のび太の家の狭い庭が、その日だけは、まるで息をのむようなおとぎ話の国に変わっていました。
赤。黄。紫。
言葉にできないくらい、あざやかな色のチューリップ。
それが、地面が見えないほどぎっしりと、波のように揺れています。
「わあ、すごい! 本当に咲いちゃった」
のび太は、しゃがみこんだまま、ぽかんと口を開けていました。
さっきまで、ただの泥んこだった場所です。
「ふふん、どうだい。ぼくの言った通りだろ?」
ドラえもんが、ポケットのあたりをぽん、と叩いて、少し得意そうに鼻を鳴らします。
使ったのは、二十二世紀の『即席お花畑の素』という、すこし気の早いひみつ道具でした。
風が、ふわりと、甘い匂いを運びます。
二人の鼻先をかすめて、生垣の向こうへと抜けていく、五月の風。
のび太は、空き缶を片手に、にやりと目を輝かせました。
「ねえドラえもん、これ、みんなに十円で売ろうよ! 一本十円でも、これだけあれば大儲けだぞ。おこづかいを一気に増やすチャンスだ!」
「うん、そりゃおもしろそうだ! どら焼きが山ほど買えるぞ!」
二人はさっそく、生垣の向こうへ声を張り上げました。
「安いよ安いよ! 目の前で採れる、新鮮なチューリップがたったの十円!」
その声に誘われて、最初の「お客さん」がやってきました。
「あら、のび太さん、ドラちゃん。まあ、きれい!」
生垣の隙間から覗いたのは、しずかちゃんでした。
しずかちゃんの目が、ちかちかとまたたく星みたいに、丸く輝きます。
「これ、なぁに?」
「チューリップさ。きれいだろ? 今なら一本当たり、たったの十円だよ」
のび太は、なんだか自分が世界一の敏腕商人になったような気分で、胸を張りました。
「本当? じゃあ、私、ピンクのを一本いただくわ。ママにプレゼントするの」
しずかちゃんは、ポケットの奥から、十円玉をひとつ差し出しました。
「よし、一本ね!」
ドラえもんが、まるい手で優しく茎を包み、ぽきん、と心地よい音を立てて折りました。
手渡されたチューリップを、しずかちゃんは宝物みたいに両手で抱えます。
十円玉が、のび太の手のひらに、ぽつんと残りました。
すこし冷たくて、だけど、すぐにのび太の体温で温かくなる、小さなお金。
それからの庭は、ちいさな、ちいさな、お祭り騒ぎでした。
金儲けのチャンスとばかりに、二人は大忙しで声を張り上げます。
噂は、子供たちの足音に乗って、あっという間に広がっていきました。
ぽきん。
「のび太のくせに、なかなかいいセンスじゃないか。僕の部屋の高級フランス製花瓶にぴったりだ」
スネ夫が、少し気取った手つきで十円玉を空き缶に放り込み、一番形のいい黄色のチューリップを選んでいきました。
ぽきん。
近所の小さな男の子も、汗で湿った十円玉を握りしめてやってきます。
「はい、どうぞ。おばあちゃんにあげるの? じゃあ、一番おっきな紫にしよう」
子供たちの、はずむような足音。
十円玉が、空き缶の中で、チャリン、と澄んだ音を立てて重なっていきます。
その音が響くたびに、のび太とドラえもんの顔は、にやにやと緩んでいきました。
ただの売り買い。けれど、十円玉が重なるたびに、庭の空気が、優しく、やわらかく、膨らんでいくようでもありました。
子供たちの胸の奥にある「だれかを喜ばせたい」という、小さくて、だけど強い息づかいが、庭いっぱいに満ちていく。
のび太の胸は、お金が貯まる嬉しさと、みんなの笑顔のせいで、なんだか、お湯を注いだみたいに、じんわりと熱くなっていました。
――そのときです。生垣をドカドカと踏み越えて、大きな影が割り込んできました。
「おい、のび太! おもしろそうなことやってるじゃねえか!」
ジャイアンでした。腕組みをして、ぎろりと二人をにらみつけます。
のび太は、ひいっ、と肩をすくめました。
「あ、ジャイアン。あのお花、一本十円なんだけど……」
「なんだあ!? おれ様から金を取る気か! ただでくれなかったら殴るぞ!」
ぶん、と大きな拳を目の前に突きつけられて、のび太とドラえまんは慌てて首を横に振りました。
「ひ、ひえぇ! あげる、あげるよ!」
ジャイアンは、一番大きくてあざやかな赤いチューリップを力任せに引き抜くと、「へへっ、おふくろにやって点数稼ぎするか」と、ホクホク顔で、鼻歌を歌いながら去っていきました。
けれど。
にわか花屋の、華やかな時間は、そう長くは続きません。
夕暮れが、空の端っこから、ゆっくりと紫色の絵の具を流し込んできた頃。
あとに残されたのは、すっかり静かになった、のび太の家の庭。
「あれ……?」
のび太が、ふと足元を見て、声を漏らしました。
あんなにあざやかだったチューリップの葉が、みるみるうちに、元気がなくなっていきます。
緑色が薄くなり、茎が、がくりと頭を垂れていく。
「あ、いけない!」
ドラえもんが、慌てて頭をかきむしりました。
「忘れてた! この道具、即席だから、夕方になると効き目が切れちゃうんだ!」
「ええっ!? じゃあ、みんなに売ったお花も?」
「……うん。きっと、お家で消えちゃってるよ」
庭は、元の、ただの四角い泥んこの地面に戻っていました。
さっきまでの、あの夢のような色は、どこにもありません。
足元には、子供たちが置いていった十円玉が入った、古い空き缶だけが、夕日に照らされて、ぽつんと光っています。
「そんなの、ひどいよお!」
のび太は、その場にへたりこんでしまいました。
涙が、じわじわと目に溜まってきます。
「しずかちゃんも、スネ夫も、みんな誰かを喜ばせたくて買ったんだぞ。ぼく、みんなをだましたりしたくないよお!」
せっかく貯まった十円玉が、急に、ひどく重たいものに思えてきました。
ドラえもんも、まるい頭をがっくりと落として、何も言えなくなっています。
二人の間に、夕暮れの、寂しい沈黙が、しんしんと降り積もっていきました。
そのときです。
「のび太さーん! ドラちゃん!」
生垣の向こうから、しずかちゃんが走って戻ってきました。
のび太は、びくっとして、肩をすくめました。
怒られる。
にせもののお金をとったって、怒りに来たんだ。
のび太は、ぎゅっと目を閉じました。
けれど、生垣から顔を出したしずかちゃんの声は、ちっとも怒っていませんでした。
「さっきは、ありがとうね。お花、お水に挿そうとしたら、ふっと消えちゃって、びっくりしたわ」
「え……? ごめんよ、しずかちゃん。ぼく、お返しするよ、十円」
のび太がおずおずと手を伸ばすと、しずかちゃんは、ふんわりと優しく首を振りました。
「いいのよ、のび太さん。お花を持って帰ったとき、ママがね、とっても喜んでくれたの。『しずかが私のために選んでくれたのが嬉しい』って。お花は消えちゃったけれど、ママの笑顔と、私のはずむような気持ちは、今も消えてないわ。だから、十円じゃ足りないくらい、素敵なプレゼントをもらっちゃった」
しずかちゃんは、じゃあね、と言って、夕闇に溶けるように手を振って帰っていきました。
庭には、また静けさが戻ってきました。
だけど、さっきの寂しい静けさとは、どこか違っていました。
のび太は、空き缶の中の十円玉を見つめました。
夕方の光を浴びて、十円玉は、やっぱりただの茶色い銅貨です。
だけど、そこには確かに、みんなの「優しい息づかい」が、そのまま残っているような気がしました。
「ドラえもん」
「うん」
のび太は、空き缶を大切そうに抱きしめました。
「この十円玉でさ、今度は、消えない本物のチューリップの球根を買おうよ。道具に頼らないで、ぼくたちの手で、ちゃんと育てるんだ。そしたら、今度こそ本当の大儲けが……」
そのとき、生垣の向こうからドタドタと、地響きのような恐ろしい足音が近づいてきました。
「おーい! のび太! ドラえもん!!」
ものすごい剣幕で怒り狂ったジャイアンが、生垣を突き破る勢いで飛び込んできました。その手には、何も握られていません。
「おふくろに花を渡した途端、ふっと消えちまったじゃねえか! 『にせものの花でだまそうとしたね!』って、おれがおふくろにひっぱたかれたんだぞ! よくもにせものを掴ませやがったな!」
「ひ、ひえぇぇ!」
ジャイアンは真っ赤な顔をして、太い腕をぶんぶんと振り回しながら追いかけてきます。
「待てコラーッ! ただじゃおかねえぞ!」
「ドラえも~ん! 助けてえ!」
「だから言わんこっちゃない! 逃げろ~!」
夕闇が迫る町のなかを、のび太とドラえもんは、空き缶の十円玉をチャリンチャリンと鳴らしながら、必死で逃げ回りました。
「とほほ……。やっぱり、楽をして金儲けなんて、できないもんだねえ!」
二人の泣きっ面の後ろで、夕日はすっかり沈み、夜が始まろうとしていました。