アルヴァンは、ルミナの話を聞いているあいだ、ほとんど動かなかった。
雨に濡れた外套の端が、泥の上に重く落ちている。肩から腕にかけて、黒ずんだ血が乾ききらずに残っていた。近づいてはいけない、と言われた理由が、ルミナには少しだけ分かった。そこは、六歳の子どもが歩いていい場所ではなかった。
けれど、彼は怖い声で追い払わなかった。
近づくなと言った声は、硬かった。乱暴にも聞こえた。でも、エリオが木の枝から落ちそうになった時に大人たちが叫ぶ声に、少し似ていた。怒っているのではなく、危ないから止める声。
ルミナは、小さな足を泥の手前で止めたまま、両手を胸の前で握った。夢なのに、手のひらは冷たかった。さっきまで白露の小治療院で嗅いでいた薬草の匂いは、もうほとんど残っていない。雨と泥と、鉄の匂いがする。
それでも、胸の奥には、あの白い部屋の温かさが残っていた。
「……メリゼル先生はね」
ルミナは、ぽつりと言った。
「こわいことを、なかったことにしなくていいって、言ってくれたの」
その名前を口にすると、雨の音の中に、ほんの少しだけ薬草の香りが戻った気がした。ルミナはそれに勇気づけられて、もう少しだけ言葉を探した。
「手が赤く見えるって言ったら、変だって言わなかったの。泣いちゃっても、怒らなかったの。こわかったことは、なかったことにしなくていいって」
言っているうちに、胸が少し苦しくなった。あの時、エリアナの膝の上で泣いたこと。オスカーの大きな手を握って眠ったこと。白い扉の前で、どうしても自分の手を見てしまったこと。全部が、雨粒のように胸の中へ落ちてくる。
でも、それはさっきまでの赤い記憶とは違っていた。
痛いだけではなかった。
怖いだけでも、なかった。
「それでね、先生は、男の子の手をきれいにしてたの」
ルミナは、白露の小治療院で見た光景を思い出しながら続けた。
「血が出てたけど、すぐに魔法でぴかって治したんじゃなくて……お水できれいにして、布を当てて、包帯を巻いて、痛かったら言ってねって言ってた。お母さんにも、あとで見るところを書いて渡してた」
「……ずいぶん、丁寧な先生だな」
アルヴァンが低く言った。
それは、褒めている声に聞こえた。少なくとも、馬鹿にしている声ではなかった。ルミナは少しだけ頷いた。
「うん。とても、丁寧だった」
「そういう手は、いいな」
「いい手?」
「ああ」
アルヴァンは、自分の手を見た。泥に沈みかけた、大きな手だった。指は節くれ立ち、古い傷がいくつも走っている。血と泥で色が分からなくなっていて、握っていた武器の跡だけが、深く刻まれているように見えた。
「洗って、押さえて、包んで、帰す手だ」
帰す。
その言葉に、ルミナは顔を上げた。
白露の小治療院で見た人たちは、みんな帰っていった。泣いていた男の子も、怪我をした大人も、熱を出した小さな子も。痛みや不安がすっかり消えたわけではないのに、入ってきた時より少しだけ息をしやすそうにして、誰かの手を握って帰っていった。
それは、ルミナが血の夢で見てきた手とは違っていた。
伸ばされても届かなかった手。泥の中に沈んだ手。誰にも握られなかった手。
でも、白露の小治療院の手は、違っていた。
「……おじさんの手も」
言いかけて、ルミナは口をつぐんだ。
言っていいことなのか分からなかった。
彼の手は、傷だらけだった。赤かった。泥に汚れていた。そこにあるだけで、ルミナの胸を冷たくする手だった。けれど、その手でルミナを追い払わなかった。危ないから来るなと言った。怖がっているルミナに、怒らなかった。
その手が本当に怖いだけの手なら、そんなふうには言わない気がした。
「なんだ、嬢ちゃん」
「おじさんの手も、いつか、痛くなくなったらいいなって思ったの」
雨の音が、一瞬だけ遠くなった。
ルミナは、言ってしまってから怖くなった。変なことを言ったかもしれない。
でも、もう言葉は戻せなかった。
「わたし、まだ何もできないけど。包帯も、ちゃんと巻けないし。お薬も、分からないし。先生みたいに、こわくない声も出せないけど」
雨粒が、夢の中の頬を伝った。涙なのか雨なのか、ルミナには分からなかった。
「でも、わたし、メリゼル先生みたいになりたい」
言った瞬間、胸の奥で何かが震えた。
白い扉。薬草の香り。清潔な布。泣いていた子どもの背中。母親の手に渡された小さな紙。帰っていく人たち。
それらが一つずつ、暗い戦場の中で小さな灯りになった。
「だれかが、帰れるようにする人に、なりたい。それで……いつか、おじさんのことも、治せたらいいなって思うの」
彼は、長いあいだ黙っていた。
雨が降っている。どこかで、折れた旗の布が風に鳴っている。泥の上に落ちた武器が、冷たく光っている。
ルミナは、アルヴァンの返事を待った。怖かった。けれど、目は逸らさなかった。
「……参ったな」
その声は、困っているようで、少し笑っているようでもあった。
「嬢ちゃんくらいの子に、そんなことを言われるとは思わなかった」
「ごめんなさい」
「謝るな。悪いことじゃねえ」
彼は小さく笑った後、しばらく考えるように目を伏せ、それから、ルミナへ視線を戻した。
「治すってのは、治される方にも都合がいるんだろうな」
「つごう?」
「たぶん、俺みたいなのは、いきなり治されても困る」
ルミナには、意味がよく分からなかった。
男は苦笑した。
「怖いものをなかったことにしなくていいって、その先生は言ったんだろ」
「うん」
「なら、俺も同じだ。俺がしてきたことを、なかったことにはできねえ」
低い声。ルミナにはまだ分からない重さがあった。武器の重さより、雨を含んだ外套の重さより、ずっと深いものが、男の言葉の底に沈んでいる。
ルミナは、全部は分からなかった。
けれど、分からないからといって、聞かなかったことにはしたくなかった。
「じゃあ……なかったことにしないで、痛くなくするのは?」
「なかったことにしないで?」
「うん。メリゼル先生は、こわかったことを、なかったことにしなくていいって言った。でも、こわいまま、ずっとひとりじゃなくていいって……たぶん、そういうことだと思うの」
自分で言いながら、ルミナは少し自信がなかった。メリゼルはそんな言葉をそのまま言ったわけではない。けれど、白露の小治療院で見た人たちは、きっとそうやって帰っていったのだと思った。
彼は、長くルミナを見ていた。それから、雨の中で、ほんの少し笑った。
「嬢ちゃんは、小さいくせに、変なところを突いてくるな」
「へんなこと、言った?」
「いや。たぶん、薬みたいなことを言った」
「薬?」
「ああ。まだ効くかは分からねえが、飲んでみる気にはなる」
薬みたいなこと。
そんなふうに言われるとは思わなかった。自分は薬草の名前も、包帯の巻き方も、まだほとんど知らない。白露の小治療院で見ていただけの、小さな子どもだ。
それでも、彼は今、少しだけ笑っていた。
「じゃあ、嬢ちゃん。次に会った時でいい。何か、持ってこい」
「持ってくる?」
「楽しかったこと。きれいだったもの。がんばってよかったと思ったこと。なんでもいい」
ルミナは瞬いた。
「それが、お薬になるの?」
「俺には、なるかもしれねえ」
冗談のように言った。けれど、その目は真面目だった。
「ここには、そういうものが少なすぎる」
ルミナは周りを見た。
泥。雨。折れた武器。倒れた旗。赤く濁った水たまり。
たしかに、ここには、楽しいものも、きれいなものも、ほとんどなかった。
でも、白露の小治療院にはあった。薬草の香り。白い布。温かいお茶。帰っていく人の背中。お母さんの手。お父さんの手。エリオの少し乱暴な約束。
持ってこられるかもしれない。
夢の中に、本当の物は持ってこられなくても、話なら持ってこられるかもしれない。
「うん、持ってくる。お花とか、おいしいものとか、先生に教えてもらったこととか」
「おいしいものはいいな。辛いものは好きか?」
「からいもの?」
「舌が痛くなるやつだ」
「たぶん、むり」
「そうか」
彼は低く笑った。かすれていて、雨にすぐ消えそうな声だったけれど、確かに笑っていた。
「じゃあ、甘いものでもいい」
「甘いお薬なら、子どもも飲めるって、先生が言ってた」
「それは助かる」
そんなやり取りをしていると、泥と血の匂いがほんの少しだけ遠くなった。雨はまだ降っている。戦場は戦場のままだ。それでも、男の周りの空気だけが、わずかに柔らかくなった気がした。
「おじさん」
「なんだ」
「わたし、ほんとうに、治療師になれるかな」
「俺には分からねえ」
正直な返事だった。
ルミナの胸が少し沈む。
けれど、彼は続けた。
「ただ、なりたいって言ったやつが、何もできないまま終わるとは限らねえ」
「……うん」
「怖いなら、怖いまま覚えればいい。手が震えるなら、震える手で布を持つところから始めりゃいい。できるかどうかは、これからだろ」
アルヴァンはそう言って、また自分の手を見た。
「ただ……治療代を先に払っとくか」
「ちりょうだい?」
ルミナは首を傾げた。
「おじさん、お金持ってるの?」
「残念ながら、今の俺は泥しか持ってねえ」
真面目な顔でそう言われて、ルミナは少しだけ困った。夢の中なのに、男の言い方が妙に本当らしかったからだ。
アルヴァンは、困ったルミナを見て、また少し笑った。
「金じゃねえ。お守りみたいなもんだ」
「お守り?」
「いるかどうかは、嬢ちゃんが決めろ」
ルミナは顔を上げる。
「手を出せるか」
その言葉に、ルミナの体がこわばった。
手。
赤く見える手。洗っても、洗っても、まだ赤い気がする手。白露の小治療院でメリゼルに見せた手。エリアナが包み込んでくれた手。オスカーが握ってくれた手。
そして、今、男の前にある、泥と血に濡れた大きな手。
ルミナは怖かった。
怖かったけれど、男の声は、急に触れようとする声ではなかった。メリゼルが男の子に言っていたように、先に尋ねる声だった。
触れてもいいか。
そう聞いてくれているのだと、ルミナにも分かった。
「……いたく、しない?」
「しない」
「赤くならない?」
彼は少しだけ目を細めた。
「ならねえようにする」
ルミナは、小さく息を吸った。
ルミナが自分で決めるのを、彼は待っている。
ルミナは、ゆっくりと小さな右手を差し出した。
彼はすぐには触れなかった。ルミナの手の少し上で止めて、もう一度だけ目で尋ねる。
ルミナは、こくりと頷いた。
次の瞬間、アルヴァンの大きな手が、ルミナの小さな手をそっと覆った。
その手は思っていたよりずっと温かかった。
泥も血も、そこにあるはずなのに、ルミナの手にはつかなかった。
代わりに、白い光が、指の隙間からゆっくりと滲んだ。
それは、メリゼルの治癒魔法のような淡い光にも似ていた。
けれど、もっと静かだった。
大きな奇跡のように燃えるのではなく、夜明け前の露が、草の先で光を待っているような、細くて優しい白銀の光。
ルミナは息を呑んだ。
「おじさん……?」
「怖がるな。これは、嬢ちゃんの手だ」
「わたしの?」
「ああ。たぶん、ずっと奥にあったもんだ。俺は、少し押しただけだ」
白い光が、ルミナの手の甲に集まっていく。
小さな葉のようにも、露のしずくのようにも見える形が、淡く浮かんだ。
痛みはなかった。熱くもない。ただ、胸の奥がじんわりと温かくなって、息が少ししやすくなる。
男の傷が治ったわけではなかった。
戦場が消えたわけでもなかった。雨も、泥も、血の匂いも、まだそこにある。
けれど、男の足元に、ぽつりと白いものが見えた。
小さな花だった。
泥の中から、一本だけ。
ルミナは目を見開いた。
「お花……」
彼も、それを見た。
灰色の目が、ほんの少しだけ揺れる。
「……ここに花なんざ、咲いたことなかったんだがな」
声が、少しだけかすれていた。
ルミナは、男の手の中で自分の手を見た。白銀の光はだんだん薄くなっていく。けれど、完全には消えなかった。手の甲に、淡い印のようなものが残っている。
「これ、なあに?」
「さあな。俺にも分からねえ。ただ、嬢ちゃんが怖がるもんじゃねえと思う」
「怖がるものじゃない?」
「たぶん、誰かを帰すための目印だ」
帰すため。
その言葉が、ルミナの胸に落ちた。
白露の小治療院で見た人たちの背中。メリゼルの手。お母さんの手。お父さんの手。エリオの約束。
全部が、その小さな印の中に、そっとしまわれたような気がした。
男の手が、ゆっくりと離れていく。
離れてほしくない、とルミナは思った。けれど、夢の端がほどけ始めている。雨音が遠くなり、泥の匂いが薄れ、白い寝台の匂いが戻ってくる。
「おじさん」
「なんだ、嬢ちゃん」
「また、会える?」
アルヴァンは少し考えた。
「嬢ちゃんが、何か持ってくるならな」
「持ってくる。きれいだったものも、うれしかったことも、がんばったことも」
「そうか。なら、俺はここで待ってる」
「ずっと?」
「ずっとかどうかは分からねえ」
それから、少しだけ困ったように笑った。
「だが、急いで来るな。嬢ちゃんは、そっちでちゃんと生きろ」
そっち。
白い寝台のある場所。エリアナとオスカーがいる家。白露の小治療院。薬草の香り。帰っていく人たち。
ルミナは頷いた。
「うん」
夢がほどけていく。
最後に、男の声が聞こえた。
「治療代は、前払いだ。足りなきゃ、また請求しろ」
ルミナは意味が分からなくて、少しだけ笑った。
その笑い声が、自分のものなのか、夢の中のものなのか分からないまま、雨の音は遠くなった。
目を開けると、朝の光が白い天井を薄く照らしていた。
しばらく、ルミナは何も分からなかった。
夢の中の雨が、まだ耳の奥に残っている。泥の匂いも、鉄の匂いも、薄く残っている気がする。
けれど、部屋にあるのは、洗った布の匂いと、昨夜エリアナが枕元に置いてくれた薬草茶の匂いだった。
ルミナは、ゆっくりと手を見た。
右手の甲に、淡い白銀の印があった。
小さな葉のような、露のしずくのような形。
光っていると言えば光っている。
けれど、朝の光に溶けてしまいそうなくらい、やさしい色だった。
「……おじさん」
声に出すと、胸の奥が少し震えた。
夢だったはずだ。夢の中で会った、血だらけの男。怖い場所にいて、でもルミナに近づくなと言ってくれた人。楽しかったことを持ってこいと言った人。
その人が、くれたもの。
そう思うと、不思議と怖くなかった。
ルミナは、印の上に左手をそっと重ねた。
温かい。
血の色は、見えなかった。
ただ、白い光の名残が、手の奥にしまわれている気がした。
「ルミナ?」
部屋の扉が静かに開いた。エリアナが顔を覗かせる。寝起きの娘が起き上がっているのを見て、すぐに表情をやわらげた。
「起きていたのね。気分はどう?」
ルミナは、少し迷ってから、右手を差し出した。
「お母さん」
「なあに?」
「おじさんが、くれたの」
エリアナの目が、ルミナの手の甲に落ちた。
ほんの一瞬、息を呑む気配があった。けれどエリアナは、すぐにルミナの手を両手で包んだ。驚きも、不安も、きっとあった。それでも、ルミナの前で最初に見せたのは、怖がらせないための穏やかな顔だった。
「……きれいね」
エリアナは、静かに言った。
「痛くはない?」
「うん。痛くない」
「熱くもない?」
「うん」
エリアナは一つずつ確かめるように頷いた。ルミナの手を急に引いたり、印をこすったりしない。メリゼルがしていたように、まずルミナを見る。
「怖い?」
その問いに、ルミナは自分の手を見た。
少しだけ怖い。何が起きたのか分からない。夢だったのに、印はここにある。
でも、赤く見えた時の怖さとは違っていた。
これは、誰かを傷つけた印ではない気がした。
「……すこし」
ルミナは正直に言った。
「でも、いやじゃない」
エリアナは、ルミナの手を包んだまま、少しだけ目を細めた。
「そう」
その声は、涙をこらえているようにも、安心しているようにも聞こえた。
少しして、オスカーも部屋に来た。エリアナから小さく事情を聞き、ルミナの手を見る。お父さんの大きな手が、すぐには触れずに、寝台の端で止まった。
「見てもいいかい」
ルミナは頷いた。
オスカーはそっと身を屈め、ルミナの手の甲に浮かぶ印を見た。難しい顔をしていたけれど、その眉の奥には、ルミナを怖がらせまいとする静かな優しさがあった。
「痛くないなら、よかった」
まずそう言ってくれた。
ルミナは少しだけ笑った。
エリアナとオスカーは顔を見合わせた。何かを決める時の、大人の目。ルミナには全部は分からなかったが、その目が自分を叱るためのものではないことだけは分かった。
「今日、もう一度、白露の小治療院へ行きましょう」
エリアナが言った。
「メリゼル先生に、見ていただきましょうね」
ルミナは、右手の印を見つめた。
白露の小治療院。白い扉。薬草の香り。メリゼルの穏やかな声。
そして、雨の中で待っている、傷だらけの男。
ルミナは、小さく頷いた。
「うん」
手の甲の白銀の印は、朝の光の中で、ほんの少しだけ淡く光っていた。
それはまだ、何かを癒せるほど強い光ではなかった。
けれど、ルミナには分かった。
この手は、もう赤いだけの手ではない。
誰かを帰すために、これから少しずつ何かを覚えていく手なのだと。