木の葉隠れの里の夕暮れは、いつでもおいしい夕飯の匂いが、あちこちからすうすうと漂ってくるものでした。
いつもの、まあるい食卓です。
「いただきます、だってばよ!」
ナルトはガサツに箸をパチンと割り、すぐさま山盛りの白いご飯にかじりつきました。
口いっぱいに米を詰め込んだその姿は、どこにでもいる、ただの生意気な、やんちゃな小僧の姿そのものでした。
クシナは、呆れたように、けれど目元をこれ以上ないほどに優しく崩して笑うのでした。
「こら、ナルト。慌てないの。ご飯は逃げやしないんだから、ばね」
そう言って、おかずの生姜焼きをナルトの皿にドサッと足してあげました。
少し濃いめの味付けに、ふぞろいに切られた玉ねぎ。
それらはすべて、この家を切り盛りするお母さんが、毎日手を油まみれにしながら、ちゃんと台所に立ち続けているという、あたたかい証拠なのでした。
ミナトは、白い湯気の向こう側から、にこにこと嬉しそうにふたりを見つめています。
四代目火影という肩書は、里の未来や、綺麗事だけでは済まない大人の取引ばかりを連れてくるものでした。
けれど、このせまいダイニングにいる時の彼は、ただの締まりのない、やさしい父親にすぎませんでした。
未決済の書類の山や、暗部からの難しい報告書。
そんな頭の痛い数字ばかりを追う毎日の中で、クシナの賑やかな小言と、ナルトがもぐもぐと咀嚼する泥臭い音だけが、彼にとって唯一、自分のほんとうの素顔を取り戻せる時間だったのです。
「おいしいかい、ナルト」
「うん! 母ちゃんのご飯は、一楽のラーメンと同じくらい世界一だってばよ!」
「もう、ラーメンと並べるなんて失礼、ばね!」
クシナの赤い髪が、夕暮れのひかりを浴びて、パチパチとはぜるストーブの炎のように揺れました。
家族だからこそわかる、少し焦げた醤油のいい匂い。
言葉にせずとも、そこには確かな「家族のカタチ」が、ストーブの上のやかんのように、しずかに、あたたかく置かれていたのでした。
*
お腹がいっぱいになると、三人は腹ごなしに近くの広場へ散歩に出かけました。
夕方の風が、サササ、サササと、乾いた木の葉の擦れる音を優しく運んできます。
ナルトは、ミナトの少し硬くて大きな手を両手でぎゅっと握りしめ、ぶんぶんと振り回しながら歩きました。
「ねえ、父ちゃん。あのね」
「ん? どうしたんだい」
「オレ、いつか、ものすごーく強い忍になるんだ。里の奴らがさ、誰もオレを無視できなくなるくらい、おっきな火影になってやるんだってばよ!」
ミナトはふっと足を止め、その場にぽんと屈み込んで、ナルトのまだ小さな目線を真っ正面から受け止めました。
「そうだね。ナルトなら、きっとなれるよ」
「本当!?」
「ああ。本当に守りたい仲間を見つけた時、忍の底力はね、自分でも驚くほど湧き出てくるものなんだ」
ミナトの手が、ナルトのトゲトゲした金髪を乱暴に、けれどいかにも愛おしそうに撫でまわしました。
その手のひらは酷く温かく、そして、火影としての重圧を知る者特有の、どこか静かな寂しさを、そっと包み込んでいるようでした。
強くなるということは、誰かの命をその背中に背負うことでもあるのだと、彼は誰よりも知っていたからでした。
「ちょっと、ミナト。まだこの子には難しいわよ」
クシナがナルトの背中にまわり込み、いつもの緑色のエプロンドレスをぱたぱた揺らしながら、ナルトの肩をがっしりと抱きすくめました。
「強くなるのもいいけど、ナルト。母ちゃんはね、お前がちゃんと三食食べて、しっかり寝て、グレずに育ってくれれば、それだけでいいの。……それとね」
クシナは少しだけ言葉を詰まらせ、それから、照れくさそうに笑いました。
「私たちが、お前を泥泥になるまで愛してるってこと、それだけは絶対に忘れちゃダメ、ばね」
ナルトは「愛してる」なんて言葉の重みはよく分からなかったけれど、背中からドクドクと伝わってくるクシナの心臓の音と、包み込まれるようなぬくもりだけで、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていました。
*
「よし、それじゃあ、少しだけ父ちゃんと組手をしようか」
ミナトが、ポンと軽く手を叩きました。
「いくぞ、父ちゃん!」
ナルトはズボンのポケットから、使い古されたクナイを取り出して構え、勢いよく地面を蹴りました。
その足取りはまだおぼつかなく、砂を盛大に巻き上げます。
ミナトは、ナルトの小さな歩幅に合わせて、ゆっくりと、けれど確実にその突撃をいなしていきました。
「いい踏み込みだ、ナルト」
「へへん、まだまだだってばよ!」
何度も地面にしりもちをつき、膝を擦りむいてズボンを土埃で汚しても、ナルトはすぐに立ち上がりました。
振り返れば、いつでもクシナが腕を組んで、「ほら、シャキッとしなさい!」と声を張り上げてくれているからです。
自分のことを見ていてくれる人が、あそこにいる。
それは、里の誰もが目を背けていたあの寂しい日々の中で、少年忍にとって、何よりも体に染み渡る、最強のエネルギー源なのでした。
「はぁ、はぁ……」
やがてナルトは、完全にスタミナを切らして、青い芝生の上に大の字にひっくり返りました。
見上げれば、木の葉の夜空には、ぽつぽつと、きれいな星がまたたき始めています。
「疲れたかい?」
ミナトが、自分の服の汚れも気にせず、ナルトの隣にどさりと腰を下ろしました。
クシナもその隣で、泥がついたナルトの頬をハンカチでごしごしと拭っています。
「……うん。でも、すっごく楽しかったってばよ」
ナルトの小さな胸が、いそがしく上下していました。
その荒い息遣いは、自分がこの世界に確かに存在し、愛されているのだという、なによりの証明のようでした。
「ナルト」
ミナトが、星空を見上げたまま、どこか遠い声で呟きました。
「いつか、僕たちが君の前からいなくなってしまう日が来るかもしれない」
「え……? どこに行くの、父ちゃん。オレ、置いてかれるの嫌だってばよ」
どうして大人は、幸福の絶頂において、いつも不吉な終わりの予感ばかりを口にしたがるのでしょう。急に胸の奥が、冷たい井戸の底のようにひやりとして、ナルトはたまらなくなって身を起こし、ミナトの顔を覗き込みました。
クシナがそれを遮るように、ナルトの胸の真ん中を、拳でトントン、と優しく小突きました。
「どこにも行きやしないわよ。もし姿が見えなくなっても、お前が寂しくなった時は、ここを叩きなさい。私たちはいつでも、ここにいる。お前の心の中で、ずっと、ずっと守っているからね」
ナルトは、胸の奥で、じわりと温かいチャクラのようなものが、小さな渦を巻くのを感じました。
それは、どんな強固な術よりも優しく、決して解けることのない、絶対の絆でした。
「うん! わかったってばよ!」
少年は、満面の笑みを浮かべて、ふたりの手を力いっぱいに握り返しました。
夜の涼しい風が、三人の髪を均等に揺らして通り過ぎて行きます。
星たちは、彼らのささやかな幸福を祝福するように、いつまでも、いつまでも、またたいているのででした。
*
夜が更け、しんとしずまり返った暗闇の中。
ナルトはそっと己の胸に手を当てました。
あのおかずの匂い、泥にまみれたズボンの感触、そして、自分を呼ぶ両親の、あの愛おしい声。
すべてが、現実の冷たい孤独を忘れさせてくれる、極上のぬくもりでした。
――明日も、あの続きから遊べますように。
神樹のツタに全身をきつく縛り付けられ、昏い繭(まゆ)の中で永遠の眠りについた青年は、その頬に一筋の、どうしようもなく寂しい涙を伝わせながら、けれど、もう二度と傷つくことのない幸福の芝居に身を委ね、静かに笑みを浮かべていたのでした。
天に浮かぶ巨大な月が、幾重にも重なる「輪廻の波紋と九つの勾玉」を妖しくギラつかせながら、夢に溺れていく地上を、どこまでも赤く、残酷に照らし続けているのでした。