魔法少女と廃墟の王様   作:マチュピチュ

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第十四話

 仮滞在の六日目。

 

 あと一日。

 

 目覚めた瞬間に、その数字が頭に浮かんだ。昨日スバルに言われた期限が、一晩眠っても消えていなかった。

 

 つむぎはベッドから起き上がり、着替えた。脚の筋肉痛は、三日目になってようやく収まりかけている。完全には消えていないが、階段を降りる時に手すりが必要なほどではなくなった。

 

 共有スペースに降りると、小町がキッチンに立っていた。

 

「おはよう、つむぎちゃん」

 

「おはようございます。今日も手伝います」

 

「ありがとう。今日はお味噌汁と、目玉焼きをお願いできるかしら」

 

「はい」

 

 出汁を取り、豆腐を切り、味噌を溶く。もう手順に迷わなくなっていた。小町が隣で野菜を切る音と、自分が味噌を溶く音が重なる。

 

 ほむらが階段を駆け降りてきた。

 

「おはよー! 今日の朝ごはん何?」

 

「目玉焼きよ。つむぎちゃんが焼いてくれるわ」

 

「マジ? つむぎの目玉焼き楽しみ!」

 

 つむぎはフライパンに卵を割り入れた。白身がじゅうと音を立てて広がる。火加減を見ながら、蓋をする。小町に教わったやり方だった。半熟がいいと言ったのはほむらで、しっかり焼いてほしいと言ったのはスバルだった。

 

 導が静かに降りてきた。何も言わず、いつもの席に座る。

 

「おはよう、導さん」

 

「……ん」

 

 小さく頷く。それだけだったが、つむぎはもう驚かない。導のおはようは「ん」だ。それが分かるくらいには、この朝の繰り返しに慣れていた。

 

 スバルが制服姿で降りてくる。髪をまとめ終えたところだった。

 

「おはよう」

 

「おはようございます」

 

 テーブルに五人分の朝食を並べる。味噌汁、目玉焼き、白いご飯、漬物。

 

「いただきます」

 

 全員の声が揃う。

 

 いつもの朝だった。

 

 ほむらがご飯をかきこみ、スバルが「よく噛んで食べなさい」と注意し、導が黙々と味噌汁を飲み、小町がおかわりを聞いて回る。

 

 つむぎは味噌汁をひとくち飲んだ。自分が溶いた味噌の味。昨日とほぼ同じ味が出せるようになっていた。

 

 けれど、もうすぐ「いつもの」ではなくなるかもしれない朝だった。

 

 朝食を終えると、ほむらが立ち上がった。

 

「つむぎ、今日も走る?」

 

「走る」

 

「よし! 行こう!」

 

 玄関を出ると、朝の空気が肺に入ってくる。三日前の初日よりも、身体が自然に動いた。

 

 訓練場の外周に出る。(しるべ)が訓練場の端にいた。いつもと同じ場所で、光を一つずつ、ばらばらの場所へ灯しては消している。

 

 つむぎはそれを横目に見ながら、ほむらの隣で走り始めた。

 

 百メートル。二百メートル。三百メートル。

 

 初日は五百メートルで限界だった。二日目は一周走れたが、後半はほとんど早歩きだった。

 

 今日は三百メートルを過ぎても、まだ走れている。呼吸は荒いが、脚はまだ動く。足の裏がアスファルトを蹴る感覚が、初日よりも安定していた。

 

 五百メートル。初日の限界地点。きつい。太ももが重い。けれど、止まらなかった。

 

 六百メートル。七百メートル。朝の風が頬を撫でる。訓練場の向こうに、朝日がのぼり始めていた。

 

 八百メートル——一周。

 

 体力が急についたわけではない。ただ、どのくらいの速さなら最後まで足を動かせるのか、少しだけ分かってきた。

 

 そのまま、足を止めなかった。

 

 九百メートル。千メートル。

 

 二周目に入っていた。

 

「お、つむぎ! まだ行ける?」

 

「……行ける」

 

 行けるかどうかは分からなかった。脚は重いし、肺は焼けるようだし、視界もぼやけている。

 

 それでも、止まりたくなかった。

 

 千二百メートル。千三百メートル。

 

 千四百メートルで、脚が止まった。

 

 止まろうとしたのではない。身体が勝手に止まった。膝が折れ、アスファルトの上に手をついた。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 つむぎは訓練場の端に座り込んだ。ベンチまでたどり着けなかった。汗が顎から落ちて、地面に小さな染みを作る。

 

「お疲れ! つむぎ、今日二周近く走れたぞ!」

 

 ほむらが水筒を持って駆け寄ってきた。

 

「二周……」

 

「昨日よりだいぶ伸びたじゃん。えーと、初日が500mくらいで後は歩いてたから……三倍くらいか?」

 

 三日で三倍。数字だけ聞くと大きく感じるが、ほむらの五周にはまだ遠い。

 

 けれど、初日に一周がやっとだった身体が、ここまで動くようになった。

 

「ありがとう、ほむらちゃん」

 

「おう。じゃあウチは朝練行ってくるね」

 

 ほむらは手を振って訓練場へ駆けていった。

 

 つむぎは座り込んだまま、呼吸を整えた。

 

 汗が額から顎へ伝い、地面に落ちる。心臓がまだばくばくと鳴っている。

 

 身体が重い。でも、嫌な重さではない。自分の足でここまで来た、という実感がある。

 

 

 ◇

 

 

 呼吸が落ち着いた頃、つむぎはベンチに移動した。

 

 水筒の水を少しずつ飲みながら、訓練場を眺める。朝練が始まっていた。号令。走り込み。そして、各自の魔法訓練。

 

 走り込みの隊列が崩れると、少女たちはそれぞれの場所へ散っていく。火を操る子は的の前に立ち、光の矢を放つ子は距離を取って構える。風を纏う子は跳躍を繰り返し、着地のたびに砂埃が舞った。

 

 どの子も、自分の魔法を知っている。何ができて、何ができないのか。どう使えば効果的で、どう鍛えれば伸びるのか。

 

 つむぎは自分のことを考えた。自分は、自分の魔法を知らない。シールドが出ることは分かっている。けれど、それがどこまで耐えられるのか、どう鍛えればいいのか、何もかも分からないままだ。

 

 訓練場の端では、導がまだ光の訓練を続けていた。今は五つの光を同時に操っている。それぞれが異なる場所へ移動し、地面に降りる。導はその全てを視線で追い、一つ一つ確かめている。

 

 静かだった。ほかの子たちの訓練には音がある。炎の音、風の音、的に当たる音。けれど導の光は音を立てない。ただ浮かんで、動いて、降りる。

 

 あの静けさの中に、どれほどの集中があるのだろう。つむぎには想像もつかなかった。

 

 つむぎは自分の手のひらを見た。

 

 三日間、この手で走り、味噌汁を作り、皿を拭いた。

 

 けれど、この手にはもう一つの役割がある。

 

 シールド。

 

 あの日、この手から出た透明な壁。

 

 前に、妖精さんが言っていた。魔力の残留量は安定している。変身しなくても、シールドの展開自体は可能なはずだ、と。

 

 あの時は「まだ無理」と答えた。出したら、あの時のことを思い出しそうで。

 

 今も、怖い。

 

 ガリガリと削られる音。四つの目。息ができなかった苦しさ。砕けていくシールド。

 

 目を閉じれば、今でもすぐにそこへと戻れてしまう。

 

 もし家族のいる日常を選べば、この手でシールドを出す必要はなくなるのかもしれない。あの音を、もう一度聞かなくて済むのかもしれない。

 

 けれど——

 

 もし入隊すると決めたのなら、今度はみんなで戦うことになる。そうなれば、あの時の恐怖と、いつか向き合わなければならない。

 

 そう思った時、手のひらが妙に重く感じた。

 

 まだ、何も確かめていない。

 

 怖いからと目を逸らしたままでは、明日、何を選んでも後悔する気がした。

 

『つむぎ、大丈夫か』

 

 妖精さんの声が響いた。

 

「……妖精さん。一つ聞いていい?」

 

『何だ?』

 

「シールドを出す時って、どうすればいいの?」

 

 妖精さんは少しだけ間を置いた。

 

『胸の奥に魔力がある。それを腕を通して手のひらの方へ押し出すように意識してみてほしい。以前、私を外に出した時と似た感覚だ。ただし、今度は外へ放つのではなく、手の前に留めるイメージで』

 

「留める……」

 

『無理にとは言わない。試すだけでいい。出なくても構わない』

 

 つむぎは深く息を吸った。

 

 手のひらを前に向ける。

 

 胸の奥に意識を集中させる。あの時、妖精さんを外に出した時の感覚を思い出す。温かいものがそこにある。

 

 それを、腕を通して、手のひらへ。

 

 指先がわずかに熱くなった。

 

 手のひらの前の空間に、何かが生まれかける。

 

 ——ガリガリ。

 

 音が聞こえた。

 

 聞こえたような気がした。

 

 つむぎは反射的に手を引いた。手のひらの前に浮かびかけていた何かが、一瞬で消える。

 

 心臓が跳ねている。呼吸が乱れている。

 

 手が震えていた。

 

「……だめ、か」

 

『つむぎ。大丈夫か?』

 

「うん……大丈夫。ごめん。怖くなっちゃった」

 

『謝る必要はない。初めての試みとしては十分だ』

 

「十分……? 何も出なかったよ」

 

『いや、一瞬だが魔力の流動を確認した。展開には至らなかったが、魔力がつむぎの意志に応じて手のひらへ移動したのは事実だ』

 

「……ほんとに?」

 

『嘘をつく理由がない』

 

 つむぎは自分の手のひらを見つめた。

 

 何も見えない。何も残っていない。

 

 けれど、指先にわずかに残る熱がある。それは、魔力が確かにそこを通った証拠だった。

 

 出せなかった。シールドにはならなかった。

 

 でも——動いた。

 

 怖くて引いてしまったけれど、魔力は自分の意志に応じた。

 

 訓練場では、朝練を終えた少女たちが散り始めていた。走り込みの後に水を飲む子、タオルで汗を拭く子、次の授業のために校舎へ向かう子。

 

 あの子たちは毎日、自分の魔法と向き合っている。最初から平気だったのか、怖かったのか、つむぎには分からない。それでも、繰り返して、今の姿がある。

 

 つむぎは一回しか試していない。一回で、怖くて手を引いた。

 

 それでも、ゼロではなかった。

 

 まだ無理だ。でも、「まだ」だ。

 

 あの日から何も変わっていないと思っていた。走れるようになっても、味噌汁が作れるようになっても、シールドだけは別物だと思っていた。

 

 違った。

 

 少しだけ、ほんの少しだけ、近づけた。

 

 風が吹いた。朝の風が汗を冷やす。手のひらの熱だけが、少しだけ温かいまま残っている。

 

 つむぎは手のひらを閉じた。

 

 指先の熱を、握りしめるように。

 

 

 ◇

 

 

 ベンチに座っていると、訓練場の端から導が歩いてきた。

 

 いつものように、ベンチの反対側に座る。水筒を膝に置き、水を飲む。

 

 二人の間に沈黙が落ちる。風が吹く。

 

 つむぎは導の横顔をちらりと見た。

 

 導は前を向いている。表情は読めない。けれど、ここに座ることを選んでくれている。

 

「導さん」

 

「……」

 

「明日で、仮滞在が終わるんです」

 

 導が、つむぎの方を見た。

 

「それなのに、まだ、決められてなくて」

 

「……」

 

「でも今日、少しだけシールドを出そうとしてみました。出なかったんですけど」

 

「……」

 

「怖くて、途中でやめちゃって。でも、妖精さんが魔力は動いたって」

 

 導の指が、水筒の蓋に触れたまま止まった。

 

「だから、まだ無理なんだけど。でも、全然だめってわけじゃないのかなって」

 

 導はしばらく黙っていた。

 

 それから、いつもより少しだけはっきりした声で言った。

 

「……無理じゃない」

 

「……ありがとう、導さん」

 

 導は小さく頷いた。それだけだった。

 

 けれど、つむぎはもう一度、自分の手のひらを見た。

 

 何もない手の中に、さっきの熱がまだ少しだけ残っている気がした。

 

 二人はしばらくベンチに座っていた。

 

 風が吹く。訓練場から少女たちの声が聞こえる。

 

 導はいつもより少しだけ長く、そこにいた。

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