魔法少女と廃墟の王様 作:マチュピチュ
夜中に、声が聞こえた。
階下から。リビングから。父と母の声だった。
何を話しているのかは聞こえない。壁と床に遮られて、声の輪郭だけがぼんやりと届いてくる。
低い声。父だ。
少し高い声。母だ。途切れ途切れで、時々鼻をすする音が混じっている。
時計を見ると、午前一時を過ぎていた。
つむぎは布団を頭まで被った。
聞きたくなかった。聞いてはいけない気がした。あの二人が今、自分のことを話している。自分が「戻りたい」と言ったことを、夫婦で話し合っている。
声が止んだ。
足音が聞こえた。階段を上がる音。二つの足音。寝室のドアが静かに閉まった。
つむぎは布団の中で目を開けていた。
眠れなかった。
◇
朝。
つむぎが階段を降りると、母はもうキッチンに立っていた。
目が赤かった。眠れなかったのだろう。いつもより化粧が厚い。隠そうとしている。
「おはよう、つむぎ」
「……おはよう」
テーブルには、ご飯と味噌汁と焼き鮭が並んでいた。それと——卵焼き。母の丸い卵焼き。
父がリビングに入ってきた。普段着だった。今日は仕事を休んだらしい。
三人がテーブルについた。
「いただきます」
小さな声だった。
誰も何も言わなかった。箸の音だけが聞こえる。
食べ終わっても、誰も立ち上がらなかった。
母がお茶を入れた。三人分。
沈黙が続いた。
父が、湯呑みを一口飲んだ。テーブルに戻し、口を開いた。
「つむぎ」
「……はい」
「昨日の夜、母さんとずっと話していた」
「……」
「二人で、色々考えた。あの書類も全部読んだ」
父の声は静かだった。いつも通り、低くて、ゆっくりで、一語一語を選んで話す声だった。
「母さんは反対だった。今も、完全に賛成しているわけじゃない」
母が俯いた。湯呑みを両手で包んでいる。
「俺も、正直に言えば、行かせたくない」
つむぎの胸が締まった。
「禍群が最初に出たのは俺たちが若い頃だった。今でこそ対処可能な災害のような扱いだが、当時の混乱や恐怖は今でも覚えている」
「そんなものを十三歳の子どもが相手にする。どれだけ訓練があっても、保障があっても、親として喜べるわけがない」
「……」
「ただ」
父は一度言葉を切った。
「お前が言っていた、手の中の熱。あれは嘘じゃないんだろう」
「……はい」
「知らないふりをして暮らすのは、できない。あれも本当なんだろう」
「……はい」
「なら、俺たちが止めても、お前はずっとそれを抱えて生きていくことになる」
つむぎは頷いた。声が出なかった。
「止めることはできる。同意しなければ入隊はできない。お前を家に置いておくことはできる」
父は湯呑みを見つめた。
「でも、そうした場合、お前は普通の顔をして学校に通いながら、手のひらの中に、消えない熱を抱え続ける」
「……」
「それは——お前にとって、幸せなのか?」
つむぎは答えられなかった。
「お前の言った通りだと思う」
父は静かに言った。
「入らなかったら、ずっと後悔する。お前はそう言った。……その言葉を、俺は信じることにした」
母が顔を上げた。
「あなた……」
「光」
父が母の方を向いた。
「俺たちが止めて、この子が何年も後悔し続けるのを見ているのと、送り出して心配し続けるのと。どっちも辛い。どっちも辛いなら、この子が後悔しない方を選ばせてやりたい」
母の目から涙がこぼれた。
「……そうよね」
母は震える声で言った。
「分かってるのよ。分かってるの。つむぎがあの顔で話してるのを見たら……止められないって、分かってるの」
「お母さん……」
「でもね、つむぎ」
母がつむぎの方を向いた。泣きながら、でもまっすぐに見ていた。
「約束して」
「……何を?」
「生きて帰ってくること」
母の声が、震えながらも、はっきりしていた。
「どんなことがあっても、生きることを諦めないこと。ちゃんとご飯を食べること。無理をしすぎないこと」
「……」
「それだけは、約束して。それが、私たちの条件よ」
つむぎの目から涙がこぼれた。
「……約束する」
「本当に?」
「うん。絶対に、諦めない」
母が立ち上がり、つむぎを抱きしめた。
強かった。痛いくらいに。でも、震えていた。
「馬鹿な子ね」
母がつむぎの頭に顔を押しつけて言った。
「十三歳で、こんなこと言い出す子なんて、聞いたことないわよ」
「……ごめんね」
「謝らないでって言ったでしょう」
母の腕がゆっくりと離れた。
◇
午前十時。インターホンが鳴った。
スバルだった。制服姿で、鞄を持って立っていた。
「おはようございます。お返事をいただけると聞いて」
父が玄関で迎えた。
「どうぞ、上がってください」
リビングのテーブルに、昨日と同じ配置で座った。父と母が並び、向かいにスバル。つむぎは、今日もその間に座った。
昨日の書類がテーブルの上に残っている。付箋が何枚か貼られていた。父が夜の間に確認した跡だった。
父が口を開いた。
「同意します」
短い言葉だった。けれど、父の声は昨日より少しだけ低かった。
「ただし、納得したわけではありません。今でも、行かせたくないと思っています」
父はスバルを見た。
「それでも、この子の言葉を信じることにしました。この子が後悔しない方を選ぶと言うなら、親として、その選択を止めることはしません」
スバルは頷いた。
「承知しました。では、手続きを進めさせていただきます」
「一つだけ」
父が言った。
「この子を、すぐに連れていくつもりですか」
「いいえ。つむぎさんが準備できてからで構いません。数日お時間を取っていただいても」
「……つむぎ」
父がつむぎの方を見た。
「お前、やりたいことはあるか。行く前に」
つむぎは少し考えた。
やりたいこと。行く前に。
「一個だけ……友達と映画を観に行きたい」
「そうか、じゃあ行ってきなさい」
父はそれだけ言った。
スバルが立ち上がった。
「では、つむぎさんの準備が整いましたら、お迎えにまいります。ご連絡をいただければ」
「分かりました」
父がスバルを玄関まで送った。
スバルが靴を履きながら、つむぎに言った。
「急がなくていいわ。ちゃんと楽しんできなさい」
「……はい」
スバルが去った後、つむぎは自分の部屋に上がった。
机の上のスマートフォンを手に取った。
友達からのメッセージ。昨日、返事が打てなかったもの。
——映画、帰ってくるまで待つから。一緒に行こうね
つむぎは指を動かした。
——ごめんね、心配かけて。帰ってきたよ。映画、明日行ける?
送信した。
返事はすぐに来た。
——つむぎ!!! よかった!!!! 大丈夫だったの!?
——明日ぜんぜん行ける!! 絶対行こう!!!
つむぎはスマートフォンを握りしめた。
泣きそうだった。でも笑った。
◇
翌日。
つむぎは友達と映画を観た。
商店街の先にあるシネマコンプレックス。いつもの場所。いつもの待ち合わせ場所。
友達——美咲が走ってきた。
「つむぎーーー!」
抱きつかれた。母ほど強くはないけれど、勢いがすごかった。
「大丈夫だった!? 怪我は!? なんかすごい心配したんだけど!?」
「大丈夫だよ。もう治った」
「保護されてたって聞いて、何がなんだか分かんなくて」
「ごめんね。詳しいことはまだ言えないんだけど……色々あって、連絡できなかったの」
「そっかぁ、じゃ、言えるようになったら聞くよ」
「まったく! 心配させないでよー!」
美咲は怒ったような、泣きそうな、嬉しそうな顔をしていた。
映画館に入った。ポップコーンを買った。いつもの大きさ。いつもの味。
席に座る。隣に美咲がいる。ポップコーンをつまみながら、予告編を見る。
普通だった。
何もかも、普通だった。
映画が始まった。
前なら何も考えずに笑って観られたはずのものだった。
今も面白かった。美咲が隣で笑っていると、つむぎもちゃんと笑えた。
けれど、画面の中で誰かが誰かを守るたびに、あの日の音が少しだけ頭をよぎった。
現実は、こんなに綺麗には終わらない。
それでも、映画が終わった時、つむぎは「面白かった」と言えた。
「面白かったねー!」
美咲が伸びをしながら言った。
「うん。面白かった」
つむぎも笑った。
映画館を出ると、午後の陽射しが眩しかった。商店街を並んで歩く。
「つむぎ、もう学校来れるの?」
「……うん。まだしばらく、かかるかも」
「そっかー。早く来てよね。席、空いてるよ」
「……ありがとう」
つむぎは少しだけ立ち止まった。
「美咲」
「ん?」
「今日、来てくれてありがとう」
「何それ、急に。当たり前じゃん」
「うん。……当たり前だよね」
美咲が首を傾げた。
「つむぎ、なんか変だよ。帰ってきてから、ちょっと違う」
「……そう?」
「うん。なんか、大人っぽくなった? いや、違うな。なんだろう。分かんないけど、なんか違う」
つむぎは笑った。
「分かんないけど、なんか違う、か」
「何それ。笑わないでよー」
「ごめんごめん」
二人で笑った。
商店街の角で別れた。
「またね、つむぎ! 学校で待ってるから!」
「うん。……またね」
美咲が手を振りながら去っていく。
つむぎはその背中を見送った。
またね。
いつもの別れの言葉。いつもなら、明日また学校で会える別れの言葉。
今日は——次にいつ会えるか分からない言葉だった。
それでも、言えた。「またね」と。
つむぎは家への道を歩き始めた。
◇
家に帰ると、母が台所に立っていた。
「つむぎ、ちょっと来て」
つむぎがキッチンに行くと、母がエプロンを差し出した。
「おにぎり、作りましょう」
「おにぎり?」
「明日、朝早いんでしょう? 朝ごはんの分と、お昼の分。持たせてあげるわ」
つむぎはエプロンを受け取った。
二人で並んでキッチンに立った。
母が炊いたご飯を手に取り、丸く握り始めた。梅干しを入れて、海苔を巻く。
「お母さんのおにぎり、やっぱり丸いね」
「そうよ。おばあちゃんから教わったの。守宮家のおにぎりは丸いのよ」
「向こうで作ってた時は三角だった」
「あら。誰に教わったの?」
「小町お姉さん。ご飯を作ってくれる人」
「……そう。ちゃんと面倒を見てもらってたのね」
「うん」
母はしばらく黙っていた。
「丸いのと三角のと、どっちも作りましょうか」
「うん。丸いのはお母さんが握って。三角は私が握るよ」
つむぎはご飯を手に取った。三角に握る。小町に教わった形。
母が丸く握り、つむぎが三角に握る。
梅干し。鮭。昆布。
同じ具で、二つの形のおにぎりが皿に並んだ。
丸と三角。家と、宿舎。
母がそれを見て、少しだけ笑った。
「ちゃんと握れるようになったのね」
「まだちょっと固いけどね」
「練習すれば柔らかくなるわよ」
母はおにぎりをラップで包みながら、静かに言った。
「帰ってきた時に、またこうして一緒に作りましょうね」
「……うん。約束する」
帰る場所はここにある。
丸いおにぎりの形をした、温かい場所。
明日、ここを出て、三角のおにぎりの場所へ行く。
今、目の前には、丸と三角が隣り合っている。
◇
眠る前、自室に戻ったつむぎは家族写真を机の引き出しから取り出した。
去年の正月に撮ったもの。父が固い顔をしていて、母が笑っていて、つむぎがピースしている。
それだけでいいと思った。ほかのものは、まだこの部屋に置いておきたかった。
写真を鞄にしまい、部屋の電気を消した。