魔法少女と廃墟の王様 作:マチュピチュ
仮滞在の四日目の朝。
つむぎはいつもより早く目が覚めた。
時計を見ると、六時を少し過ぎたところだった。窓の外はすでに明るい。五月の朝は早い。
天井を見つめたまま、しばらく動けなかった。
三日間。この部屋で目を覚ますのは、これで四回目になる。
簡素なベッドも、小さな机も、日用品が並んだ収納も、もう見慣れた。最初の夜は知らない天井に戸惑ったけれど、今はこの白い壁がどこにあるか分かっている。
昨日、母と電話で話した。泣いた。
ほむらと丘に登った。
みんなでご飯を食べた。温かかった。
温かかった。
けれど、その温かさの中にいることが、日が経つにつれて重くなっていく。
みんなは動いている。スバルは事務仕事と任務の指揮をしている。ほむらは学校に行き、訓練を受けている。導は、気づけばいつも訓練場にいる。小町はみんなのために食事を作り、宿舎を守っている。
つむぎだけが何もしていない。
ソファに座って漫画を読み、窓の外を眺め、小町の手伝いを少しだけして、ほむらに連れ回されて、ご飯を食べて、眠る。
客だ。まだ、客だ。
つむぎは布団を跳ね除け、起き上がった。
顔を洗い、着替えて階段を降りる。共有スペースにはすでに朝食の匂いが漂っていた。
小町がキッチンに立っている。卵焼き。昨日の夕食後、小町と一緒に作ろうと約束した。
「おはよう、つむぎちゃん。早いわね」
「おはようございます。卵焼き、手伝います」
「ありがとう。じゃあ卵を割ってくれる?」
つむぎは小町の隣に立ち、卵を割った。出汁と砂糖を混ぜ、小町がフライパンを温める。
卵液をフライパンに流し込む。じゅう、と音がして、甘い匂いが広がった。
「くるくるっと巻いていくのよ。こう」
小町が菜箸を使って、手際よく卵を巻いていく。つむぎはその手元を見つめた。
「上手……」
「毎日作ってるからね。つむぎちゃんもやってみる?」
「やってみます」
つむぎは菜箸を受け取り、二回目の卵液を流し込んだ。巻こうとしたが、途中で形が崩れた。
「あっ」
「大丈夫よ。巻き直せばきれいになるから」
小町が手を添えて、一緒に巻き直す。形はいびつだったけれど、ちゃんと卵焼きの形になった。
「できた……」
「上出来よ。次はもっと上手くなるわ」
スバルが降りてきた。制服姿で、髪をまとめたところだった。
「おはよう。いい匂いね」
「おはようございます、スバルさん」
つむぎは卵焼きを皿に移しながら、息を吸った。
ここだ。今だ。
「スバルさん。お願いがあります」
「何かしら」
「私、何かさせてもらえませんか」
スバルの手が止まった。
「訓練じゃなくてもいいんです。走るとか、身体を動かすとか……何でもいいので」
スバルはつむぎの顔をじっと見た。
昨日までとは、少しだけ違う顔をしていた。不安はまだ残っている。迷いもある。けれど、その奥に、何かをしたいという意志がある。
「……身体はもう大丈夫なの?」
「腕の痛みはだいぶ引きました。走るくらいなら平気だと思います」
「思います、じゃなくて、医務室で確認を取ってからにしましょう。問題がなければ、基礎体力の維持程度なら構わないわ」
「ありがとうございます!」
ほむらが階段を駆け降りてきた。
「おはよー。なになに、何の話?」
「つむぎちゃんが走りたいんですって」
「マジ!? じゃあウチが付き合うよ! 朝練の前に一緒に走ろうぜ、つむぎ」
「いいの?」
「いいよいいよ。一人で走るのつまんないしさ」
導が階段を降りてきた。いつも通り静かで、表情は読みにくい。けれど、つむぎとほむらの会話が聞こえていたのか、テーブルにつく前に一度だけつむぎの方を見た。
小町が微笑んだ。
「いいことね。でも無理はしないでね、つむぎちゃん」
「はい!」
朝食のテーブルに、全員がついた。卵焼き、味噌汁、白いご飯、漬物。
つむぎが巻いたいびつな卵焼きは、皿の真ん中に置かれていた。
「いただきます」
全員の声が揃った。
ほむらが卵焼きを一切れ口に入れた。
「うまっ! 小町さんの卵焼き最高!」
「ありがとう。でもね、今日のは半分つむぎちゃんが作ったのよ」
「えっ、マジ? つむぎ、やるじゃん!」
つむぎは少し照れながら笑った。
導も卵焼きを一切れ食べた。何も言わなかったが、二切れ目に箸を伸ばしていた。
スバルは味噌汁を飲みながら、静かにその光景を見ていた。
◇
朝食後、つむぎは医務室へ向かった。
検査は短かった。腕の打撲は回復傾向にあり、骨にも異常はない。軽い運動なら許可が下りた。
「ただし、痛みが出たらすぐにやめてくださいね。それから、魔法の使用はまだ控えてください」
「分かりました。ありがとうございます」
医務室を出ると、宿舎の前でほむらが待っていた。訓練着に着替えている。
「許可もらえた?」
「うん!」
「よし! じゃあ行こう!」
ほむらは嬉しそうに手を叩いた。
二人は宿舎を出て、訓練場の方へ歩いた。朝の空気はまだ涼しく、吸い込むと肺の奥まで通っていく。
「走るコースはね、訓練場の外周を回るのがちょうどいいよ。一周が大体八百メートルくらい。ウチはいつも五周してから朝練に行くんだ」
「五周……四キロ?」
「準備運動だよ」
「準備運動で四キロ……」
つむぎは既に不安になっていた。
訓練場の外周に出ると、すでに何人かの少女が走っていた。まだ早い時間だったが、自主練で来ているらしい。フォームが整っていて、呼吸も乱れていない。
「最初はゆっくりでいいからね。ウチに合わせなくていいよ。つむぎのペースで走って」
「うん、ありがとう」
ほむらが軽くその場で跳ねてから走り始めた。つむぎもその後を追う。
最初の百メートルは良かった。身体は軽く、足は動いた。朝の空気が頬を撫で、肺に入ってきて気持ちいい。
三百メートルあたりで、呼吸が荒くなり始めた。足の裏にじわりと熱が溜まる。
五百メートルで、脚が急に重くなった。太ももの裏が引きつるような感覚がある。
「は……はぁ……ほむらちゃん、ちょっと……」
「おっ、もうバテた?」
ほむらは振り返り、速度を落とした。額に汗一つ浮かんでいない。
「ウチ、まだ準備運動のペースなんだけどなー」
「じゅ、準備運動……」
つむぎは膝に手をついた。心臓がばくばくと鳴っている。汗が額から顎へ伝い、地面に落ちた。
普段なら、もう少し走れたはずだった。中学校の体育で、持久走が特別得意だったわけではない。それでも、人並みにはこなしてきた。
けれど、数日の安静と、
横を、自主練の少女が追い抜いていく。つむぎの倍以上の速度で、呼吸一つ乱さずに。
「……はぁ」
追いつけない。当たり前だった。あの子たちは毎日ここで鍛えている。つむぎは四日間ソファに座っていた。追いつけるわけがない。
「まあ、最初はこんなもんだよ」
ほむらはつむぎの隣でストレッチをしながら、あっさりと言った。
「ウチも最初はすぐバテてたし」
「ほんと……?」
「ほんとほんと。訓練はじめたばっかの頃、スバルに『体力がないなら走れ』って言われて、毎朝吐きそうになりながら走ってたよ」
「そんなに……」
「でもさ、続けてたらそのうち気持ち悪くならなくなった。身体が慣れたのか、そうなるのに飽きたのか分かんないけど」
ほむらはけらけらと笑った。
「行ける? もうちょっとだけ」
「……うん、行く」
つむぎは息を整え、再び走り出した。走るというより、早歩きに近かった。それでも足を止めないことだけは決めていた。
ほむらはつむぎの隣を走った。速度を完全に合わせてくれている。さっきまで準備運動のペースだったはずなのに、文句一つ言わない。
一周目が終わった。
脚が棒のようだった。肺が焼けるように熱い。全身から汗が噴き出していて、訓練着の背中が張りついている。
「じゃ、ここまでにするか! お疲れー!」
ほむらが声をかけてくれた。
つむぎは訓練場の端にあるベンチに座り込んだ。座るというより、崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……もう、だめ……」
「一周走れたじゃん。初日にしては十分だよ」
ほむらが水筒を差し出す。つむぎはそれを受け取り、水を飲んだ。喉を通る水が、今は何よりもありがたかった。
「ほむらちゃんは……まだ走れるの?」
「うん。でも今日はここまでにしとく。つむぎと一緒の方が楽しいし」
ほむらは隣に座り、空を見上げた。
朝の光が訓練場を照らしている。自主練の少女たちが走り続けている。号令の声が遠くから聞こえ始めた。八時が近い。正規の朝練が始まる時間だ。
「明日も走る?」
ほむらが聞いた。
「……走る」
「おっ、いいね」
「根性っていうか……何もしないで座ってるのが、もう嫌になっただけ」
「それで十分だよ」
ほむらはにっと笑った。
「じゃあウチは朝練行ってくるね。つむぎは無理せず宿舎に戻りなよ」
「うん。ありがとう、ほむらちゃん」
「おう。また夕飯でな!」
ほむらは手を振り、訓練場の方へ駆けていった。あっという間に自主練の少女たちに合流し、号令と共に走り出す。
つむぎは一人、ベンチに残された。
息はまだ上がっていた。脚も腕も重い。
けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。身体が疲れている。それは、自分が何かをした証拠だ。
つむぎはしばらくベンチに座ったまま、訓練場を眺めていた。
号令に合わせて動く少女たち。隊列を組み、散開し、集まる。その合間に、各自の魔法を使った個別訓練が始まる。
炎を手のひらから噴き出す子。光の矢を的に向かって放つ子。風を纏って跳躍する子。
一人一人、違う魔法を持っている。一人一人、違うやり方で鍛えている。
つむぎは自分の手のひらを見た。
あの日、この手からシールドが出た。薄い透明な壁。禍群の攻撃を受け止め、最後には砕け散った壁。
今、この手から同じものを出せるかどうか分からない。試していない。怖くて。
『つむぎ』
頭の中で妖精さんの声が響いた。
「……ん?」
『魔力の残留量は安定している。変身しなくても、シールドの展開自体は可能なはずだ』
「……」
『医師も控えるように言っていた。今すぐ試す必要はない。ただ、情報として伝えておく』
「……ありがとう、妖精さん」
つむぎは手のひらを閉じた。
出せるかもしれない。出せばまた、あの透明な壁が現れるのかもしれない。
けれど、シールドを出したら、あの音を思い出す。ガリガリと削られる音。割れていく亀裂。四つの目。息ができなかった苦しさ。
まだ、無理だ。
でも——「まだ」だ。「もう二度と」ではなく、「まだ」。
それは、昨日までとは少しだけ違う気持ちだった。
つむぎは立ち上がった。脚はまだ震えている。
宿舎に戻ろう。今日出来ることはまだある。小町の手伝いだ。昼食の準備がある。
つむぎは訓練場を離れ、宿舎への道を歩き始めた。
一歩ずつ。ゆっくりと。
走った後の脚は重かったけれど、ソファに座っていた時よりも、自分の足で立っている感覚があった。