シャーレの夜は遅い。
キヴォトスの多くの生徒たちが寮や家へ帰り、街の灯りが夜空を彩る頃になっても、シャーレの執務室だけは明かりが消えないことが多かった…消えないことの方が多い。
先生は今日も机に向かっていた。
書類、報告書、予算申請、生徒の相談記録…そして各学園から送られてくる大量の案件。
「……」
ペンを動かす音だけが響く中ふと時計を見る。
二十二時を過ぎていた。
肩が重い。
目も少し霞む。
だが、まだ終わらない。
「あと少し……」
そう考えてある程度終えると先生はシャーレの屋上に立っていた。
フェンスの向こうには無数の灯りが広がっていて、それぞれの光の下で誰かが笑い、誰かが悩み、誰かが明日を迎えようとしているのだと思うと、自分もまた立ち止まっているわけにはいかないのだろうと考えてしまう。
もっとも、そんな風に考えてしまうこと自体が、きっと疲れている証拠なのだろう。
先生は苦笑しながらポケットに手を入れ、一つの煙草を取り出した。
誰かに見られたら怒られるかもしれない、と頭の片隅で思いながらも、指先は慣れた動作でライターを鳴らし、小さな火を灯す。
夜風に揺れる火は頼りなく、それでも確かに煙草の先端を赤く染め上げ、やがて白い煙がゆっくりと空へ昇っていった。
煙草が好きなのかと聞かれれば、先生自身よく分からなかった。
美味しいと思ったことは一度もないし、身体に良いものではないことも理解している。
それでも仕事に追われる日々の中で、一本吸い終わるまでの数分間だけは、何も考えずにいられるような気がしていた。
誰かの先生としてではなく、シャーレの責任者としてでもなく、ただ一人の人間として夜空を見上げるための口実のようなものだったのかもしれない。
そんなことを考えながら煙を吐き出していると、不意に背後から足音が聞こえた。
静かで、けれど不思議と聞き慣れた足音だった。
振り返る前から誰なのか分かってしまうくらいには、その存在は先生にとって身近なものになっていた。
「先生」
呼ばれて振り返ると、案の定そこにはミサキが立っていた。
夜風に髪を揺らしながらこちらを見つめる彼女の表情はいつもと変わらず淡々としているのに、なぜだか見つかった時の先生の方が気まずくなってしまう。
「見つかってしまったね」
そう言って笑うと、ミサキはわずかに肩をすくめながら、
「見つけるつもりはなかったけど」
と小さく返した。
そのまま彼女は先生の隣まで歩いてきて、少しだけ距離を空けてフェンスにもたれ掛かる。
近すぎず遠すぎず、その距離が妙にミサキらしいなと思いながら、先生は再び夜景へ視線を戻した。
しばらく二人の間に会話はなかった。
けれど気まずさはない。
ミサキとは出会ってからそうだった。
無理に言葉を探す必要がなく、沈黙さえ会話の一部になってしまうような不思議な関係だった。
夜風が吹き抜けるたびに煙が流れ、街の灯りが揺らめいて見える中、ミサキはしばらくその煙を眺めていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「最近、ちゃんと寝てるの?」
唐突な問いだった。
けれど先生は驚かなかった。
むしろ、いつか聞かれる気がしていた。
「どうだろうね」
曖昧に答えると、
「寝れてないんだ」
と即座に返される。
その言い方があまりにも確信に満ちていて、先生は思わず苦笑した。
「そんなに分かりやすかったかな?」
「見なくてもわかるよ」
ミサキは夜景から目を離さないまま続ける。
「先生、自分では隠してるつもりかもしれませんけど、疲れてる時は結構顔に出てるから」
その言葉に先生は少しだけ黙った。
生徒たちにはなるべく心配をかけたくないと思っていたし、自分の疲れを見せるべきではないとも考えていた。
けれど目の前の少女は、そういう表面だけの誤魔化しを見抜いてしまう。
きっと昔からそういう子だった。
だからこそ、先生は誤魔化すのをやめた。
「少し疲れてるかもしれないな」
そう認めると、ミサキは小さく息を吐いた。
安心したのか、それとも呆れたのかは分からない。
ただ、その横顔はどこか寂しそうにも見えた。
先生はその表情を見て、ふと胸の奥が引っかかる感覚を覚える。
自分が疲れていることを心配されるのは珍しいことではなかった。シャーレの生徒たちは皆なんだかんだで優しいし、誰かが無理をしていれば気付いてくれる子も多い。
けれどミサキの言葉には少し違う重みがあった。
それは同情でも慰めでもなく、もっと静かで、もっと個人的な感情のように思えた。
夜風が吹き抜ける。
煙草の先端が赤く揺れ、その光が一瞬だけミサキの瞳に映り込んだ。
「先生は、どうしてそこまで頑張るんですか」
不意にそう尋ねられて、先生は少し考え込む。
簡単な質問のようでいて、意外と答えが難しい。
誰かのために動くことが当たり前になりすぎていて、自分でも理由を考えたことがなかったからだ。
「どうしてだろうね」
苦笑しながらそう返すと、ミサキは納得していない様子で視線を向けてくる。
「分からないの」
「分からないというより、考えたことがなかった」
先生はフェンスの向こうに広がる街を見つめる。
遠くの灯りは星空のようにも見えた。
「生徒たちが困っていたら助けたいと思うし、相談されたら力になりたいと思う。それを繰り返していたら今になってたって感じかな」
ミサキは黙って聞いていた。
その横顔は相変わらず静かだったが、視線だけは真っ直ぐこちらを向いている。
「先生らしいとは思う」
「褒めてるの?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「馬鹿だなって思ってます」
即答だった。
先生は思わず笑う。
その反応を見て、ミサキの口元もほんの少しだけ緩んだ気がした。
夜空には雲が流れている。
月明かりが時折隠れ、そのたびに二人の影も形を変えていた。
先生は手元の煙草を見る。
いつの間にか残りはわずかだった。
話しているうちに時間が経っていたらしい。
「先生」
ミサキが静かに呼ぶ。
「ん?」
「先生って、誰かに頼ることないよね」
その問いに先生は少しだけ目を細めた。
頼る。
簡単なようで難しい言葉だった。
生徒たちは先生を頼る。
学園も先生を頼る。
けれど先生自身は誰かを頼っているだろうか。
考えてみると、思い浮かぶ答えは少なかった。
「どうだろうね」
「また曖昧に答えて」
「事実だからね」
ミサキは少しだけ視線を落とす。
その仕草には、何か言いたそうな空気があった。
けれど彼女はすぐには口を開かなかった。
風の音だけが二人の間を通り過ぎる。
やがて小さく息を吐いてから、ミサキはぽつりと呟いた。
「たまには頼ればいいのに」
先生は思わず彼女を見る。
ミサキは夜景を見たままだった。
「生徒とか」
少し間が空く。
「私とか」
その言葉はとても小さかった。
聞き逃しても不思議ではないくらいに。
けれど先生にははっきりと聞こえた。
胸の奥が少しだけ熱くなる。
何かを返そうとしても、すぐには言葉が見つからなかった。
冗談のように流してしまうこともできた。
笑って誤魔化すこともできた。
けれど、それは違う気がした。
だから先生は静かに答える。
「ありがとう」
それだけだった。
短い言葉だったが、ミサキはわずかに目を伏せる。
その表情は夜の暗さに隠れてよく見えなかった。
ただ、少しだけ安心したように見えた。
先生は煙草を見下ろす。
赤い火は今にも消えそうだった。
そして、そのまま携帯灰皿を取り出して火を消す。
小さな音とともに赤い光が消え、最後の煙が夜へ溶けていった。
ミサキはその様子をじっと見ている。
「もう吸わないの」
「今日はとりあえずいいかな」
「珍しいね」
「そうかもしれない」
先生は笑う。
不思議だった。
少し前までは煙草を吸うことで落ち着こうとしていたはずなのに、今はその必要を感じなかった。
隣に誰かがいる。
ただそれだけなのに、胸の中にあった重さが少し軽くなっている気がした。
ミサキも何も言わない。
けれど帰ろうともしない。
二人はそのままフェンスにもたれながら夜景を眺め続ける。
遠くの灯りは相変わらず瞬いていて、夜風は変わらず静かに吹いていた。
やがて先生が空を見上げると、流れていた雲の切れ間から月が顔を出していた。
白く淡い光が屋上を照らし、隣にいるミサキの横顔を優しく浮かび上がらせる。
その表情は穏やかだった。
普段の彼女からはなかなか見られないほどに。
先生はその横顔を見てから、再び夜空へ視線を戻す。
言葉は必要なかった。
何かを約束するわけでもなく、特別な出来事が起きるわけでもない。
それでも、この静かな時間は確かに心地よかった。
煙草の代わりに残ったのは夜風の匂いと、隣にいる生徒の存在だけだったが、そのどちらも今の先生にとっては十分すぎるほど温かかった。
夜はまだ続いていく。
けれど先生はもう少しだけ、この静かな時間を終わらせたくないと思っていた。
煙草は悪いものだから吸わないように、ロボとの約束。
ミサキとの静かな時間が思い浮かんだので書き留めていたのを投稿しました。
ミサキの口調に関してはご了承ください…
ロボはミサキの素直じゃない所が好きですね
ちなみにブルアカ小説投稿は初めてです。