魔法少女と廃墟の王様   作:マチュピチュ

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第十九話

 夜中に、声が聞こえた。

 

 階下から。リビングから。父と母の声だった。

 

 何を話しているのかは聞こえない。壁と床に遮られて、声の輪郭だけがぼんやりと届いてくる。

 

 低い声。父だ。

 

 少し高い声。母だ。途切れ途切れで、時々鼻をすする音が混じっている。

 

 時計を見ると、午前一時を過ぎていた。

 

 つむぎは布団を頭まで被った。

 

 聞きたくなかった。聞いてはいけない気がした。あの二人が今、自分のことを話している。自分が「戻りたい」と言ったことを、夫婦で話し合っている。

 

 声が止んだ。

 

 足音が聞こえた。階段を上がる音。二つの足音。寝室のドアが静かに閉まった。

 

 つむぎは布団の中で目を開けていた。

 

 眠れなかった。

 

 

 ◇

 

 

 朝。

 

 つむぎが階段を降りると、母はもうキッチンに立っていた。

 

 目が赤かった。眠れなかったのだろう。いつもより化粧が厚い。隠そうとしている。

 

「おはよう、つむぎ」

 

「……おはよう」

 

 テーブルには、ご飯と味噌汁と焼き鮭が並んでいた。それと——卵焼き。母の丸い卵焼き。

 

 父がリビングに入ってきた。普段着だった。今日は仕事を休んだらしい。

 

 三人がテーブルについた。

 

「いただきます」

 

 小さな声だった。

 

 誰も何も言わなかった。箸の音だけが聞こえる。

 

 食べ終わっても、誰も立ち上がらなかった。

 

 母がお茶を入れた。三人分。

 

 沈黙が続いた。

 

 父が、湯呑みを一口飲んだ。テーブルに戻し、口を開いた。

 

「つむぎ」

 

「……はい」

 

「昨日の夜、母さんとずっと話していた」

 

「……」

 

「二人で、色々考えた。あの書類も全部読んだ」

 

 父の声は静かだった。いつも通り、低くて、ゆっくりで、一語一語を選んで話す声だった。

 

「母さんは反対だった。今も、完全に賛成しているわけじゃない」

 

 母が俯いた。湯呑みを両手で包んでいる。

 

「俺も、正直に言えば、行かせたくない」

 

 つむぎの胸が締まった。

 

「禍群が最初に出たのは俺たちが若い頃だった。今でこそ対処可能な災害のような扱いだが、当時の混乱や恐怖は今でも覚えている」

 

「そんなものを十三歳の子どもが相手にする。どれだけ訓練があっても、保障があっても、親として喜べるわけがない」

 

「……」

 

「ただ」

 

 父は一度言葉を切った。

 

「お前が言っていた、手の中の熱。あれは嘘じゃないんだろう」

 

「……はい」

 

「知らないふりをして暮らすのは、できない。あれも本当なんだろう」

 

「……はい」

 

「なら、俺たちが止めても、お前はずっとそれを抱えて生きていくことになる」

 

 つむぎは頷いた。声が出なかった。

 

「止めることはできる。同意しなければ入隊はできない。お前を家に置いておくことはできる」

 

 父は湯呑みを見つめた。

 

「でも、そうした場合、お前は普通の顔をして学校に通いながら、手のひらの中に、消えない熱を抱え続ける」

 

「……」

 

「それは——お前にとって、幸せなのか?」

 

 つむぎは答えられなかった。

 

「お前の言った通りだと思う」

 

 父は静かに言った。

 

「入らなかったら、ずっと後悔する。お前はそう言った。……その言葉を、俺は信じることにした」

 

 母が顔を上げた。

 

「あなた……」

 

「光」

 

 父が母の方を向いた。

 

「俺たちが止めて、この子が何年も後悔し続けるのを見ているのと、送り出して心配し続けるのと。どっちも辛い。どっちも辛いなら、この子が後悔しない方を選ばせてやりたい」

 

 母の目から涙がこぼれた。

 

「……そうよね」

 

 母は震える声で言った。

 

「分かってるのよ。分かってるの。つむぎがあの顔で話してるのを見たら……止められないって、分かってるの」

 

「お母さん……」

 

「でもね、つむぎ」

 

 母がつむぎの方を向いた。泣きながら、でもまっすぐに見ていた。

 

「約束して」

 

「……何を?」

 

「生きて帰ってくること」

 

 母の声が、震えながらも、はっきりしていた。

 

「どんなことがあっても、生きることを諦めないこと。ちゃんとご飯を食べること。無理をしすぎないこと」

 

「……」

 

「それだけは、約束して。それが、私たちの条件よ」

 

 つむぎの目から涙がこぼれた。

 

「……約束する」

 

「本当に?」

 

「うん。絶対に、諦めない」

 

 母が立ち上がり、つむぎを抱きしめた。

 

 強かった。痛いくらいに。でも、震えていた。

 

「馬鹿な子ね」

 

 母がつむぎの頭に顔を押しつけて言った。

 

「十三歳で、こんなこと言い出す子なんて、聞いたことないわよ」

 

「……ごめんね」

 

「謝らないでって言ったでしょう」

 

 母の腕がゆっくりと離れた。

 

 

 ◇

 

 

 午前十時。インターホンが鳴った。

 

 スバルだった。制服姿で、鞄を持って立っていた。

 

「おはようございます。お返事をいただけると聞いて」

 

 父が玄関で迎えた。

 

「どうぞ、上がってください」

 

 リビングのテーブルに、昨日と同じ配置で座った。父と母が並び、向かいにスバル。つむぎは、今日もその間に座った。

 

 昨日の書類がテーブルの上に残っている。付箋が何枚か貼られていた。父が夜の間に確認した跡だった。

 

 父が口を開いた。

 

「同意します」

 

 短い言葉だった。けれど、父の声は昨日より少しだけ低かった。

 

「ただし、納得したわけではありません。今でも、行かせたくないと思っています」

 

 父はスバルを見た。

 

「それでも、この子の言葉を信じることにしました。この子が後悔しない方を選ぶと言うなら、親として、その選択を止めることはしません」

 

 スバルは頷いた。

 

「承知しました。では、手続きを進めさせていただきます」

 

「一つだけ」

 

 父が言った。

 

「この子を、すぐに連れていくつもりですか」

 

「いいえ。つむぎさんが準備できてからで構いません。数日お時間を取っていただいても」

 

「……つむぎ」

 

 父がつむぎの方を見た。

 

「お前、やりたいことはあるか。行く前に」

 

 つむぎは少し考えた。

 

 やりたいこと。行く前に。

 

「一個だけ……友達と映画を観に行きたい」

 

「そうか、じゃあ行ってきなさい」

 

 父はそれだけ言った。

 

 スバルが立ち上がった。

 

「では、つむぎさんの準備が整いましたら、お迎えにまいります。ご連絡をいただければ」

 

「分かりました」

 

 父がスバルを玄関まで送った。

 

 スバルが靴を履きながら、つむぎに言った。

 

「急がなくていいわ。ちゃんと楽しんできなさい」

 

「……はい」

 

 スバルが去った後、つむぎは自分の部屋に上がった。

 

 机の上のスマートフォンを手に取った。

 

 友達からのメッセージ。昨日、返事が打てなかったもの。

 

 ——映画、帰ってくるまで待つから。一緒に行こうね

 

 つむぎは指を動かした。

 

 ——ごめんね、心配かけて。帰ってきたよ。映画、明日行ける?

 

 送信した。

 

 返事はすぐに来た。

 

 ——つむぎ!!! よかった!!!! 大丈夫だったの!?

 ——明日ぜんぜん行ける!! 絶対行こう!!!

 

 つむぎはスマートフォンを握りしめた。

 

 泣きそうだった。でも笑った。

 

 

 ◇

 

 

 翌日。

 

 つむぎは友達と映画を観た。

 

 商店街の先にあるシネマコンプレックス。いつもの場所。いつもの待ち合わせ場所。

 

 友達——美咲が走ってきた。

 

「つむぎーーー!」

 

 抱きつかれた。母ほど強くはないけれど、勢いがすごかった。

 

「大丈夫だった!? 怪我は!? なんかすごい心配したんだけど!?」

 

「大丈夫だよ。もう治った」

 

「保護されてたって聞いて、何がなんだか分かんなくて」

 

「ごめんね。詳しいことはまだ言えないんだけど……色々あって、連絡できなかったの」

 

「そっかぁ、じゃ、言えるようになったら聞くよ」

 

「まったく! 心配させないでよー!」

 

 美咲は怒ったような、泣きそうな、嬉しそうな顔をしていた。

 

 映画館に入った。ポップコーンを買った。いつもの大きさ。いつもの味。

 

 席に座る。隣に美咲がいる。ポップコーンをつまみながら、予告編を見る。

 

 普通だった。

 

 何もかも、普通だった。

 

 映画が始まった。

 

 前なら何も考えずに笑って観られたはずのものだった。

 

 今も面白かった。美咲が隣で笑っていると、つむぎもちゃんと笑えた。

 

 けれど、画面の中で誰かが誰かを守るたびに、あの日の音が少しだけ頭をよぎった。

 

 現実は、こんなに綺麗には終わらない。

 

 それでも、映画が終わった時、つむぎは「面白かった」と言えた。

 

「面白かったねー!」

 

 美咲が伸びをしながら言った。

 

「うん。面白かった」

 

 つむぎも笑った。

 

 映画館を出ると、午後の陽射しが眩しかった。商店街を並んで歩く。

 

「つむぎ、もう学校来れるの?」

 

「……うん。まだしばらく、かかるかも」

 

「そっかー。早く来てよね。席、空いてるよ」

 

「……ありがとう」

 

 つむぎは少しだけ立ち止まった。

 

「美咲」

 

「ん?」

 

「今日、来てくれてありがとう」

 

「何それ、急に。当たり前じゃん」

 

「うん。……当たり前だよね」

 

 美咲が首を傾げた。

 

「つむぎ、なんか変だよ。帰ってきてから、ちょっと違う」

 

「……そう?」

 

「うん。なんか、大人っぽくなった? いや、違うな。なんだろう。分かんないけど、なんか違う」

 

 つむぎは笑った。

 

「分かんないけど、なんか違う、か」

 

「何それ。笑わないでよー」

 

「ごめんごめん」

 

 二人で笑った。

 

 商店街の角で別れた。

 

「またね、つむぎ! 学校で待ってるから!」

 

「うん。……またね」

 

 美咲が手を振りながら去っていく。

 

 つむぎはその背中を見送った。

 

 またね。

 

 いつもの別れの言葉。いつもなら、明日また学校で会える別れの言葉。

 

 今日は——次にいつ会えるか分からない言葉だった。

 

 それでも、言えた。「またね」と。

 

 つむぎは家への道を歩き始めた。

 

 

 ◇

 

 

 家に帰ると、母が台所に立っていた。

 

「つむぎ、ちょっと来て」

 

 つむぎがキッチンに行くと、母がエプロンを差し出した。

 

「おにぎり、作りましょう」

 

「おにぎり?」

 

「明日、朝早いんでしょう? 朝ごはんの分と、お昼の分。持たせてあげるわ」

 

 つむぎはエプロンを受け取った。

 

 二人で並んでキッチンに立った。

 

 母が炊いたご飯を手に取り、丸く握り始めた。梅干しを入れて、海苔を巻く。

 

「お母さんのおにぎり、やっぱり丸いね」

 

「そうよ。おばあちゃんから教わったの。守宮家のおにぎりは丸いのよ」

 

「向こうで作ってた時は三角だった」

 

「あら。誰に教わったの?」

 

「小町お姉さん。ご飯を作ってくれる人」

 

「……そう。ちゃんと面倒を見てもらってたのね」

 

「うん」

 

 母はしばらく黙っていた。

 

「丸いのと三角のと、どっちも作りましょうか」

 

「うん。丸いのはお母さんが握って。三角は私が握るよ」

 

 つむぎはご飯を手に取った。三角に握る。小町に教わった形。

 

 母が丸く握り、つむぎが三角に握る。

 

 梅干し。鮭。昆布。

 

 同じ具で、二つの形のおにぎりが皿に並んだ。

 

 丸と三角。家と、宿舎。

 

 母がそれを見て、少しだけ笑った。

 

「ちゃんと握れるようになったのね」

 

「まだちょっと固いけどね」

 

「練習すれば柔らかくなるわよ」

 

 母はおにぎりをラップで包みながら、静かに言った。

 

「帰ってきた時に、またこうして一緒に作りましょうね」

 

「……うん。約束する」

 

 帰る場所はここにある。

 

 丸いおにぎりの形をした、温かい場所。

 

 明日、ここを出て、三角のおにぎりの場所へ行く。

 

 今、目の前には、丸と三角が隣り合っている。

 

 

 ◇

 

 

 眠る前、自室に戻ったつむぎは家族写真を机の引き出しから取り出した。

 

 去年の正月に撮ったもの。父が固い顔をしていて、母が笑っていて、つむぎがピースしている。

 

 それだけでいいと思った。ほかのものは、まだこの部屋に置いておきたかった。

 

 写真を鞄にしまい、部屋の電気を消した。

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