今日は試練の遺跡の定期調査だった。この星の技術を明らかに凌駕したその遺跡は、女王陛下と星の旅をした者以外の誰も知らなかった。国家の機密事項のため、これはふたりにしかできない任務だった。
カルサアの南階段を下り、洞窟の封印を解く。久しぶりに足を踏み入れる試練の遺跡は、空気が冷えていた。
それでも静かに、ダンジョンが唸りだす。ここに、たくさんのモンスターたちがほとんど無限に湧き出る。しかし、ダンジョンの外に出ることはないようだ。
ふたりは、なるべく戦わないようにしながら、ダンジョンに異常がないか確かめていった。
それでもモンスターが入口を邪魔していたり、足が速くて戦わざるを得ない時もある。
不思議なことに、戦っていると気持ちが紛れた。さっき見た色々なことがだんだん遠のいていく。
ネルはカメの甲羅を蹴飛ばして、くるくると回転蹴りをした。カメが激しく唸り、ネルの脚へと齧り付こうとする。そこをフェイトの剣が払い除けた。その間に、ネルが毒の霧を撒く。
星の旅の頃より増して、フェイトはネルを後方施術師だとでも思っているのか、すぐさまフォローに入ってくれることがある。ダガーを使うネルには少々過度な気もするが、長いこと共闘して一緒に戦ってきたフェイトとはやはり戦いやすい。お互いの弱点も強みも把握している。だから文句を言う気にはとてもなれなかった。
適当な会話を繰り返しながら第三下層まで降りてきて、小部屋のモンスターを綺麗に片付けていると、フェイトのお腹がぐうと鳴った。
ネルが笑うと、フェイトは照れたように
「お腹すいちゃった」
と頭を掻いた。
「ここでお昼にするかい? 一応弁当は持ってきたんだ」
「弁当?」
フェイトの目がにわかに輝く。
「食べよう!」
フェイトがいきなり張り切るので、ネルは笑った。
ふたりは小部屋の片隅で弁当を広げた。蓋を開けるなり、フェイトが
「これは……! ネルさんの手作りだ!」
と叫んだ。ネルは思わずたじろぐ。
「なんで食べてもないのにわかるんだい?」
「わかるよ。ネルさんの料理だよ」
フェイトはしみじみしたようにつぶやくので、ネルが不思議に思って見つめていると、フェイトは取り繕うように、
「旅してた頃はよくネルさんに料理作ってもらってたからさ」
「そういえばそうだったね」
「ハンバーグなんて、旅のあいだに三回は食べた」
と、弁当の中のハンバーグを指差す。
「数えてたのかい? ってまさか、レパートリーが少ないって言う気かい」
ネルはフェイトの服をつまんで引っ張った。
「そんなまさか。いろんな料理を作ってくれたじゃないですか。でも、やっぱりハンバーグは特別だな。初めて食べた時は感動したし、次の時は、また作ってくれたんだって嬉しかったんだ」
フェイトが爽やかに笑うと、ネルは思わず顔が熱くなった。
「だって……あんたが好きだって言うから……」
バール山脈を登頂する前、フェイトが食器を洗いながら、並んで話していた時の言葉をネルはまだおぼえていた。
「あんなちょっとした話を、おぼえててくれたんだ」
「べ、べつに……たまたまだよ」
ネルは弁当の端のプチトマトを齧って、決まりの悪い自分の気持ちを誤魔化すように味わった。まろやかな酸味が今のネルには心地良い。
フェイトは真っ先にハンバーグに箸をつけた。「おいしい」と言って嬉しそうに目を細めるフェイトの笑顔がまぶしくて、ネルは思わず目をそらしてしまった。
フェイトは気にした様子もなく、
「玉ねぎの甘みと塩胡椒の加減が絶妙なんだよなぁ」
と食べながら満足そうに頷いていた。
ネルは思わず嬉しくなる。でも、どう表現したらいいのかわからず、無言でハンバーグをつついていた。
「今度は僕が作るよ。何が食べたい?」
「え?」
「ほら、僕もネルさんに何かしたいしさ。何がいい?」
隣で首を傾けるフェイトに、ネルはなんて言おうか考えていると、
「あ、そんな信用ならないって顔して」
フェイトは口を尖らせた。
「だってあんたの料理って未知すぎて」
「そんな、手伝いくらいなら何度かしてきたのに」
「フフ、冗談だよ」
ネルは考えるように天井を見て、
「そうだな……グラタンとか」
「ああ、おいしいよね」
「カレーとか」
「うんうん、前に好きって言ってたよね」
「ミートスパゲティーとか」
「うん……ははっ」
隣で聞いていたフェイトがいきなり噴き出すので、ネルは何のことかわからず疑問の目を向けた。
「なんで笑うんだい?」
「はは、ゴメンゴメン」
フェイトは謝罪の手を作ると、
「ネルさんって意外と食の好みが可愛いよね」
しれっと言うので、また顔が熱くなった。アーティチョークを塩とオリーブオイルだけで食べるのが好きとでも言えばよかっただろうか。
「し、仕方ないだろ……食べたいんだから」
じろりと睨みつけてもまったく効かないみたいに、フェイトはいつまでも笑っていた。何が可笑しいんだろうと、ネルは仕返しがてらにフェイトの上腕を軽く叩く。
「もう! さっさと行くよ」
「待ってよ」
弁当を片付け終わったネルは、まだ苺を食べていたフェイトを置いて、出口に歩き始めた。
フェイトは時々、寂しげな顔をする。
話している時も、笑っている時も、フェイトの心はどこか別のところにあるのではないかという感じがする。
近くにいるのに、遠く感じる。
そんな時ネルは、本当はフェイトは自分の星に帰りたいんじゃないかと思うのだった。生まれ育った故郷の星、地球へ。
そもそもフェイトがこの星にとどまり続ける状況がおかしいのだ。なぜあの時──旅が終わった時、フェイトはこの星にいることに決めたのだろう。
フェイトの力、ディストラクションを欲しがる者は宇宙には多い。遅かれ早かれ、フェイトの存在は新生連邦と新興勢力との取り合いになるだろうと見られていた。そんないざこざから離れて雲隠れするにしても、もっと文明の発達した場所などいくらでもあるだろうに、とネルは思うのだった。わざわざ不便な未開惑星を選ぶ理由がない。だからエレナ博士と同じように、フェイトになぜこの星にここまでしてくれるのかを訊くと、「好きだから」という答えが返ってくる。そんなものなのだろうか、とネルは首をかしげるのだった。
だからこそ、時々見せる物憂げな表情は何なのか、気になってしまう。
ソフィア──だろうか、とネルは思う。あのふたりが今でも連絡を取り合っていることは知っている。ネルも時々、小さなソフィアが浮かび上がった面妖な通信機を寄越されて話すこともある。
あのふたりの間に流れるものはネルの知るところではないが、ずっと一緒に過ごしてきた者同士、恋しいに決まっている、とネルは思っていた。そしてそれを考えると、胸がどうしようもなく痛むことも……。
だとしたらなぜ帰らないのか、それとも帰れないのか、悶々とすることもあった。
そして、この悶々とする気持ちは何なのか、ネルは考えないようにしていた。
その日、ネルはグリーテンでの機密任務を終えたところだった。
国境を越えた辺りから、雨が降っていた。それはシーハーツへ近づくにつれ、傘も持たないネルの身体に容赦なく打ちつけた。疲れ切った身体をずりずりと引きずるようにして一歩、また一歩と鈍い足を前に出していた。雨にぬかるんだ泥がネルを引き摺り込むようだ。
人を殺した。こんな日にはこんな雨がちょうどいい。
ネルはやけっぱちに佇んで、雨の降りしきる空を見上げた。月が見える、と思ったが、それは街灯だった。シーハーツが近づいている。大粒の雨が目に入って、手の甲で乱暴に拭った。
雨粒が頭を叩いて、首筋に垂れていく。濡れるのも構わず、ネルは下を向いて、あたたかい息を吐いた。
地面が舗装された石畳になり、街の声が聴こえ、また遠のいて、苔むした道に差し掛かった時のことだ。
降りしきる雨の遠くに、声がきこえた。ネルははじめ、空耳のようなものかと思い、相変わらず下を向いて足を前に出す作業に没頭していた。だが、声が近づくにつれ、それはとても聞き慣れた声であることに気づくと、そこには焦ったようなフェイトの顔があった。
「ネルさん……! こんなに濡れて……!」
走ってきた様子のフェイトは、心底悲しそうな声を出して、傘を傾け、ネルに上着を巻いてくれた。しかしネルがあまりに濡れているので、上着もじめじめと湿った。
「フェイト……? どうして」
「ムーンリットにいたら、姿が見えたから」
フェイトは心配そうに眉を寄せて、ネルの顔を覗き込んだ。
「一人で行かせてごめん」
「なんであんたが謝るのさ」
「だってさ……どこで任務かもわからなかったから、迎えにも行けなかった」
「そんな必要ない」
「必要なくても……僕が行きたかったから」
なぜかフェイトの方が、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「なんであんたが泣きそうなのさ」
「ごめん」
フェイトは力なくうつむくので、ネルは腕に軽いパンチをして八つ当たりをした。フェイトの腕が、すっかり冷え切っていた。どれくらい待っていたのかと、ネルは驚いた。
フェイトは、そのパンチを手のひらで受け止めて、そのままネルの拳を握った。
「……ネルさんの手、冷たい」
「……悪かったね」
「ホントだよ」
フェイトはやっと笑って、ネルの拳を開き、温めるように包み込んだ。冷たいのに、あたたまっていく。ネルはふっと目頭が滲んで、今なら泣いても雨が誤魔化してくれるだろうかと思った。
フェイトはそのまま、城の自室の前まで送り届けてくれた。
「おやすみ、ネルさん。風邪をひかないように暖かくして、ゆっくり休んで」
フェイトは名残惜しそうに手を離すと、ネルの髪に付いた雨露を払いながら、明るい声で言った。そんな自分も大概濡れてしまっている。
「あんたもね」
と、ネルが言うと、フェイトは明るく手を振って、隣の自室に入っていった。
ネルは、部屋に入ると、浴室のシャワーをお湯にして出しっぱなしにした。それからびしょびしょに濡れて重くなった装備をひとつひとつ解いていく。下着まで濡れていた。
まっさらな裸になると、シャワーの下で、目を瞑ってお湯を浴びた。冷え切った身体に、熱いシャワーは息が止まるほど気持ちが良かった。それはまるで人間らしさを取り戻していく作業のように思えた。
──フェイト。
ネルの胸がドクンと鳴った。
フェイトの手を、初めて握った。あんなに冷えていたのに、力強さを感じた。
ネルは胸の前で、自分の手を握ってみる。
私たちの関係は何なのだろう、とネルは思った。何でもいい気がしていた。少なくとも今だけは。
あたたかい布団の中で目覚めた。なにか、幸せな夢を見ていたような気がする。まばゆい朝日が差し込む天井を見て、ネルはほっと息をついた。こんなにあたたかいは気持ちはどれくらいぶりだろう。あんな日の後なのに、こんな気持ちになるのは後ろめたいような気がした。
ベッドから起き上がり、寝衣を脱いで装備を身に付ける。鳥が二匹、窓辺でさえずっていた。
女王陛下との謁見を終え、朝食を摂りに食堂へ向かっていると、誰かの話し声がした。角を曲がろうとして、思わず躊躇った。礼拝堂の前で、フェイトと部下が何事か話し込んでいる。
「好きな人がいるから……」
フェイトの声がきこえて、ネルの心臓は思わずビクンと跳ね上がった。フェイトの好きな人……。
部下の声が言う。
「それは……知ってます。てっきりネル様がお好きなのかと思っていました。でも、おふたりはお付き合いしないんですよね? 最近ではクレア様とのご交際が始まるのではないかという噂も聞きました」
「ええっ」
「私、もうわからなくなりました。フェイト様がどなたをお好きなのか……。ひょっとして、フェイト様もお迷いではないですか? だったら、私は勇気を出して、立候補するだけです!」
部下の力強い声に、ネルは胸がキリキリした。クレアとフェイトが交際……? 部下がフェイトに告白……?
「ちょ、ちょっと待って、いつのまにそんな話に──」
いつのまにそんな話になっているのだろう。わけがわからない。だんだんふたりの声が遠くなり、気がつくと自室に戻っていた。
体重のかかるまま、書物机の椅子に呆然と腰を下ろす。
頭が真っ白だった。自分は何をしているのだろうと思った。
さっきまでの幸せな夢心地も過ぎ去って、ネルには衝撃の後の静けさだけが残った。
なにを浮かれていたのだろう。
なぜ浮かれていたのだろう。
ああ……フェイトの周りはどうしてこんなに女性が多いのだろう。
あんなに優しくするからだ。ネルはフェイトの罪深い笑顔を思った。誰に対しても優しくて、人当たりの良いフェイト。あんなに親身になられたら、誰だって、好きにならないはずがない。
ずるい、とネルは思った。ああ、自分はフェイトを好きなのだ、とネルは思った。それも、どうしようもなく。認めたくない。でも本当は、ずっと前からそうだったのだ。旅をしている間中ずっと……。
ネルはがくりと肩を落とした。それから両手で顔を覆った。認めたくなかった……。自分を欺いてでも、自分にさえも隠しておきたかった。フェイトが誰を好きであろうが、ネルはフェイトが好きなのだ。こんなに切なくて、つらいことはない。
女王陛下に取らされた休みがよかったのか悪かったのかわからない。ただ、今だけはこの顔を人に晒すことにならなくてよかったと思った。
夕方まで呆然と天井を見ながら過ごしてしまった。こんな日は初めてだ。休みの日に仕事に出ないなんて、さぞ部下に不気味がられていることだろう。それとも安堵されているだろうか。
ふいにトントンとノックの音がして、ネルはのろのろと身を起こし、ボサボサの髪を軽く梳かした。
ドアを開けると、フェイトが訝しそうに立っていた。
「ネルさん……もしかして風邪ひいた?」
「いや、元気だけど……」
「よかった。ネルさんが休みのはずなのに仕事に出てないってちょっとした騒ぎになってたんだ」
フェイトは安心したように微笑んだ。何事もなかったかのような笑顔。人の気も知らないで、なんて憎らしいんだろうとネルは勝手にいじける。
「あの、これ持ってきたんだ」
よく見ると、フェイトの手には大きな皿のようなものが乗っていた。上にはアルミ箔がかぶせてあるが、心なしかいい匂いがする。
「これは……?」
しかしフェイトはその質問には答えず、「まだあるんだ」と皿をテーブルに置くと、また隣の自室から両手に大皿を持ってきた。
「な、なんだい。パーティーでも始まるのかい」
「あ、当たり!」
フェイトはネルに向かってウインクすると、歯を見せて笑った。
「当たりって……」
ネルはいつのまにか部屋の真ん中に移動させられたテーブルの上に広げられた三つの大皿に目を見張った。グラタンにカレー、ミートスパゲティーが所狭しと並べられている。
フェイトはサイドボードから勝手にグラスを取り出して、冷たい水を注いでいる。
「作ってきたんだ、約束したから」
「約束……?」
「ほら、試練の遺跡の第三階層でのことだよ!」
妙に細かいフェイトの指摘で、「ああ」と思い出す。食べたいものを訊かれた時か。
「ってあんた、全部持ってきたのかい!?」
どこで見つけてきたのか不思議なレベルの大皿には、どれも二人前、もしかしたら三人前くらい盛られているような気がする。
「こんなに食べられるわけないじゃないか!」
ネルが当たり前のことを言うと、フェイトはなぜか照れたように頭を掻いて、
「最初は一人前をふたりで半分ずつにしようかと思ったんだけど、ネルさんお腹空いてて足りなかったらいけないと思って」
「成長期かい、私は」
「ゴメン、ついはりきっちゃってさ……僕も一緒に食べるつもりだし、余った分は僕が明日に分けて食べるよ」
「だから……ね?」と上目遣いで言われると、ネルはもう何も言えなくなる。自分を元気づけようとしてくれるフェイトの気持ちはありがたいし、もともと惚れた者に勝ち目はないのだ。
「わかった。食べよう」
椅子に座って乾杯をすると、ネルは「フフ」と自然に笑いが漏れてきた。まずはミートスパゲティーから手をつける。
「よかった。その顔が見たかったんだ」
フェイトは向かい側で嬉しそうにグラタンを頬張っている。
ミートスパゲティーはトマトの酸味が効いていて、挽肉がごろごろしていておいしかった。フェイトには料理の才能があると思った。
「まったく、いきなりパーティーが始まるだなんてびっくりしたよ」
「はは、ゴメンゴメン。サプライズの方が喜んでくれるかなって思ってさ」
グラタンは海老とブロッコリーが入っていて、ミルクの優しい風味が抜けておいしかった。
ネルは今日何も食べていないこともあってか、はからずももりもり食べてしまった。
「フェイト、おいしいよ」
「ありがとう……ネルさんがおいしそうに食べてくれて嬉しいよ」
フェイトは食べるより、にこにこと微笑んでネルを眺めている。これでは本当に私が食いしんぼうみたいじゃないか、とネルは思った。
カレーに手をつけながら、ネルは感心した。
「それにしても、ひとりでこんなに作ったなんてすごいね。大変だっただろうに」
カレーを味わいながら言うと、フェイトは首を振った。
「実はひとりじゃないんだ、工房で苦戦してたらマユが少し手伝ってくれて……」
ネルは思わず、手が止まった。
「マユ……」
「断ったんだけど、『これは私の方が得意分野だから』ってテキパキと仕上げてくれてさ」
ズキンと胸が痛んだ。強烈に胃のあたりがむかむかして、急に食べ物が入らなくなった。カタンとスプーンが皿に落ちる。
「ネルさん……?」
フェイトが不思議そうにネルを見ている。
「やっぱり多かったかな……全然残してくれても大丈夫ですからね」
急に気分が悪くなって、だめだ、吐きそうだとネルは思った。吐いてはだめだ、絶対に吐いてはだめだと意識するほど、胃の内容物が迫り上がってくる。あっ、と思った時には口を押さえていた。椅子から立ち上がり、脇のバスルームへと駆け込む。便器の中に、今食べた物を吐いてしまった。胃が痙攣を起こしている。
吐いているといつのまにか後ろから背中をさする手が伸びていた。
落ち着くまで吐いた後、ネルはどうしようもない気持ちになった。もう終わりだと思った。
後ろを振り返ると、フェイトが心配そうな顔をしてそばに寄り添っていた。
「すまない、せっかく作ってくれたのに……」
ネルがよれよれの声で言うと、フェイトは首を振った。
「僕こそごめん、こんなに食べさせるんじゃなかった」
「いや、ちがう……」
フェイトは後悔の気持ちが滲み出た顔になって、フェイトにそんな顔をさせている自分をひどい奴だと思った。フェイトの前で吐いた自分がすごくみじめだった。いつのまにかフェイトの手を握っていた。いっそ泣き出したい気分だった。
フェイトはもう片方の手で、優しくネルの肩をさすっていた。
こんなにめちゃくちゃな気持ちになるなんて思わなかった。フェイトにとってどれほどみじめたらしい女に映っていることだろう。口の中が苦かった。鼻につく胃酸の匂い。
フェイトが、ネルの髪を優しくつまんで、耳にかけた。
下を向いていた目線をフェイトに合わせると、フェイトは真剣な眼をして、ネルをまっすぐに見ていた。
「ネルさん、僕は……」
「だめ、言うんじゃないよ」
「僕は……あなたが好きです」
ああ、と思った。頭が痛い。思わず項垂れそうになるのを、フェイトが受け止めようと腕を差し出した。フェイトに抱きとめられられそうになる。ネルは両手でフェイトの身体を押した。フェイトの身体が離れていく。フェイトがふっと息を吐いた。
「なんであんたは自分の星へ帰らないんだい」
ネルはフェイトを押したまま、顔も見ずに問うた。
「わからないのか? みんな知ってるのに。ネルさんを好きじゃなきゃ、なぜ僕がここにいると思うんだ」
「……わからない」
ネルは胸が苦しくてたまらなかった。幸せな時間を、こんなに踏み躙ってしまえる自分に。
フェイトはネルにされるがままに、身体を押されたまま、悩ましげな声で言った。
「僕って重い……?」
フェイトの言葉に、ネルは答えないまま、沈黙だけが過ぎた。
フェイトはネルを介抱した後、食べ物を持って帰っていった。
部屋に、静かな静かな暗闇が訪れる。
ネルは暗い天井を見上げながら、なんて醜態を晒してしまったんだと思っていた。
あんなボロボロの状態で告白なんて受けられるわけがなかった。フェイトがマユとふたりで料理したなんていやだった。でも自分は……何もせずにフェイトを独り占めしたいなんて思っている。
自分はこんな人間だっただろうか。
悲しくなるほど自分が馬鹿でみじめに思えた。好きだと言われる資格なんかないのだと思った。
ネルは布団の中で身をよじった。
好きなんかじゃないって思いたかった。フェイトが誰かと付き合っても、フェイトがある日突然星へ帰っても、平気な自分でいたかった。
でも本当は、フェイトに笑顔を向けられるだけで胸が高鳴って、フェイトがクリエイターの女の子と料理を作るだけでボロボロだ。
ああ、なんてあらがえない力なのだろう。
ネルはソフィアのことを思った。マユのことを思った。部下のことを思った。
フェイトが応えてくれるかもわからないのに、勇気を出して告白していた彼女たち……。あの子たちもきっと、こんなねじきれるような思いを抱えていたのだろうか。こんなにも、つらかったのだろうか。
そして、フェイトも──。
ネルはベッドから起き上がった。靴だけを履いて、寝衣のまま部屋の外へ出る。セフィラから溢れ出る水の勢いがぶるりとネルの肌を震わせた。
そのまま食堂の横のキッチンまで歩く。夜中ということもあって、誰にも会わなかった。
キッチンのランプを付け、パントリーからチョコレートを二枚とバナナを一本、それから卵と小麦粉、ふくらし粉を取り出す。材料はこれだけで十分だ。
お湯を沸かし、調理台の上でバナナをつぶす。ビニールに入れて押さえつければ簡単だ。それからチョコレートを湯煎にかけ、十分に溶けたところで卵を入れて混ぜ合わせる。それから小麦粉を振り入れ、なめらかにかき混ぜていく。とろとろしてきたところでつぶしたバナナを入れ、最後にふくらし粉を入れて、型に落とし入れる。それからオーブンで四十分、ネルはあたたかい扉のそばで膨らんでいくのをただ見つめて待っていた。
朝、勇気を出してフェイトの部屋の扉を叩くと、フェイトがまだ眠気まなこで出てきた。
「あっ、ネルさん」
あわてて手櫛で髪を梳かしても、てっぺんの一房が頑固に立っているのが可笑しかった。
「おはようフェイト。入ってもいいかい?」
「もちろん……どうぞ」
フェイトが大きく扉を開けたので、ネルは従った。ベッドが寝乱れていること以外は、相変わらず整頓されている。
フェイトが鏡を見ながら寝癖を直し終わると、ネルはそっと微笑み、手の中の包みを背中に隠した。
「昨日はすまなかったね」
「全然、こちらこそ」
「とんだ醜態を見せた」
「そんなこと思ってない」
フェイトはネルの前まで来て首を振ると、ネルをじっと見た。
「よかった。顔色、良くなってる」
「そうかい?」
「うん」
フェイトは微笑んで、うなずいた。
優しい沈黙が訪れる。ネルはできるだけゆっくりとまばたきをして、深く息を吸い込んだ。
「フェイト……あのさ、私は、私も……あんたのことが好きだ」
つっかえながら言うと、背中に隠したチョコバナナパウンドケーキの包みを、フェイトに差し出した。フェイトの眼が驚いたように見開かれる。
「よかったら受け取ってほしい。私の気持ちだ」
フェイトは驚いたようにしばらく固まっているので、受け取ってもらえないのかと思った。しかし突然我に返ったようにフェイトの手が動き出し、包みを受け取った。
「ネルさん……」
フェイトは何も言えなくなったみたいに、口をぱくぱくさせていた。
ネルは、一歩前に踏み出し、フェイトに近づいた。
「本当はずっと前から好きだったのに、認めるのが遅くなった」
ネルが唇を噛むと、フェイトはゆっくりと、ネルの手を取った。
「ありがとう、ネルさん……僕こそ、ネルさんの反応が怖くて、言うのが遅くなった」
「怖くてってなんだい」
ネルがすかさず睨むと、フェイトは
「そういう意味じゃない」
と首を振って、ふたりで笑った。
やわらかい空気がふたりに漂った。
「あんたはいつか、自分の星へ帰るのかもしれない」
ネルが言うと、フェイトは首を振った。
「ネルさんのいない星なんて、何もないのと同じだ」
ネルがフェイトを見ると、フェイトはしっかりとネルの手を繋ぎ、
「僕の居場所は、ネルさんなんだ」
と真剣な眼でネルを見た。ネルの胸が熱くなった。
「フェイト……」
フェイトはそっとネルの手を引き、ネルの身体を近づけた。
「だからもう──僕らのあいだに『さよなら』は無しだよ」
ネルが「わかった」と笑うと、フェイトはネルの身体を抱きしめた。
力強い、でも優しい抱擁だった。ネルもまた、フェイトを抱きしめ返した。今までかかった長い時間を埋めるように、ふたりは抱きしめながら、嬉しくなって笑っていた。
ああ、この時間を本当はずっと待ち侘びていたんだと、ネルは思った。生きていて一番しっくりくる時間だった。