魔法少女と廃墟の王様 作:マチュピチュ
昼食を終え、食器を洗い終えた頃、スバルが宿舎に戻ってきた。
いつもなら共有スペースでお茶を一杯飲んでから事務仕事に戻るのだが、今日は少し様子が違った。
ファイルを一冊、テーブルの上に置いた。
「守宮さん、少し話をさせてもらっていいかしら」
つむぎはソファに座り直した。スバルの声にいつもの柔らかさはあったが、その奥に、少しだけ固いものが混じっている。
「はい」
「あなたがここに来てから、今日で五日目ね」
「はい。早いですね」
「そうね。でも、あなたの仮滞在には期限があるの。今日はその話をしなければならないわ」
つむぎの手が膝の上で止まった。
「……期限」
「ええ。今のあなたは未登録の魔法少女として保護されている状態よ。事務的な手続きや検査も完了して、禍群因子の経過観察にも問題がなかった。つまり、あなたをここに留め置く根拠は、もうなくなっているの」
スバルは淡々と説明した。けれど、つむぎを急かす口調ではなかった。
「規則上、経過観察が終わった時点で帰宅してもらうか、正式な手続きを進めるかのどちらか選んでもらう必要があるわ。仮滞在というのは、あくまで経過観察と、その判断までの猶予を含めた期間なの」
「……あと、どれくらいですか」
「上層部からは、今週中に決めるよう求められているわね。つまり、あと二日」
あと二日。
指折り数えるまでもなかった。今日が五日目で、仮滞在は一週間。あと二日経てば、七日目になる。
「何も決まらないまま期限が来た場合は、一旦、入隊の意思はないとしてご家族のもとへ帰ってもらうことになるわね」
「契約は……?」
「妖精が解除しない限り、契約は続いてしまう。だから、その場合は正式な隊員登録ではなく、保護観察のための登録をさせてもらうわ」
「……」
「帰ること自体は悪いことじゃないと思うわよ。ご家族もあなたの帰りを待っているでしょうし」
つむぎは黙った。
帰る。家に帰る。お母さんのハンバーグを食べる。お父さんの顔を見る。自分の部屋に戻る。友達に会う。
それは、ずっと考えていたことだ。帰りたい気持ちはある。ずっとある。
けれど……
「帰ったら、どうなりますか」
「基本的には、日常に戻ることになるわね。学校に通い、ご家族と暮らす。ただし、契約が続いている以上、完全に以前と同じには戻れない。定期的な検査と所在報告の義務は残るし、
「……戦えるようにはならないんですね」
「うちに入隊しないのであれば、あなたは戦力ではなく保護対象として扱われることになる。お互いの安全のためにも訓練を受けていない魔法少女を戦わせるわけにはいかないの」
つむぎは窓の外を見た。
訓練場では、午後の訓練が始まっている。少女たちが走り、号令が響き、魔法の光が散る。
日常に戻れば、ここで過ごした数日間はただの一時的な体験で終わる。あの中に自分が入ることはない。
「だけど正式にここに入隊して禍群と戦うと決めたのであれば、隊員として登録を行い、訓練を受けてもらうことになる。その場合はご家族への正式な説明と同意が必要になるわね」
「お父さんとお母さんの許可がいるんですね」
「ええ。あなたは未成年だから。保護者の同意なしに入隊させることはできないの」
スバルはファイルを開いた。中には書類が何枚か入っていた。
「今すぐ決めろとは言わないわ。ただ、あと二日の間に、自分がどうしたいのかだけは考えておいて。帰りたいなら帰る手続きを、残りたいならご家族への説明を始めなければならないから」
「……はい」
「守宮さん」
スバルはファイルを閉じ、つむぎの目を見た。
「どちらを選んでも、私はあなたを責めないわ。ここにいる子たちも、あなたが帰ることを悪くは思わない。それだけは分かっておいて」
「……ありがとうございます」
スバルは立ち上がり、お茶を一杯入れた。つむぎの分も。
温かい湯呑みをテーブルに置いて、スバルは事務棟へ戻っていった。
つむぎは一人、共有スペースに残された。
◇
湯呑みの中で、お茶が少しずつ冷めていく。
あと二日。
五日間、毎日を過ごしてきた。朝走って、味噌汁を作って、ほむらと笑って、
その一日一日が、いつまでも続くような気がしていた。
続かない。
ここは自分の場所ではない。仮滞在という名前の通り、仮の場所だ。期限がある。期限が来れば、帰るか残るかを選ばなければならない。
小町が言ってくれた。「今すぐ片方を捨てなくてもいい」と。ほむらが言ってくれた。「まだ分かんないってことでいいんじゃない」と。
けれど、分からないままではいられない日が、もう二日後に来る。
つむぎは冷めたお茶を飲み干した。
窓の外を見ると、午後の陽射しが訓練場を照らしている。少女たちの声が遠くに聞こえる。
帰ったら、この声は聞こえなくなる。
朝のランニングも。ベンチでの沈黙も。小町の味噌汁も。ほむらの笑い声も。
全部が、記憶の中の出来事になる。
だけど、向こうに戻れば、友達がいる。映画がある。学校がある。お母さんのハンバーグがある。
どちらにも、手放したくないものがある。
けれど、両方を今までと同じ形では持っていられない。
小町は「今すぐ片方を捨てなくてもいい」と言ってくれた。
でも、あと二日で、どちらかを選ばなければならない。
『つむぎ』
「……ん」
『考え込んでいるようだが、現時点で結論を出す必要はない。スバルも今すぐ決めろとは言っていなかった』
「うん。でも、あと二日だよ」
『二日ある、とも言える』
「……妖精さんは、どっちがいいと思う?」
『私にはどちらが正しいか判断する基準がない。ただ——』
「ただ?」
『つむぎがどちらを選んでも、私はつむぎと共にいる。君が契約を解除したいと申し出ない限りは』
「……ありがとう」
『礼を言われることではない。事実を述べただけだ』
「うん。でも、ありがとう」
つむぎは湯呑みをテーブルに戻し、ソファから立ち上がった。
部屋にいても考えが堂々巡りになるだけだ。
外に出よう。
◇
宿舎を出ると、夕方が近づいていた。
午後の訓練が終わったのか、訓練場から少女たちが戻ってきている。汗を拭きながら笑っている子。肩を組んで歩いている子。一人で黙々と水を飲んでいる子。
つむぎはその中を通り抜け、ほむらが教えてくれた丘へ向かった。
丘の上には誰もいなかった。
見下ろせば本部の街並みが一望できる。宿舎の並ぶ通り。訓練場。校舎。事務棟。遠くのヘリポート。
夕暮れが始まっている。空が茜色に染まり、建物の影が長く伸びていた。
つむぎは丘の上に腰を下ろし、膝を抱えた。
ここにいると、まあいいかって思える——ほむらがそう言っていた。
まあいいか、とは思えなかった。けれど、ここで風に吹かれていると、頭の中の声が少しだけ静かになる。
五日前、自分は禍群と戦って死にかけた。
四日前、本部に来て、検査を受けて、制度を知った。
三日前、宿舎に入って、小町のカレーを食べた。ほむらとお風呂に入った。導が玄関で待っていてくれた。
二日前、母と電話で話して泣いた。ほむらとこの丘に登った。
昨日、走り始めた。卵焼きを作った。
今日、もう一度走った。導がベンチに座ってくれた。味噌汁を作った。
そして、あと二日で期限が来る。
五日間で、こんなにたくさんのものが積み重なっていた。
それを全部置いて帰るのか。それとも、向こうの全部を置いてここに残るのか。
風が吹いた。草が揺れる。夕日が沈んでいく。
「……私、どうしたいんだろう」
声に出した。誰も聞いていない。
帰りたい。お母さんに会いたい。友達に会いたい。自分の部屋のベッドで眠りたい。
でも——
ここにいたい。もっと走りたい。もっと味噌汁を作りたい。ほむらと笑いたい。導の隣に座りたい。小町のご飯を食べたい。
それだけじゃない。
あの白いワンピースの少女のことが、まだ頭から離れない。
誰も映していない瞳。助けてくれたのに、名前も告げずに消えた少女。
あの子にもう一度会いたい。あんな目をしていた理由を知りたい。
帰ったら、あの子に近づく手がかりはなくなる。
ここにいれば——いつか、何か分かるかもしれない。
「……」
つむぎは空を見上げた。
茜色が紫に変わっていく。最初の星が一つ、空の端に光っていた。
答えはまだ出ない。
けれど、心の中で何かが傾き始めていることに、つむぎは気づいていた。
それが何なのか、まだ言葉にはできない。
ただ、帰りたい気持ちと、ここにいたい気持ちの間で、ほんの少しだけ、重心が動いた気がした。
◇
丘を下りて宿舎に戻ると、玄関の灯りがついていた。
玄関の前には導が立っている。
導はつむぎが戻ってきたのを見ると、何も言わずに頷き、中へと入っていく。
つむぎが中に入ると、共有スペースから声が聞こえてきた。
「つむぎー! どこ行ってたの!?」
ほむらが飛び出してくる。
「ごめん、ちょっと丘に行ってた」
「一人で? 迷わなかった?」
「……ちょっとだけ迷った」
「やっぱり」
ほむらはため息をついたが、すぐに笑った。
「まあいいや。ご飯だよ、ご飯!」
テーブルには五人分の夕食が並んでいた。小町が最後の皿を置いたところだった。
「おかえりなさい、つむぎちゃん。今日はシチューよ」
「おいしそう……」
スバルが席についている。制服のまま、疲れた顔をしている。導もいつの間にかいつもの席にいた。
全員が揃った。
「いただきます」
声が揃う。
つむぎはスプーンでシチューをすくった。じゃがいもとにんじんと鶏肉。ほくほくして、クリーミーで、温かい。
ほむらが学校の話をしている。算数のテストがあったらしい。「三十点だった」と堂々と言って、スバルに「明日から補習ね」と言われている。
導は黙って食べている。けれど、ほむらが「三十点」と言った時に、ほんのわずかに口元が動いた。
小町はみんなの皿を見て、おかわりを聞いている。
いつもの夕食だった。
この光景が、あと二回しかないかもしれない。
あるいは、これからも続くかもしれない。
それは、つむぎが決めることだった。
つむぎはシチューをもうひとくちすくった。
温かかった。
この温かさを、もう少しだけ覚えていたい。そう思った。