魔法少女と廃墟の王様   作:マチュピチュ

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第十七話

 車の中で、つむぎは目隠しをされていた。

 

 黒い布が目を覆っている。視界は完全に閉ざされていた。隣にスバルが座っている気配がある。エンジンの振動が腰から伝わってくる。

 

「ごめんなさいね。施設の所在地に関わることだから」

 

「大丈夫です。……慣れました」

 

 嘘だった。慣れてはいない。ただ、七日前にも同じことをされたから、二回目だというだけだ。

 

 車が揺れる。曲がった。止まった。また動き出した。

 

 どれくらい走ったのか分からない。三十分か、一時間か。目隠しをしていると、時間の感覚がぼやける。

 

 車が止まった。

 

「ここで目隠しを外すわ」

 

 スバルが布を解いてくれた。

 

 光が目に入った。思わず目を細める。

 

 窓の外に、見慣れた風景があった。

 

 商店街の角。八百屋の看板。パン屋の前に置かれたベンチ。自転車置き場の錆びたフェンス。

 

 知っている場所だった。

 

 家から五分くらいの、いつも通る道。

 

「ここから歩けるかしら?」

 

「……はい」

 

 車を降りた。

 

 足の下がアスファルトだった。施設と同じアスファルト。けれど、匂いが違う。排気ガスと、パン屋から漂う焼きたての匂いと、五月の街路樹の青い匂い。

 

 つむぎは、七日ぶりに自分の街を歩いた。

 

 何も変わっていなかった。

 

 商店街は普通に営業していて、自転車に乗った主婦が通り過ぎていく。小学生がランドセルを背負って走っている。犬の散歩をしているおじさんがいる。

 

 当たり前だ。七日間で街が変わるわけがない。禍群が出た地域はもっと先で、このあたりには被害はなかった。

 

 変わったのは、つむぎの方だった。

 

 同じ道を歩いている。同じ景色を見ている。けれど、七日前とは違う目で見ている。あの日は学校の帰り道で、友達と映画の話をしていた。今は、スバルと並んで歩いている。

 

 角を曲がると、自分の家が見えた。

 

 二階建ての一軒家。白い壁と茶色い屋根。小さな庭に、母が植えた紫陽花が咲き始めていた。

 

 玄関の前に立った。

 

 ここだ。

 

 ここが、つむぎの家だ。

 

 七日間、ずっと帰りたかった場所。お母さんのハンバーグがある場所。お父さんの不器用な心配がある場所。自分の部屋がある場所。

 

 手が震えた。インターホンを押す指が、うまく動かない。

 

 スバルが隣に立っている。何も言わない。待ってくれている。

 

 つむぎはインターホンに手を伸ばし——やめた。

 

 代わりに、ドアノブに手をかけた。

 

 鍵は、開いていた。母が待っていたのだろう。いつでも迎えられるように。

 

 玄関の扉を開けると、家の中の匂いがした。

 

 洗剤の匂い。畳の匂い。微かに漂う、料理の匂い。

 

 七日間、嗅いでいなかった匂い。けれど、身体が覚えている匂い。十三年間、毎日嗅いでいた匂い。

 

 廊下の奥から、足音が聞こえた。

 

 早い。ばたばたと、転びそうなほど早い足音。

 

「つむぎ——!」

 

 母が走ってきた。

 

 エプロンをつけたまま、スリッパを片方脱ぎかけたまま、顔をくしゃくしゃにして走ってきた。

 

 そして、つむぎを抱きしめた。

 

 強かった。痛いくらいに、強かった。

 

 母の腕がつむぎの背中に回り、頭を胸に押しつける。母の心臓の音が聞こえた。ばくばくと、早い鼓動。

 

「つむぎ……つむぎ……!」

 

 母が泣いていた。声を出して泣いていた。

 

「よかった……帰ってきた……よかった……!」

 

 つむぎも泣いていた。

 

 母の匂いがした。洗剤と、料理と、少しだけ汗の匂い。家の匂いだった。お母さんの匂いだった。

 

「ごめんね、お母さん。遅くなっちゃって」

 

「いいの。いいのよ。帰ってきてくれたんだから」

 

 母はつむぎの肩を掴み、少し離れてつむぎの顔を見た。目が赤い。頬が濡れている。でも、笑っていた。

 

「痩せた? ちゃんとご飯食べてた?」

 

「食べてたよ。おいしいご飯作ってくれる人がいたから」

 

「そう……そう、よかった……」

 

 母はもう一度つむぎを抱きしめた。

 

 スバルが玄関の外に立っていた。

 

 母がスバルに気づいた。

 

「あ……あなたが、鳥山さん?」

 

「ええ。お電話でお話しした鳥山スバルです。守宮…いえ、つむぎさんを無事に送り届けにまいりました」

 

「ありがとうございます。本当にありがとうございます……どうぞ、上がってください、お茶だけでも……」

 

「ありがとうございます。でも、今日はご家族の時間を優先してください。詳しい説明は、明日改めてさせていただきますので」

 

 スバルは静かに頭を下げた。

 

 つむぎに目を向ける。

 

「つむぎさん。今日はゆっくりと休んでちょうだい」

 

「……はい。ありがとうございます」

 

 スバルは小さく頷き、踵を返した。

 

 玄関の扉が閉まる。

 

 スバルの足音が遠ざかっていく。

 

 つむぎは靴を脱いだ。

 

 家に上がった。

 

 廊下を歩く。自分の家の廊下。壁に掛かった家族写真。下駄箱の上に置かれた父の鍵入れ。リビングへ続く引き戸。

 

 全部、同じだった。七日前と何も変わっていない。

 

 リビングに入ると、テーブルの上に見慣れない花が飾ってあった。小さな花瓶に、黄色い花。

 

 母がつむぎの帰りのために飾ったのだと分かった。

 

「お父さんは?」

 

「日が暮れる前には帰ってくるわ。今日は早く上がるって連絡があったの」

 

「……お母さん、泣いてるよ」

 

「泣いてないわよ」

 

 泣いていた。母はエプロンで顔を拭きながら、キッチンへ歩いていった。

 

「つむぎ、今夜はハンバーグよ。約束したでしょう?」

 

 ハンバーグ。

 

 電話の時に約束した、ハンバーグ。

 

「そうだ、朝ごはんは食べた? それとも、すこしお部屋で休む?」

 

「うん、食べたよ。ちょっと部屋、見てきていい?」

 

「もちろんよ。お掃除はしたけど、できるだけそのままにしてあるから」

 

 つむぎは階段を上がった。

 

 二階の廊下。自分の部屋のドア。ドアに貼ってある、小学校の図工の授業で作ったネームプレート。「つむぎの部屋」と、少し歪んだ字で書いてある。

 

 ドアを開けた。

 

 

 ◇

 

 

 何も変わっていなかった。

 

 ベッド。机。本棚。クローゼット。窓際に置いた小さなサボテン。机の上のペン立て。壁に貼ったアイドルのポスター。

 

 全部、七日前のままだった。

 

 ベッドのシーツは洗ってあった。母が替えてくれたのだろう。枕カバーも新しくなっている。

 

 つむぎはベッドに座った。

 

 柔らかかった。宿舎の簡素なベッドとは違う、使い慣れた柔らかさ。身体が沈み込む。このベッドの形を、身体がまだ覚えていた。

 

 机の上を見た。出しっぱなしのノート。予習の途中だったのだろう、数学のページが開いたままだった。

 

 七日前の自分が座っていた場所。七日前の自分が勉強していた内容。

 

 窓の外を見た。

 

 住宅街の屋根が並んでいる。電線。遠くに見える公園の木。夕方の空。

 

 宿舎の窓からは訓練場が見えた。ここからは、隣の家の屋根が見える。

 

 違う景色だった。でも、同じ空だった。

 

 だけどここは、お母さんの匂いがする。自分のベッドがある。階下から母が動く気配が伝わってくる。

 

 温かい。

 

 ここも、温かい。

 

 宿舎とは違う温かさ。十三年間積み上げてきた温かさ。

 

 ——この温かさの中にいたら、あっちの温かさを忘れてしまうのだろうか。

 

 分からない。

 

 まだ、分からない。

 

 

 ◇

 

 

 部屋を出て階段を降りると、母がリビングのテーブルにお茶とお菓子を並べていた。

 

「おいで。ゆっくり話しましょう」

 

 つむぎは母の向かいに座った。

 

 母は色々なことを聞いた。ご飯は何を食べていたのか。眠れていたのか。怪我はもう痛くないのか。一緒にいたのはどんな人たちだったのか。

 

 つむぎは答えられる範囲で答えた。おいしいご飯を作ってくれる人がいたこと。同い年くらいの女の子がいて仲良くなったこと。毎朝走っていたこと。

 

 施設の場所や、魔法少女のことや、契約のことは、まだ話せなかった。それは明日、スバルが来てからの話だ。

 

 母は追及しなかった。ただ、つむぎの顔を何度も見て、「元気そうでよかった」と繰り返した。

 

 昼食は、母が慌てて作った焼きそばだった。冷蔵庫にあるものでぱぱっと作った、いつもの味。キャベツが多くて、ソースが少し濃い。

 

「ごめんね、ちゃんとしたもの用意できなくて。夕飯はハンバーグだから、お昼は簡単に」

 

「ううん。おいしいよ」

 

 おいしかった。小町の料理とは全然違う。丁寧さも盛り付けも違う。でも、これが母の味だった。

 

 午後は、ぼんやりと過ごした。

 

 自分の部屋に戻って、机の上のスマートフォンを手に取った。向こうで渡されていたものとは別の、七日前まで使っていた方だ。電源を入れると、通知がいくつも溜まっていた。

 

 友達からのメッセージ。

 

 ——つむぎ大丈夫? 避難の時いなくなったって聞いて心配してる

 ——学校に連絡あったみたい。保護されてるって。早く帰ってきてね

 ——映画、帰ってくるまで待つから。一緒に行こうね

 

 つむぎはスマートフォンを机の上に戻した。

 

 返事を打とうとして、指が止まった。何と言えばいいのか分からなかった。「帰ってきたよ」と打てばいいだけなのに、その先に続く言葉が見つからない。

 

 映画。一緒に行こうと約束していた映画。

 

 行けるのだろうか。行っていいのだろうか。

 

 明日、スバルが来る。その話が終わるまでは、何も決まっていない。

 

 つむぎはスマートフォンをそのままにして、ベッドに横になった。天井の染みを見つめた。

 

 うとうとしていると、階下からキッチンの音が聞こえてきた。包丁がまな板を叩く音。油の弾ける音。玉ねぎを炒める匂い。

 

 ハンバーグだ。

 

 母がハンバーグを作っている。

 

 つむぎは起き上がった。時計を見ると、もう四時を過ぎていた。いつの間にか、午後が終わりかけている。

 

 階段を降りてキッチンを覗くと、母がフライパンの前に立っていた。

 

「手伝おうか?」

 

「いいのよ、今日はつむぎが帰ってきた日なんだから。座って待ってて」

 

 つむぎはリビングのソファに座って、テレビをぼんやり眺めた。夕方のニュースが流れている。天気予報。明日は晴れるらしい。

 

 玄関のドアが開く音がした。

 

「ただいま」

 

 父の声だった。

 

 つむぎは廊下に飛び出した。

 

 父が玄関に入ってきたところだった。スーツ姿。鞄を持ったまま。少し疲れた顔をしている。

 

 つむぎと目が合った。

 

 父は何も言わなかった。

 

 鞄を靴箱の上に置いた。ネクタイを緩めた。

 

 それから、つむぎの頭にぽんと手を置いた。

 

「おかえり」

 

 それだけだった。

 

 父は昔からそうだ。多くを語らない。心配していても口には出さない。ただ、大事な時にだけ、頭に手を置く。

 

 その手が、少しだけ震えていた。

 

「……ただいま」

 

 つむぎの声も、震えていた。

 

 夕食は、ハンバーグだった。

 

 母が張り切って作ったらしく、テーブルの上にはハンバーグだけでなく、サラダとコーンスープとご飯が並んでいた。

 

「たくさん食べてね。痩せたでしょう?」

 

「もー、さっきも言ったでしょ。毎日ちゃんと食べてたもん」

 

「でも、顔が少しすっきりした気がするわ」

 

 母は心配そうにつむぎの顔を見ていた。

 

 三人でテーブルにつく。

 

「いただきます」

 

 声が揃った。三人の声。五人ではなく、三人。

 

 つむぎはハンバーグにナイフを入れた。肉汁が溢れる。ソースが絡む。

 

 口に入れた。

 

 おいしかった。

 

 お母さんのハンバーグの味がした。子どもの頃から食べてきた味。誕生日に作ってもらう味。テストで良い点を取った時に作ってもらう味。

 

 変わっていなかった。七日間離れていても、この味は変わっていなかった。

 

「おいしい?」

 

「おいしい」

 

 母が笑った。嬉しそうに、少しだけ泣きそうに、笑った。

 

 父は黙って食べていた。でも、いつもより少しだけ食べるのが遅かった。つむぎの方をちらちらと見ている。

 

 温かい食卓だった。

 

 小町のカレーとは違う温かさ。ほむらの賑やかさはない。導の静かな気配もない。スバルの落ち着いた視線もない。

 

 代わりに、母の心配と、父の不器用な視線がある。

 

 違う温かさだった。

 

 けれど、こちらも確かに、つむぎの帰りたかった場所だった。

 

 食後、母がお茶を入れてくれた。

 

 父はリビングのソファに座り、テレビをつけた。ニュースが流れている。いつもの夕方の風景。

 

「つむぎ、明日また鳥山さんが来るのよね。」

 

「うん。詳しい話をしに来てくれるって」

 

「……そう」

 

 母の声が少しだけ硬くなった。

 

「お母さん。明日の話は、明日聞いて。今日は——」

 

「ええ。今日は、つむぎが帰ってきたことだけで十分よ」

 

 母は笑った。でも、目の奥に不安があるのが分かった。

 

 つむぎは何も言えなかった。

 

 明日、スバルが来る。制度の説明をする。入隊のこと。訓練のこと。危険のこと。

 

 その話を聞いた母が、どんな顔をするのか。

 

 考えたくなかった。でも、考えないわけにはいかなかった。

 

 

 ◇

 

 

 夜。

 

 自分の部屋に戻った。

 

 パジャマに着替えた。自分のパジャマ。宿舎で着ていた部屋着とは違う、使い慣れた綿の肌触り。

 

 ベッドに横になった。

 

 柔らかい。身体が沈む。宿舎のベッドより、ずっと柔らかい。

 

 天井を見上げた。

 

 知っている天井。十三年間見てきた天井。

 

 宿舎の白い天井とは違う。こちらは少しだけ黄ばんでいて、角に小さな染みがある。小学生の時、ボールを投げて当てた跡だ。

 

 目を閉じた。

 

 静かだった。

 

 宿舎では、夜になるとほむらの足音が廊下を通り過ぎていた。たまに小町がキッチンで明日の仕込みをしている音が聞こえた。

 

 ここでは、テレビの音が階下からかすかに聞こえるだけだ。父がまだ起きているのだろう。

 

 手のひらを開いた。

 

 暗い部屋の中で、何も見えない。

 

 けれど——

 

 まだ、ある。

 

 手のひらの熱は消えていなかった。

 

 お母さんのハンバーグを食べた。お父さんの手が頭に乗った。自分のベッドで横になっている。

 

 全部温かい。全部、帰りたかったもの。

 

 でも、まだ熱は消えていない。

 

 明日、スバルが来る。両親への説明が始まる。

 

 その時、自分は何を言うのだろう。

 

 「残りたい」と言えるだろうか。

 

 この家で、この温かさの中で、母の顔を見ながら——「あっちに行きたい」と言えるだろうか。

 

 分からない。

 

 でも、手のひらの熱は、ここに来ても消えなかった。

 

 今はそれだけを、確かめておこう。

 

 つむぎは手のひらを閉じた。

 

 自分の部屋の、自分のベッドで、七日ぶりに眠りについた。

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