魔法少女と廃墟の王様 作:マチュピチュ
車の中で、つむぎは目隠しをされていた。
黒い布が目を覆っている。視界は完全に閉ざされていた。隣にスバルが座っている気配がある。エンジンの振動が腰から伝わってくる。
「ごめんなさいね。施設の所在地に関わることだから」
「大丈夫です。……慣れました」
嘘だった。慣れてはいない。ただ、七日前にも同じことをされたから、二回目だというだけだ。
車が揺れる。曲がった。止まった。また動き出した。
どれくらい走ったのか分からない。三十分か、一時間か。目隠しをしていると、時間の感覚がぼやける。
車が止まった。
「ここで目隠しを外すわ」
スバルが布を解いてくれた。
光が目に入った。思わず目を細める。
窓の外に、見慣れた風景があった。
商店街の角。八百屋の看板。パン屋の前に置かれたベンチ。自転車置き場の錆びたフェンス。
知っている場所だった。
家から五分くらいの、いつも通る道。
「ここから歩けるかしら?」
「……はい」
車を降りた。
足の下がアスファルトだった。施設と同じアスファルト。けれど、匂いが違う。排気ガスと、パン屋から漂う焼きたての匂いと、五月の街路樹の青い匂い。
つむぎは、七日ぶりに自分の街を歩いた。
何も変わっていなかった。
商店街は普通に営業していて、自転車に乗った主婦が通り過ぎていく。小学生がランドセルを背負って走っている。犬の散歩をしているおじさんがいる。
当たり前だ。七日間で街が変わるわけがない。禍群が出た地域はもっと先で、このあたりには被害はなかった。
変わったのは、つむぎの方だった。
同じ道を歩いている。同じ景色を見ている。けれど、七日前とは違う目で見ている。あの日は学校の帰り道で、友達と映画の話をしていた。今は、スバルと並んで歩いている。
角を曲がると、自分の家が見えた。
二階建ての一軒家。白い壁と茶色い屋根。小さな庭に、母が植えた紫陽花が咲き始めていた。
玄関の前に立った。
ここだ。
ここが、つむぎの家だ。
七日間、ずっと帰りたかった場所。お母さんのハンバーグがある場所。お父さんの不器用な心配がある場所。自分の部屋がある場所。
手が震えた。インターホンを押す指が、うまく動かない。
スバルが隣に立っている。何も言わない。待ってくれている。
つむぎはインターホンに手を伸ばし——やめた。
代わりに、ドアノブに手をかけた。
鍵は、開いていた。母が待っていたのだろう。いつでも迎えられるように。
玄関の扉を開けると、家の中の匂いがした。
洗剤の匂い。畳の匂い。微かに漂う、料理の匂い。
七日間、嗅いでいなかった匂い。けれど、身体が覚えている匂い。十三年間、毎日嗅いでいた匂い。
廊下の奥から、足音が聞こえた。
早い。ばたばたと、転びそうなほど早い足音。
「つむぎ——!」
母が走ってきた。
エプロンをつけたまま、スリッパを片方脱ぎかけたまま、顔をくしゃくしゃにして走ってきた。
そして、つむぎを抱きしめた。
強かった。痛いくらいに、強かった。
母の腕がつむぎの背中に回り、頭を胸に押しつける。母の心臓の音が聞こえた。ばくばくと、早い鼓動。
「つむぎ……つむぎ……!」
母が泣いていた。声を出して泣いていた。
「よかった……帰ってきた……よかった……!」
つむぎも泣いていた。
母の匂いがした。洗剤と、料理と、少しだけ汗の匂い。家の匂いだった。お母さんの匂いだった。
「ごめんね、お母さん。遅くなっちゃって」
「いいの。いいのよ。帰ってきてくれたんだから」
母はつむぎの肩を掴み、少し離れてつむぎの顔を見た。目が赤い。頬が濡れている。でも、笑っていた。
「痩せた? ちゃんとご飯食べてた?」
「食べてたよ。おいしいご飯作ってくれる人がいたから」
「そう……そう、よかった……」
母はもう一度つむぎを抱きしめた。
スバルが玄関の外に立っていた。
母がスバルに気づいた。
「あ……あなたが、鳥山さん?」
「ええ。お電話でお話しした鳥山スバルです。守宮…いえ、つむぎさんを無事に送り届けにまいりました」
「ありがとうございます。本当にありがとうございます……どうぞ、上がってください、お茶だけでも……」
「ありがとうございます。でも、今日はご家族の時間を優先してください。詳しい説明は、明日改めてさせていただきますので」
スバルは静かに頭を下げた。
つむぎに目を向ける。
「つむぎさん。今日はゆっくりと休んでちょうだい」
「……はい。ありがとうございます」
スバルは小さく頷き、踵を返した。
玄関の扉が閉まる。
スバルの足音が遠ざかっていく。
つむぎは靴を脱いだ。
家に上がった。
廊下を歩く。自分の家の廊下。壁に掛かった家族写真。下駄箱の上に置かれた父の鍵入れ。リビングへ続く引き戸。
全部、同じだった。七日前と何も変わっていない。
リビングに入ると、テーブルの上に見慣れない花が飾ってあった。小さな花瓶に、黄色い花。
母がつむぎの帰りのために飾ったのだと分かった。
「お父さんは?」
「日が暮れる前には帰ってくるわ。今日は早く上がるって連絡があったの」
「……お母さん、泣いてるよ」
「泣いてないわよ」
泣いていた。母はエプロンで顔を拭きながら、キッチンへ歩いていった。
「つむぎ、今夜はハンバーグよ。約束したでしょう?」
ハンバーグ。
電話の時に約束した、ハンバーグ。
「そうだ、朝ごはんは食べた? それとも、すこしお部屋で休む?」
「うん、食べたよ。ちょっと部屋、見てきていい?」
「もちろんよ。お掃除はしたけど、できるだけそのままにしてあるから」
つむぎは階段を上がった。
二階の廊下。自分の部屋のドア。ドアに貼ってある、小学校の図工の授業で作ったネームプレート。「つむぎの部屋」と、少し歪んだ字で書いてある。
ドアを開けた。
◇
何も変わっていなかった。
ベッド。机。本棚。クローゼット。窓際に置いた小さなサボテン。机の上のペン立て。壁に貼ったアイドルのポスター。
全部、七日前のままだった。
ベッドのシーツは洗ってあった。母が替えてくれたのだろう。枕カバーも新しくなっている。
つむぎはベッドに座った。
柔らかかった。宿舎の簡素なベッドとは違う、使い慣れた柔らかさ。身体が沈み込む。このベッドの形を、身体がまだ覚えていた。
机の上を見た。出しっぱなしのノート。予習の途中だったのだろう、数学のページが開いたままだった。
七日前の自分が座っていた場所。七日前の自分が勉強していた内容。
窓の外を見た。
住宅街の屋根が並んでいる。電線。遠くに見える公園の木。夕方の空。
宿舎の窓からは訓練場が見えた。ここからは、隣の家の屋根が見える。
違う景色だった。でも、同じ空だった。
だけどここは、お母さんの匂いがする。自分のベッドがある。階下から母が動く気配が伝わってくる。
温かい。
ここも、温かい。
宿舎とは違う温かさ。十三年間積み上げてきた温かさ。
——この温かさの中にいたら、あっちの温かさを忘れてしまうのだろうか。
分からない。
まだ、分からない。
◇
部屋を出て階段を降りると、母がリビングのテーブルにお茶とお菓子を並べていた。
「おいで。ゆっくり話しましょう」
つむぎは母の向かいに座った。
母は色々なことを聞いた。ご飯は何を食べていたのか。眠れていたのか。怪我はもう痛くないのか。一緒にいたのはどんな人たちだったのか。
つむぎは答えられる範囲で答えた。おいしいご飯を作ってくれる人がいたこと。同い年くらいの女の子がいて仲良くなったこと。毎朝走っていたこと。
施設の場所や、魔法少女のことや、契約のことは、まだ話せなかった。それは明日、スバルが来てからの話だ。
母は追及しなかった。ただ、つむぎの顔を何度も見て、「元気そうでよかった」と繰り返した。
昼食は、母が慌てて作った焼きそばだった。冷蔵庫にあるものでぱぱっと作った、いつもの味。キャベツが多くて、ソースが少し濃い。
「ごめんね、ちゃんとしたもの用意できなくて。夕飯はハンバーグだから、お昼は簡単に」
「ううん。おいしいよ」
おいしかった。小町の料理とは全然違う。丁寧さも盛り付けも違う。でも、これが母の味だった。
午後は、ぼんやりと過ごした。
自分の部屋に戻って、机の上のスマートフォンを手に取った。向こうで渡されていたものとは別の、七日前まで使っていた方だ。電源を入れると、通知がいくつも溜まっていた。
友達からのメッセージ。
——つむぎ大丈夫? 避難の時いなくなったって聞いて心配してる
——学校に連絡あったみたい。保護されてるって。早く帰ってきてね
——映画、帰ってくるまで待つから。一緒に行こうね
つむぎはスマートフォンを机の上に戻した。
返事を打とうとして、指が止まった。何と言えばいいのか分からなかった。「帰ってきたよ」と打てばいいだけなのに、その先に続く言葉が見つからない。
映画。一緒に行こうと約束していた映画。
行けるのだろうか。行っていいのだろうか。
明日、スバルが来る。その話が終わるまでは、何も決まっていない。
つむぎはスマートフォンをそのままにして、ベッドに横になった。天井の染みを見つめた。
うとうとしていると、階下からキッチンの音が聞こえてきた。包丁がまな板を叩く音。油の弾ける音。玉ねぎを炒める匂い。
ハンバーグだ。
母がハンバーグを作っている。
つむぎは起き上がった。時計を見ると、もう四時を過ぎていた。いつの間にか、午後が終わりかけている。
階段を降りてキッチンを覗くと、母がフライパンの前に立っていた。
「手伝おうか?」
「いいのよ、今日はつむぎが帰ってきた日なんだから。座って待ってて」
つむぎはリビングのソファに座って、テレビをぼんやり眺めた。夕方のニュースが流れている。天気予報。明日は晴れるらしい。
玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
父の声だった。
つむぎは廊下に飛び出した。
父が玄関に入ってきたところだった。スーツ姿。鞄を持ったまま。少し疲れた顔をしている。
つむぎと目が合った。
父は何も言わなかった。
鞄を靴箱の上に置いた。ネクタイを緩めた。
それから、つむぎの頭にぽんと手を置いた。
「おかえり」
それだけだった。
父は昔からそうだ。多くを語らない。心配していても口には出さない。ただ、大事な時にだけ、頭に手を置く。
その手が、少しだけ震えていた。
「……ただいま」
つむぎの声も、震えていた。
夕食は、ハンバーグだった。
母が張り切って作ったらしく、テーブルの上にはハンバーグだけでなく、サラダとコーンスープとご飯が並んでいた。
「たくさん食べてね。痩せたでしょう?」
「もー、さっきも言ったでしょ。毎日ちゃんと食べてたもん」
「でも、顔が少しすっきりした気がするわ」
母は心配そうにつむぎの顔を見ていた。
三人でテーブルにつく。
「いただきます」
声が揃った。三人の声。五人ではなく、三人。
つむぎはハンバーグにナイフを入れた。肉汁が溢れる。ソースが絡む。
口に入れた。
おいしかった。
お母さんのハンバーグの味がした。子どもの頃から食べてきた味。誕生日に作ってもらう味。テストで良い点を取った時に作ってもらう味。
変わっていなかった。七日間離れていても、この味は変わっていなかった。
「おいしい?」
「おいしい」
母が笑った。嬉しそうに、少しだけ泣きそうに、笑った。
父は黙って食べていた。でも、いつもより少しだけ食べるのが遅かった。つむぎの方をちらちらと見ている。
温かい食卓だった。
小町のカレーとは違う温かさ。ほむらの賑やかさはない。導の静かな気配もない。スバルの落ち着いた視線もない。
代わりに、母の心配と、父の不器用な視線がある。
違う温かさだった。
けれど、こちらも確かに、つむぎの帰りたかった場所だった。
食後、母がお茶を入れてくれた。
父はリビングのソファに座り、テレビをつけた。ニュースが流れている。いつもの夕方の風景。
「つむぎ、明日また鳥山さんが来るのよね。」
「うん。詳しい話をしに来てくれるって」
「……そう」
母の声が少しだけ硬くなった。
「お母さん。明日の話は、明日聞いて。今日は——」
「ええ。今日は、つむぎが帰ってきたことだけで十分よ」
母は笑った。でも、目の奥に不安があるのが分かった。
つむぎは何も言えなかった。
明日、スバルが来る。制度の説明をする。入隊のこと。訓練のこと。危険のこと。
その話を聞いた母が、どんな顔をするのか。
考えたくなかった。でも、考えないわけにはいかなかった。
◇
夜。
自分の部屋に戻った。
パジャマに着替えた。自分のパジャマ。宿舎で着ていた部屋着とは違う、使い慣れた綿の肌触り。
ベッドに横になった。
柔らかい。身体が沈む。宿舎のベッドより、ずっと柔らかい。
天井を見上げた。
知っている天井。十三年間見てきた天井。
宿舎の白い天井とは違う。こちらは少しだけ黄ばんでいて、角に小さな染みがある。小学生の時、ボールを投げて当てた跡だ。
目を閉じた。
静かだった。
宿舎では、夜になるとほむらの足音が廊下を通り過ぎていた。たまに小町がキッチンで明日の仕込みをしている音が聞こえた。
ここでは、テレビの音が階下からかすかに聞こえるだけだ。父がまだ起きているのだろう。
手のひらを開いた。
暗い部屋の中で、何も見えない。
けれど——
まだ、ある。
手のひらの熱は消えていなかった。
お母さんのハンバーグを食べた。お父さんの手が頭に乗った。自分のベッドで横になっている。
全部温かい。全部、帰りたかったもの。
でも、まだ熱は消えていない。
明日、スバルが来る。両親への説明が始まる。
その時、自分は何を言うのだろう。
「残りたい」と言えるだろうか。
この家で、この温かさの中で、母の顔を見ながら——「あっちに行きたい」と言えるだろうか。
分からない。
でも、手のひらの熱は、ここに来ても消えなかった。
今はそれだけを、確かめておこう。
つむぎは手のひらを閉じた。
自分の部屋の、自分のベッドで、七日ぶりに眠りについた。