春の匂いがする。
ベッドの傍の白いカーテンが生ぬるい風に揺られているのが、私の心臓を撫でている様で、とても居心地が悪い。
ここ何日かでは一番嫌な目覚めになるなと考えながら、窓の外を眺める今日から新学年。
寮からは、特に私の部屋からは校舎までの通りの桜道が良く見える。
外の通りの往来はまだまばらだが寮内は人の活動が活発になってきていて、生活音が激しくなっているのを五感で感じとった。
「はぁ......」
わざとらしくため息をこぼす。
春は好きじゃない。
都合に関係なく生活の区切りを突き付けてくる感覚がして、吐きそうになる。
「おぇ...」
しばらく何も口にしていないから嗚咽しても唾液しか漏れないけど。
コンコンコンッ―――
珍しくノックが鳴った。
少し深呼吸をして、返事をする。
「はい今出ます。」
「おはよう、心春《みはる》。いい朝だね。調子はどうだい?」
「麻央寮長、おはようございます。まあぼちぼちです。何の御用でしょうか。」
「君が寮長と呼んでいるように寮の管理をしているのはボクだからね。ここの生徒を気に掛けるのも僕の仕事だよ。お寝坊さんだと思っていたけれど、起きてるみたいで良かった。」
有村麻央先輩。皆からは可愛らしい容姿とは裏腹にその振舞からリトル・プリンスなんて呼ばれ方もしている。
学生寮の寮長でもあり、こうして人を気に掛けることを怠らないとても親切な人だ。
「わざわざありがとうございます。こうして全員に声をかけてるんですか?」
「そうさ、ボクにとって当然のことだからね。でも特に君のことは気に掛けるべきだと思ってるから、最初に声をかけさせてもらったよ。」
「大丈夫ですよ。最初くらいは行きますから。」
そういって笑って見せた。
作り物の笑いがさらに作り物めいている気がした。
もう、アイドルなんて体が、心が、忘れている。
心配そうな顔をしているだろう先輩の顔は見れなかった。
軽く身支度をして裏門からこっそりと寮を出る。
おおよそアイドルの行動ではないなと自嘲気味になりながら、裏通りの川沿いを歩いた。
よくランニングの時に好んで使っている道だ。川沿いは季節ごとにその時の匂いがするから好きだった。
でも今は何度も思うように春が好きじゃない。
私の心は二か月前のあの時の煌びやかに証明で照らされたライブ会場で止まっていて、凍り付いている。
こんな陽だまりでは到底融かせない程に。
それどころか、脳内や身体にまで少しずつ浸食していっているとさえ感じる。
麻央先輩と話すときにどもったのは乾燥していた唇が発生を邪魔したんじゃなく、唇が凍り付いていたとさえ思う。
ずっとずっと、あの時の感情で支配されている。あの時の自分の愚かさを呪っていなければ自己を保てないのに、何も考えたくない。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。ごめんなさい。
次第に脳のキャパシティを超えて何も考えられなくなって呆然としたまま歩を進める。
そうこうしているうちに、学園の門の前までついてしまった。
校門で挨拶をする先生に軽く会釈をして、学内に入る。
ひさしぶりの学内は半年程度じゃ何も変わらなくて、今の私の居場所ではないぞと、屋外ステージが体育館が、校舎が全身全霊をもって私をつま弾きにしようとしているとさえ感じた。
小さく丸めていた身体をさらに小さくして校舎に入る。
初星学園は基本的にクラス変更は無い。
三年間での深い信頼関係を築くことが重視されているからだ。
それに三組など、すでに外でアイドルとして活躍している人で纏められたクラスもある。
私も一年三組に在籍していた。
―――二年三組ではなく、二年二組と示している教室に入る。
私が姿が見えるや否や、殆どの視線が私に向いたのを感じた。
それを気にしないふりをして自分の席に着く。
刺すような視覚から体を守るように机を伏すと代わりに、聴覚が研ぎ澄まされていく。
「あの子って去年三組にいた子じゃないの?確か.....」
「二月のライブの後、休止とかは発表してないけど急に音沙汰なくなったんだよね。」
「えー、不祥事でも起こしたのかな?なんでまだ学園にいるの......?」
「私、噂で聞いたよ。何を起こしたかはしらないけど大事にしたくないから内部で学園長が内密に処理したらしいよ。三組にはいられないけど、辞めさせる訳にはいかないとかで......」
「なにそれ、最悪じゃん。関係してる学園の人とかに迷惑かけて、その上でまだ教室に来るとか図々しすぎない?」
多感な時期の若い子にはこの手の噂は絶えない。それはアイドルと言えど、いや、寧ろアイドルだからこそ
何故残っているのか、そんなの私も分からない。
学園長が直々に訪れて『もう暫く残るのはどうじゃ、悪いようにはせん、何かあったら、いつでも相談するんじゃよ』と説得されたけど、理由は分からない。
多分、無意識に頷いた。
記憶が朧気だ。
それよりも母の顔がその時、そして今も、粘っこく脳の後頭部に張り付いていているから。
ひっそりと話していたクラスメイトは結局、私に関する話題を話しつくしたのか、今年の一年生はどうだの、あの子にプロデューサーがついただの、他の話題に切り替わっていた。
暫くして、担任が入ってきて体育館に行くよう指示をした。
始業式でぼんやりと生徒会代表挨拶などを聞いていたらあっという間に時間が過ぎて、昼間には解散した。
春風というには少し刺すような鋭い風の冷たさと、自分の真上に上る太陽の暖かさが中和しあって居心地の良くない生ぬるい感触。
不愉快だけれども、心臓の不自然な脈と痛みと同じ波長に感じて、全身で浴びる。
自分の輪郭を限りなく薄くしたい。
このまま溶け込んで風に流されてどこかへ―――
「あなたが、心春さんですね」
「......?どちら様、ですか」
現実に引き戻される。
「俺はこういうものです。こちらを」
着慣れていなそうだがやけにそれっぽいスーツ姿の彼はそう言って一枚の名刺を手渡してきた。
「プロデューサー科、一年......?どのような要件でしょうか。」
「率直に言います。あなたをスカウトしにきました。......心春さん?」
「......!ご、ごめんなさい。何を言ってるか一瞬、理解できなくて...。その話ならお断りさせていただきます、ごめんなさい。」
「...理由をお伺いしても?」
「......もう、アイドルはやらないって、決めたからです。私のことをスカウトしたのなら知ってますよね、二か月前からアイドル活動をしていないって。だからお受けすることはできません。」
彼は『そうですか』とあっさりと返事をした後、意味深に私をまっすぐ見て、話始めた。
「それならばおかしいです。―――何故、あなたはまだこの学園に残っている。」
それは学園長に...と言いかけたのを遮ってプロデューサーと名乗る男は続ける。
「それに、辞めたというのならどうしてまだトレーニングを続けているのでしょうか。」
「な、見てたんですか!?いつから!?」
「外をランニングしているのを。三日ほど前から。時間はまばらですが。」
「通報していいですか?」
この男、ただの変質者ではないのだろうか。
ポケットからスマホを取り出す素振りを見せると、彼は弁明を始めた。
「誤解なきよう言っておきますが、担当するアイドルの下調べは当然のことです。けっして怪しいものではなく、ですね。ええ。」
「それにしたって限度があるような......」
嘘は言ってないように見えるけど、弁明の仕方が下手すぎる。
「と、とにかく、私はアイドルはもうやりません。それに気を紛らわせたくて、なんとなく走ってただけです。私、もう行きますからっ」
踵を返して、走った。何か叫んでいたような気がしたけれど、お構いなくとにかく走った。
アイドルの話はもうやめてほしい。もう、意味がないから。これ以上考えたくない。
「―――!!」
思わず叫んだ。
しかし、春一番というにはあまりにも強い突風が、私の声をかき消した。
「行ってしまった...。素晴らしい運動能力だと今はプラスにとらえておきましょう。逃げられましたが。」
(やはり根強いということか。彼女が活動をぱったりとやめてしまったあの時期。彼女の母親との問題は。最初は単なる確執かと思っていたが、学園長に伺いを立てても深くは教えてくれなかった。それに、ライブの時とはまるで正反対の雰囲気を纏っていた。)
「これは、手強いな。どうしたものか。」