窓の外の声は、次の日も、その次の日も聞こえた。
子どもたちの笑い声。
庭の向こうの道を走る足音。
誰かが木の枝を拾って剣のまねをしているらしい、からん、と乾いた音。
春の終わりに近い日差しはやわらかく、カーテン越しの光は白い寝台の上まで届いていた。
ルミナは、その光の中で膝を抱えていた。
熱は、もうほとんど下がっている。
粥も少し食べられるようになった。
夜に泣いて起きる回数も、最初の日よりは減った。
けれど、外へ出ることはまだできなかった。
庭に出れば、赤い実が落ちているかもしれない。
転んで手を擦りむくかもしれない。
誰かが怪我をして、血を出すかもしれない。
そう思うと、扉の前まで行くだけで足が重くなった。
エリアナは無理に外へ連れ出そうとはしなかった。
「今日は窓辺まで行けたのね」
そう言って、できなかったことではなく、できたことだけを拾ってくれる。
オスカーも、庭仕事をする時は、ルミナの部屋から見える場所にいることが増えた。
柵を直したり、薪を積み直したり、雨どいを確かめたりする父の背中を、ルミナは窓の内側から見ていた。
父の大きな手は、木槌を握る。釘を押さえる。土を払う。家を直し、庭を整え、ルミナの眠る部屋を守る。
大きな手は、怖いだけではない。
そう思える日も、少しだけ増えていた。
それでも、窓の外は遠い。
その日も、ルミナはカーテンの端を小さく握っていた。
外では近所の子どもたちが、いつものように騒いでいる。声だけなら分かる子もいた。
少し鼻にかかった笑い声の子。
走るとすぐ大声になる子。
何かを決める時、必ず一番先に言い出す子。
そして、その中に、エリオの声がないことにも気づいていた。
エリオは、いつもなら一番うるさい。
棒切れを持ってきては、騎士ごっこだと言って庭の端を走り回る。
ルミナが座って見ているだけでも、「お前も見てろ、俺が一番強いからな」と勝手に胸を張る。
たまに転んで膝を擦りむいても、「痛くない」と言い張って、あとでこっそり涙目になる。
その声が聞こえないのは、少しだけ不思議だった。
ルミナがそんなことを思った時、玄関の方で何か小さな声がした。
「ルミナ、いるのか?」
ルミナは、カーテンを握る指に力を入れた。
エリオの声。
胸がどきりとする。嬉しいのか、怖いのか、自分でもよく分からなかった。
エリアナが玄関へ向かう足音が聞こえる。扉が開く音。低く交わされる声。
「こんにちは、エリオくん」
「あ、こんにちは。えっと……ルミナ、まだ寝てますか」
いつものエリオより、少し声が小さい。
エリアナはしばらく黙っていた。
たぶん、どう答えるか考えているのだろう。
ルミナは寝台の上で身を固くした。
会いたいような、会いたくないような気がする。
エリオに、赤い手のことを聞かれたらどうしよう。
怖い夢のことを笑われたらどうしよう。
外へ出ないことを、弱虫だと言われたらどうしよう。
けれど、扉の向こうから聞こえたエリオの声は、いつものように勢いだけで押してくるものではなかった。
「みんなが、ルミナ最近ぜんぜん外に出てこないって言ってたから」
少し間が空く。
「……ほんとに、まだ具合悪いのかと思って」
ルミナは、胸の奥が小さく揺れるのを感じた。
エリアナの足音が戻ってくる。部屋の戸が静かに開いた。
「ルミナ」
母は、いつものように急かさない声で言った。
「エリオくんが来てくれたわ。会うのがつらかったら、母さんがそう伝えるからね」
ルミナは毛布の上で、自分の手を見た。
白い手。
何もついていない手。
けれど、時々赤く見える手。
エリオに見られるのは怖い。
でも、会わないまま帰ってしまうのも、胸がきゅっとした。
「……窓、なら」
ルミナは小さく言った。
「窓のところでなら、会える」
エリアナは微笑んだ。
「分かったわ」
母は窓を少しだけ開る。外の風が部屋へ入ってくる。草の匂い。土の匂い。庭の柵を直した木の匂い。血の匂いではなかった。
ルミナは椅子に座り、窓辺まで少しずつ移動した。
足はまだ頼りない。
けれど、エリアナがすぐそばにいる。
部屋の奥には、オスカーの作ってくれた小さな踏み台も置いてある。
窓の外に、エリオがいた。
短い茶色の髪を風に跳ねさせ、いつもより少しきれいな服を着ている。
エリオは、ルミナを見るなり目を丸くした。
「……ほんとにいた」
「いるよ」
ルミナが小さく答えると、エリオは慌てたように眉を寄せた。
「いや、いるのは知ってたけど。ずっと出てこないから、すごく悪いのかと思った」
「熱は、もうあんまりないの」
「じゃあ、なんで外に来ないんだ」
いつものように、まっすぐな問いだった。
ルミナは答えに詰まった。
なんで、と聞かれても、うまく言えない。
手が赤く見えるから。
水も、果実も、布も、赤いものが怖いから。
夜になると、知らない男の人の手が泥に沈む夢を見るから。
外で転んで手が赤くなったら、自分が壊れてしまう気がするから。
そんなことを、どう言えばいいのか分からない。
ルミナは膝の上で手を握った。
エリオは、その動きを見た。
「手、痛いのか?」
「痛くは、ない」
「じゃあ、どうしたんだ」
ルミナは視線を落とす。窓辺の光が、自分の指先に落ちている。今日は赤くない。
けれど、言葉にしようとすると、また喉の奥に泥が詰まるようだった。
「夢を、見るの」
ようやく、それだけ言えた。
エリオは黙った。
ルミナは、少しずつ続ける。
「知らない男の人がいて……血がいっぱいで……手が、赤くて」
言いながら、自分の手をさらに強く握った。
「起きても、時々、わたしの手が赤く見えるの」
エリオは、すぐには笑わなかった。
いつものエリオなら、「夢だろ」とか「そんなの怖くない」とか言いそうだった。少なくとも、ルミナはそう思っていた。
けれど、窓の外のエリオは、眉を寄せたまま、じっとルミナの手を見ていた。
それから、少し困ったように自分の手を見た。
「……今は、赤くないぞ」
「うん」
「白いぞ」
「うん」
「ちっこいし」
「……ちっこいのは、関係ないよ」
ルミナが小さく抗議すると、エリオは少しだけ安心したような顔をした。
いつものルミナに少し戻ったと思ったのかもしれない。
けれど、そのあとすぐ、彼は真面目な顔になった。
「怖い夢って、どれくらい怖いんだ」
「……眠るのが、こわいくらい」
「そんなにか」
ルミナは頷いた。
エリオは腕を組んだ。六歳の子どもが精一杯大人のように考えている顔だった。いつもならすぐに強い言葉を言うのに、今日は少しだけ時間がかかった。
やがて、エリオは窓の下でぐっと拳を握った。
「じゃあ、俺が守る」
ルミナは瞬きをした。
「え?」
「ちっこいお前は俺が守ってやるから泣くな!」
いつものエリオの声だった。
少し大きくて、少し無茶で、自分でも本当にできるか分かっていないのに、できると信じている声。
ルミナは驚いて、それから、少しだけ困った。
胸の奥が温かくなる、けれど、夢の中には誰も来られない。
父の手でさえ、夢の底までは届かないことがある。
エリオがどれだけ胸を張っても、泥と血の夢の中に入ってくることはできない。
だから、ルミナは小さく首を振った。
「エリオくん、夢の中までは来られないよ」
エリオは、ぴたりと固まった。
考えていなかったのだろう。
口を開け、閉じ、もう一度開ける。
庭の風が、曲がった襟を揺らした。
「……それは」
「うん」
「たしかに、寝てる時は、俺も寝てるかもしれないし」
「うん」
「お前の夢がどこにあるかも、分からないし」
「うん」
エリオは真剣に悩んでいた。
ルミナは、その顔を見ていた。
おかしな顔だった。眉は寄っているし、唇は尖っているし、腕は組んだままなのに、足先だけが落ち着かずに土をこすっている。
けれど、その全部が、ルミナのことを本気で考えてくれている顔だった。
やがてエリオは、何かを決めたように顔を上げた。
「じゃあ、起きてる時は守る!」
ルミナは、今度こそ言葉を失った。
エリオは、勢いを取り戻したように続ける。
「夢の中までは行けないけど、起きてる時ならいる。外に出るのが怖かったら、俺が先に赤いものがないか見る。転びそうなら、先に言う。変なやつが来たら追い払う」
「変な人は、あんまり来ないと思う」
「分からないだろ。変な鳥とかもいるかもしれない」
「鳥?」
「赤いやつ」
エリオは大真面目だった。
ルミナは、少しだけ息を吸った。
その息は、泣く時の息ではなかった。
胸の奥に詰まっていたものが、ほんの少しだけほどけるような息だった。
「エリオくん」
「なんだ」
「赤い鳥は、たぶんこわくないよ」
「じゃあ、赤い鳥は見逃してやる」
あまりにも偉そうに言うので、ルミナは思わず笑ってしまった。
ほんの小さな笑いだった。声になったかどうかも分からないくらい。けれど、笑った。
エリアナが、すぐそばで息を止めた気配がした。
窓の外のエリオは、ルミナが笑ったことに気づき、得意そうに胸を張った。
「ほら、笑った」
「……少しだけだよ」
「少しでも笑ったら勝ちだ」
「勝ちなの?」
「勝ちだ」
ルミナは、また少しだけ笑った。
笑うと、胸が痛かった。長く泣いたあとみたいに、喉も少しひりついた。
けれど、嫌な痛みではなかった。
エリオは窓の下にしゃがみ込み、庭の草を一本抜いた。
細い白い花がついている。
いつもの彼なら、そのまま剣のように振り回すところだが、今日は少し迷ってから、窓辺にそっと置いた。
「これ、やる」
「お花?」
「赤くないやつ」
ルミナは、白い小花を見た。
本当に、赤くない。
小さくて、頼りなくて、風が吹けば折れてしまいそうな花だった。けれど、窓辺の光の中で、ちゃんと白かった。
ルミナは手を伸ばしかけて、途中で止まった。
窓の外へ手を出すのが、少し怖かった。外の空気に触れたら、手がまた赤く見えるかもしれない。
エリオはそれを見て、花をもう少し窓の内側へ押した。
「取れそうなところまで置くから」
「うん」
ルミナは、ゆっくり手を伸ばした。
白い花に触れる。花びらは少し冷たく、茎は細く、指で強くつまめばすぐ折れてしまいそうだった。
手は赤くならなかった。
ルミナは花を受け取り、胸の前でそっと包んだ。
「ありがとう」
小さな声で言うと、エリオは耳まで赤くした。
「べ、別に。俺は守るって決めたからな」
そう言ってから、彼は急に視線をそらした。
「また来る」
「うん」
「外に出られそうなら、呼べよ」
「うん」
「無理なら、窓でいい」
その言い方が、少しだけ父や母に似ていた。無理に連れ出すのではなく、ルミナが来られる場所まで来る、と言ってくれている気がした。
「……うん」
ルミナが頷くと、エリオはようやく満足したように立ち上がった。
そして、帰り際にもう一度振り返る。
「夢の中は無理でも、起きてる時は守るからな!」
庭いっぱいに響く声だった。
ルミナは驚いて肩をすくめたが、今度は泣かなかった。
エリアナが窓を少し閉める。風がやわらかくなり、部屋の中に白い小花の匂いが残った。
ルミナは、膝の上に置いた花を見た。
赤くない花。
エリオがくれた花。
起きている時は守る、と言ってくれた、少し乱暴で、少しおかしな約束。
その約束だけで、夜の夢が消えるわけではない。
手が赤く見えなくなるわけでもない。明日すぐに外へ走り出せるわけでもない。
けれど、窓の外に、ルミナを気にして来てくれる人がいた。
それは、ルミナの胸の中に、小さな白い点のように残った。
彼女は、花を持っていない方の手を見た。
何もついていない。白く、小さく、まだ怖い手。
けれどその手は、いま、白い花を受け取ることができた。
ルミナは両手で花を包み、窓の外を見た。
エリオの背中は、もう庭の向こうへ消えかけている。途中で一度だけ振り返り、大きく手を振った。
ルミナは、少し迷ってから、白い花を片手に持ち替えた。
そして、もう一方の小さな手を、ほんの少しだけ振り返した。