白い寝台の上で、小さな手が震えた。
それは、まだ何も握っていない手だった。
当たり前だが、剣も、斧槍も、誰かの命も……、血に濡れた武器の柄など、一度も触れたことのない手。
母に髪を結ってもらう時に膝の上で丸められ、父に抱き上げられる時に服の襟をつかみ、眠る前には薄い毛布の端を握るだけの、六歳の少女の手だった。
けれど、その朝、ルミナ・ベルフィーユは、自分の手が赤く濡れていると思った。
最初に戻ってきたのは、匂い。
乾いた薬草の香りでも、朝食のパンが焼ける匂いでもない。
湿った土のような、錆びた鉄のような、喉の奥に引っかかる重い匂い。息を吸っただけで胸の中まで汚れてしまいそうなそれが、まだ眠りの底にいるルミナの小さな身体を、ゆっくりと包み込んでいた。
次に、音。
雨の音。遠くで何かが崩れる音。誰かが名前を呼ぶ声。返事のない声。知らない男の低い息遣い。
そして、手。
大きな手があった。
泥の中に半分沈み、血と雨に濡れ、何か長い柄を握りしめていた。
ごつごつしていて、節が太く、傷だらけで、ルミナの手とはまるで違う手だった。
その手から力が抜けていくのを、ルミナはどこか遠いところから見ていた。
見ていた、と思った。
けれど次の瞬間、その大きな手は自分の手になっていた。
赤い。
指先が赤い。
爪の間にも、手のひらのしわにも、落ちない赤が入り込んでいる。
いや、と声を出したつもりだった。けれど喉からは何も出なかった。ルミナはその赤を払おうとして、寝台の上で指を動かした。薄い掛け布が小さく擦れる。
その音で、彼女はようやく目を開けた。
見慣れた天井があった。
白い漆喰の天井。窓辺で揺れる淡い布。朝の光が、閉じたカーテンの隙間から細く入り込んでいる。部屋の中には、母が昨夜枕元に置いてくれた水差しと、熱を冷ますための濡れ布があった。
ここは戦場ではない。
雨は降っていない。
泥も、倒れた旗も、折れた武器もない。
ルミナの胸は苦しくなった。
熱で重くなった身体を少し起こそうとして、すぐに力が抜ける。
寝込んでいるあいだに、腕も足も、自分のものではないみたいに頼りなくなっていた。
それでも、ルミナは手を見た。
小さな手。
白い寝間着の袖口から出た、細い手。丸い指。昨日の夜、母に拭いてもらったばかりの手。
何もついていない。
何もついていない……なのに、一瞬、指先が赤く見えた。
薄い朝の光の中で、手のひらにじわりと色が広がる。
爪の隙間から赤が滲み、手首へ向かって流れていく。
ルミナは息を飲んだ。手を振る。赤は落ちない。掛け布にこすりつけようとして、白い布まで赤く染まってしまう気がして、慌てて手を引っ込める。
「……いや」
今度は、声が出た。
ひどく小さく、かすれていた。
「いや……」
もう一度言った時、部屋の隅で椅子が動く音がした。
母のエリアナが、はっと顔を上げた。
彼女は昨夜からずっと、ルミナの寝台のそばにいた。薄い栗色の髪を簡単にまとめ、肩には夜着の上から羽織りをかけている。目元には疲れが滲んでいたが、ルミナの声を聞いた瞬間、その顔から眠気は消えた。
「ルミナ?」
エリアナが身を乗り出す。
「目が覚めたのね。気分はどう? 喉は渇いていない?」
いつもの母の優しい声。朝、髪を梳いてくれる時の声。熱が高かった夜、何度も額に手を当ててくれた声。
なのに、ルミナは答えられない。
自分の手を胸の前で握りしめ、震えながら首を振る。握った手の内側が、ぬるりと湿っているような気がした。
「ルミナ?」
母の声に心配が混じる。
「どこか痛いの? 熱が戻った?」
ルミナはまた首を振った。
痛いのではない、熱いのでもない。
怖い。
ただ、怖かった。
「て……」
自分の声が、自分のものではないみたいだった。
「手が……」
エリアナの視線が、ルミナの握りしめた両手へ落ちる。
ルミナは、それを見られたくなくて、さらに強く手を隠した。
寝間着の袖の中へ押し込むようにして、胸元に抱え込む。
「だめ」
「ルミナ」
「見ないで……」
エリアナの顔が、痛ましげに歪んだ。
けれど、彼女は慌ててルミナの手をつかもうとはしなかった。小さな子どもが怯えている時、急に触れれば、もっと怖がらせてしまう。それを知っている人の動きだった。
エリアナは、まず寝台の端に腰を下ろした。
それから、ゆっくりとルミナの目線まで身をかがめる。
「見ないでほしいのね」
ルミナは小さく頷いた。
「手が怖い?」
その言葉で、こらえていた涙が一つ落ちた。
ルミナは、母の顔を見た。言ってもいいのだろうか。こんな変なことを言ったら、母は困るのではないだろうか。何もついていない手を怖がるなんて、おかしい子だと思われるのではないだろうか。
けれど、言わないままでは、胸が壊れてしまいそうだった。
「赤いの」
ぽつりと、ルミナは言った。
「手が、赤いの」
エリアナは息を飲んだ。
けれど、すぐに否定しなかった。
「赤く見えるのね」
「うん……」
「洗っても、落ちない気がする?」
ルミナは、はっとした。
母は、どうして分かったのだろう。
何度も手をこすりたい衝動。白い布につけたら赤く染まってしまうかもしれないという恐怖。夢の中の雨でも落ちなかった赤。それを、母は全部知っているように聞いてくれた。
ルミナは、声を詰まらせて頷いた。
「わたし……何か、したの?」
言った瞬間、涙がいくつもこぼれた。
「わたし、誰かに、何かしたの?」
エリアナの表情が揺れた。
それは驚きだった。悲しみだった。小さな娘が、そんな問いを抱えて目覚めたことへの、どうしようもない痛みだった。
だが、エリアナはその痛みをルミナにぶつけなかった。
彼女は水差しのそばに置いてあった柔らかな布を取る。昨夜、熱で汗ばんだルミナの額を拭いた布とは別の、清潔な白い布だった。
「ルミナ」
エリアナの声は、少し震えていた。けれど、とても静かだった。
「お母さんに、手を見せてくれる?」
ルミナは首を振りかけた。
怖い。
見せたら、母にも赤が見えてしまうかもしれない。母の顔が変わるかもしれない。いつも優しい手が、自分から離れてしまうかもしれない。
エリアナは急かさなかった。
「無理にとは言わないわ」
そう言って、布を持った手を膝の上に置く。
「でも、もし怖いなら、お母さんが一緒に見ます。ひとりで見なくていいの」
ひとりで見なくていい。
その言葉が、寝台の中で丸くなっていたルミナの胸に、ゆっくりと届いた。
ひとりで見なくていいのなら。
母が一緒に見てくれるのなら。
ルミナは、袖の中に隠していた手を、少しだけ出した。
まず指先だけ。次に手の甲。最後に、握りしめていた手のひらを、恐る恐る開く。
エリアナはその手を見た。
小さな手だった。
熱で少し汗ばんでいる。爪の形は丸く、指先はやわらかい。どこにも傷はない。血も、泥も、赤い汚れもない。
エリアナは、何もないと言おうとして、やめた。
ルミナにとっては、見えているのだ。
そこに本当に血があるかどうかと、ルミナが怖がっていることは、別のことだった。
エリアナは、白い布をそっとルミナの手に当てた。
「拭くわね」
先にそう告げてから、指先を撫でるように拭く。
親指。人差し指。小さな爪の先。手のひら。手首。
何もついていない布は、最後まで白いままだった。
それでも、エリアナは丁寧に拭いた。
まるで本当に、そこに見えない汚れがあって、それをルミナと一緒に落としているかのように。
ルミナは、その様子を見つめていた。
布が赤くならない。
白いまま。
でも、目を細めると、まだ手のひらがじんわり赤く見える気がした。
「落ちない……」
小さな声が漏れた。
「お母さん、落ちないの……」
エリアナは布を置いた。
そして今度は、自分の両手でルミナの手を包んだ。
母の手は温かかった。
夢の中の大きな手とは違う。泥の冷たさも、鉄の匂いもない。少し荒れていて、指先には家事でできた小さな硬さがあって、それでもルミナを壊さないように、そっと包んでくれる手だった。
「大丈夫よ、ルミナ」
エリアナは言った。
その声は、泣きそうなほど優しかった。
「あなたの手は、綺麗な手よ」
ルミナは目を見開いた。
綺麗。
この手が。
赤く見える手が。怖くて、隠したくて、触れられたくなかった手が。
「ほんとう……?」
「本当よ」
エリアナは、ルミナの手を包んだまま答えた。
「お母さんには、ちゃんと見えているわ。あなたの小さな手。熱があるのに頑張って起きた手。怖いのに、お母さんに見せてくれた手」
ルミナの唇が震える。
「でも、赤いの」
「そう見えて、怖いのね」
「うん……」
「それなら、怖い時は何度でも言っていいの。何度でも、お母さんが一緒に見ます」
エリアナは、ルミナの手を頬に寄せた。
その仕草に、ルミナはびくりとした。自分の手が母の頬に触れてしまう。赤い手が、母を汚してしまう。
だが、エリアナは離さなかった。
むしろ、ルミナの手の甲に、そっと頬を寄せた。
「ほら」
母の声が、耳元で柔らかく響く。
「お母さん、怖くないわ」
その言葉で、ルミナの中で張り詰めていたものが切れた。
声にならない泣き声が喉からこぼれる。ルミナは身を起こそうとして、うまく力が入らず、エリアナの胸に倒れ込んだ。
エリアナはすぐに抱きとめた。
細い背中を撫でる。熱で湿った銀色の髪を梳く。涙で濡れた頬を、何度も優しく拭う。
「怖かったのね」
ルミナは頷いた。
「うん……」
「ひとりで、ずっと怖かったのね」
「うん……」
「もう大丈夫。ここにいるわ」
エリアナは同じことを、何度も繰り返した。
もう大丈夫。ここにいるわ。あなたの手は綺麗よ。怖いなら一緒に見るわ。
その言葉だけが、ルミナの中に少しずつ沈んでいく。
血の匂いは、まだ消えない。
目を閉じれば、泥の中の大きな手が見える。
自分の手も、また赤く見えるかもしれない。
それでも、今だけは、母の手がルミナの手を包んでいた。
その温かさは、夢の中の雨よりも確かだった。
しばらくして、部屋の扉が静かに開いた。
父のオスカーが立っていた。
背の高い父は、いつもなら部屋に入るだけで床板をきしませる。けれど、この時は驚くほど静かに入ってきた。眠っていたのだろう、髪は少し乱れている。目元には疲れがあり、だがその視線はまっすぐルミナに向けられていた。
「ルミナ」
低い声だった。
ルミナは母の胸に顔を埋めたまま、少しだけ父を見た。
オスカーは何も問い詰めなかった。
何を見たのか。どうして泣いているのか。手がどうしたのか。そういうことを、すぐには聞かなかった。
ただ寝台のそばまで来て、膝をついた。
大きな手が、ルミナの視界に入る。
その瞬間、ルミナの身体がこわばった。
大きな手。
泥の中にあった手。
血に濡れていた手。
オスカーは、それに気づいた。
だから、ルミナに触れなかった。
彼は自分の手を、寝台の上にそっと置いただけだった。ルミナから少し離れた場所。届くけれど、押しつけられない距離。
「怖ければ、握らなくていい」
父は言った。
「だが、ここに置いておく」
それだけだった。
ルミナは、父の手を見た。
大きい。
夢の手と同じくらい、大きく見えた。
けれど、泥はついていない。血もついていない。掌には仕事でできた硬いところがあって、少しだけ傷跡もある。でもそれは、何かを壊すための手ではなく、いつもルミナを抱き上げてくれる手だった。
ルミナはすぐには動けなかった。
ただ、母に包まれたまま、父の手を見つめていた。
部屋には、朝の光が少しずつ増えていた。
水差しの水面が、淡く光っている。
その光が一瞬、赤く揺れた気がして、ルミナはまた目をつむった。
けれど、今度はひとりではなかった。
母の腕が背中にある。
父の手が、そばにある。
ルミナは泣き疲れた声で、小さく言った。
「お母さん」
「なあに」
「また、赤く見えたら……」
「うん」
エリアナは、ルミナの髪を撫でながら答える。
「その時は、また一緒に見ましょう」
オスカーも静かに頷いた。
ルミナは、自分の手を見た。
まだ怖い。
まだ、信じられない。
でも、母は怖くないと言ってくれた。
綺麗な手だと言ってくれた。
その言葉を、ルミナは小さな胸の中で、こわれもののように抱え込んだ。