6月に入り、夜でも薄着で過ごせる日が増えてきた。
日が長くなった分、天体観測を始められる時間は短くなっている。
週に一度の逢瀬と、たまのデート。
俺たちの関係は順調、そう思っていた。
薄着が好みの俺にとって夏は嬉しい季節なのだが……最近、どうしても困っていることがある。
「加瀬っち、夜なのに暑いねぇ」
先月、俺がプレゼントした水色のTシャツを着て、ストレートジーンズを履いた双葉が隣にいる。
デートの時はあんなにダボっとした服ばかりなのに、天体観測の時になると彼女はボディラインがはっきりとわかる服を着てくるのだ。
目のやり場に困る。視線が胸元へ行くたびに「……えっち」とため息を吐かれてしまうのが最近のルーティンになりつつある。
かつては30分もかかっていた望遠鏡の設置も、今では5分で終わるようになった。
夜の帳が完全に降りるのを待つ間、俺たちはベンチで並んで座る。最近の双葉は、驚くほど密着して座ってくるのだ。
シャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
視線を落とせば、無防備な胸元が視界に入ってしまい、心拍数が跳ね上がる。
それだけじゃない。会話の途中で太ももに手を置かれたりと、彼女は俺をドキドキさせることばかりやってくる。
流石に俺に気があるのかと勘違いしそうになるが……もし思い切って突っ込んで、拒絶されたらどうしよう、そう考えると怖くて、この心地よい関係を壊す勇気が持てない。
俺は今日も、最後の一歩をどうしても踏み出せずにいた。
お菓子をリスのように口いっぱいに頬張る双葉を、密かに堪能する。
夏至が近いこの時期は、完全に暗くなるまで一時間近くも雑談することになる。
一度、「観測の開始時間を遅らせようか」と提案したのだが「は? なんで?」と即座に却下を食らった、あの時の双葉の目は、ちょっと本気で怖かった。
ベンチにぴったりと密着して座り二人の膝の上に古びた星座早見盤を置く。
今日の観測目標を設定しているのだが、見たいものが多すぎてなかなか決まらない。
「これとか良いんじゃない?」
そう言って早見盤を指さす双葉だが、その拍子に俺の二の腕へ柔らかい感触が押し当てられる。
途端に顔がカッと熱くなり、全身が固まってしまう。
「ねぇ、加瀬っち、聞いてる?」
「あ、あぁ……悪い、聞いてなかった」
双葉はこれ見よがしにはぁー、と大きなため息をついて見せた。
「部活中なんだから、真面目にやってもらわないと困るんだけど?」
「……悪かったよ」
双葉は早見盤を指さすたびに、わざとなのか無自覚なのか、胸を俺の腕に押し付けてくる。
その度に俺が赤くなって硬直するのを彼女は本当に気づいていないのだろうか。
こっちも恥ずかしすぎて「当たってる」なんて注意できるはずもなかった。
「その……最近おしゃべりしてる時、全然集中できてないけど、どうしたの? 悩みがあるなら聞くよ?」
――君の胸のせいで集中できません、なんて死んでも言えるはずがない。
俺は必死に曖昧な返事を取り繕う。
「悩みなんてないよ。本当に、何でもないから」
そう言っても、双葉はまったく納得のいかない様子で俺をジッと見つめてくる。
「……悩みがあるならちゃんと言ってね? あたし、何でもしてあげるよ」
ん? いま、何でもするって言ったか……?
いや、流石に気のせい、だよな。
「あぁ、大丈夫だから」
「本当かなぁ……」
ジト目であきれたように俺を見てくる双葉。
その後、夜の帳が完全に降りきるまでに今日の観測目標はなんとか無事に決定したのだった。
プルケリマ。――ラテン語で「最も美しいもの」という意味を持つ、今夜の観測対象だ。
「『最も美しい』だなんて、まるであたしのためにあるような星よね」
双葉が自信満々に言うものだから、つい鼻で笑ってしまったらスネを結構強めに蹴られた。
――痛てて。……でも、あんな200光年も離れた星なんかより、目の前にいるお前の方が全然美しい、なんて口が裂けても言えなかった。
望遠鏡を覗くと、主星である鮮やかなオレンジ色の輝きが目に飛び込んでくる。
地球から約200光年先にある天体。俺たちが今見ているのは、200年もの時間をかけて旅してきた過去の光なのだと思うとワクワクが止まらなくなる。
倍率を上げると、肉眼では決して見えなかった、エメラルドグリーンの光を放つ伴星もくっきりと姿を現した。
寄り添うように並ぶ二つの光。宇宙という圧倒的なスケールの前では俺たちの存在なんてどれだけちっぽけなのだろうか。
ちなみに、この手の「宇宙のスケール感」の話を双葉に熱弁すると、大抵「ふーん」の一言で片付けられてしまうので、最近はあえて振らないようにしている。
逆に、俺も双葉が好きな星座の神話や歴史にはそこまで興味がない。だから俺たちは、ただ「星が綺麗だね」というシンプルな感想だけをいつも言葉にしている。
見えている世界やロマンの形は違っても、今この瞬間、同じ星を見て同じ感動を共有できている……それだけで、今の俺には十分すぎるほど幸せだった。
双葉が望遠鏡を覗き込む。
「すごい、連星がちゃんと見えるね! オレンジとエメラルドグリーンが本当に綺麗……!」
レンズを覗いたままキャッキャとはしゃいでい、彼女にしては珍しくテンションが高い。
「連星ってやっぱり可愛いよね。ぴったり寄り添って、なんだか夫婦みたい」
「そうだな。ちなみに連星って、一方がもう一方のガスを吸い取って枯渇させちゃう場合もあるんだよ」
「もーっ! そうやってすぐ現実的なことを言う! 女の子は『綺麗だね』って共感してほしいだけって、何度も言ってるよね!?」
双葉がこちらを向いてプリプリと怒るが、まったく迫力がなくて可愛いだけだ。
「全く……本当に女心がわかってないんだから」
「ごめんて」
俺が苦笑いしながら謝るとそれ以上は追及してこなかった。
双葉も本気で怒っているわけではないのだ。
彼女は再び、愛おしそうに望遠鏡を覗き始めた。しばらく静かな時間が流れる。
「ねぇ、加瀬っち」
「何?」
「……あたしたちって、いつまで一緒にいられるのかな」
ドクン、と心臓が跳ね、俺の全身が硬直する。
「部活動は来年の夏で終わりだよ? このままだと……あたしたちの関係も、そこで終わっちゃうね」
双葉の問いかけに、何も答えることができない。
言外に「今以上の関係になりたい」と求めてくれているのは明らかだ。
だけど、拒絶の恐怖が邪魔をして、どうしても言葉が出てこない。
「……はぁ。本当に意気地なし。……こっちから行くのは不本意なんだけど、しゃーないか」
双葉がレンズを覗くのをやめ、ゆっくりとこちらを振り向いた。
月明かりの下、暗闇から戻ってきたその瞳は――これまでの少女のそれではなく、完全に「女」の顔、いや、獲物を狙う「捕食者」の顔をしていた。
双葉がゆっくりとこちらへ距離を詰めてくる。その気迫に気圧され、俺は思わず後退りした。
やがて背中にガシャンと硬い衝撃が走り、俺は屋上のフェンス際まで完全に追い詰められる。目の前まで迫った双葉は、吐息が触れ合うほどの距離で立ち止まった。
「ここで答えを出して。進むか、引くか。……もし引くんだったら、二度とここに来ないで」
双葉は強い口調でそう告げると、きゅっと目を閉じ、少し震える唇を差し出してきた。
進むか、引くか――そんなの好きな女の子にここまで言わせておいて引くわけがない。
俺は意を決して両手を彼女の細い肩に乗せた……双葉の身体は微かに震えていた。
彼女だって怖かったはずだ。
拒絶されるリスクを背負ってでも、俺とのその先を望んでくれたんだ、その覚悟に、今すぐ応えたい――。
そっと双葉の唇に、俺の唇を重ねる……つもりだった。
しかし、緊張が極限に達していたせいで勢いがつきすぎてしまい、お互いの歯と歯が「カツン!」と激しくぶつかってしまった。
「痛っ……!」
「あつ……っ」
ロマンチックな雰囲気は一瞬で消し飛び、お互いに口元を押さえてうずくまる。
「もー! 本当にサイテー! ちゃんとやってよ!」
「ご、ごめん……っ」
涙目でプリプリ怒る双葉だったが、あまりの格好つかなさに、どちらからともなくぷっと吹き出し、同時に笑い出してしまった。
「あはは、おもろ……。あたし、なんでこんなの好きになっちゃったんだろ」
「こんなのって言うなよ」
双葉はふふっと鼻で笑う。
「だって優柔不断で、意気地なしで、キスもまともにできないんだよ? 終わってるでしょ」
全部事実だから反論の余地もない。情けなくて少し悲しくなってきた。
すると、双葉はふっと表情を柔らかくして、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「――でも、好き」
心臓を撃ち抜くようなストレートな告白。
いつもなら頭が真っ白になって固まるところだが、今日くらいは男として一つくらいやり遂げなきゃいけないと思った。
俺は深く息を吸い込み、彼女の手を握りしめる。
「俺も……玲奈のことが、好きだよ」
双葉ではなく、初めて名前で呼んだ。
「……っ、ふーん。最初から呼べたら満点だったけど。まぁ、今の表情も含めて合格点だね」
そう言って照れ隠しに笑う玲奈の顔は、今までで一番可愛かった。
月明かりに照らされた俺たちの影は、夜の帳の中で、静かに一つへと混ざり合った。