魔法少女と廃墟の王様 作:マチュピチュ
仮滞在の七日目。
目が覚めた時、部屋はまだ暗かった。
時計を見る前に分かった。早い。まだ夜の匂いが残っている。窓の外は灰色で、星も見えなければ朝焼けもない。
四時十八分。
昨夜はすぐに眠れた。考えすぎて眠れないと思っていたのに、布団に入ったら手のひらの熱のことだけが浮かんで、そのまま落ちた。
今、目が覚めて、最初に浮かんだのは手のひらのことではなかった。
なぜか、味噌汁の味だった。
自分が溶いた味噌の味。昨日とほぼ同じ味が出せるようになっていた、あの味。
こんな朝に、どうしてそんなことを思い出したのか、自分でも分からなかった。
でも、その味を明日も作れるかどうかを考えた瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
つむぎは天井を見つめた。
答えは出ているのだろうか。出ていないのだろうか。
分からない。分からないけれど、身体が動いた。布団を跳ね除け、着替えて、靴を履いた。
走ろう。
そう思うより前から、足が玄関に向かっていた。
共有スペースには誰もいない。薄暗い部屋を通り抜け、玄関の扉を開けた。
冷たい空気が顔に当たった。思わず目を細める。五月でも、夜明け前はこんなに冷えるのか。
腕をさすりながら訓練場へ歩く。足元がまだ暗い。街灯の灯りだけが、アスファルトの上にぼんやりと落ちている。
訓練場に着いた。誰もいなかった。自主練の少女たちすら来ていない時間だ。
外周のコースに立つ。
一人だった。
ほむらがいない朝は、初めてだった。隣で走ってくれる人がいない。「止まんなよ」と言ってくれる声がない。水筒もない。
つむぎは走り始めた。
足の裏が地面を蹴る。自分の呼吸だけが聞こえる。
百メートル。二百メートル。
寒い。けれど、走っていると身体が温まってくる。血が巡る。手先が、指先が、じんわりと熱を取り戻していく。
三百メートル。四百メートル。五百メートル。
初めてここを走った日の限界地点を通り過ぎる。もう、何も感じない。ただの通過点になっている。あの日、膝をついて「もう無理」と思った場所が、今は景色の一部でしかない。
数日前の自分と、今の自分。同じ身体なのに、別のものが動いている。
六百メートル。七百メートル。八百メートル。一周。
止まらなかった。
千メートル。千二百メートル。千四百メートル。
昨日の限界地点を過ぎた。
きつい。脚が重い。肺が苦しい。汗が目に入る。
千六百メートル。千八百メートル。二周。
まだ止まらなかった。
千九百メートル。二千メートル。
二千百メートルで、脚が止まった。
膝が折れた。両手が地面についた。汗が顎から地面に落ちる。心臓が耳の奥で鳴っている。
つむぎはそのまま仰向けに倒れた。
背中に地面の冷たさが広がる。汗で濡れたシャツが張りつく。
空が見えた。
灰色だった空が、いつの間にか変わっていた。東の端が橙色に滲み、雲の輪郭が光り始めている。
走っている間に、夜が終わっていた。
きれいだった。
この空を見ながら、つむぎは思った。
明日もここで走りたい。
それだけだった。守りたいとか、戦いたいとか、大きな言葉ではなかった。
明日もここで走って、倒れて、この空を見たい。明日も味噌汁を作りたい。明日もほむらに「頑張ったじゃん」と言われたい。明日も導がベンチに座ってくれるか、確かめたい。
昇り始めた太陽へと手を伸ばす。
手のひらの中の、あの熱を。このまま眠らせたくない。
それが答えだった。
小さくて、不格好で、覚悟と呼ぶには頼りない答えだった。
でも、嘘ではなかった。
◇
宿舎に戻ると、小町がキッチンに立つところだった。
「あら、つむぎちゃん。もう走ってきたの?」
「はい。一人で」
「まあ。ほむらちゃんより先に?」
「はい」
「そうだったのね。ちょうど今から朝ごはんの準備を始めようと思ってたところなの。良かったらまた一緒につくる?」
「ぜひ、お願いします!」
小町は嬉しそうに目を細めた。
◇
七回目の朝食。五人がテーブルにつく。「いただきます」の声が揃った。
食べながら、つむぎはこの食卓を見ていた。
ほむらがご飯をかきこんでいる。スバルが「よく噛みなさい」と言っている。
七回目。
この食卓に座るのは、今日が最後かもしれない。あるいは、まだ続くかもしれない。
食べ終わると、ほむらと導がそれぞれの場所へ出かけていった。小町が食器を洗い始めた。
スバルが立ち上がった時、つむぎは声をかけた。
「スバルさん」
スバルが振り返った。
「お話が……あります」
「……ここで?」
「はい」
テーブルに向かい合って座った。
つむぎは膝の上で手を握った。指先が少しだけ震えている。
何を言えばいいか、走りながら考えていた。綺麗にまとまった言葉は見つからなかった。
「……上手く言えないんですけど」
「いいわ。上手く言わなくていいから」
「今朝、一人で走ったんです。ほむらちゃんより先に起きて。二周半くらい走って、倒れて」
「……」
「空を見たら、きれいで」
声が詰まった。
「明日も、ここで走りたいって思いました」
「……」
「それだけなんです。もっとちゃんとした理由があればいいんですけど、出てくるのがそれしかなくて」
つむぎは手のひらを見た。
「あと……手の中の力を、眠らせたくないです。怖いし、まだ出せないけど、ここにあるのは分かるから」
スバルは黙って聞いていた。
長い沈黙があった。
「あなたの気持ちは、よく分かったわ」
スバルの声は穏やかだった。
「……残っても、いいですか」
「ごめんなさいね。私の言い方が悪かった」
つむぎの心臓が跳ねた。
「え……」
「確か私は、今日までに入隊するか、帰るかを考えてもらう必要があると言ったわね」
スバルは静かに言った。
「あなたが今、どうしたいと思っているのか。それを、あなた自身の言葉で聞かなければいけなかった」
「……」
「だから、今の答えに意味がないわけじゃない。むしろ、とても大事な答えよ。でも、それはここで最終決定をするという意味ではないの」
「……最終決定じゃ、ない?」
「ええ。あなたの気持ちは本物だと思う。聞いていてそう感じたわ」
「なら——」
「でも、今のあなたは七日間、ここで過ごした直後よ」
スバルの目が、真っ直ぐにつむぎを見ていた。
「ここにいれば、小町さんのご飯がある。ほむらが笑ってくれる。導が隣にいてくれる。朝走る場所がある。あなたは今、ある意味では温かい場所にいるの」
「……」
「温かい場所で出した答えが、その外でも同じかどうか。それは、ここにいたままでは確かめられない」
つむぎの手が、膝の上で固まった。
「一度、帰りなさい」
空気が止まった。
「帰って、お母さんの顔を見て、お父さんと話して、自分の部屋で眠りなさい。友達に会いなさい。あなたが十三年間過ごしてきた場所に戻って、その上で——」
スバルは一呼吸置いた。
「それでも、ここに来たいと思うなら。その時に、もう一度言いにきて」
つむぎは動けなかった。
帰る。
帰りたいと、ずっと思っていた。お母さんに会いたい。友達に会いたい。自分の部屋で眠りたい。
それなのに、「帰りなさい」と言われた瞬間、胸の中で何かが軋んだ。
帰ったら。
帰って、お母さんのハンバーグを食べて、自分のベッドで眠って、友達と話して。
そうしたら——ここでの七日間が、遠くなるかもしれない。味噌汁の味を忘れるかもしれない。ほむらの声が薄れるかもしれない。導の沈黙を思い出せなくなるかもしれない。
手のひらの熱が、冷めてしまうかもしれない。
「怖いのね」
スバルが静かに言った。つむぎの顔を見ていた。
「帰ったら、今の気持ちが薄れてしまうかもしれない。ここで積み上げたものが、全部、夢みたいになるかもしれない。……そう思ってる?」
「……はい」
「だとしたら、なおさら帰る必要があるわ」
「……」
「帰っても、全部が消えるわけじゃないわ。薄れるものもある。形が変わるものもある。それでも残るものがあるなら——それをもう一度、見てみればいい」
つむぎは俯いた。
分かっている。スバルの言っていることは正しい。
ここの温かさに守られたまま、「残りたい」と言い続けるのは簡単だ。でもそれは、温かさが答えを出してくれているだけで、自分が答えを出したことにはならない。
元の場所に戻って。元の温かさに触れて。
それでも、手のひらの中の熱を忘れられなかったら。
その時に——もう一度。
「……分かりました」
つむぎは顔を上げた。声は震えていたが、目は逸らさなかった。
「帰ります」
「いい子ね。じゃあ、ご両親への諸々詳しい説明は、私が直接ご自宅でさせてもらうわね。あなたを送り届けるのと合わせて」
「スバルさんが来てくれるんですか?」
「ええ。大事な話だもの」
スバルは少しだけ表情を緩めた。
「出発は明日の朝。今日は、準備をしなさい。……それと」
「はい」
「みんなには、自分の口から伝えてね」
スバルは宿舎を出ていった。
扉が閉まった。
テーブルの上に、朝食の跡が残っている。味噌汁のお椀。卵焼きの皿。白い飯碗。
明日の朝、ここにはいない。
キッチンから、小町の声が聞こえた。
「つむぎちゃん。お茶、入れましょうか」
「……はい」
小町がお茶を運んできた。向かいに座って、何も聞かずにお茶を飲んだ。
しばらく、二人で黙っていた。
「小町お姉さん」
「なあに?」
「明日、帰ることになりました」
「……そう」
「スバルさんが、一度帰って自分の気持ちを確かめてきなさいって」
「スバルちゃんらしいわね」
小町はお茶を一口飲んだ。
「つむぎちゃん。帰ったら、お母さんのハンバーグ食べてきてね」
「……はい」
「あったかいうちに食べるのよ。冷めたハンバーグはおいしくないから」
「はい」
「それでね」
小町は微笑んだ。
「もし、戻ってくることになったら。丸いおにぎり、一緒に作りましょうね」
つむぎの目から、涙がこぼれた。
拭おうとしたけれど、次から次へ出てくる。
小町は何も言わなかった。ただ、向かいに座って、お茶を飲んでいた。
泣き終わるまで、ずっと。
◇
夕方。
ほむらが学校から帰ってきた。
「ただいまー! ……つむぎ? どした、なんか顔暗くね?」
「ほむらちゃん。……あのね」
「ん?」
「明日、一回帰ることになったの」
ほむらの動きが止まった。
「帰るって……家に?」
「うん。スバルさんに、一度帰って確かめてきなさいって言われて」
「……」
ほむらは鞄を下ろした。
「確かめるって、何を?」
「ここに残りたいって気持ちが、元の場所に戻っても変わらないかどうか」
ほむらはしばらく黙っていた。
それから、にっと笑った。
「じゃあ、帰ってくんだな」
「……え?」
「確かめに行くんだろ? 確かめたら帰ってくるんだろ?」
「……まだ分からないよ。帰ったら気持ちが変わるかもしれないし」
「変わっても、つむぎは戻ってくるよ」
ほむらはあっさりと言った。
「つむぎは戻ってくるよ。ウチ、分かるもん」
「……根拠は?」
「勘。ウチの勘ってよく当たるんだよ」
ほむらはそう言って、ソファにどさりと座った。
「つむぎが帰ったら、しばらく朝のランニング一人だな。つまんねー」
「……ごめんね」
「謝んなよ。確かめに行くだけなんだから」
ほむらは天井を見上げた。
「帰ってきたらさ、ウチの五周に付き合えよ。約束な」
「五周は無理だよ……」
「じゃあ三周」
「……頑張る」
「よし。約束」
ほむらは拳を突き出した。つむぎはそれにこつんと拳を合わせた。
導が訓練から戻ってきた。
つむぎは導の前に立った。
「導さん。明日、一回帰ることになりました」
導はつむぎを見た。
「……帰る」
「はい。自分の気持ちを確かめに戻ります」
「……」
「元の場所に戻って、それでもここに来たいって思ったら、戻ってきます」
導は何も言わなかった。
しばらくして、小さく頷いた。
「……ん」
それだけだった。
導はいつもの席について、夕食を待った。
この仮滞在での、最後の夕食が始まった。
五人がテーブルにつく。「いただきます」の声が揃う。
小町が今日のために作ってくれたのは、カレーだった。
つむぎがこの宿舎で初めて食べた料理。七日前の味。
ほむらは三杯おかわりした。スバルは「食べすぎよ」と言いつつ、自分もおかわりをしていた。導は黙って食べていたが、皿は綺麗に空になっていた。
つむぎはカレーを口に運びながら、この味を覚えようとしていた。
辛すぎず、甘すぎず。じゃがいもがほくほくと崩れ、にんじんは柔らかいのに形が残っている。
七日前と同じ味がした。
あの時は、「温かいけれど自分の場所ではない」と思った。
今は——
「おいしい」
つむぎは言った。
小町が微笑んだ。
「よかったわ」