魔法少女と廃墟の王様 作:マチュピチュ
「貴女は……?」
つむぎの声は掠れていた。
少女は答えない。振り向きもしない。白いワンピースの裾を風に揺らしながら、瓦礫の上を裸足で歩き始めた。足元に迷いはなかった。
先ほどまでつむぎにのしかかっていた
それでも動きは止まっていない。
霧の中から四つの目が浮かび上がった。崩れかけた身体を無理やりつなぎ合わせるように、黒い粒子が寄り集まっていく。
『まだ奴は活動を停止していない』
妖精の声に、つむぎは息を呑んだ。
「危ない……!」
声を上げても、少女は足を止めなかった。
禍群が少女を新たな脅威と認識したのか、黒い霧が激しく波打った。
すると、住宅街に散っていた禍群の破片が集まり始める。家屋の壁に張りついていたもの、道路のひび割れに沈んでいたもの。つむぎと戦っていた時は体高二メートルほどの犬の形だったが、今は全てが一つに凝縮され、十メートル近い流動体となった。
黒い壁のようなそれが、少女の前に立ちはだかる。
少女は構えを取らなかった。
防御する様子もない。魔法を準備しているようにも見えない。
ただ散歩でもしているかのように、真っ直ぐ禍群へ近づいていく。
「何してるの……?」
つむぎの喉から声が漏れた。
あれがどれほど危険なのか、この少女には分かっていないのだろうか。自分はシールドを使っても受け止めるだけで精一杯だった。腕はすでに上がらず、身体にはあの重さの記憶がこびりついている。
何の備えもなく近づく少女の姿は、勇敢というより無謀に見えた。
禍群が波打つように震えた。
次の瞬間、無数の触手が少女へ殺到する。
「避けて!」
つむぎが叫んだ。
少女は避けなかった。
ただ右腕を持ち上げる。
気づいた時には、伸びていた触手の全てが消え失せていた。
少女の右手だけが、平手打ちを終えたように振り抜かれている。
黒い流動体は何が起きたのか理解できないように、その場で動きを止める。
しかし、少女は足を止めなかった。
十メートル近くまで膨れ上がった黒い塊の前まで歩み寄ると、軽く片足を引く。
まるで道端のボールでも蹴るような、あまりにも無造作な動きだった。
次の瞬間、その巨体がつむぎの視界から消えた。
そして、少女は足を上げていた。
『上だ』
妖精の声につむぎが空を見上げると、ビルよりも高い位置に黒い塊が浮かんでいる。まるで瞬間移動をしたように、巨大な流動体が空中に投げ出されていた。
そして、ぶるぶると震えたかと思うと、花火のような轟音を立てて弾け飛んだ。
近くの窓ガラスが細かく震え、地面に積もっていた砂埃が円を描くように舞い上がる。
つむぎは何が起きたのか理解できなかった。
「……消えた?」
『ああ、対象の反応消失を確認した』
妖精の声にも、わずかな戸惑いが混じっていた。
「今の、何をしたの?」
『不明だ』
「妖精さんにも分からないの?」
『少なくとも、一般的な魔法の発動手順には見えなかった』
つむぎは少女の細い身体を見つめた。
武器はない。特別な道具も持っていない。
ただ手を振り、足を上げただけだった。それだけで、自分が何度攻撃しても再生した相手を消してしまった。
少女は何事もなかったように足を下ろした。達成感も、安堵も、その顔には浮かんでいない。道端の小石を蹴り除けたような、あまりにも自然な振る舞いだった。
「……あ、ありがとう。助けてくれて」
ようやく絞り出した声に、少女が初めて振り返った。
正面から見ると、やはりつむぎよりも幼く見える。整った顔立ちに、長いプラチナブロンドの髪と白い肌。まるで人形のようだった。
けれど、暗い色をした瞳だけが妙に冷たかった。
「運が良かったですね」
少女は静かに言った。鈴が鳴るような声だった。
「次からは、ご自分の実力を考えて動いてください」
慰めでも叱責でもなかった。ただ事実だけを告げている。
つむぎは言葉を返せなかった。
助かった。本来なら、まずそう思うべきだった。少女が来なければ自分は間違いなく死んでいた。骨を砕かれ、肉を食われ、最後には禍群の一部にされていたかもしれない。
けれど安堵より先に、悔しさが胸の奥を刺した。
自分は街を守るためにここへ来たはずだった。見て見ぬふりをしたくなかった。自分にも何かできると思った。
それなのに、何ひとつ倒せなかった。家屋から引き剥がすこともできず、最後には死を覚悟して目を閉じた。結局、自分がしたことは時間を稼いだだけだ。それすら、少女が来なければ何の意味もなかったのかもしれない。
つむぎは震える手を地面についた。
「待って……」
もう一度礼を言おうとした。せめて名前だけでも聞きたかった。
けれど顔を上げた時には、少女の姿は掻き消えていた。土埃の向こうにも、瓦礫の陰にもいない。まるで最初からそこにいなかったかのように、荒れた街並みだけが残されていた。
『彼女は一体……』
「あの子の目……どこかで見た気がする」
つむぎは少女が立っていた場所を見つめたまま呟いた。
「あれは……」
そこまで言って、口を閉じた。
冷たいというより、誰も映していないような目だった。あの目だけが妙に頭から離れなかった。
『つむぎ、大丈夫か?』
「……うん、大丈夫」
反射的にそう答えた。
立ち上がろうとして地面へ手をつく。だが、腕に力が入らなかった。
「うわっ……」
体勢が崩れ、そのまま地面へ倒れかける。慌てて身体を支えようとしたものの、今度は足が震えた。
戦っている間は気づかなかった。指先が冷たい。肩が焼けるように痛む。膝にはまったく力が入らない。
身体の奥に溜まっていた恐怖と疲労が、今になって一気に噴き出してきたようだった。
「ちょっとだけ……座ってようかな」
『その方がいい。君の肉体には強い疲労が見られる』
つむぎは瓦礫へ背中を預けた。
その瞬間、砕ける直前のシールドが頭に浮かんだ。ガリガリと表面を削る音。すぐ目の前にあった四つの目。何度息を吸っても空気が入ってこなかった苦しさ。
「うっ……」
胃の奥から何かがこみ上げる。つむぎは口元を押さえ、身体を丸めた。吐くことはなかったが、何度か乾いた咳が漏れた。
『つむぎ』
「大丈夫、大丈夫だから」
『君は先ほどから、そればかり言っている』
「だって、大丈夫じゃなかったら困るでしょ」
笑ってみせようとした。だが声は震え、頬もうまく動かなかった。
つむぎは自分の胸元に手を当てた。心臓が速い。けれど、きちんと動いている。首に触れる。腕に触れる。脚を見る。全部、まだついている。
自分は生きている。
それを確かめて、ようやく少しだけ息を吐けた。
「妖精さんこそ怪我はない?」
『私は今、君と同化している状態だからな。君の肉体が無事であるなら、私も無事だ』
「そっか。ならよかった」
『しかし、精神はそうはいかない』
妖精の声がわずかに真剣味を帯びた。
『少しでも辛いことがあれば言ってほしい。今の君は、自分で考えている以上に動揺している可能性がある』
「大丈夫、大丈夫。まあ、正直死ぬかとは思ったけどね」
軽く笑ってみせたつもりだった。けれど、その声はやはり震えていた。
つむぎは誤魔化すように空を見上げた。五月の空は青く澄み渡っている。つい先ほどまで死にかけていたことが嘘のような、穏やかな空だった。
「ねえ、妖精さん」
『なんだ?』
「あの子、何者なんだろう」
『不明だ。周囲に残った魔力を確認しているが、通常の魔法少女とは性質が異なる』
「異なるって?」
『通常、魔法を使えばその性質を帯びた魔力が痕跡として残る。だが、彼女のものにはそれがほとんどない』
「どういうこと?」
『魔法を使ったのではなく、純粋な魔力を手足に纏わせて攻撃しただけに見えるということだ』
「それだけ?」
『それだけだ。だが、手足に纏っていた魔力の量が異常だった。しかも、制御している様子もない』
「制御?」
『彼女の周囲には、燐光のようなものが漂っていただろう。あれは、身体から溢れた魔力が使われることなく拡散していたものだ』
妖精はわずかに間を置いた。
『湯水のように魔力を放出しながら、あれほどの出力を維持できるのであれば、保有している総量も相当なものだと思われる』
「そんなにすごいの?」
『すごいというより、なぜそのような非効率な戦い方をするのか、私には理解できない。あれほどの魔力を持つのであれば、何らかの魔法を使った方が効率よく戦えるはずだ』
つむぎは少女が消えた方角を見た。
あれほどの力を持っているのに、少女は少しも誇らしげではなかった。強いから戦う。敵だから倒す。それ以外に何も必要としていないようだった。
助かった。生き残った。
けれど、自分は街を守れたのだろうか。
少女がいなければ、自分は死んでいた。それでも、自分がここに残らなければ、禍群はもっと多くの家屋を呑み込んでいたかもしれない。
守れなかったとも言い切れない。守れたとも言えない。
その答えだけは、まだどこにもなかった。
◇
つむぎの危機を救った少女は、建物の屋上に立っていた。
眼下に広がる住宅街を一度だけ見下ろし、それから足に力を込めた。
軽く踏み込んだだけで、少女の姿がその場から掻き消える。遅れて風が吹き抜け、足元のコンクリートの欠片が舞い上がった。
少女は街を駆けていた。
屋上から屋上へ。ビルの壁面を蹴り、道路や線路を一息に飛び越えていく。一度地面を蹴るたび、周囲の景色が後方へ流れた。その姿を偶然目にした者がいたとしても、白い影が通り過ぎたとしか認識できなかっただろう。
避難区域を抜けると、何事もない日常が広がっていた。車が道路を行き交い、歩道では買い物袋を下げた人々が歩いている。遠くから子どもの笑い声が聞こえてきた。
避難区域の外では、別の街で禍群が現れたことなど嘘のように、ありふれた日常が続いていた。
少女は人々の視界に入らないよう路地裏へ降り立ち、白いワンピースの裾を整えると、人気の少ない道を歩き始めた。戦いの後だというのに、その足取りに乱れはなかった。
やがて少女は、街外れに建つ荒れ果てた廃ビルの前で足を止めた。
窓ガラスは割れ、外壁はところどころ剥がれ落ちている。周囲の建物から取り残されたように、そこだけが長い間放置されていた。誰かが住む場所には見えない。
それでも少女は迷うことなく中へ入っていった。
階段には空き缶や破片が散らばっていた。手すりは赤く錆び、踏み込むたびに古い床が軋む。
三階の一室。ドア代わりに立てかけられたベニヤ板を押しのけると、そこだけは少し様子が違っていた。
古びたソファ。壁際に積まれた漫画雑誌。小さなテーブルの上に置かれた菓子袋とペットボトル。床の一角には折り畳まれた毛布が置かれ、反対側には色鮮やかなクッションや小さな鏡、充電用のコードが無造作に散らばっている。
廃墟の中の、場違いな生活感だった。
「あ、王様おかえりー」
少女を迎えたのは、もこもことした部屋着を着た少女だった。ソファに寝転がり、スマホを操作しながら片手をひらひらと振っている。テーブルの上には開封済みの菓子袋が三つ並び、足元には読みかけの雑誌が落ちていた。
「……安心院さん、だらしがないですよ」
「そんなこと言わないでよ王様ー。ぼくと王様の仲じゃん」
「どんな仲ですか……。それにしても、ここへ戻るたびに物が増えている気がするのですが」
少女--王様は部屋の隅に置かれたクッションへ目を向けた。
「全部必要だもーん」
「ソファがあるのにですか?」
「クッションに座りたい時もあるの」
「その鏡は?」
「女の子には必要でしょ」
「…雑誌は?」
「暇つぶし」
「……お菓子は?」
「非常食」
安心院は一切悪びれずに答えた。
「非常食なら、今開けてどうするんですか……」
王様は深く息を吐く。
「いつの間にか、私の物より貴女の物の方が多くなってしまいましたね」
「ちがうよー。王様の物が少なすぎるんだよー」
「まったく……なんでこんなところで暮らそうとするんですかね」
「だってー、ぼくがいないと王様さみしいでしょ?」
「そんなことはありません」
「またまたー」
安心院はスマホを置いて身体を起こす。
「そーれーにー、ぼくがいなかったら王様、ずっとそこに座ってるだけじゃん。ご飯も適当だし、寝る時も毛布一枚だし」
「私は十分満足しています」
「ぼくが嫌なの!」
王様は溜息を吐くと、部屋の隅へ歩いていった。
安心院がその背中を目で追う。
「……あれ?王様ー、服汚れてるよ」
王様は服の裾を見た。戦闘で舞い上がった土埃がわずかに残っている。
「王様が服を汚すなんて珍しいね」
「そういうこともありますよ」
「ふーん? なんかいつもと違うことでもあった?」
「いつもどおりですよ。行って、倒しただけです」
「そっかー。というか王様、いつまで変身したままなの?」
言われて、王様は自分の姿を見下ろした。
白いワンピース。細い手足。腰まで伸びたプラチナブロンドの髪。
戦闘中は何も気にならなかった。けれど、こうして生活の場へ戻ってくると、自分の身体ではないような落ち着かなさがあった。
「……そうでしたね」
王様は長い髪を軽く払った。
「戦いの後は、いつも戻るのを忘れてしまいます。安心院さん、少し目を逸らしていてください」
「はーい」
安心院は素直にスマホへ目を戻した。
王様は一度目を伏せる。
次の瞬間、眩い光が少女の身体を包んだ。
白く細い輪郭が、光の中で徐々に大きくなっていく。白いワンピースも光に溶け、黒い作業着へ形を変えていった。華奢だった肩が広がる。細い手足が太く伸びる。腰まであった髪は短くなり、柔らかかった顔の輪郭も厳しいものへ変わっていく。
床が小さく軋む。
光が収まった後、そこに立っていたのは、仁王像のように厳めしい顔をした巨漢だった。身長は二メートル近い。岩のように分厚い身体つきは、黒い作業着の上からでも隠しようがなかった。
先ほどまでの可憐な少女の面影はどこにもない。
彼の名は、金剛乱獅子。
そして、王様と呼ばれる少女の正体だった。
安心院はスマホから顔を上げ、乱獅子を見上げた。
「いつ見ても不思議だよねー。なんでこんなにでっかい男の人が、ぼくよりちっちゃい女の子に変わるんだろ」
乱獅子が面倒くさそうに眉を寄せた。
「……知るか」