白露の小妖精は、小さな薬箱と旅に出る   作:ザキグン

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プロローグ「灰狼の最期」

アルヴァン・グレイスという傭兵がいた。

 人々は彼を、《灰狼のハルバート》と呼んだ。

 灰色の外套をまとい、古びた斧槍を振るう男。戦場の端に立ち、最後まで退かなかった男。逃げ遅れた者がいれば背に庇い、仲間が倒れれば、その名を一度だけ呼んで前へ出た男。

 英雄と呼ぶ者もいれば、死神と呼ぶ者もいた。

 けれど、アルヴァン自身は、そのどちらでもないと思っていた。

 ただ、残ることに慣れただけの男だった。

 

 

 雨は、いつから降っていたのだろう。

 泥に膝をついたアルヴァンには、もう空を見上げる力も残っていなかった。灰色の雲が低く垂れ込め、遠くで火の手が上がっている。

 焼けた木の匂い。

 濡れた土の匂い。

 鉄と血の匂い。

 耳の奥で、まだ叫び声がしていた。

 だが、それも少しずつ遠くなる。

 味方の足音は、もう聞こえない。逃げる者たちの悲鳴も、荷車の軋む音も、子どもを呼ぶ母親の声も、雨に溶けて消えていった。

 なら、それでいい。

 アルヴァンは、泥に沈みかけたハルバートの柄を握り直した。指に力は入らない。手のひらは裂け、血と泥でぐしゃぐしゃだった。

 それでも、握った。

 

「行け。振り返るな」

 

 そう言ったのは、少し前のことだった気がする。

 若い傭兵が、泣きそうな顔でこちらを見ていた。怪我をした仲間を背負い、まだ動けない子どもを抱えた女を連れていた。

 アルヴァンは、その背中を怒鳴りつけた。

 行け、と。

 振り返るな、と。

 振り返れば、足が止まる。足が止まれば、死ぬ。そういう場所を、彼は長く歩いてきた。

 若い傭兵は何か言おうとした。だが結局、唇を噛んで走った。

 それでよかった。

 礼などいらない。名前を呼ばれる必要もない。生きて、どこかの街へ着いて、温かいものを食べて、眠ればいい。

 できれば、明日の朝にでも、くだらないことで誰かと喧嘩すればいい。塩が足りないとか、鍋を焦がしたとか、そんなことで。

 アルヴァンは、ふと笑いかけた。

 昔、仲間と食べた辛い煮込みを思い出した。舌が痛くなるほど香辛料を放り込んだ、馬鹿みたいな鍋だった。誰かが水を寄越せと叫び、誰かが笑い、誰かが咳き込みながら、それでも鍋は空になった。

 ああいうものを、もう一度食べたかった気もする。

 けれど、そう思ったところで、身体は動かなかった。

 腹の奥が熱い。肩は感覚がない。右足は、まだそこにあるのか分からない。

 

 視界の端で、倒れた男の手が見えた。

 助けを求めるように伸ばされた手。

 けれど、その手を取る者はもういない。

 アルヴァンは、目を逸らせなかった。

 何度も見た手だった。

 何度も、取れなかった手だった。

 

 守るために殺した。

 殺さなければ守れない場所で生きてきた。

 それでも、守れなかったものの方が多かった。

 背に庇った子ども。

 逃がした村人。

 酒を酌み交わした仲間。

 名前を覚える前に死んでいった若者。

 そのすべてが、泥の中からこちらを見ている気がした。

 

「……悪いな」

 

 雨に混じって、声がこぼれた。

 

「また、俺だけ残っちまった」

 

 いつもそうだった。

 最後に残るのは、自分だった。最後まで立つのが強さだと言われた。けれど、最後まで立っているということは、最後まで誰かが倒れるのを見るということ。

 それが、どうしようもなく疲れた。

 もう一度、ハルバートを持ち上げようとした。けれど、腕は動かなかった。

 敵の気配は遠ざかっている。追撃の足音も聞こえない。少なくとも、逃げた者たちに届くことはないだろう。

 なら、もう……十分だ。

 十分の、はずだった……。

 なのに、胸の奥には、小さな棘のような悔いが残る。

 

 あの手を取れなかった。

 あの子を帰せなかった。

 あの傷を塞げなかった。

 泣いている者に、大丈夫だと言ってやれなかった。

 

 アルヴァンの手は、何かを握るための手だった。

 武器を握る手。

 敵を押し返す手。

 誰かを守るために、誰かを斬る手。

 その手は、大きく、硬く、傷だらけで、血に濡れていた。

 誰かを撫でるには不器用すぎた。

 泣いている子どもの頬に触れるには、汚れすぎていた。

 苦しむ者の手を握るには、遅すぎた。

 

 

「もし、次があるなら……」

 

 

 そんなものがあるとは思っていない。

 自分のような男は、地獄へ落ちるのだろう。多くを殺し、多くを救えず、最後には泥の中で朽ちる。それが似合いの終わりだ。

 けれど、もし。

 本当に、そんな馬鹿げた願いが一つだけ許されるのなら。

 アルヴァンは、血に濡れた自分の手を見た。

 雨が流しても、赤は落ちなかった。

 彼は笑った。笑ったつもりだった。頬が動いたかどうかは、もう分からない。

 

 

「次は……誰かを殺す手ではなく」

 

 

 息が途切れる。

 それでも、最後の言葉だけは、泥の中へ落としたくなかった。

 

 

「誰かを救う手が欲しい」

 

 

 灰色の空が遠くなった。

 雨の音も、叫び声も、鉄の匂いも、少しずつほどけていく。

 最後に残ったのは、泥の中に沈みかけた大きな手だった。

 血に濡れ、武器を握り続けた、傷だらけの手。

 やがて、その手から力が抜けた。

 そして――

 

 

 

 白い寝台の上で、小さな手が震えた。

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