一日の終わりはネルにとっても清々しいものだ。
その日の仕事をやり終えて、あとは自室に引き払って部下からの報告書を待つだけだという時間。ゆっくりと水の回廊を歩いていると、部屋の近くでフェイトと鉢合わせした。
「あ、ネルさん」
「フェイト」
いきなり出会ったというのに、フェイトは子犬のように角から走ってくると、目を細めて歯をこぼし、その柔和な笑顔にネルは思わず胸がドキリとした。
「仕事は終わりですか?」
「……ああ、まあね」
用意できなかった澄まし顔を探すように、ネルは廊下の水が流れる様子に目を落としながら、マフラーに口元を埋めた。すかざずフェイトがその顔を覗き込む。
「あ、その顔は、仕事で失敗したんですね」
「なんでそうなるんだい!」
フェイトが冗談っぽく笑うと、不意打ちをくらったネルの胸はますます高鳴りそうで、自分を抑えるように両手に拳を作った。
フェイトは優しげな笑顔を湛えたまま、ネルの部屋の隣の自室を指し示した。
「ちょうどよかった。紅茶でも飲んでいきませんか?」
世界の存亡を賭けた星の旅が終わり、フェイトがエレナ博士の研究所で働き始めてから、もうずいぶん経つ。最初は誰もが驚いたフェイトの決断も、今では当たり前のようにこの星の住人として精力的に働くフェイトを誰もが歓迎していた。最近では隠密の訓練まで受けている。しかしネルにはずっと謎として残った。フェイトがなぜこの星に残ったのか、なぜこの星にここまでしてくれるのか──。
難しい書物が増えたフェイトの部屋も、エレナ博士の部屋の惨状とは違って本棚や書棚によく整頓されていた。ネルは時々この部屋を訪れるたび、客間だったこの部屋がだんだんフェイトの部屋になっていくのを心ひそかに楽しんでいた。
ネルはフェイトに案内されるまま、窓辺のテーブルセットの椅子のひとつに腰を下ろした。
フェイトはサイドボードからティーカップを二組取り出しながら、
「今日の紅茶はラッセルさんから仕入れたんですよ」
と、戯けるように笑った。ラッセル執政官といえばシーハーツでも随一の紅茶通として有名だ。ティーセットにもこだわりがあり、ラッセル執政官の部屋は一面ティーセットだらけだ。
「ということは、間違いなしってわけだね」
ネルが言うと、フェイトは得意げに親指を立てた。
茶葉に熱湯を注ぐと、紅茶の甘い香りが部屋をただよってきた。
「はい、ネルさん」
ネルの目の前に紅茶の入ったティーカップを置くと、フェイトは自分の紅茶も持ってきて、ネルの隣に座った。
ソーサーの上にはチョコレートクッキーまで添えられている。まるでソフィアのような細やかさを感じて、ネルは思わず心があたたかくなるのを感じた。仕事終わりのご褒美だ。
「ありがとう」
「いいえ」
ふたりそろって熱いティーカップに唇を寄せると、一口啜って、見開いた目を合わせた。
「おいしい」
「おいしいね」
フェイトはもう一口啜ってソーサーにティーカップを置くと、
「僕らの口に合わせてくれたのかな、甘くて、ほどよく苦みもあって……ちょうどいい」
と、感心したように息をついた。
「さすがラッセル様だね」
疲れた身体に、熱い紅茶が心地よく内臓に染み渡った。
ネルは指先をあたためるようにティーカップを持ちながら一口、もう一口と自分の身体を癒していった。
ふと気づいて目をやると、フェイトはそんなネルを口の端を持ち上げて見つめている。
「なっ、なに見てるんだい?」
「おかわりならたくさんありますからね」
「人を食いしんぼうみたいに言わないでおくれよ」
ネルがむくれてそっぽを向くと、フェイトは含み笑いをしながら、伸びをするようにテーブルに突っ伏した。
「あー、もう限界かも……」
「どうしたんだい?」
フェイトは顔だけをネルの方に向けて見上げるように、
「今日は徹夜だったんです」
ネルは驚いた。
「エレナ博士の所はそんなに忙しいのかい?」
「今、新開発の営力機械のことをやってて、ちょうど今日やっとある程度まとまったかなって感じのところなんです」
「へぇ……あんた、無理はするんじゃないよ」
ネルが眉を寄せると、フェイトは笑って、
「うん、大丈夫。こうやって気分転換もできてるし」
ネルがティーセットのチョコレートクッキーを齧りながら紅茶を見つめて「そうだね」とつぶやくと、
「やっぱりネルさんといるとほっとするなあ」
フェイトはますます目を細めて微笑んだ。ネルは思わず頬が熱くなるのを止められなかった。
「……まぁ、あの旅からの昔馴染みだしね……」
ネルは、クッキーがむせないようになんとか返すと、フェイトは首を振って、
「それだけじゃない」
と、真っ直ぐにネルを見つめた。
翌日は久しぶりにフェイトと同じ任務だった。
定時連絡を終えたネルは、待ち合わせ場所であるペターニの中央広場を訪れた。
春の訪れも間近に迫ったペターニは、お昼時も近くなって、商人が何人も声を張り上げて商売をしていた。
「アリアス産の海鮮を使ったペスカトーレいかがですかー?」
「唐揚げ弁当安いよ安いよー」
カフェテラスの喧騒をくぐり抜けて教会の前へ足を踏み入れると、ネルはハッと街路樹を見上げて、梅が咲いていると思った。
つやつやした石畳みの階段に腰を下ろすと、ネルは膝の上に頬杖をついて道行く人々をながめた。待ち合わせの時間にはまだ余裕がある。
少女たちが花屋の前でお花屋さんごっこをしていた。折り紙で折った花を花屋のオマケで配っている。ネルも子どもの頃、クレアとふたりで同じようなことをしたことがあると懐かしくなって微笑んだ。
北門では、シランドへ行く荷馬車が出ようとしている。礼拝へ行く人々が、運賃の交渉をしていた。
カフェテラスからは、グラスが傾けられる乾杯の音がきこえる。
ふと後ろの方で、話し声がきこえた。振り向くと、ふたりの男女が向かい合って、教会の前で包みを渡している。
「これ……作ったの。受け取ってほしいな」
「あ、ありがとう……開けていい?」
「うん、開けて」
「わあ……おいしそうなチョコレートだね」
「あのね……好きです。付き合ってください」
「あっ……うん、もちろん!」
十代くらいのふたりが、甘酸っぱい会話をしている。ネルは急に自分が邪魔者になった気分になりながら、もうそんな時期かと思った。
春が近くなったある日、ペターニの教会の前でチョコレートを渡す。
これを一番最初に始めたのはフェイトとソフィアだった。まだ星の旅をしていたある日、ソフィアがフェイトを呼び出して、チョコレートをプレゼントしたのだ。それがまた、今日のように賑やかなペターニの中央広場でのことだったから、多くの人々が目撃し、祝福の喝采をした。そこからシーハーツ中に爆発的に広まったのが、恋しい相手にチョコレートを渡しながら告白するという風習だった。特に元々恋人たちの日だったパルミラの日をその日として、シーハーツの国民たちは新しい風習を歓迎した。
そう、ソフィアもまた、ここでフェイトに告白したのだ。あの時の一生懸命なソフィアの顔が、ネルは忘れられなかった。ネルはあの時のふたりを見てすっかり打ちのめされた。フェイトはソフィアと結ばれるのだと思っていた。星の旅を終えたら、ふたりは揃って故郷の地球へ帰るのだと──。
恋人たちが去ってからも、ネルがしばらく物思いに浸っていると、人々が行き交う往来の向こうに青い髪が目について、ネルは立ち上がった。フェイトもネルに気づいて、笑顔を見せると軽く手を上げた。
その時、フェイトの横ざまから女の子の三人組がフェイトに話しかけた。三人は、フェイトを囲むようにして何事か話している。ネルは遠目なので何を話しているのかまでは聞こえない。しかし、女の子が手を合わせながら微笑む様子や、やわらかく小首をかしげる様子を見て、何か自分とはかけ離れたことが行われようとしていると直感した。胸の中に、暗い影が落ちてくる。
女の子たちは、それぞれ懐から包みを取り出し、フェイトに差し出した。フェイトはあわてたように手を振り、女の子たちの包みをそっと押し返そうとしたが、女の子たちは集団の勢いに任せてフェイトの腕に包みを押しつけると、花のように笑いながらどこかへ行ってしまった。フェイトが仕方なくといったように包みを懐に仕舞い込むのを、ネルはため息とともに見ていた。
フェイトがこちらを見て、ゴメンというように手を合わせる。
なんでもないことだ。そう思おうとする。
フェイトが急ぐように、こちらへ向かって足を踏み出した。
と、その時、フェイトの横に黒髪の少女が寄り添った。フェイトが驚いたように少女を見ている。彼女も包みを持っていた。
──あの子は、マユだ。
ネルは足が地面から抜けないかのようにその場に立ったまま、向き合うふたりを見つめた。
先ほどよりも親しげに二言三言話している。フェイトが笑った。
ネルは渡される前から、マユの手に大事そうに抱えられているあの包みはフェイトに渡されるのだろうとわかっていた。リボンで綺麗にラッピングされている。そんなことも気づかないように、フェイトはマユに手を振って行こうとした。その手を、マユは思わずといったように握りしめた。
ネルはグッと喉が鳴るのを感じた。これ以上見ているのがつらい。だが、目が離せない。
マユはその手に包みを渡して、何事かを話した。フェイトは驚いたように身を引いたが、マユは話し終えると、恥ずかしがるように走り出し、ネルの横を通り過ぎていった。フェイトは短く大きな声を出し、手を伸ばして追いかけそうになったが、思いとどまったように手を下ろすと、ネルのところに小走りで来た。
「ゴメン、遅くなって」
フェイトは何事もなかったかのように笑顔でやって来たので、ネルはつい眼光を鋭くした。
「あんた、目が合ってからこっちへ来るまで一体どれくらい待たせるんだい」
包みを隠すようにいそいそと懐におさめる様子も気に入らなかった。
「すみません……」
消沈したようにうつむくフェイトを置いて、ネルは南門へ歩き出した。フェイトがあわてたように横に並んで歩く。
「ネルさん、怒ってる……?」
「なんで私が怒る必要があるんだい」
「いや、口調が……」
ふたりは気まずい沈黙の中、カルサアに向けて歩き出した。