魔法少女と廃墟の王様   作:マチュピチュ

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第十一話

 宿舎に戻ると、脚が笑っていた。

 

 階段を上がるだけで太ももが悲鳴を上げる。手すりに掴まりながら、一段ずつ慎重に足を運んだ。

 

「情けないなあ……」

 

『筋肉痛は明日以降に本格化する可能性がある。今のうちに身体を伸ばしておいた方がいい』

 

「あとでストレッチする……」

 

 部屋に戻り、着替えてから共有スペースへ降りた。

 

 小町がキッチンに立っている。昼食の仕込みだろう。まな板の上で包丁がとんとんと小気味よい音を立てていた。

 

「おかえりなさい。走ってきたの?」

 

「はい。ほむらちゃんと一周だけですけど」

 

「一周でも立派よ。汗をかいた後はちゃんと水分を取ってね」

 

「はい」

 

 つむぎはコップに水を注ぎ、一口ずつ飲んだ。走った後の水は、いつもより冷たくて甘い気がした。

 

「小町お姉さん、何かお手伝いすることありますか?」

 

「じゃあ、お味噌汁の出汁をお願いできるかしら」

 

「はい!」

 

 つむぎは鍋に水を入れ、昆布を浸した。小町に教わった手順を思い出しながら、火加減を調整する。

 

 小町の隣にいると、不思議と落ち着く。何も話さなくても、包丁の音と火の音だけで間が持つ。

 

 昼食はつむぎと小町の二人だった。(しるべ)は訓練、ほむらは学校、スバルは事務棟。いつもの昼の光景だ。

 

 食べ終えて食器を洗い、共有スペースのソファに座った。

 

 午後の時間が、静かに広がっている。

 

 

 ◇

 

 

 窓の外を見ると、少し離れた場所に校舎が見えた。

 

 本部の中にある学校。ここで暮らしている子どもたちが通う場所。ほむらも、今あそこにいるのだろう。

 

 窓ガラス越しに、かすかに声が聞こえた。教師の声だろうか。何を教えているのかまでは分からなかったが、授業をしている気配だけは伝わってくる。

 

 つむぎは自分の学校のことを考えた。

 

 四日前まで通っていた中学校。六時間目が終わるチャイム。廊下のざわめき。友達と並んで歩く昇降口。来週公開の映画の話。

 

 あれから四日が経つ。

 

 友達は、つむぎがいないことに気づいているだろうか。

 

 避難の時、友人の袖を外して列から離れた。「ごめん、先に行ってて」と言った。あの子はちゃんと避難できただろうか。つむぎがいなくなったことを誰かに伝えただろうか。

 

 政府から学校にも何かしらの連絡はいっているのかもしれない。「禍群の被害区域で保護された」くらいのことは伝わっているだろう。

 

 けれど、それだけだ。魔法少女になったことも、軍の施設にいることも、誰にも言えていない。

 

 友達にとっては、つむぎは「禍群の被害に巻き込まれた子」だ。心配しているかもしれない。早く帰ってきてほしいと思っているかもしれない。

 

 つむぎは窓の外の校舎から目を逸らした。

 

 ここにも学校がある。ほむらはそこに通い、授業を受けている。スバルは「もし対禍特戦隊に入るのであれば、こちらの学校に通ってもらうことになる」と言っていた。

 

 こちらの学校に通う。

 

 それは、向こうの学校には今まで通り通えないということだ。

 

 友達がいる教室。来週の映画を一緒に見に行く予定。クラスメイトと昼ごはんを食べる日常。

 

 全部が、今までと同じではなくなる。

 

 少なくとも、今まで通りではいられない。

 

 つむぎは膝を抱えた。

 

 今朝、走った。明日も走ると言った。「何もしないでいるのが嫌だ」と思った。

 

 それは本当だ。

 

 けれど、走ることと、ここに残ることと、向こうを捨てることは、全部別のことだ。

 

 走るのは気持ちよかった。身体を動かすのは嬉しかった。でも、だからといって、あの教室に二度と戻れなくなることまで覚悟したわけではない。

 

『つむぎ』

 

「……ん」

 

『窓の外を見ている時間が長い。何か気になっているのか?』

 

「……友達のこと、考えてた」

 

『友人関係か。つむぎにとって重要なものなのだろうな』

 

「重要っていうか……普通のことだよ。学校に行って、友達と話して、一緒に帰って。そういうの」

 

『なるほど。その「普通のこと」は、ここにいると失われるものか?』

 

「……分かんない。でも、今は失われてるよね。四日間、学校に行ってないし」

 

 妖精さんは少しだけ沈黙した。

 

『つむぎが何を選んでも、失われるものはある。それは私にも分かる。ただ、何を選ぶべきかは——』

 

「私自身が決めること、でしょ?」

 

『……そうだ』

 

「知ってるよ。でもさ、妖精さん」

 

『何だ?』

 

「選ぶって、選ばなかった方を捨てるってことなのかな」

 

 妖精さんは答えなかった。

 

 

 ◇

 

 

 夕方になると、宿舎に人が戻り始めた。

 

 最初に帰ってきたのは導だった。訓練着のまま静かに玄関を開け、靴を脱ぎ、共有スペースを通り過ぎて自分の部屋へ上がっていく。

 

 つむぎは「おかえりなさい」と声をかけた。導は小さく頷いた。

 

 それだけだった。けれど、最初の日よりも、頷くまでの間が短くなっている気がした。

 

 次にほむらが帰ってきた。

 

「ただいまー! つむぎー、今日どうだった? 走った後バテなかった?」

 

「バテた。脚が死んでる」

 

「あはは、だよなー。明日はもっとやばいよ。筋肉痛で」

 

「やめてよ……」

 

 ほむらは鞄を放り投げ、ソファに倒れ込んだ。

 

「あーー、今日の授業つまんなかったー。算数って何の役に立つんだよ」

 

「役に立つわよ」

 

 スバルの声がした。いつの間にか宿舎に戻っていた。

 

「任務中に距離と角度と速度を計算する場面は多いわ。算数ができない子は、遠距離支援の配置を間違えるの」

 

「マジで?」

 

「マジで」

 

「……ちょっとだけやる気出た」

 

 ほむらの単純さに、つむぎは少しだけ笑った。

 

 小町がキッチンから顔を出した。

 

「みんな揃ったわね。もう少しで夕食できるわよ」

 

「やったー! 今日のメニューは?」

 

「肉じゃが」

 

「肉じゃが! 最高!」

 

 テーブルに五人分の食事が並ぶ。全員が席について、「いただきます」の声が揃う。

 

 四日目の夕食。

 

 ほむらが学校の話をして、スバルが注意して、導が黙って食べて、小町がおかわりを聞いて回る。つむぎは箸を動かしながら、その光景を見ていた。

 

 いつもの夕食だ。

 

 けれど今日は、その「いつもの」が少しだけ違って見えた。

 

 午後ずっと考えていたことが、まだ頭の中に残っている。友達のこと。学校のこと。映画のこと。

 

 ここにいると、あちらが遠くなる。

 

 あちらに戻ると、ここが遠くなる。

 

 どちらかを選ぶことは、どちらかを手放すことだ。

 

「つむぎ、肉じゃが食べないの?」

 

 ほむらの声に、つむぎは我に返った。

 

「あ、食べる食べる」

 

 箸を動かす。じゃがいもが口の中でほろりと崩れた。甘辛い味付けが舌に広がる。

 

 おいしかった。

 

 食後、ほむらが宿題を広げ、スバルが報告書を書き始めた。導は自分の部屋へ戻っていく。

 

 つむぎは小町の食器洗いを手伝った。

 

「つむぎちゃん、最近よく手伝ってくれるわね」

 

「いえ、これくらいしかできることがないので」

 

「そんなことないわ」

 

 小町は食器を流しに置き、つむぎの方を見た。

 

「つむぎちゃんがここで過ごしている時間は、全部意味があるのよ」

 

「……意味、ですか」

 

「ええ。朝走ったこと。卵焼きを作ったこと。今こうして皿を拭いていること。全部ね」

 

 小町はお茶を入れながら、穏やかに続けた。

 

「この宿舎に来る子はね、みんな最初は不安そうなのよ。当然よね。知らない場所に、知らない人たちと暮らすのだから」

 

「小町お姉さんも、そうだったんですか?」

 

「ええ、私もそうだったわ」

 

 小町は少しだけ遠くを見た。

 

「でもね、毎日ご飯を食べて、顔を合わせて、小さなことを一緒にやっていると、いつの間にか不安が少しずつ小さくなっていくの」

 

「……」

 

「大きな決断なんてしなくても、日々の積み重ねが、その人の毎日を作っていくものよ。つむぎちゃんが朝走って、出汁を取って、ほむらちゃんと笑って、導ちゃんに声をかけて。それが全部、つむぎちゃんの今日になっているの」

 

 つむぎは拭き終えた皿をそっと棚に戻した。

 

 日々の積み重ね。

 

 小町の言葉は温かかった。けれど、つむぎの頭の中には、午後に考えていたことがまだ残っていた。

 

 ここでの日々は確かに積み重なっている。朝のランニング。小町の手伝い。ほむらとの笑い声。導の小さな頷き。

 

 けれど、その積み重ねは、向こうの日々を削り取りながら進んでいる。

 

 友達と会えない日が一日増えるたびに、教室に戻る道が少しだけ遠くなる。ここでの毎日が充実するほど、向こうに帰った時にそれを手放すのが辛くなる。

 

 小町は「大きな決断なんてしなくてもいい」と言ってくれた。

 

 けれど——つむぎは知っている。いつかは決めなければならない。仮滞在はいつまでも続かない。

 

「……小町お姉さん」

 

「なあに?」

 

「私、友達がいるんです。向こうの学校に。今度始まる映画を一緒に見に行く約束をしていた子が」

 

「……そう」

 

「その子、今ごろ心配してると思うんです。私がいなくなって」

 

 小町は黙って聞いていた。

 

「ここにいると、その子のことを考える時間が減っていくんです。朝走って、ご飯を作って、ほむらちゃんと話して。そうしてるうちに、あっちのことを忘れそうになって」

 

「忘れたいの?」

 

「……ううん。忘れたくない。でも、忘れないでいるのも、ちょっと辛い」

 

 小町は少しだけ黙った。それから、静かに言った。

 

「どちらも大事なら、どちらも大事なままでいいのよ」

 

「……そんなこと、できるんでしょうか」

 

「分からないわ」

 

 小町は正直にそう言った。

 

「でも、今すぐ片方を捨てなくてもいいとは思うの。今日のお皿を拭いて、明日の朝ごはんを一緒に作って。それでも忘れたくないものがあるなら、忘れないように持っていればいい」

 

 小町はつむぎの頭にそっと手を置いた。

 

「どっちを選んでも、つむぎちゃんが悪い子になるわけじゃない。それだけは、覚えておいてね」

 

 つむぎの目が、じわりと熱くなった。けれど今日は泣かなかった。

 

「……ありがとうございます、小町お姉さん」

 

「どういたしまして」

 

 小町は手を離し、穏やかに笑った。

 

 つむぎは自分の部屋に戻った。

 

 ベッドに座り、窓の外を見た。

 

 本部の灯り。遠くの訓練場。暗くなっていく空。

 

 向こうの街にも、同じ空が広がっているはずだ。

 

 友達が見ている空と、同じ空。

 

 明日も走る。明日も出汁を取る。明日も、みんなとご飯を食べる。

 

 それでも、向こうのことを忘れたくはなかった。

 

 つむぎは窓の外を見たまま、ゆっくり息を吐いた。

 

 今日のところは、それだけでよかった。

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