白露の小妖精は、小さな薬箱と旅に出る   作:ザキグン

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高熱のあと、少女は赤を見た②

その夜、ルミナは眠るのをいやがった。

 

熱は下がっていた。

額にのせられた布はもうぬるくなる前に取り替えられなくてもよくなり、喉の渇きも、昼間ほどひどくはない。

エリアナが作ってくれた薄い麦粥も、ほんの少しだけ飲み込むことができた。

けれど、寝台に横になることだけは、どうしても怖かった。

 

目を閉じれば、またあの赤が戻ってくる。

白い天井の向こうに、灰色の空が広がる。

柔らかな寝具の下に、冷たい泥が染みてくる。

母の手の温かさが遠くなって、かわりに、血と鉄の匂いが鼻の奥を満たす。

そう思うだけで、ルミナの指先はきゅっと縮こまった。

エリアナは寝台の脇に腰かけ、ルミナの銀色の髪をゆっくり撫でていた。

細い髪は汗で少し額に張りついている。

熱で弱った頬はまだ赤く、けれど目元だけは、ひどく怯えていた。

「眠るのが怖い?」

母の声は、昼間と同じようにやわらかかった。

ルミナは、返事をしようとして、できなかった。

うなずくだけで喉がきゅっと狭くなり、目の奥が熱くなる。

 

眠りたい。

 

体は重く、まぶたも沈みかけている。

けれど、眠ってしまったら、あの赤い場所へ連れていかれる。

あの知らない男の人の手が、泥の中へ沈んでいくところを、また見てしまう。

ルミナは毛布の中で、自分の手をぎゅっと握った。

昼間、母が何度も拭いてくれた手。

何もついていないと、何度も見せてくれた手。

白くて小さくて、爪の先まできれいだと、母が言ってくれた手。

それでも、目を離すと赤くなる気がした。

 

「……手、しまってても、赤くなる?」

ほとんど息のような声。

エリアナは答える前に、ルミナの握りしめた手をそっと包む。

無理に開かせない。

怖がっている指を一本ずつほどくのではなく、そのままの形ごと、母の両手で覆う。

「赤くならないわ」

「ほんとう?」

「本当よ。もし怖くなったら、母さんが何度でも見てあげる」

「……何回でも?」

「何回でも」

エリアナは微笑んだ。

けれど、その笑みの奥に、隠しきれない疲れと心配があることに、幼いルミナは気づかなかった。

ただ、母の声が震えていないことだけを頼りにして、少しだけ息を吸った。

 

その時、部屋の戸が静かに鳴った。

振り向くと、オスカーが立っていた。

寝ずにいたのだろう。昼間より少し髪が乱れ、目元にも疲れがにじんでいる。

それでも、ルミナを見る顔はいつもと変わらなかった。

大きな声を出さず、急いで近づきもせず、ただそこにいる。

 

「眠れないか」

ルミナは、少し迷ってからうなずいた。

オスカーは部屋へ入り、寝台のそばに椅子を寄せた。

木の脚が床をこする小さな音がする。

その音さえ大きく聞こえて、ルミナは肩を震わせた。

オスカーはすぐに椅子を止めた。

「すまない」

たったそれだけ言って、彼はゆっくりと腰を下ろす。

父の手は大きかった。

昼間、ルミナが一瞬だけ見た、夢の中の男の手も大きかった。

血に濡れて、泥に沈み、武器を握ったまま力を失っていく手。

あの手を思い出すと、胸の奥が冷たくなる。

だから、父が手を差し出した時、ルミナは思わず身を固くした。

オスカーはそれに気づき、差し出した手を、すぐには近づけない。

寝台の端、ルミナが自分から届かせられる場所に、ただ置く。

 

「怖い夢を見たら、父さんの手を握ればいい」

何が怖かったのかを、無理に聞かず、夢に誰がいたのか、どうして手が赤く見えたのか、問い詰めもしない、静かな声。

ルミナは、毛布の中から父の大きな手を見る。

節ばっていて、少し硬そうで、指のところどころに小さな傷がある。

仕事でできた傷。庭の柵を直した時、薪を割った時、荷物を運んだ時。

父の手は、いつも家のどこかを支えていた。

血に濡れた夢の手とは違う。

 

けれど、大きな手であることに変わりはない。

 

怖い。でも、父の手は待っている。近づいてこない。

ルミナが選ぶまで、そこにあるだけだった。

「……握っても、赤くならない?」

オスカーは少しだけ目を細めた。

ただ、その問いを大事に受け止めるような顔。

「ならない」

「お父さんの手も?」

「ならない」

「わたしの手も?」

「ならない」

ルミナは、毛布の中からそろそろと手を出した。

空気に触れた指先が冷たい。

自分の手なのに、自分のものではないような心細さがあった。

父の手までの距離は、ほんの少し。

けれど、そのほんの少しが、ひどく遠い。

エリアナが何か言おうとして、やめる。オスカーも動かない。

二人とも、ルミナの小さな指が自分で進むのを待っていた。

やがて、ルミナの指先が、父の人差し指に触れた。

温かかった。

血のぬるさではない。

泥の冷たさでもない。

いつも薪を運んで、庭の土を払って、ルミナを抱き上げてくれる手の温かさ。

 

ルミナは、ほんの少し息を吐いた。

それから、父の指を握った。

小さな手では、父の手全部を包むことはできない。

だから、指を二本だけ握る。

それでもオスカーは、まるでそれで十分だというように、手を動かさなかった。

「怖くなったら、そのまま握っていればいい」

「……起きちゃっても?」

「起きても」

「泣いても?」

「泣いても」

「何回でも?」

オスカーは、そこで初めて少しだけ微笑んだ。

「何回でもだ」

ルミナは父の指を握ったまま、エリアナの方を見た。

母はルミナの髪を撫で、もう一方の手で毛布を直してくれる。

右には母の手。左には父の手。

それでも夢は怖い。眠るのは怖い。目を閉じることも、赤いものを見ることも、まだ怖い。

けれど、怖いと言っても、誰も怒らなかった。怖いままで、手を握っていていいと言われた。

それが、今のルミナには、世界の全部の灯りのように思えた。

 

まぶたが重くなる。

眠ってはいけないと思ったのに、体は少しずつ沈んでいく。

エリアナの指が髪を梳く。

オスカーの手がそこにある。

夜の部屋に、布の匂いと、母が淹れた薄い薬草茶の香りが残っている。

遠くで、また雨の音がした気がした。

ルミナは父の手を強く握った。

「いる」

オスカーの短く告げたその声を最後に、ルミナは眠りに落ちた。

 

 

夢は、完全には消えなかった。

 

灰色の空、泥の匂い、遠くで、誰かが倒れる音。

けれど、その夜のルミナは、泥の中へ一人で落ちていかなかった。

夢の底へ沈みかけるたび、左手のどこかに、父の大きな指の温かさが残っていた。

だから、泣きながら目を覚ました時も、ルミナは手を伸ばすことができた。

オスカーは、そこにいた。

 

翌朝、窓の外はよく晴れていた。

熱のあとに残った体の重さはまだ消えない。

けれど、部屋の中へ差し込む光は白く、寝台の布も、母が洗って干してくれた寝間着も、何も赤くはなかった。

ルミナは、目を覚ますとすぐに自分の手を見た。

 

手のひら。

手の甲。

指の間。

爪の先。

 

何もついていない。ほっとした、はずだった。

けれど、手を下ろそうとした時、指先に昨夜の夢の残りが触れた。

ほんの一瞬、爪の際が赤く染まったように見えた。

ルミナは息を呑んでもう一度見る。赤はない。

 

でも、あった気がした。

 

それからの日々、ルミナは何度も自分の手を見るようになった。

 

朝、目が覚めた時。

食事の前。

水を飲む前。

眠る前。

母に髪を結ってもらっている時も、ふと膝の上の手が気になって、指を開いたり閉じたりした。

 

何もついていないことを確かめる。

確かめたばかりなのに、また不安になる。

エリアナは、そのたびに怒らなかった。

「見てもいいわ」

そう言って、ルミナの手を一緒に見る。時には温かい布で拭く。何もついていない手を、まるで本当に大切なものを磨くように、そっと包む。

オスカーは夜になると、また椅子を持ってきた。

毎晩ではない。ルミナが少し落ち着いている日は、戸口の近くで本を読んでいるだけのこともあった。

けれど、ルミナが手を探すと、必ず届く場所に父の手があった。

 

それでも、赤いものは、突然やって来た。

 

ある朝、エリアナが水桶を運んできた。

顔を洗うための、ただのきれいな水だった。

窓から差した朝焼けが、水面に映っていた。

淡い橙色の光がゆらりと揺れる。

ルミナには、それが赤く見えた。

水の底に血が沈んでいるように見えた。

 

「いやっ」

 

ルミナは手を引く。桶の縁に当たって、水が少しこぼれる……床に散った水は透明だった。

透明なのに、ルミナの目には、こぼれた一瞬だけ赤く跳ねたように見えた。

エリアナはすぐに桶を遠ざけた。

「大丈夫。朝の光が映っただけよ」

「あかかった」

「そう見えたのね」

エリアナは、否定しなかった。

赤くない、と言い切ってしまえば簡単だったのかもしれない。

けれど母は、ルミナが見た恐怖を、見間違いだからと押しのけなかった。

「怖かったわね」

そう言って、こぼれた水を拭き、桶を日陰へ移す。

水面から朝焼けの色が消えると、そこにはただの水があった。

ルミナは、それでもしばらく近づけなかった。

 

別の日には、赤い果実の汁が怖かった。

エリアナが小さく切ってくれた果実は、甘い匂いがした。

熱のあとで食欲が戻るようにと、母が用意してくれたものだった。

白い皿の上に、赤い汁が丸く滲んでいる。

 

それを見た瞬間、ルミナの喉がふさがった。

 

食べ物だと分かっている。

甘い匂いもする。母が切ってくれたものだ。

それでも、白い皿に広がる赤が、白い布に染みていく血に見えた。

ルミナは口元を押さえた。

エリアナは果実を責めなかった。ルミナも責めなかった。

黙って皿を下げ、かわりに白いパンを小さく千切ってくれた。

「今日は、こちらにしましょう」

母はそう言っただけだった。

 

また別の日、洗濯物の中に赤い布があった。

エリアナの古い肩掛けだった。

風に揺れる布が、庭の光の中でふわりと広がった。

その赤を見て、ルミナは窓辺から離れた。

 

胸の奥がどきどきする。耳の後ろで血が鳴る。

 

あれは布。

知っている布。

母が冬に使う、柔らかい布。

何度も自分に言い聞かせるのに、近づけない。

オスカーは、その布を黙って別の場所へ移した。

隠すようにではなく、ただ、今日のルミナの目に入りにくい場所へ。

 

「いつか平気になる」

そう言わなかった。

「これくらい怖がるな」

そう叱らなかった。

 

赤い布を片づけたあと、オスカーは庭の柵の修理をしながら、ルミナに見える場所にいた。

ルミナは窓の内側から、父の背中を見ていた。

父の手には金槌がある。

木を押さえ、釘を打つ。

大きな手が、家を直している。

それを見ていると、少しだけ息がしやすくなった。

 

夜になると、ルミナはまた手を見た。

何度も見た。

手のひらを開く。閉じる。裏返す。爪の先を母に見せる。父の手と並べてみる。

「何もついていない」

母が言う。

「何もついていない」

父も言う。

ルミナも小さく繰り返す。

「……何も、ついてない」

 

けれど、言葉にしたあとで、また不安になる。

 

もし、見えないだけだったら。

もし、眠ったあとで赤くなっていたら。

もし、あの知らない男の人の血が、自分の手に移っていたら。

 

そう思うたびに、ルミナは手を洗いたくなった。

エリアナは、水を使いすぎて手が荒れないように、温かい布で拭く方法を教えた。

オスカーは、手を洗ったあとは必ず乾いた布で包むようにした。

怖さを叱るのではなく、怖さでルミナの手が傷つかないようにしてくれた。

そのことを、六歳のルミナはまだ言葉にできなかった。

ただ、父と母の手が、自分の手を嫌がらないことだけは分かった。

赤く見えても。何度も確かめても。泣いても。眠れなくても。

母の手は、ルミナの手を包んだ。

父の手は、ルミナの手が届く場所にあった。

 

だからルミナは、少しずつ、部屋の窓辺まで歩けるようになった。

外には、いつもの庭がある。

白い小花。薄い緑の草。乾いた土。風に揺れる洗濯物。遠くから聞こえる子どもたちの声。

前なら、その声を聞けば、すぐに外へ行きたくなった。

エリオや近所の子たちが何をしているのか、気になって仕方がなかった。

けれど今は、窓の外が少し遠い。

走る子どもの足音が聞こえる。笑い声が聞こえる。誰かがルミナの名前を呼んだような気がする。

ルミナは窓辺のカーテンを握った。

 

出たい。

 

でも、もし外で赤いものを見たら。

もし転んで手を擦りむいたら。

もし、また手が赤くなったら。

 

そう思うと、足が動かなかった。

庭の向こうで、子どもたちの声が遠ざかる。

ルミナは自分の手を見る。何もついていない。

白く、小さく、頼りない手。

 

その手を胸の前で握りしめ、彼女は窓の内側に立ったまま、外の光を見ていた。

 

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