――そこだ!」
金色の義眼が忙しなく辺りを見渡す。自分を掴もうとしてくる無数の手をいなし、弾き、その間をすり抜けて本体へと流麗な軌跡を残しながら剣を突き立てる。水のヴェールが切り裂かれ、中からねじれの水が濁流のように流れ出る。
「―――っ!? こ、れは……!?」
流れ出る水を浴びる。その瞬間、ロウゲツの心に去来する不安感、憂鬱、ネガティブな思考が水と共に心に染み入ってくる。用意しておいた月光石によって精神浸食は防がれているはずなのに、それを貫通して届くほどの圧倒的な憂慮がロウゲツの心を縛る。
ロウゲツの目線が左ポケットに向く。中に入っている月光石の輝きが瞬く間に薄まっていくのに気を取られ、死角より現れた更なる掌への反応が遅れてしまう。
「しまっ―――!?」
沈んでいく。そのままねじれはロウゲツを何処かへと引きずり込んでいく。
《幻想……揺蕩い……沈み……》
「くっ……!?」
頭の中に声が響く。水を浴びて憂慮が沁み込んでいたロウゲツは、その声に思考を遮られ、反撃の手立てを考えることすら出来ずにいた。
「くそ……なん、で……」
目の前が真っ暗になっていく。意識も身体も沈んでいって、もう二度と浮かび上がれない。
そんな中でもロウゲツはイヴァンのことを思い浮かべたけど……
「イ、ヴァン……なんで……」
この時になっても、ロウゲツの口からこぼれ出たのは、あの時のことばかり。
なんで黙ったまま去っていったのか、ただそれだけが、分からないままだった。
***
思考が現在に戻ってくる。今までの全ての後悔と、怒りと、恥の足跡を辿って。
ロウゲツの表情は既に真っ青になってしまっていて、膝を抱えながら蹲って頭を抱えていた。
「……俺は。イヴァンに全てを聞きたかっただけだ。もしやり直せるなら、やり直したかっただけで……」
【なら……なぜ再会できたあの時に、そうしなかったの?】
「それ……は……」
亀裂を暖かな声がなぞる。いや、そのまま染み入ってくる。まるでねじれの水を被った時のように、心に直接染み入る声。
白玉楼へと落ちて、多少のいざこざの果てに保護してもらった。そのしばらく後のこと。地霊殿にイヴァンという名の外来人が保護されていると聞いた時―――ロウゲツは人知れず絶望していた。
だってそれは……自分が依頼を託したから起きた悲劇に違いなかったから。もし自分が依頼さえ寄越さなければ、イヴァンは幻想郷に落ちることは無かった。あるいは、自分があのねじれを討伐出来ていれば。
そのことから来る恥が、ロウゲツの首をもたげさせた。イヴァンの顔を真正面から捉えられなくさせていた。剣を握りながら、微かに呪っていた。もう何のために剣を極めんとしていたかも分からなくなっていた。この剣がねじれの首元に届いてさえいれば、イヴァンは危ない目には遭わなかったはずなのに。
再会できたはずなのに、どこまでも遠く感じる距離感。相変わらずイヴァンの方からも距離を縮めようなんて気配はなくて。あの時と同じように軽口を叩きあったりもしたが、それでも分からないままだった。イヴァンが自分をどう思っているのか、その表情に何の意味を含ませているのか。見えない刃に脅かされた心の間合いのせいで、遠く離れてしまったせいで、イヴァンの全てが分からないままだった。だから、自分がイヴァンに向ける態度すら、自分自身の中で曖昧で分からないものになってしまっていた。自分は彼を糾弾したかったのか、ただ仲直りさえ出来ればよかったのか、それとも一生をかけて謝りたかったのか。全てが綯交ぜになった、曖昧な態度しか取れないジレンマの中にあった。
幻想郷は危険な場所だ。自分ら以上の力を持つ人外たちの住まう場所だ。そしてそこにイヴァンを落としたのも自分だ。だから、どうにかしてイヴァンの身だけでも守らないといけないとも思った。
だがイヴァンは……ロウゲツの思っているより遥かに、幻想郷に適応していた。いや、幻想郷を気に入ってすらいた。
自分の目の前で妖怪たちと素のまま話すイヴァンを見て、複雑な気持ちすら抱いた。より遠くに行ってしまった。イヴァンとロウゲツの間に跨る見えない刃がどんどん伸びてくる。それが突き刺さらないように距離を置いた。心が今より痛まないように。
結局、イヴァンとは仕事の話しか出来なかった。あの事件の日、何があったのか聞くことは……その見えない刃に切り刻まれながら、近づくことと同義だったから。愚かな怒りで突き放してしまった自分の事をイヴァンがどう思っているのか、知るのが怖かった。突き詰めてみればなんてことはない。
この幻想郷でイヴァンを問い詰めなかったのは、怖かったからだ。イヴァンの内心が。イヴァンの本心が。その恐怖が見えない刃と化して、ロウゲツの心を脅かしていた、それだけだった。
【でも突き放したのは貴方だけじゃないでしょ? 彼もまた貴方を突き離しているの、分かっているはず】
「……」
「―――!! ~~~!?」
こいしの声が遠のいていく。最早何を言っているのか、言語の形すら保っていないように聞こえる。そんなデタラメな呼びかけをBGMにして、ロウゲツは頷く、何も分からないまま。セブンフィクサーとしての矜持すらも、もう頭の中から抜け落ちていた。
【彼が突きつける見えない刃に、貴方の心が傷つけられる必要はないの】
「……あぁ」
自分の心を傷つける、この葛藤を抱き続ける必要はない。その言葉に、甘い救済の言葉に、ロウゲツはやはり頷いた。内側まで染み入った
【貴方が握るのよ。他者との心の間に生まれる見えない刃は、貴方が振るうの。そうして適切な間合いさえ維持出来たなら……もう貴方が傷つくことはないでしょう】
「……そう、か」
ロウゲツは、やっと合点がいったとばかりに、声を漏らした。
きっとイヴァンとの距離は、これが適切だったのだろう。これ以上近づくのは異常なことで、そうする必要はきっとないのだ。
だってこんなにも鋭い刃が……自分とイヴァンの間にあるのだから。こんなものがあるのは、これ以上近づいてはいけないからなんだ。
ロウゲツの髪が伸びていく。ねじれた心を糧にして、人生の中で伸び続ける身体器官の一つが、ロウゲツの足跡の長さを示すようにどんどんと。そして髪に絡まるようにして数多の剣が突き刺さっていた。だが……ロウゲツはそのどれにも興味を示さない。
ロウゲツの左手には既に―――"空っぽの鞘"が握られていた。今までのロウゲツの人生で培ってきた剣は意味が無かった。親指もねじれも斬ることが出来なかった。親友だった者を
「……ねじれた。止められ、無かった」
呟いたこいしだったが、分かっていた。これは自分が藪蛇を
「でも、どうにか……」
こいしの心はざわついていた。モノリスが近くにあるのだから当然だ。でも自分までねじれないように、心の中に"でも"という言葉を刻む。それと同時に次に自分がやるべきことを認識する。どうにかあのねじれをここに留めて、イヴァンや姉や、他の人が来るのを待つこと。せめて足止めを。その為に、こいしは弾幕を放つ為の溜めを行う。
それを知ってか知らずか、ねじれて髪の毛に塗れたロウゲツは一人天井を見上げていた。こいしのことは意に介さずに。それを見て、こいしもロウゲツの視線を追う。もっとも、ロウゲツの目線は伸びた前髪に隠れて正確には分からなかったが。
そうして数秒した後、ねじれたロウゲツは空っぽの鞘に手をかける。腰を軽く落として引き―――まるで居合のような体勢で。しかし、本来刀の柄を握るべき右手は、鞘より少し上の虚空に置かれていた。まるで見えない剣の柄を握っているかのように。左手に持っていた月光石が髪の毛まみれの床に落ちて、真っ二つに割れて転がった。
「何を……?」
疑問の言葉を口にしながら、これもこいしは分かっていた。
何かしようとしている。それもとてもマズイことを。止めなければ―――そう思って光弾の弾幕を放つのと、ロウゲツがまるで剣を振りぬいたように、右手を振ったのは、ほぼ同時だった。
「ッ!?」
キン―――見えない刃が天井を切り裂く。それら物質を含む空間ごと。それがまるで巨大な銀閃のようになって、この地下の大図書館から、直上の1階も、2階も、更に上の時計台ごと。全てを一刀に切り裂いて見せた。
その直後に殺到する光弾も、目にもとまらぬ速さで鞘を振り回し、全て叩き落す。
総ての者を決して近寄らせない、歪なる剣鬼がそこに立っていた。