魔法少女と廃墟の王様 作:マチュピチュ
翌朝、つむぎは自分のベッドで目を覚ました。
一瞬、宿舎にいるのかと思った。白い天井を探して目を動かし、見慣れた染みを見つけて、ここが自分の部屋だと思い出した。
時計を見る。七時過ぎ。宿舎にいた頃より遅い。あちらでは毎朝六時前に起きていた。走るために。
階段を降りると、母がキッチンに立っていた。
「おはよう、つむぎ。よく眠れた?」
「うん。ぐっすり」
「そう、よかった。朝ごはん、もうすぐできるわよ」
母が作ってくれたのは、目玉焼きと味噌汁とご飯だった。
味噌汁を一口飲んだ。
母の味噌汁だった。自分が宿舎で作っていたものとは出汁の取り方が違う。少し甘い。昔からこの味だった。
父はもう出勤していた。今日の午後、早退して戻ってくる予定になっている。スバルが来るのは午後一時。それまでに、父も帰ってくる。
「つむぎ」
「ん?」
「今日の話について聞かせてくれないかしら?」
母の声は、普段通りだった。平静を保とうとしていた。でも、箸を持つ手が少しだけ震えていた。
「……全部、鳥山さんが来てから話すよ。私の口からだと、うまく説明できないから」
「そう……」
母はそれ以上聞かなかった。
午前中はあっという間に過ぎた。何をしても落ち着かなかった。
十二時半。玄関のドアが開く音がした。父が帰ってきた。スーツの上着を脱いで、リビングのソファに座った。母がお茶を入れている。二人とも無言だった。
午後一時。
インターホンが鳴った。
守宮家を訪れたスバルは片手に鞄を一つ持っていた。
「お邪魔します」
スバルはリビングに通された。
テーブルの片側に父と母が並んで座り、向かいにスバルが座った。つむぎはスバルの隣に座ろうとして——やめた。
どちらの隣にも座れなかった。
結局、父母とスバルの間になる位置に、椅子を持ってきて座った。
「改めまして。陸上自衛隊東部方面対禍群特別戦闘部隊、第一分隊長の鳥山スバルと申します」
スバルが名刺を差し出した。父が受け取った。
「守宮拓也です。妻の、」
「守宮光です。先日はお電話で……」
「ええ。その節はご心配をおかけしました」
スバルの声は穏やかだったが、宿舎で聞くそれとは違った。少しだけ硬い。仕事の声だった。
「本日は、つむぎさんの今後について、ご説明にまいりました。お時間をいただけますか」
「はい」
父が短く答えた。母は頷いただけだった。
スバルは鞄から書類を取り出し、テーブルの上に並べた。
「まず前提として、
「禍群は、三十年前に当時の首都圏、現在の東京及びその周辺地域へ壊滅的な被害をもたらした存在です。通常の銃火器では完全な対処が難しく、現在は妖精と契約した魔法少女が対禍群戦の中心を担っています」
スバルは書類を一枚示した。
「それを踏まえて、つむぎさんご本人に関わる部分を説明させてください」
スバルは説明した。つむぎが禍群の出現に遭遇したこと。避難誘導の中で列を離れ、妖精と契約を結んだこと。
そして——禍群と直接戦闘を行ったこと。
母の顔が変わったのは、そこだった。
「戦った……? つむぎが……?」
「はい。避難民を守るためにシールドを展開し、負傷しました」
「負傷って……」
母がつむぎの方を見た。目が大きく開いている。
「つむぎ、怪我って避難中の事故とかじゃなかったの? あなた、戦ったの?」
「……うん。攻撃を受けた時に腕を痛めたのと、あと全身に負担がかかったりして。でも、もう治ったよ」
「治ったって……!」
母の声が震えた。
父は黙っていた。名刺を持ったまま、スバルの話を聞いている。表情はほとんど変わらない。けれど、名刺を持つ指の力が少しだけ強くなっていた。
「その後、つむぎさんは私たちの施設で保護され、検査と経過観察を受けました。この七日間は、その期間です」
「わかりました……今日のお話はこれで以上ですか?」
母が聞いた。声を抑えようとしているのが分かった。
「いいえ、本題はこれからです」
スバルは一呼吸置いた。
「つむぎさんから、入隊の希望が出ています」
リビングの空気が変わった。
母の目が見開かれた。父の手が、名刺の上で止まった。
「入隊……?」
「はい。つむぎさん本人が、訓練を受けたいと意思を表明しました。ただし、入隊には保護者の同意が必要です。本人の意思だけでは手続きを進められません」
「待ってください」
母が口を開いた。声が固かった。
「うちの子は十三歳です。十三歳の子どもが、戦うなんて……」
「おっしゃる通りです。十三歳の子どもを戦場に出すことについて、私たちも軽く考えてはいません」
「おっしゃる通りなら、どうしてこの子にそんな選択をさせるんですか」
母の声に、怒りが滲んでいた。スバルへの敵意ではない。状況そのものへの怒りだった。
「魔法少女が、立派なことをしているのは知っています。テレビでも見るし、ポスターとかも出てます。みんな感謝しているということも分かっています」
母は震える声で続けた。
「でも……だからって、うちの子が戦うことを、立派だからって喜べるわけがないじゃないですか」
スバルは黙って聞いていた。否定も肯定もしなかった。
「お気持ちは、よく分かります」
スバルの声は静かだった。
「入隊を強制しているわけではありません。入隊しないという選択も、正式な選択です。その場合についても、きちんとご説明します」
「お母さん」
つむぎが口を挟んだ。
母がつむぎを見た。目が潤んでいた。
「お母さん、最後まで聞いて。お願い」
母は口をつぐんだ。唇を噛んでいた。
スバルが続けた。
「入隊した場合の生活について説明させてください。住居・教育・医療・生活費は全て国が保障します。施設内に学校があり、義務教育は継続されます」
スバルは書類を一枚ずつ示しながら話した。
訓練の内容。基礎体力、魔法制御、戦術、救護。段階的に進み、実戦に出るまでには相応の期間がかかること。
任務について。出撃命令が出た場合は従わなければならないこと。ただし、訓練が十分でない隊員を無理に前線には出さないこと。
危険性について。禍群との戦闘には負傷や、最悪の場合、命の危険があること。
「命の危険……」
母の声が、掠れた。
「隠すつもりはありません。私たちの仕事には、危険が伴います」
スバルの声は静かだったが、逸らさなかった。
「ただし、これだけはお伝えしなければなりません。つむぎさんは、すでに妖精と契約しています。入隊するかどうかに関わらず、この事実は消えません」
「契約は……解除できないんですか?」
「人間側からは解除できません。妖精に申し出ることはできますが、応じるかどうかは妖精の判断です」
「だから入隊しろと……?」
「いいえ」
スバルはすぐに首を振った。
「入隊しない選択も、正式な選択です。ですが、入隊しない場合に残るものも、隠すべきではないと思っています」
「入隊しなかった場合は?」
父が口を開いた。低い、静かな声だった。
「保護観察対象として登録され、通常の生活に戻ります。定期検査と報告、魔法使用に関する制限は残りますが、任務に出ることはありません」
「訓練は?」
「本格的な戦闘訓練は受けられません。ただし、暴発や事故を防ぐための最低限の制御指導は行います」
「それで、この子の中にある力は扱えるようになるんですか」
「……扱える、とまでは言えません」
スバルは少しだけ間を置いた。
「日常生活を送るための指導と、自分の力として制御するための訓練は別のものです」
「……それと、これはまだ研究段階の話ですが、契約者は禍群に反応されやすい傾向があるとされています」
「それは……入隊しなければ危ない、ということですか」
「危険がゼロではない、ということです。だからこそ、入隊しない場合でも定期検査と最低限の制御指導が必要になります」
「……どちらにせよ危険があるのなら同じじゃないですか」
父が低い声で言った。
「魔法少女として活動することは、世間では名誉なことなんでしょう。ええ、人を守る仕事だということも分かります。ですが、親としては別です。娘が危険な場所に行くと聞いて、誇らしいとは、すぐには思えません」
「それが自然な反応だと思います」
スバルは静かに答えた。
「私たちはお二人がどちらの選択肢を選ばれても、その選択を尊重します」
長い沈黙があった。
母はずっと俯いている。肩が小さく震えていた。
スバルが言った。
「制度としての説明は以上です。ここからは——」
スバルがつむぎの方を見た。
「つむぎさん。ここからは、あなたの言葉で話して」
◇
つむぎは立ち上がった。
父母とスバルの間に座っていた椅子から立って、父と母の方を向いた。
母が、つむぎを見ている。泣きそうな顔をしている。
父が、つむぎを見ている。膝の上の拳が握られていた。
「うまく言えないんだけど」
つむぎは手を握った。
「実際に戦ってわかった。すごい怖い。戦った時に感じた怖さのせいで、まだシールドもちゃんと出せない」
母の顔が歪んだ。
「でも、手の中の熱が消えてくれない。ここに帰ってきても、なくならなかった」
つむぎは手のひらを開いた。
「お母さんのハンバーグを食べて、お父さんに頭を撫でてもらって、自分のベッドで寝て。全部、温かいものだったのに」
声が震えた。
「それでも、消えなかった」
何も見えない手のひらを、つむぎは見つめた。
「だから、この熱に気づかないふりをして暮らすのは、たぶん、できないと思う」
母の目から涙がこぼれた。
「戻りたい。あっちに戻って、ちゃんと訓練を受けたい」
「これは、わがままなのかもしれない。誰かを守りますって、胸を張って言えるほど強い理由じゃないのも分かってる」
つむぎは手を握った。
「もしかしたら、入ってから後悔することもあるかもしれない。でも、入らなかったら、私はきっとずっと後悔する」
母の顔が滲んで見えた。
「だから……私が後悔しないでいられるように、このわがままを、認めてください」
母が泣いていた。声を殺して、泣いていた。
父は黙っていた。つむぎの顔を見ていた。
長い沈黙が落ちた。
リビングの時計が、秒針を刻む音だけが聞こえていた。
「世間の人は、きっと立派だって言うんでしょうね」
母が書類を見つめたまま言った。
「人を守るんだから、応援するべきだって。誇りに思うべきだって」
声が震えていた。
「でも、私は……私は、つむぎに危ないことをしてほしくないの」
つむぎの胸が痛んだ。
「……ごめんなさい、お母さん」
「謝らないでよ……」
母が顔を覆った。
しばらく、誰も何も言えなかった。
「……今すぐ、返事をしなければなりませんか」
父がスバルに聞いた。
「いいえ。すぐにとは言いません」
「一日ください。明日の朝までに、答えを出します」
父の声は静かだった。けれど、動かない声だった。
スバルは頷いた。
「分かりました。では、明日の午前中に改めてお電話します」
スバルが立ち上がった。書類をテーブルの上に残したまま。
「こちらの書類は、お手元に置いてください。ご夫婦で目を通していただければ」
「ありがとうございます」
父が立ち上がり、スバルを玄関まで送った。
つむぎとスバルの目が合った。
スバルは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
それだけで十分だった。
玄関の扉が閉まった。
リビングに、三人が残された。
母はまだ泣いていた。テーブルの上の書類を見つめている。
父はソファに戻り、腕を組んだ。天井を見上げている。
つむぎは自分の椅子に座ったまま、何も言えなかった。
言った。
言うべきことは、言った。
あとは——待つしかない。
リビングの時計が、静かに時を刻んでいた。