白露の小妖精は、小さな薬箱と旅に出る   作:ザキグン

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小さな手は、包帯を覚える①

白露の小治療院へ向かう道は、昨日より少し明るく見えた。

 雨上がりの街は、石畳の隙間に水を残していた。軒先から落ちる雫が、小さな音を立てて跳ねる。露店の布はまだ半分だけ開かれ、パン屋の煙突からは、柔らかい匂いを含んだ湯気が上がっていた。

 ルミナは、お母さんと手をつないで歩いた。反対側にはお父さんがいる。右手の甲は薄い布でそっと覆われていた。隠すためではなく、冷やさないためだとお母さんは言った。

 隠すためではない。その言葉が、ルミナには少し嬉しかった。

 それでも、道行く人の視線が自分の手に向いているような気がして、ルミナは何度か布の上から右手を押さえた。昨日までより街の赤いものが少なくなったわけではない。果物屋の籠には赤い実があり、染物屋の軒には赤い布が干されている。角を曲がった先で、誰かが薪割りをしていて、割れた木の内側が一瞬だけ濃い色に見えた。

 

 胸が冷たくなりかける。

 

 けれど、そのたびに、お母さんの手が少しだけ握り返してくれた。お父さんは何も言わず、歩く速さを少し落としてくれた。

 ルミナは、その二つのことに気づいた。

 怖いものは、まだある。

 でも、怖いものを見た時、前より少しだけ、周りのものも見えるようになっていた。

 白い扉が見えてきた。

 昨日と同じ、白露の小治療院の扉。雨上がりの光を受けて、木の表面が柔らかく明るんでいる。扉の横には、小さな鉢植えがいくつも並んでいた。濡れた葉から立ち上る匂いは、昨日よりもはっきり分かった。土の匂い。薬草の匂い。苦いけれど、嫌ではない匂い。

 お母さんが扉を叩く前に、内側から声がした。

 

「どうぞ。開いていますよ」

 

 メリゼルの声だった。

 ルミナの足が、そこで少し止まる。

 あの声は、昨日、怖かったことをなかったことにしなくていいと言ってくれた声だ。この手は今ここで誰も傷つけていないと教えてくれた声だ。

 お母さんがルミナを見た。

「入れる?」

 ルミナは小さく頷いた。

「……うん」

 扉が開く。

 薬草の香りが、昨日よりも近くに来た。

 中では、メリゼルが受付の横で布を畳んでいた。白い髪をゆるくまとめ、淡い青の肩掛けを羽織っている。ルミナたちを見ると、少し驚いたように目を瞬かせ、それからすぐに穏やかに微笑んだ。

「おはようございます。ルミナさん」

「……おはよう、ございます」

「よく来てくださいましたね」

 メリゼルは、ルミナの顔色を見て、それから手元の布に気づいた。けれど、すぐにそれを開けようとはしなかった。

「今日は、見てほしいものがあるのですね」

 まるで、ルミナが言葉にする前から、言う時間を作ってくれるような言い方だった。

 エリアナが静かに頷く。

「昨夜、夢を見たそうです。そのあと、今朝になって、手に……印のようなものが」

「印」

 メリゼルの表情が、ほんの少しだけ真剣になった。けれど、怖い顔ではない。患者の熱を見る時と同じ、見落とさないための顔だった。

「診察室へ入りましょう。ルミナさん、歩けますか?」

「はい」

 答えてから、ルミナは少し驚いた。声が思ったより小さくなかった。

 診察室は、昨日と同じように白く、静かだった。窓辺の薬草の鉢が、朝の光を受けている。机の上には清潔な布と、細い筆、記録帳、そして温かな湯の入った器が置かれていた。

 メリゼルは椅子をすすめた。

「では、まずお話を聞かせてくださいな。印を見るのは、そのあとにしましょう」

 ルミナは椅子に座り、両足を揃えた。お母さんは隣に座り、お父さんは少し後ろに立つ。けれど、ルミナが振り返ればすぐ手の届く距離だった。

 メリゼルは記録帳を開いた。

「痛みはありますか?」

「ありません」

「熱い感じは?」

「少し、あったかいです」

「気持ちが悪くなったり、目が回ったりは?」

「ないです」

「手を動かしにくい感じはありますか?」

 ルミナは右手の指を、布の下でゆっくり動かした。

「動きます」

「よかった。では、布を取ってもいいですか?」

 その一言で、ルミナの肩から少し力が抜けた。

 勝手に触られない。急に見られない。ちゃんと聞いてくれる。

 昨日、泣いていた男の子にしていたのと同じだった。

 ルミナは頷いた。

「はい」

 メリゼルはエリアナに目配せし、エリアナが布をそっとほどいた。右手の甲が朝の光の中に出る。白銀の模様は、治療院の白い壁の前では、少しだけ柔らかく見えた。

 メリゼルは息を止めなかった。悲鳴も上げなかった。

 ただ、椅子を少し近づけ、ルミナの手の下に清潔な布を置いた。

「手を、こちらに置いていただけますか。無理に伸ばさなくて大丈夫ですよ」

 ルミナは、言われた通りに手を置いた。

 メリゼルは、まず触れずに見た。角度を変え、光に透かすようにして、模様の形を見る。次に、指先の色を見て、手の温度を確かめた。それから、ルミナの目を見た。

「触れてもいいですか?」

「……はい」

 メリゼルの指が、手の甲の端にそっと触れた。冷たくも熱くもない。水に濡れた葉を撫でるような、静かな触れ方だった。

 白銀の模様が、ほんの少し明るくなった。

 エリアナが小さく息を飲む。オスカーの手が椅子の背に触れた。けれど、二人とも声は出さなかった。

 メリゼルは、しばらく黙っていた。

 ルミナは、その沈黙が怖くなりそうだった。

「……悪いもの、ですか?」

 聞くと、メリゼルはすぐに首を横に振った。

「いいえ」

 はっきりした声だった。

「少なくとも、今見ている限りでは、悪いものではありません。体を傷つける印でも、呪いのようにあなたを縛るものでもありません」

 呪い。

 その言葉にルミナの指が少し震えると、メリゼルはすぐに言葉を足した。

「怖い言葉を出してしまいましたね。ごめんなさい。大丈夫です。これは、そのようなものではありません」

 メリゼルは、手を離してから続けた。

 

「おそらく、治癒紋です」

 

「ちゆ、もん?」

「ええ。人を癒やす力に深く結びついた印です。ただし、印があるからといって、すぐに何でも治せるわけではありません」

 メリゼルの声は、優しいけれど、甘くはなかった。

「これは、種のようなものです。芽が出たばかりの種。とても大切で、珍しいものです。でも、種は土と水と時間がなければ育ちません。踏みつけてもいけませんし、無理に引っ張ってもいけません」

 ルミナは右手を見た。

 手の甲にある白銀の模様が、少しだけ怖くなくなった。けれど、同時に、すごく大事なものを持ってしまった気もした。落としたら壊れる花瓶を抱いた時のように、胸の中がそっと緊張する。

「おじさんが、くれたの」

 ルミナが言うと、メリゼルは目を細めた。

「夢の中の方ですね」

「はい。治療代を、先に払うって」

 言ってから、ルミナは少し恥ずかしくなった。大人に話すと、とても変なことのように聞こえる。夢の中で会ったおじさんが、治療代をくれた。そんな話を、メリゼルは笑うかもしれない。

 けれど、メリゼルは笑わなかった。

「そうですか」

 彼女はゆっくり頷いた。

「では、その方は、ルミナさんの願いを聞いてくださったのですね」

「願い……?」

「誰かを帰せる手になりたい。いつか、その方も治したい。そう願ったのでしょう?」

 ルミナは、こくりと頷いた。

 メリゼルは、白銀の模様をもう一度見た。

「その印は、夢の方が一方的に与えたもの、というよりも、ルミナさんの中にあった力が、願いに触れて顔を出したものかもしれません」

 ルミナには、少し難しかった。

 おじさんがくれた。

 でも、自分の中にあった。

 その二つが、どうして同時に本当になるのか分からない。

 分からない顔をしていたのだろう。メリゼルは、小さく微笑んだ。

「今は、全部分からなくても大丈夫です。ただ、一つだけ覚えておいてください」

「はい」

「これは、怖がるべき印ではありません。でも、軽く扱ってよい印でもありません」

 ルミナは背筋を伸ばした。

「はい」

「そして、治癒紋があるからといって、ルミナさんが一人で誰かを全部救わなければならない、ということでもありません」

 その言葉に、エリアナの肩が少しだけ下がった。オスカーも、深く息を吐いた。

 ルミナは、大人たちのその様子を見て、やっと気づいた。自分だけでなく、お父さんもお母さんも怖かったのだ。ルミナの手に何が起きたのか分からなくて、それでも怖がらせないように、ずっと静かにしてくれていた。

「一人で?」

「ええ。一人で」

 メリゼルは、ゆっくりと言った。

「治療は、一人の手だけでするものではありません。薬草を育てる人がいます。布を洗う人がいます。記録を書く人がいます。患者さんを支える家族がいます。危ない時に運んでくれる人もいます。治癒魔法は、その中の一つです」

 ルミナは、待合室で見た人たちを思い出した。泣いていた男の子。手当てを受けた冒険者。熱のある子どもを抱いていた母親。メリゼルだけでなく、布も、湯も、紙片も、声も、全部がそこにあった。

「ルミナさんが本当に治療師になりたいなら、まず覚えることがあります」

 メリゼルは立ち上がり、机の上の器を手に取った。温かな湯が入った白い器。そばには、清潔な布と、淡い香りのする小さな石鹸のようなものが置かれている。

 ルミナは、思わず治癒紋を見た。

 魔法を使うのだと思っていた。白い光が出て、誰かの痛みを消す練習をするのだと思っていた。おじさんを治すためには、きっとそういうことを覚えるのだと思っていた。

 けれど、メリゼルがルミナの前に置いたのは、魔法の杖でも、薬瓶でもなかった。

 湯の入った器。

 清潔な布。

 手を洗うためのもの。

「まずは、手を洗いましょう」

 ルミナは目を瞬かせた。

「手を、洗う?」

「はい」

 メリゼルは真面目な顔で頷いた。

「治療師の手は、誰かに触れる手です。だから、魔法を覚えるより先に、その手をどう清潔にするかを覚えます」

「でも……この印は」

「大切な印です」

 メリゼルは、ルミナの言葉を遮らずに受け止め、それから続けた。

「だからこそ、普通の手順を飛ばしてはいけません。傷を癒やす力があっても、汚れた手で触れれば、患者さんを苦しめてしまうことがあります。傷を閉じる前に、傷が治れる場所を作るのです」

 傷が治れる場所。

 その言葉は、ルミナの胸に静かに落ちた。

 手は、怖いものだった。血がつくものだった。何かを傷つけたかもしれないものだった。

 でも、洗うことができる。

 清潔にして、誰かに触れる準備をすることができる。

 それは、赤い幻を消す魔法ではなかった。けれど、ルミナの手がこれから何になるのかを決める、最初の一歩のように思えた。

 メリゼルは、器の横にもう一枚、乾いた布を置いた。

「怖ければ、今日は見るだけでも構いません」

 ルミナは右手を見た。白銀の治癒紋は、静かにそこにある。すごいものかもしれない。珍しいものかもしれない。けれど、その手はまだ小さくて、昨日まで赤い幻に震えていた手だった。

 ルミナは、ゆっくり息を吸った。

 夢の中のおじさんは、ルミナを急がせなかった。お母さんも、お父さんも、メリゼル先生も、急がせなかった。

 だから、自分も、自分の手を急がせなくていいのだと思った。

「……やってみます」

 小さな声だった。けれど、診察室の中で、ちゃんと届いた。

 メリゼルは嬉しそうに微笑んだ。

「では、いっしょに」

 ルミナは袖を少し上げた。お母さんが後ろからそっと手伝ってくれる。お父さんは何も言わず、けれど扉のそばではなく、ルミナの見える場所に立っていた。

 メリゼルが、湯の温度を確かめる。

「熱すぎません。冷たすぎません。患者さんに触れる前の手も、同じです。強すぎても、乱暴すぎてもいけません」

 ルミナは、右手を器の上に差し出した。白銀の印が湯気の中で淡く霞む。

 赤く見えない。

 けれど、怖くないわけでもない。

 そのまま、ルミナは手を湯に入れた。

 温かさが、指先からゆっくり広がる。昨日まで何度洗っても落ちなかった気がした赤いものは、そこにはなかった。ただ、水面が小さく揺れて、白い光を細かく砕いただけだった。

 メリゼルの声が、隣で静かに続いた。

「指の間。爪の先。手首。急がず、ひとつずつ」

 ルミナは言われた通りに、指を洗った。小さな指の間を、丁寧に。爪の先を、怖がりすぎないように。手首を、布で隠れていたところまで。

 水面に、白銀の模様が映る。

 それは血ではなく、光の色だった。

「上手です」

 メリゼルが言った。

 ルミナは顔を上げた。

「これで、治療師になれますか?」

 言ってから、自分でも少し早すぎる質問だと思った。

 メリゼルは、笑わなかった。

「今日、少しだけ近づきました」

 その答えは、魔法よりもずっと小さかった。けれど、ルミナには、嘘ではない答えに聞こえた。

 手を洗い終えると、メリゼルは清潔な布を差し出した。

「拭く時も、大切です。こすらず、押さえるように」

 ルミナは布を受け取り、濡れた手を包んだ。白銀の治癒紋は、布の中で見えなくなった。見えなくなっても、消えたわけではない。

 怖いものではない。

 でも、軽く扱ってはいけないもの。

 そして、一人で全部を背負うためのものではない。

 ルミナは、その三つを胸の中でゆっくり並べた。まだ全部は分からない。けれど、ひとつずつなら覚えられる気がした。

 メリゼルは、机の引き出しから細く巻かれた白い布を取り出した。

「次に、包帯を見てみましょうか」

 ルミナは布を握ったまま、目を上げた。

「包帯?」

「ええ。魔法ではなく、布で守る方法です」

 白い包帯は、メリゼルの手の上で小さく丸まっていた。

 ルミナは、それをじっと見た。

 血を隠すための布ではなく、傷を守るための布。

 怖い手を隠すためではなく、誰かに触れる準備をするための手洗い。

 昨日まで知らなかったものが、治療院の白い机の上に、ひとつずつ並んでいく。

 ルミナは、まだ濡れたばかりの自分の手を見た。

 おじさんがくれた白銀の印が、朝の光の中で静かに光っている。

 でも、その手が最初に覚えたのは、奇跡の起こし方ではなかった。

 誰かに触れる前に、自分の手を清めること。

 そして、傷を守る白い布の名前だった。

 

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