白露の小妖精は、小さな薬箱と旅に出る   作:ザキグン

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高熱のあと、少女は赤を見た①

白い寝台の上で、小さな手が震えた。

 

 それは、まだ何も握っていない手だった。

 

 当たり前だが、剣も、斧槍も、誰かの命も……、血に濡れた武器の柄など、一度も触れたことのない手。

母に髪を結ってもらう時に膝の上で丸められ、父に抱き上げられる時に服の襟をつかみ、眠る前には薄い毛布の端を握るだけの、六歳の少女の手だった。

 

 けれど、その朝、ルミナ・ベルフィーユは、自分の手が赤く濡れていると思った。

 

 最初に戻ってきたのは、匂い。

 

 乾いた薬草の香りでも、朝食のパンが焼ける匂いでもない。

湿った土のような、錆びた鉄のような、喉の奥に引っかかる重い匂い。息を吸っただけで胸の中まで汚れてしまいそうなそれが、まだ眠りの底にいるルミナの小さな身体を、ゆっくりと包み込んでいた。

 

 次に、音。

 

 雨の音。遠くで何かが崩れる音。誰かが名前を呼ぶ声。返事のない声。知らない男の低い息遣い。

 

 そして、手。

 

 大きな手があった。

 

 泥の中に半分沈み、血と雨に濡れ、何か長い柄を握りしめていた。

ごつごつしていて、節が太く、傷だらけで、ルミナの手とはまるで違う手だった。

その手から力が抜けていくのを、ルミナはどこか遠いところから見ていた。

 

 見ていた、と思った。

 

 けれど次の瞬間、その大きな手は自分の手になっていた。

 

 赤い。

 

 指先が赤い。

 

 爪の間にも、手のひらのしわにも、落ちない赤が入り込んでいる。

 

 いや、と声を出したつもりだった。けれど喉からは何も出なかった。ルミナはその赤を払おうとして、寝台の上で指を動かした。薄い掛け布が小さく擦れる。

 

 その音で、彼女はようやく目を開けた。

 

 見慣れた天井があった。

 

 白い漆喰の天井。窓辺で揺れる淡い布。朝の光が、閉じたカーテンの隙間から細く入り込んでいる。部屋の中には、母が昨夜枕元に置いてくれた水差しと、熱を冷ますための濡れ布があった。

 

 ここは戦場ではない。

 

 雨は降っていない。

 

 泥も、倒れた旗も、折れた武器もない。

 

 ルミナの胸は苦しくなった。

熱で重くなった身体を少し起こそうとして、すぐに力が抜ける。

寝込んでいるあいだに、腕も足も、自分のものではないみたいに頼りなくなっていた。

 

 それでも、ルミナは手を見た。

 

 小さな手。

 

 白い寝間着の袖口から出た、細い手。丸い指。昨日の夜、母に拭いてもらったばかりの手。

 

 何もついていない。

 

 何もついていない……なのに、一瞬、指先が赤く見えた。

 

 薄い朝の光の中で、手のひらにじわりと色が広がる。

爪の隙間から赤が滲み、手首へ向かって流れていく。

ルミナは息を飲んだ。手を振る。赤は落ちない。掛け布にこすりつけようとして、白い布まで赤く染まってしまう気がして、慌てて手を引っ込める。

 

「……いや」

 

 今度は、声が出た。

 

 ひどく小さく、かすれていた。

 

「いや……」

 

 もう一度言った時、部屋の隅で椅子が動く音がした。

 

 母のエリアナが、はっと顔を上げた。

 

 彼女は昨夜からずっと、ルミナの寝台のそばにいた。薄い栗色の髪を簡単にまとめ、肩には夜着の上から羽織りをかけている。目元には疲れが滲んでいたが、ルミナの声を聞いた瞬間、その顔から眠気は消えた。

 

「ルミナ?」

 

 エリアナが身を乗り出す。

 

「目が覚めたのね。気分はどう? 喉は渇いていない?」

 

 いつもの母の優しい声。朝、髪を梳いてくれる時の声。熱が高かった夜、何度も額に手を当ててくれた声。

 

 なのに、ルミナは答えられない。

 

 自分の手を胸の前で握りしめ、震えながら首を振る。握った手の内側が、ぬるりと湿っているような気がした。

 

「ルミナ?」

 

 母の声に心配が混じる。

 

「どこか痛いの? 熱が戻った?」

 

 ルミナはまた首を振った。

 

 痛いのではない、熱いのでもない。

 

 怖い。

 

 ただ、怖かった。

 

「て……」

 

 自分の声が、自分のものではないみたいだった。

 

「手が……」

 

 エリアナの視線が、ルミナの握りしめた両手へ落ちる。

 

 ルミナは、それを見られたくなくて、さらに強く手を隠した。

寝間着の袖の中へ押し込むようにして、胸元に抱え込む。

 

「だめ」

 

「ルミナ」

 

「見ないで……」

 

 エリアナの顔が、痛ましげに歪んだ。

 

 けれど、彼女は慌ててルミナの手をつかもうとはしなかった。小さな子どもが怯えている時、急に触れれば、もっと怖がらせてしまう。それを知っている人の動きだった。

 

 エリアナは、まず寝台の端に腰を下ろした。

 

 それから、ゆっくりとルミナの目線まで身をかがめる。

 

「見ないでほしいのね」

 

 ルミナは小さく頷いた。

 

「手が怖い?」

 

 その言葉で、こらえていた涙が一つ落ちた。

 

 ルミナは、母の顔を見た。言ってもいいのだろうか。こんな変なことを言ったら、母は困るのではないだろうか。何もついていない手を怖がるなんて、おかしい子だと思われるのではないだろうか。

 

 けれど、言わないままでは、胸が壊れてしまいそうだった。

 

「赤いの」

 

 ぽつりと、ルミナは言った。

 

「手が、赤いの」

 

 エリアナは息を飲んだ。

 

 けれど、すぐに否定しなかった。

 

「赤く見えるのね」

 

「うん……」

 

「洗っても、落ちない気がする?」

 

 ルミナは、はっとした。

 

 母は、どうして分かったのだろう。

 

 何度も手をこすりたい衝動。白い布につけたら赤く染まってしまうかもしれないという恐怖。夢の中の雨でも落ちなかった赤。それを、母は全部知っているように聞いてくれた。

 

 ルミナは、声を詰まらせて頷いた。

 

「わたし……何か、したの?」

 

 言った瞬間、涙がいくつもこぼれた。

 

「わたし、誰かに、何かしたの?」

 

 エリアナの表情が揺れた。

 

 それは驚きだった。悲しみだった。小さな娘が、そんな問いを抱えて目覚めたことへの、どうしようもない痛みだった。

 

 だが、エリアナはその痛みをルミナにぶつけなかった。

 

 彼女は水差しのそばに置いてあった柔らかな布を取る。昨夜、熱で汗ばんだルミナの額を拭いた布とは別の、清潔な白い布だった。

 

「ルミナ」

 

 エリアナの声は、少し震えていた。けれど、とても静かだった。

 

「お母さんに、手を見せてくれる?」

 

 ルミナは首を振りかけた。

 

 怖い。

 

 見せたら、母にも赤が見えてしまうかもしれない。母の顔が変わるかもしれない。いつも優しい手が、自分から離れてしまうかもしれない。

 

 エリアナは急かさなかった。

 

「無理にとは言わないわ」

 

 そう言って、布を持った手を膝の上に置く。

 

「でも、もし怖いなら、お母さんが一緒に見ます。ひとりで見なくていいの」

 

 ひとりで見なくていい。

 

 その言葉が、寝台の中で丸くなっていたルミナの胸に、ゆっくりと届いた。

 

 ひとりで見なくていいのなら。

 

 母が一緒に見てくれるのなら。

 

 ルミナは、袖の中に隠していた手を、少しだけ出した。

 

 まず指先だけ。次に手の甲。最後に、握りしめていた手のひらを、恐る恐る開く。

 

 エリアナはその手を見た。

 

 小さな手だった。

 

 熱で少し汗ばんでいる。爪の形は丸く、指先はやわらかい。どこにも傷はない。血も、泥も、赤い汚れもない。

 

 エリアナは、何もないと言おうとして、やめた。

 

 ルミナにとっては、見えているのだ。

 

 そこに本当に血があるかどうかと、ルミナが怖がっていることは、別のことだった。

 

 エリアナは、白い布をそっとルミナの手に当てた。

 

「拭くわね」

 

 先にそう告げてから、指先を撫でるように拭く。

 

 親指。人差し指。小さな爪の先。手のひら。手首。

 

 何もついていない布は、最後まで白いままだった。

 

 それでも、エリアナは丁寧に拭いた。

 

 まるで本当に、そこに見えない汚れがあって、それをルミナと一緒に落としているかのように。

 

 ルミナは、その様子を見つめていた。

 

 布が赤くならない。

 

 白いまま。

 

 でも、目を細めると、まだ手のひらがじんわり赤く見える気がした。

 

「落ちない……」

 

 小さな声が漏れた。

 

「お母さん、落ちないの……」

 

 エリアナは布を置いた。

 

 そして今度は、自分の両手でルミナの手を包んだ。

 

 母の手は温かかった。

 

 夢の中の大きな手とは違う。泥の冷たさも、鉄の匂いもない。少し荒れていて、指先には家事でできた小さな硬さがあって、それでもルミナを壊さないように、そっと包んでくれる手だった。

 

「大丈夫よ、ルミナ」

 

 エリアナは言った。

 

 その声は、泣きそうなほど優しかった。

 

「あなたの手は、綺麗な手よ」

 

 ルミナは目を見開いた。

 

 綺麗。

 

 この手が。

 

 赤く見える手が。怖くて、隠したくて、触れられたくなかった手が。

 

「ほんとう……?」

 

「本当よ」

 

 エリアナは、ルミナの手を包んだまま答えた。

 

「お母さんには、ちゃんと見えているわ。あなたの小さな手。熱があるのに頑張って起きた手。怖いのに、お母さんに見せてくれた手」

 

 ルミナの唇が震える。

 

「でも、赤いの」

 

「そう見えて、怖いのね」

 

「うん……」

 

「それなら、怖い時は何度でも言っていいの。何度でも、お母さんが一緒に見ます」

 

 エリアナは、ルミナの手を頬に寄せた。

 

 その仕草に、ルミナはびくりとした。自分の手が母の頬に触れてしまう。赤い手が、母を汚してしまう。

 

 だが、エリアナは離さなかった。

 

 むしろ、ルミナの手の甲に、そっと頬を寄せた。

 

「ほら」

 

 母の声が、耳元で柔らかく響く。

 

「お母さん、怖くないわ」

 

 その言葉で、ルミナの中で張り詰めていたものが切れた。

 

 声にならない泣き声が喉からこぼれる。ルミナは身を起こそうとして、うまく力が入らず、エリアナの胸に倒れ込んだ。

 

 エリアナはすぐに抱きとめた。

 

 細い背中を撫でる。熱で湿った銀色の髪を梳く。涙で濡れた頬を、何度も優しく拭う。

 

「怖かったのね」

 

 ルミナは頷いた。

 

「うん……」

 

「ひとりで、ずっと怖かったのね」

 

「うん……」

 

「もう大丈夫。ここにいるわ」

 

 エリアナは同じことを、何度も繰り返した。

 

 もう大丈夫。ここにいるわ。あなたの手は綺麗よ。怖いなら一緒に見るわ。

 

 その言葉だけが、ルミナの中に少しずつ沈んでいく。

 

 血の匂いは、まだ消えない。

 

 目を閉じれば、泥の中の大きな手が見える。

 

 自分の手も、また赤く見えるかもしれない。

 

 それでも、今だけは、母の手がルミナの手を包んでいた。

 

 その温かさは、夢の中の雨よりも確かだった。

 

 しばらくして、部屋の扉が静かに開いた。

 

 父のオスカーが立っていた。

 

 背の高い父は、いつもなら部屋に入るだけで床板をきしませる。けれど、この時は驚くほど静かに入ってきた。眠っていたのだろう、髪は少し乱れている。目元には疲れがあり、だがその視線はまっすぐルミナに向けられていた。

 

「ルミナ」

 

 低い声だった。

 

 ルミナは母の胸に顔を埋めたまま、少しだけ父を見た。

 

 オスカーは何も問い詰めなかった。

 

 何を見たのか。どうして泣いているのか。手がどうしたのか。そういうことを、すぐには聞かなかった。

 

 ただ寝台のそばまで来て、膝をついた。

 

 大きな手が、ルミナの視界に入る。

 

 その瞬間、ルミナの身体がこわばった。

 

 大きな手。

 

 泥の中にあった手。

 

 血に濡れていた手。

 

 オスカーは、それに気づいた。

 

 だから、ルミナに触れなかった。

 

 彼は自分の手を、寝台の上にそっと置いただけだった。ルミナから少し離れた場所。届くけれど、押しつけられない距離。

 

「怖ければ、握らなくていい」

 

 父は言った。

 

「だが、ここに置いておく」

 

 それだけだった。

 

 ルミナは、父の手を見た。

 

 大きい。

 

 夢の手と同じくらい、大きく見えた。

 

 けれど、泥はついていない。血もついていない。掌には仕事でできた硬いところがあって、少しだけ傷跡もある。でもそれは、何かを壊すための手ではなく、いつもルミナを抱き上げてくれる手だった。

 

 ルミナはすぐには動けなかった。

 

 ただ、母に包まれたまま、父の手を見つめていた。

 

 部屋には、朝の光が少しずつ増えていた。

 

 水差しの水面が、淡く光っている。

 

 その光が一瞬、赤く揺れた気がして、ルミナはまた目をつむった。

 

 けれど、今度はひとりではなかった。

 

 母の腕が背中にある。

 

 父の手が、そばにある。

 

 ルミナは泣き疲れた声で、小さく言った。

 

「お母さん」

 

「なあに」

 

「また、赤く見えたら……」

 

「うん」

 

 エリアナは、ルミナの髪を撫でながら答える。

 

「その時は、また一緒に見ましょう」

 

 オスカーも静かに頷いた。

 

 ルミナは、自分の手を見た。

 

 まだ怖い。

 

 まだ、信じられない。

 

 でも、母は怖くないと言ってくれた。

 

 綺麗な手だと言ってくれた。

 

 その言葉を、ルミナは小さな胸の中で、こわれもののように抱え込んだ。

 

 

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