魔法少女と廃墟の王様 作:マチュピチュ
仮滞在の五日目。朝の六時。
妖精さんの予告通り、筋肉痛は容赦なかった。
階段を降りるたびに太ももの裏が悲鳴を上げる。一段一段、手すりを掴みながら慎重に足を運ぶ。
「おはよう、つむぎちゃん。……あら、大丈夫?」
共有スペースで朝食の準備をしていた小町が、つむぎの歩き方を見て声をかけた。
「おはようございます。大丈夫です。ちょっと、脚が……」
「昨日走ったからね。無理しなくていいのよ?」
「いえ、今日も走ります」
つむぎは自分でもびっくりするくらいはっきり答えていた。
やめようか、とは思わなかった。昨日の夜、友達のことを考えて眠れなくなりそうだった。けれど、朝になったら身体を動かしたかった。頭で考えすぎるより、脚を動かした方が楽だと、昨日の一周で知ってしまった。
朝食を食べ終え、ほむらと玄関で合流する。
「おはよー、つむぎ。筋肉痛?」
「バレた?」
「階段の降り方がおばあちゃんだった」
「ひどい……」
「まあまあ。今日は昨日よりゆっくりな。痛かったら途中で歩く。無理したらスバルに怒られるし」
「ほむらちゃんも怒られるの?」
「付き添いなのに止めなかったって怒られる。だから、そこはちゃんと言うこと聞くんだぞ!」
「……はい」
ほむらはけらけら笑いながら、外へ飛び出した。つむぎはその後を追い、訓練場の外周へ向かう。
昨日は気が付かなかったが、導もどうやら自主練をしていたようだ。訓練場の端で、静かに立っている。朝の光の中で、指先に小さな光を灯していた。
光は導の手から離れ、空中にふわりと浮かぶ。それからゆっくりと動き出し、数メートル先の地面に降りた。消える。また一つ灯す。浮かべる。動かす。降ろす。
何の訓練なのかは分からない。けれど、繰り返しの中に迷いがなかった。
「さ、行こう!」
ほむらの声に、つむぎは視線を導から外した。
「うん」
走り始める。
最初の百メートル。昨日よりも脚が重い。筋肉痛が走るたびにずきずきと響く。
「は……やっぱ痛い……」
「ほらほら、止まんなよ。止まると余計痛くなるから」
「ほんと……?」
「多分」
「また多分……」
三百メートル。呼吸が上がり始める。けれど、昨日よりは少しだけ楽な気がした。身体がこの動きを少しだけ覚えている。
五百メートル。昨日はここで限界だった。脚が棒になり、肺が焼け、膝に手をついた場所。
今日もきつい。
けれど、止まらなかった。
六百メートル。
七百メートル。
脚が震えている。呼吸は荒い。汗が目に入って視界がぼやける。
八百メートル——一周。
「っ……はぁ……はぁ……」
つむぎは訓練場の外周を一周し終え、そのままベンチへ向かった。座るというより崩れ落ちる。
「お疲れ! 昨日より粘ったじゃん」
「ほむらちゃん……私、昨日も一周走ったよ……」
「うん。でも今日の方がペースが安定してた。昨日は後半ほとんど歩いてたけど、今日は最後まで走れてたよ」
言われてみれば、そうかもしれない。昨日は五百メートルを過ぎてから早歩きに近かった。今日は遅いなりに、最後まで足を動かし続けた。
「ちょっとずつだけど、ちゃんと変わってるよ」
ほむらが水筒を差し出す。つむぎはそれを受け取り、水を飲んだ。
「ありがとう、ほむらちゃん」
「おう。じゃあウチは朝練行ってくるね。つむぎは無理せず戻りなよ」
「うん」
ほむらは手を振り、訓練場の方へ駆けていった。
つむぎは一人、ベンチに残された。
◇
息を整えながら、つむぎは訓練場を眺めていた。
八時が近い。正規の朝練が始まる時間だ。少女たちが訓練着を着て集まってくる。号令が響き、走り込みが始まる。
昨日と同じ光景。けれど今日は、その中にいくつか見覚えのある顔がある。昨日、つむぎを追い抜いていった背の高い子。的に何かを放ち続けていた子。
毎日同じことを繰り返している。
つむぎも、同じことを繰り返していた。走って、ベンチに座って、訓練を眺める。
違うのは、あの子たちには繰り返す目的があるということだ。禍群と戦うために鍛えている。自分の力を伸ばすために走っている。
つむぎはまだ、走っているだけだ。
目的と呼べるほどのものはない。強くなるためでも、訓練のためでもない。ただ、じっとしているのが嫌だから走っている。
それでいいのだろうか。
それでいいのかもしれない。今は。
訓練場の端で、導がまだ光の訓練を続けていた。
指先から生まれた光の粒が、空中をゆっくりと動いていく。今度は一つではなく三つ。それぞれが別の方向へ漂い、地面の異なる場所に降りた。
それから、導は視線を動かした。三つの光が降りた場所を順に確かめるように見ている。
つむぎにはそれが何の訓練なのか分からなかった。ただ、導は光を飛ばしているというより、決めた場所へ一つずつ目印を置いているように見えた。
ただ、小さな光が浮かんで、移動して、降りる。それだけ。
けれど、その「それだけ」を導はひたすら繰り返していた。同じ動作を、同じ静けさで。
いつの間にか朝練が終わったのか、訓練場から少女たちが散り始めた。号令が止まり、走っていた子たちが水筒を取りに行き、タオルで汗を拭いている。
導も光を消し、訓練場の端から歩いてきた。
そして——つむぎが座っているベンチの、反対側の端に座った。
何も言わなかった。水筒を膝の上に置き、蓋を開けて水を飲んだ。
つむぎも何も言わなかった。
二人の間には、ベンチ一つぶんの距離がある。
しばらく、沈黙が続いた。
訓練場から少女たちの声が遠ざかっていく。風が吹いて、つむぎの汗を乾かした。
「……導さん」
「……」
「今日の訓練、お疲れ様でした」
「……ん」
導は小さく頷いた。
それだけだった。それ以上の会話はなかった。
けれど、導は立ち上がらなかった。水を飲み終えても、ベンチに座ったままだった。
つむぎも立ち上がらなかった。
隣にいるのが苦しいわけではない。話さなければならないわけでもない。ただ、同じベンチに座って、同じ風を受けて、同じ訓練場を眺めている。
それだけの時間が過ぎていく。
何か話さなければいけないという気がしなかった。
導は水筒を膝に置いたまま、前を見ている。つむぎも同じ方を見た。
昨日の午後から考え続けていたことが、少しだけ遠くなる。友達のこと。学校のこと。映画のこと。向こうとこっちのこと。
忘れたわけではない。ただ、今だけは、考えなくてもよい気がした。
五分ほど経っただろうか。
導が立ち上がった。
「……帰る」
「はい。お疲れ様でした」
導は小さく頷き、宿舎の方へ歩いていった。
つむぎはベンチに残り、もう少しだけ座っていた。
導が歩いていく背中を見送る。
背筋を伸ばし、足音を立てず、まっすぐに歩く小さな後ろ姿。
何を考えているのか、つむぎにはまだ分からない。導が何を思い、何を感じ、何のために毎朝あの光を灯しているのか。
けれど、一つだけ分かったことがある。
導は、つむぎが隣にいることを嫌がっていなかった。
それが分かっただけで、今日の朝は十分だった。
◇
宿舎に戻ると、小町が昼食の仕込みを始めていた。
「おかえりなさい。走ってきたのね」
「はい。昨日よりちょっとだけ、ましでした」
「ちょっとずつね。それでいいのよ」
つむぎはキッチンに入り、小町の隣に立った。
「今日も手伝います」
「ありがとう。じゃあ、お味噌汁のお豆腐を切ってくれる?」
「はい」
豆腐をまな板の上に置き、包丁を入れる。白い塊がさいの目に分かれていく。
小町が隣で野菜を刻んでいる。包丁の音が二つ、台所に重なる。
昨日はこの時間に友達のことを考えていた。向こうの学校のこと。映画のこと。
今日も頭の隅にはある。消えてはいない。
けれど、今は包丁を動かしている。豆腐を切っている。小町の隣に立っている。
それでいい。今は、それでいい。
つむぎは豆腐を鍋に入れ、味噌をとき始めた。
小町が穏やかに笑った。
「上手になったわね」
「えへへ。いつもやってますからね」
いつも。
その言葉を口にした時、つむぎは少しだけ不思議な気持ちになった。
ここに来て、まだ五日しか経っていない。
それでも、朝に走ることも、小町の隣で味噌汁を作ることも、導が同じベンチの端に座ったことも、昨日から今日へ続いている。
つむぎは味噌を溶いた鍋を、そっとかき混ぜた。
湯気が立ち上がる。
明日も、この匂いを嗅ぐのだろうか。
そう思っても、昨日ほど胸は重くならなかった。