白露の小妖精は、小さな薬箱と旅に出る   作:ザキグン

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夢の中のおじさん②

 アルヴァンは、ルミナの話を聞いているあいだ、ほとんど動かなかった。

 雨に濡れた外套の端が、泥の上に重く落ちている。肩から腕にかけて、黒ずんだ血が乾ききらずに残っていた。近づいてはいけない、と言われた理由が、ルミナには少しだけ分かった。そこは、六歳の子どもが歩いていい場所ではなかった。

 けれど、彼は怖い声で追い払わなかった。

 近づくなと言った声は、硬かった。乱暴にも聞こえた。でも、エリオが木の枝から落ちそうになった時に大人たちが叫ぶ声に、少し似ていた。怒っているのではなく、危ないから止める声。

 ルミナは、小さな足を泥の手前で止めたまま、両手を胸の前で握った。夢なのに、手のひらは冷たかった。さっきまで白露の小治療院で嗅いでいた薬草の匂いは、もうほとんど残っていない。雨と泥と、鉄の匂いがする。

 それでも、胸の奥には、あの白い部屋の温かさが残っていた。

 

「……メリゼル先生はね」

 ルミナは、ぽつりと言った。

「こわいことを、なかったことにしなくていいって、言ってくれたの」

 その名前を口にすると、雨の音の中に、ほんの少しだけ薬草の香りが戻った気がした。ルミナはそれに勇気づけられて、もう少しだけ言葉を探した。

「手が赤く見えるって言ったら、変だって言わなかったの。泣いちゃっても、怒らなかったの。こわかったことは、なかったことにしなくていいって」

 言っているうちに、胸が少し苦しくなった。あの時、エリアナの膝の上で泣いたこと。オスカーの大きな手を握って眠ったこと。白い扉の前で、どうしても自分の手を見てしまったこと。全部が、雨粒のように胸の中へ落ちてくる。

 でも、それはさっきまでの赤い記憶とは違っていた。

 痛いだけではなかった。

 怖いだけでも、なかった。

「それでね、先生は、男の子の手をきれいにしてたの」

 ルミナは、白露の小治療院で見た光景を思い出しながら続けた。

「血が出てたけど、すぐに魔法でぴかって治したんじゃなくて……お水できれいにして、布を当てて、包帯を巻いて、痛かったら言ってねって言ってた。お母さんにも、あとで見るところを書いて渡してた」

「……ずいぶん、丁寧な先生だな」

 アルヴァンが低く言った。

 それは、褒めている声に聞こえた。少なくとも、馬鹿にしている声ではなかった。ルミナは少しだけ頷いた。

「うん。とても、丁寧だった」

「そういう手は、いいな」

「いい手?」

「ああ」

 アルヴァンは、自分の手を見た。泥に沈みかけた、大きな手だった。指は節くれ立ち、古い傷がいくつも走っている。血と泥で色が分からなくなっていて、握っていた武器の跡だけが、深く刻まれているように見えた。

「洗って、押さえて、包んで、帰す手だ」

 

 帰す。

 

 その言葉に、ルミナは顔を上げた。

 白露の小治療院で見た人たちは、みんな帰っていった。泣いていた男の子も、怪我をした大人も、熱を出した小さな子も。痛みや不安がすっかり消えたわけではないのに、入ってきた時より少しだけ息をしやすそうにして、誰かの手を握って帰っていった。

 それは、ルミナが血の夢で見てきた手とは違っていた。

 伸ばされても届かなかった手。泥の中に沈んだ手。誰にも握られなかった手。

 でも、白露の小治療院の手は、違っていた。

「……おじさんの手も」

 言いかけて、ルミナは口をつぐんだ。

 言っていいことなのか分からなかった。

 彼の手は、傷だらけだった。赤かった。泥に汚れていた。そこにあるだけで、ルミナの胸を冷たくする手だった。けれど、その手でルミナを追い払わなかった。危ないから来るなと言った。怖がっているルミナに、怒らなかった。

 その手が本当に怖いだけの手なら、そんなふうには言わない気がした。

「なんだ、嬢ちゃん」

「おじさんの手も、いつか、痛くなくなったらいいなって思ったの」

 雨の音が、一瞬だけ遠くなった。

 ルミナは、言ってしまってから怖くなった。変なことを言ったかもしれない。

 でも、もう言葉は戻せなかった。

 

「わたし、まだ何もできないけど。包帯も、ちゃんと巻けないし。お薬も、分からないし。先生みたいに、こわくない声も出せないけど」

 雨粒が、夢の中の頬を伝った。涙なのか雨なのか、ルミナには分からなかった。

「でも、わたし、メリゼル先生みたいになりたい」

 言った瞬間、胸の奥で何かが震えた。

 白い扉。薬草の香り。清潔な布。泣いていた子どもの背中。母親の手に渡された小さな紙。帰っていく人たち。

 それらが一つずつ、暗い戦場の中で小さな灯りになった。

「だれかが、帰れるようにする人に、なりたい。それで……いつか、おじさんのことも、治せたらいいなって思うの」

 彼は、長いあいだ黙っていた。

 雨が降っている。どこかで、折れた旗の布が風に鳴っている。泥の上に落ちた武器が、冷たく光っている。

 ルミナは、アルヴァンの返事を待った。怖かった。けれど、目は逸らさなかった。

 

「……参ったな」

 その声は、困っているようで、少し笑っているようでもあった。

「嬢ちゃんくらいの子に、そんなことを言われるとは思わなかった」

「ごめんなさい」

「謝るな。悪いことじゃねえ」

 彼は小さく笑った後、しばらく考えるように目を伏せ、それから、ルミナへ視線を戻した。

「治すってのは、治される方にも都合がいるんだろうな」

「つごう?」

「たぶん、俺みたいなのは、いきなり治されても困る」

 ルミナには、意味がよく分からなかった。

 男は苦笑した。

「怖いものをなかったことにしなくていいって、その先生は言ったんだろ」

「うん」

「なら、俺も同じだ。俺がしてきたことを、なかったことにはできねえ」

 低い声。ルミナにはまだ分からない重さがあった。武器の重さより、雨を含んだ外套の重さより、ずっと深いものが、男の言葉の底に沈んでいる。

 ルミナは、全部は分からなかった。

 けれど、分からないからといって、聞かなかったことにはしたくなかった。

「じゃあ……なかったことにしないで、痛くなくするのは?」

「なかったことにしないで?」

「うん。メリゼル先生は、こわかったことを、なかったことにしなくていいって言った。でも、こわいまま、ずっとひとりじゃなくていいって……たぶん、そういうことだと思うの」

 自分で言いながら、ルミナは少し自信がなかった。メリゼルはそんな言葉をそのまま言ったわけではない。けれど、白露の小治療院で見た人たちは、きっとそうやって帰っていったのだと思った。

 

 彼は、長くルミナを見ていた。それから、雨の中で、ほんの少し笑った。

「嬢ちゃんは、小さいくせに、変なところを突いてくるな」

「へんなこと、言った?」

「いや。たぶん、薬みたいなことを言った」

「薬?」

「ああ。まだ効くかは分からねえが、飲んでみる気にはなる」

 薬みたいなこと。

 そんなふうに言われるとは思わなかった。自分は薬草の名前も、包帯の巻き方も、まだほとんど知らない。白露の小治療院で見ていただけの、小さな子どもだ。

 それでも、彼は今、少しだけ笑っていた。

「じゃあ、嬢ちゃん。次に会った時でいい。何か、持ってこい」

「持ってくる?」

「楽しかったこと。きれいだったもの。がんばってよかったと思ったこと。なんでもいい」

 ルミナは瞬いた。

「それが、お薬になるの?」

「俺には、なるかもしれねえ」

 冗談のように言った。けれど、その目は真面目だった。

「ここには、そういうものが少なすぎる」

 

 ルミナは周りを見た。

 泥。雨。折れた武器。倒れた旗。赤く濁った水たまり。

 たしかに、ここには、楽しいものも、きれいなものも、ほとんどなかった。

 でも、白露の小治療院にはあった。薬草の香り。白い布。温かいお茶。帰っていく人の背中。お母さんの手。お父さんの手。エリオの少し乱暴な約束。

 持ってこられるかもしれない。

 夢の中に、本当の物は持ってこられなくても、話なら持ってこられるかもしれない。

「うん、持ってくる。お花とか、おいしいものとか、先生に教えてもらったこととか」

「おいしいものはいいな。辛いものは好きか?」

「からいもの?」

「舌が痛くなるやつだ」

「たぶん、むり」

「そうか」

 彼は低く笑った。かすれていて、雨にすぐ消えそうな声だったけれど、確かに笑っていた。

「じゃあ、甘いものでもいい」

「甘いお薬なら、子どもも飲めるって、先生が言ってた」

「それは助かる」

 そんなやり取りをしていると、泥と血の匂いがほんの少しだけ遠くなった。雨はまだ降っている。戦場は戦場のままだ。それでも、男の周りの空気だけが、わずかに柔らかくなった気がした。

「おじさん」

「なんだ」

「わたし、ほんとうに、治療師になれるかな」

「俺には分からねえ」

 正直な返事だった。

 ルミナの胸が少し沈む。

 けれど、彼は続けた。

「ただ、なりたいって言ったやつが、何もできないまま終わるとは限らねえ」

「……うん」

「怖いなら、怖いまま覚えればいい。手が震えるなら、震える手で布を持つところから始めりゃいい。できるかどうかは、これからだろ」

 アルヴァンはそう言って、また自分の手を見た。

 

「ただ……治療代を先に払っとくか」

「ちりょうだい?」

 ルミナは首を傾げた。

「おじさん、お金持ってるの?」

「残念ながら、今の俺は泥しか持ってねえ」

 真面目な顔でそう言われて、ルミナは少しだけ困った。夢の中なのに、男の言い方が妙に本当らしかったからだ。

 アルヴァンは、困ったルミナを見て、また少し笑った。

「金じゃねえ。お守りみたいなもんだ」

「お守り?」

「いるかどうかは、嬢ちゃんが決めろ」

 ルミナは顔を上げる。

「手を出せるか」

 その言葉に、ルミナの体がこわばった。

 手。

 赤く見える手。洗っても、洗っても、まだ赤い気がする手。白露の小治療院でメリゼルに見せた手。エリアナが包み込んでくれた手。オスカーが握ってくれた手。

 そして、今、男の前にある、泥と血に濡れた大きな手。

 ルミナは怖かった。

 怖かったけれど、男の声は、急に触れようとする声ではなかった。メリゼルが男の子に言っていたように、先に尋ねる声だった。

 触れてもいいか。

 そう聞いてくれているのだと、ルミナにも分かった。

「……いたく、しない?」

「しない」

「赤くならない?」

 彼は少しだけ目を細めた。

「ならねえようにする」

 ルミナは、小さく息を吸った。

 ルミナが自分で決めるのを、彼は待っている。

 ルミナは、ゆっくりと小さな右手を差し出した。

 彼はすぐには触れなかった。ルミナの手の少し上で止めて、もう一度だけ目で尋ねる。

 ルミナは、こくりと頷いた。

 次の瞬間、アルヴァンの大きな手が、ルミナの小さな手をそっと覆った。

 その手は思っていたよりずっと温かかった。

 泥も血も、そこにあるはずなのに、ルミナの手にはつかなかった。

 

代わりに、白い光が、指の隙間からゆっくりと滲んだ。

 

 それは、メリゼルの治癒魔法のような淡い光にも似ていた。

けれど、もっと静かだった。

大きな奇跡のように燃えるのではなく、夜明け前の露が、草の先で光を待っているような、細くて優しい白銀の光。

 ルミナは息を呑んだ。

「おじさん……?」

「怖がるな。これは、嬢ちゃんの手だ」

「わたしの?」

「ああ。たぶん、ずっと奥にあったもんだ。俺は、少し押しただけだ」

 

 白い光が、ルミナの手の甲に集まっていく。

 

 小さな葉のようにも、露のしずくのようにも見える形が、淡く浮かんだ。

痛みはなかった。熱くもない。ただ、胸の奥がじんわりと温かくなって、息が少ししやすくなる。

 男の傷が治ったわけではなかった。

 戦場が消えたわけでもなかった。雨も、泥も、血の匂いも、まだそこにある。

 けれど、男の足元に、ぽつりと白いものが見えた。

 

 小さな花だった。

 

 泥の中から、一本だけ。

 ルミナは目を見開いた。

「お花……」

 彼も、それを見た。

 灰色の目が、ほんの少しだけ揺れる。

「……ここに花なんざ、咲いたことなかったんだがな」

 声が、少しだけかすれていた。

 ルミナは、男の手の中で自分の手を見た。白銀の光はだんだん薄くなっていく。けれど、完全には消えなかった。手の甲に、淡い印のようなものが残っている。

「これ、なあに?」

「さあな。俺にも分からねえ。ただ、嬢ちゃんが怖がるもんじゃねえと思う」

「怖がるものじゃない?」

「たぶん、誰かを帰すための目印だ」

 

 帰すため。

 

 その言葉が、ルミナの胸に落ちた。

 白露の小治療院で見た人たちの背中。メリゼルの手。お母さんの手。お父さんの手。エリオの約束。

 全部が、その小さな印の中に、そっとしまわれたような気がした。

 男の手が、ゆっくりと離れていく。

 離れてほしくない、とルミナは思った。けれど、夢の端がほどけ始めている。雨音が遠くなり、泥の匂いが薄れ、白い寝台の匂いが戻ってくる。

「おじさん」

「なんだ、嬢ちゃん」

「また、会える?」

 アルヴァンは少し考えた。

「嬢ちゃんが、何か持ってくるならな」

「持ってくる。きれいだったものも、うれしかったことも、がんばったことも」

「そうか。なら、俺はここで待ってる」

「ずっと?」

「ずっとかどうかは分からねえ」

 それから、少しだけ困ったように笑った。

「だが、急いで来るな。嬢ちゃんは、そっちでちゃんと生きろ」

 そっち。

 白い寝台のある場所。エリアナとオスカーがいる家。白露の小治療院。薬草の香り。帰っていく人たち。

 ルミナは頷いた。

「うん」

 

 

 夢がほどけていく。

 

 最後に、男の声が聞こえた。

 

「治療代は、前払いだ。足りなきゃ、また請求しろ」

 

 ルミナは意味が分からなくて、少しだけ笑った。

 

 その笑い声が、自分のものなのか、夢の中のものなのか分からないまま、雨の音は遠くなった。

 

 

 

 

 目を開けると、朝の光が白い天井を薄く照らしていた。

 しばらく、ルミナは何も分からなかった。

夢の中の雨が、まだ耳の奥に残っている。泥の匂いも、鉄の匂いも、薄く残っている気がする。

 けれど、部屋にあるのは、洗った布の匂いと、昨夜エリアナが枕元に置いてくれた薬草茶の匂いだった。

 

 ルミナは、ゆっくりと手を見た。

 右手の甲に、淡い白銀の印があった。

 小さな葉のような、露のしずくのような形。

光っていると言えば光っている。

けれど、朝の光に溶けてしまいそうなくらい、やさしい色だった。

 

「……おじさん」

 

 声に出すと、胸の奥が少し震えた。

 夢だったはずだ。夢の中で会った、血だらけの男。怖い場所にいて、でもルミナに近づくなと言ってくれた人。楽しかったことを持ってこいと言った人。

 その人が、くれたもの。

 そう思うと、不思議と怖くなかった。

 ルミナは、印の上に左手をそっと重ねた。

 

 温かい。

 

 血の色は、見えなかった。

 ただ、白い光の名残が、手の奥にしまわれている気がした。

「ルミナ?」

 部屋の扉が静かに開いた。エリアナが顔を覗かせる。寝起きの娘が起き上がっているのを見て、すぐに表情をやわらげた。

「起きていたのね。気分はどう?」

 ルミナは、少し迷ってから、右手を差し出した。

「お母さん」

「なあに?」

「おじさんが、くれたの」

 エリアナの目が、ルミナの手の甲に落ちた。

 ほんの一瞬、息を呑む気配があった。けれどエリアナは、すぐにルミナの手を両手で包んだ。驚きも、不安も、きっとあった。それでも、ルミナの前で最初に見せたのは、怖がらせないための穏やかな顔だった。

「……きれいね」

 エリアナは、静かに言った。

「痛くはない?」

「うん。痛くない」

「熱くもない?」

「うん」

 エリアナは一つずつ確かめるように頷いた。ルミナの手を急に引いたり、印をこすったりしない。メリゼルがしていたように、まずルミナを見る。

「怖い?」

 その問いに、ルミナは自分の手を見た。

 少しだけ怖い。何が起きたのか分からない。夢だったのに、印はここにある。

 でも、赤く見えた時の怖さとは違っていた。

 これは、誰かを傷つけた印ではない気がした。

「……すこし」

 ルミナは正直に言った。

「でも、いやじゃない」

 エリアナは、ルミナの手を包んだまま、少しだけ目を細めた。

「そう」

 その声は、涙をこらえているようにも、安心しているようにも聞こえた。

 少しして、オスカーも部屋に来た。エリアナから小さく事情を聞き、ルミナの手を見る。お父さんの大きな手が、すぐには触れずに、寝台の端で止まった。

「見てもいいかい」

 ルミナは頷いた。

 オスカーはそっと身を屈め、ルミナの手の甲に浮かぶ印を見た。難しい顔をしていたけれど、その眉の奥には、ルミナを怖がらせまいとする静かな優しさがあった。

「痛くないなら、よかった」

 まずそう言ってくれた。

 ルミナは少しだけ笑った。

 エリアナとオスカーは顔を見合わせた。何かを決める時の、大人の目。ルミナには全部は分からなかったが、その目が自分を叱るためのものではないことだけは分かった。

「今日、もう一度、白露の小治療院へ行きましょう」

 エリアナが言った。

「メリゼル先生に、見ていただきましょうね」

 

 ルミナは、右手の印を見つめた。

 白露の小治療院。白い扉。薬草の香り。メリゼルの穏やかな声。

 そして、雨の中で待っている、傷だらけの男。

 ルミナは、小さく頷いた。

「うん」

 手の甲の白銀の印は、朝の光の中で、ほんの少しだけ淡く光っていた。

 それはまだ、何かを癒せるほど強い光ではなかった。

 けれど、ルミナには分かった。

 この手は、もう赤いだけの手ではない。

 誰かを帰すために、これから少しずつ何かを覚えていく手なのだと。

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