魔法少女と廃墟の王様   作:マチュピチュ

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第十六話

 仮滞在の七日目。

 

 目が覚めた時、部屋はまだ暗かった。

 

 時計を見る前に分かった。早い。まだ夜の匂いが残っている。窓の外は灰色で、星も見えなければ朝焼けもない。

 

 四時十八分。

 

 昨夜はすぐに眠れた。考えすぎて眠れないと思っていたのに、布団に入ったら手のひらの熱のことだけが浮かんで、そのまま落ちた。

 

 今、目が覚めて、最初に浮かんだのは手のひらのことではなかった。

 

 なぜか、味噌汁の味だった。

 

 自分が溶いた味噌の味。昨日とほぼ同じ味が出せるようになっていた、あの味。

 

 こんな朝に、どうしてそんなことを思い出したのか、自分でも分からなかった。

 

 でも、その味を明日も作れるかどうかを考えた瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。

 

 つむぎは天井を見つめた。

 

 答えは出ているのだろうか。出ていないのだろうか。

 

 分からない。分からないけれど、身体が動いた。布団を跳ね除け、着替えて、靴を履いた。

 

 走ろう。

 

 そう思うより前から、足が玄関に向かっていた。

 

 共有スペースには誰もいない。薄暗い部屋を通り抜け、玄関の扉を開けた。

 

 冷たい空気が顔に当たった。思わず目を細める。五月でも、夜明け前はこんなに冷えるのか。

 

 腕をさすりながら訓練場へ歩く。足元がまだ暗い。街灯の灯りだけが、アスファルトの上にぼんやりと落ちている。

 

 訓練場に着いた。誰もいなかった。自主練の少女たちすら来ていない時間だ。

 

 外周のコースに立つ。

 

 一人だった。

 

 ほむらがいない朝は、初めてだった。隣で走ってくれる人がいない。「止まんなよ」と言ってくれる声がない。水筒もない。

 

 つむぎは走り始めた。

 

 足の裏が地面を蹴る。自分の呼吸だけが聞こえる。

 

 百メートル。二百メートル。

 

 寒い。けれど、走っていると身体が温まってくる。血が巡る。手先が、指先が、じんわりと熱を取り戻していく。

 

 三百メートル。四百メートル。五百メートル。

 

 初めてここを走った日の限界地点を通り過ぎる。もう、何も感じない。ただの通過点になっている。あの日、膝をついて「もう無理」と思った場所が、今は景色の一部でしかない。

 

 数日前の自分と、今の自分。同じ身体なのに、別のものが動いている。

 

 六百メートル。七百メートル。八百メートル。一周。

 

 止まらなかった。

 

 千メートル。千二百メートル。千四百メートル。

 

 昨日の限界地点を過ぎた。

 

 きつい。脚が重い。肺が苦しい。汗が目に入る。

 

 千六百メートル。千八百メートル。二周。

 

 まだ止まらなかった。

 

 千九百メートル。二千メートル。

 

 二千百メートルで、脚が止まった。

 

 膝が折れた。両手が地面についた。汗が顎から地面に落ちる。心臓が耳の奥で鳴っている。

 

 つむぎはそのまま仰向けに倒れた。

 

 背中に地面の冷たさが広がる。汗で濡れたシャツが張りつく。

 

 空が見えた。

 

 灰色だった空が、いつの間にか変わっていた。東の端が橙色に滲み、雲の輪郭が光り始めている。

 

 走っている間に、夜が終わっていた。

 

 きれいだった。

 

 この空を見ながら、つむぎは思った。

 

 明日もここで走りたい。

 

 それだけだった。守りたいとか、戦いたいとか、大きな言葉ではなかった。

 

 明日もここで走って、倒れて、この空を見たい。明日も味噌汁を作りたい。明日もほむらに「頑張ったじゃん」と言われたい。明日も導がベンチに座ってくれるか、確かめたい。

 

 昇り始めた太陽へと手を伸ばす。

 

 手のひらの中の、あの熱を。このまま眠らせたくない。

 

 それが答えだった。

 

 小さくて、不格好で、覚悟と呼ぶには頼りない答えだった。

 

 でも、嘘ではなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 宿舎に戻ると、小町がキッチンに立つところだった。

 

「あら、つむぎちゃん。もう走ってきたの?」

 

「はい。一人で」

 

「まあ。ほむらちゃんより先に?」

 

「はい」

 

「そうだったのね。ちょうど今から朝ごはんの準備を始めようと思ってたところなの。良かったらまた一緒につくる?」

 

「ぜひ、お願いします!」

 

 小町は嬉しそうに目を細めた。

 

 

 

 

 七回目の朝食。五人がテーブルにつく。「いただきます」の声が揃った。

 

 食べながら、つむぎはこの食卓を見ていた。

 

 ほむらがご飯をかきこんでいる。スバルが「よく噛みなさい」と言っている。(しるべ)が味噌汁を静かに飲んでいる。小町がおかわりを聞いている。

 

 七回目。

 

 この食卓に座るのは、今日が最後かもしれない。あるいは、まだ続くかもしれない。

 

 食べ終わると、ほむらと導がそれぞれの場所へ出かけていった。小町が食器を洗い始めた。

 

 スバルが立ち上がった時、つむぎは声をかけた。

 

「スバルさん」

 

 スバルが振り返った。

 

「お話が……あります」

 

「……ここで?」

 

「はい」

 

 テーブルに向かい合って座った。

 

 つむぎは膝の上で手を握った。指先が少しだけ震えている。

 

 何を言えばいいか、走りながら考えていた。綺麗にまとまった言葉は見つからなかった。

 

「……上手く言えないんですけど」

 

「いいわ。上手く言わなくていいから」

 

「今朝、一人で走ったんです。ほむらちゃんより先に起きて。二周半くらい走って、倒れて」

 

「……」

 

「空を見たら、きれいで」

 

 声が詰まった。

 

「明日も、ここで走りたいって思いました」

 

「……」

 

「それだけなんです。もっとちゃんとした理由があればいいんですけど、出てくるのがそれしかなくて」

 

 つむぎは手のひらを見た。

 

「あと……手の中の力を、眠らせたくないです。怖いし、まだ出せないけど、ここにあるのは分かるから」

 

 スバルは黙って聞いていた。

 

 長い沈黙があった。

 

「あなたの気持ちは、よく分かったわ」

 

 スバルの声は穏やかだった。

 

「……残っても、いいですか」

 

「ごめんなさいね。私の言い方が悪かった」

 

 つむぎの心臓が跳ねた。

 

「え……」

 

「確か私は、今日までに入隊するか、帰るかを考えてもらう必要があると言ったわね」

 

 スバルは静かに言った。

 

「あなたが今、どうしたいと思っているのか。それを、あなた自身の言葉で聞かなければいけなかった」

 

「……」

 

「だから、今の答えに意味がないわけじゃない。むしろ、とても大事な答えよ。でも、それはここで最終決定をするという意味ではないの」

 

「……最終決定じゃ、ない?」

 

「ええ。あなたの気持ちは本物だと思う。聞いていてそう感じたわ」

 

「なら——」

 

「でも、今のあなたは七日間、ここで過ごした直後よ」

 

 スバルの目が、真っ直ぐにつむぎを見ていた。

 

「ここにいれば、小町さんのご飯がある。ほむらが笑ってくれる。導が隣にいてくれる。朝走る場所がある。あなたは今、ある意味では温かい場所にいるの」

 

「……」

 

「温かい場所で出した答えが、その外でも同じかどうか。それは、ここにいたままでは確かめられない」

 

 つむぎの手が、膝の上で固まった。

 

「一度、帰りなさい」

 

 空気が止まった。

 

「帰って、お母さんの顔を見て、お父さんと話して、自分の部屋で眠りなさい。友達に会いなさい。あなたが十三年間過ごしてきた場所に戻って、その上で——」

 

 スバルは一呼吸置いた。

 

「それでも、ここに来たいと思うなら。その時に、もう一度言いにきて」

 

 つむぎは動けなかった。

 

 帰る。

 

 帰りたいと、ずっと思っていた。お母さんに会いたい。友達に会いたい。自分の部屋で眠りたい。

 

 それなのに、「帰りなさい」と言われた瞬間、胸の中で何かが軋んだ。

 

 帰ったら。

 

 帰って、お母さんのハンバーグを食べて、自分のベッドで眠って、友達と話して。

 

 そうしたら——ここでの七日間が、遠くなるかもしれない。味噌汁の味を忘れるかもしれない。ほむらの声が薄れるかもしれない。導の沈黙を思い出せなくなるかもしれない。

 

 手のひらの熱が、冷めてしまうかもしれない。

 

「怖いのね」

 

 スバルが静かに言った。つむぎの顔を見ていた。

 

「帰ったら、今の気持ちが薄れてしまうかもしれない。ここで積み上げたものが、全部、夢みたいになるかもしれない。……そう思ってる?」

 

「……はい」

 

「だとしたら、なおさら帰る必要があるわ」

 

「……」

 

「帰っても、全部が消えるわけじゃないわ。薄れるものもある。形が変わるものもある。それでも残るものがあるなら——それをもう一度、見てみればいい」

 

 つむぎは俯いた。

 

 分かっている。スバルの言っていることは正しい。

 

 ここの温かさに守られたまま、「残りたい」と言い続けるのは簡単だ。でもそれは、温かさが答えを出してくれているだけで、自分が答えを出したことにはならない。

 

 元の場所に戻って。元の温かさに触れて。

 

 それでも、手のひらの中の熱を忘れられなかったら。

 

 その時に——もう一度。

 

「……分かりました」

 

 つむぎは顔を上げた。声は震えていたが、目は逸らさなかった。

 

「帰ります」

 

「いい子ね。じゃあ、ご両親への諸々詳しい説明は、私が直接ご自宅でさせてもらうわね。あなたを送り届けるのと合わせて」

 

「スバルさんが来てくれるんですか?」

 

「ええ。大事な話だもの」

 

 スバルは少しだけ表情を緩めた。

 

「出発は明日の朝。今日は、準備をしなさい。……それと」

 

「はい」

 

「みんなには、自分の口から伝えてね」

 

 スバルは宿舎を出ていった。

 

 扉が閉まった。

 

 テーブルの上に、朝食の跡が残っている。味噌汁のお椀。卵焼きの皿。白い飯碗。

 

 明日の朝、ここにはいない。

 

 キッチンから、小町の声が聞こえた。

 

「つむぎちゃん。お茶、入れましょうか」

 

「……はい」

 

 小町がお茶を運んできた。向かいに座って、何も聞かずにお茶を飲んだ。

 

 しばらく、二人で黙っていた。

 

「小町お姉さん」

 

「なあに?」

 

「明日、帰ることになりました」

 

「……そう」

 

「スバルさんが、一度帰って自分の気持ちを確かめてきなさいって」

 

「スバルちゃんらしいわね」

 

 小町はお茶を一口飲んだ。

 

「つむぎちゃん。帰ったら、お母さんのハンバーグ食べてきてね」

 

「……はい」

 

「あったかいうちに食べるのよ。冷めたハンバーグはおいしくないから」

 

「はい」

 

「それでね」

 

 小町は微笑んだ。

 

「もし、戻ってくることになったら。丸いおにぎり、一緒に作りましょうね」

 

 つむぎの目から、涙がこぼれた。

 

 拭おうとしたけれど、次から次へ出てくる。

 

 小町は何も言わなかった。ただ、向かいに座って、お茶を飲んでいた。

 

 泣き終わるまで、ずっと。

 

 

 ◇

 

 

 夕方。

 

 ほむらが学校から帰ってきた。

 

「ただいまー! ……つむぎ? どした、なんか顔暗くね?」

 

「ほむらちゃん。……あのね」

 

「ん?」

 

「明日、一回帰ることになったの」

 

 ほむらの動きが止まった。

 

「帰るって……家に?」

 

「うん。スバルさんに、一度帰って確かめてきなさいって言われて」

 

「……」

 

 ほむらは鞄を下ろした。

 

「確かめるって、何を?」

 

「ここに残りたいって気持ちが、元の場所に戻っても変わらないかどうか」

 

 ほむらはしばらく黙っていた。

 

 それから、にっと笑った。

 

「じゃあ、帰ってくんだな」

 

「……え?」

 

「確かめに行くんだろ? 確かめたら帰ってくるんだろ?」

 

「……まだ分からないよ。帰ったら気持ちが変わるかもしれないし」

 

「変わっても、つむぎは戻ってくるよ」

 

 ほむらはあっさりと言った。

 

「つむぎは戻ってくるよ。ウチ、分かるもん」

 

「……根拠は?」

 

「勘。ウチの勘ってよく当たるんだよ」

 

 ほむらはそう言って、ソファにどさりと座った。

 

「つむぎが帰ったら、しばらく朝のランニング一人だな。つまんねー」

 

「……ごめんね」

 

「謝んなよ。確かめに行くだけなんだから」

 

 ほむらは天井を見上げた。

 

「帰ってきたらさ、ウチの五周に付き合えよ。約束な」

 

「五周は無理だよ……」

 

「じゃあ三周」

 

「……頑張る」

 

「よし。約束」

 

 ほむらは拳を突き出した。つむぎはそれにこつんと拳を合わせた。

 

 導が訓練から戻ってきた。

 

 つむぎは導の前に立った。

 

「導さん。明日、一回帰ることになりました」

 

 導はつむぎを見た。

 

「……帰る」

 

「はい。自分の気持ちを確かめに戻ります」

 

「……」

 

「元の場所に戻って、それでもここに来たいって思ったら、戻ってきます」

 

 導は何も言わなかった。

 

 しばらくして、小さく頷いた。

 

「……ん」

 

 それだけだった。

 

 導はいつもの席について、夕食を待った。

 

 この仮滞在での、最後の夕食が始まった。

 

 五人がテーブルにつく。「いただきます」の声が揃う。

 

 小町が今日のために作ってくれたのは、カレーだった。

 

 つむぎがこの宿舎で初めて食べた料理。七日前の味。

 

 ほむらは三杯おかわりした。スバルは「食べすぎよ」と言いつつ、自分もおかわりをしていた。導は黙って食べていたが、皿は綺麗に空になっていた。

 

 つむぎはカレーを口に運びながら、この味を覚えようとしていた。

 

 辛すぎず、甘すぎず。じゃがいもがほくほくと崩れ、にんじんは柔らかいのに形が残っている。

 

 七日前と同じ味がした。

 

 あの時は、「温かいけれど自分の場所ではない」と思った。

 

 今は——

 

「おいしい」

 

 つむぎは言った。

 

 小町が微笑んだ。

 

「よかったわ」

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