白露の小妖精は、小さな薬箱と旅に出る   作:ザキグン

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高熱のあと、少女は赤を見た③

窓の外の声は、次の日も、その次の日も聞こえた。

子どもたちの笑い声。

庭の向こうの道を走る足音。

誰かが木の枝を拾って剣のまねをしているらしい、からん、と乾いた音。

春の終わりに近い日差しはやわらかく、カーテン越しの光は白い寝台の上まで届いていた。

 

ルミナは、その光の中で膝を抱えていた。

熱は、もうほとんど下がっている。

粥も少し食べられるようになった。

夜に泣いて起きる回数も、最初の日よりは減った。

 

けれど、外へ出ることはまだできなかった。

 

庭に出れば、赤い実が落ちているかもしれない。

転んで手を擦りむくかもしれない。

誰かが怪我をして、血を出すかもしれない。

そう思うと、扉の前まで行くだけで足が重くなった。

エリアナは無理に外へ連れ出そうとはしなかった。

「今日は窓辺まで行けたのね」

そう言って、できなかったことではなく、できたことだけを拾ってくれる。

オスカーも、庭仕事をする時は、ルミナの部屋から見える場所にいることが増えた。

柵を直したり、薪を積み直したり、雨どいを確かめたりする父の背中を、ルミナは窓の内側から見ていた。

父の大きな手は、木槌を握る。釘を押さえる。土を払う。家を直し、庭を整え、ルミナの眠る部屋を守る。

 

大きな手は、怖いだけではない。

そう思える日も、少しだけ増えていた。

それでも、窓の外は遠い。

その日も、ルミナはカーテンの端を小さく握っていた。

外では近所の子どもたちが、いつものように騒いでいる。声だけなら分かる子もいた。

少し鼻にかかった笑い声の子。

走るとすぐ大声になる子。

何かを決める時、必ず一番先に言い出す子。

そして、その中に、エリオの声がないことにも気づいていた。

 

エリオは、いつもなら一番うるさい。

棒切れを持ってきては、騎士ごっこだと言って庭の端を走り回る。

ルミナが座って見ているだけでも、「お前も見てろ、俺が一番強いからな」と勝手に胸を張る。

たまに転んで膝を擦りむいても、「痛くない」と言い張って、あとでこっそり涙目になる。

 

その声が聞こえないのは、少しだけ不思議だった。

ルミナがそんなことを思った時、玄関の方で何か小さな声がした。

「ルミナ、いるのか?」

ルミナは、カーテンを握る指に力を入れた。

エリオの声。

胸がどきりとする。嬉しいのか、怖いのか、自分でもよく分からなかった。

エリアナが玄関へ向かう足音が聞こえる。扉が開く音。低く交わされる声。

「こんにちは、エリオくん」

「あ、こんにちは。えっと……ルミナ、まだ寝てますか」

いつものエリオより、少し声が小さい。

エリアナはしばらく黙っていた。

たぶん、どう答えるか考えているのだろう。

ルミナは寝台の上で身を固くした。

会いたいような、会いたくないような気がする。

エリオに、赤い手のことを聞かれたらどうしよう。

怖い夢のことを笑われたらどうしよう。

外へ出ないことを、弱虫だと言われたらどうしよう。

けれど、扉の向こうから聞こえたエリオの声は、いつものように勢いだけで押してくるものではなかった。

 

「みんなが、ルミナ最近ぜんぜん外に出てこないって言ってたから」

少し間が空く。

「……ほんとに、まだ具合悪いのかと思って」

ルミナは、胸の奥が小さく揺れるのを感じた。

エリアナの足音が戻ってくる。部屋の戸が静かに開いた。

「ルミナ」

母は、いつものように急かさない声で言った。

「エリオくんが来てくれたわ。会うのがつらかったら、母さんがそう伝えるからね」

ルミナは毛布の上で、自分の手を見た。

白い手。

何もついていない手。

けれど、時々赤く見える手。

エリオに見られるのは怖い。

でも、会わないまま帰ってしまうのも、胸がきゅっとした。

「……窓、なら」

ルミナは小さく言った。

「窓のところでなら、会える」

エリアナは微笑んだ。

「分かったわ」

 

母は窓を少しだけ開る。外の風が部屋へ入ってくる。草の匂い。土の匂い。庭の柵を直した木の匂い。血の匂いではなかった。

ルミナは椅子に座り、窓辺まで少しずつ移動した。

足はまだ頼りない。

けれど、エリアナがすぐそばにいる。

部屋の奥には、オスカーの作ってくれた小さな踏み台も置いてある。

窓の外に、エリオがいた。

短い茶色の髪を風に跳ねさせ、いつもより少しきれいな服を着ている。

エリオは、ルミナを見るなり目を丸くした。

 

「……ほんとにいた」

「いるよ」

ルミナが小さく答えると、エリオは慌てたように眉を寄せた。

「いや、いるのは知ってたけど。ずっと出てこないから、すごく悪いのかと思った」

「熱は、もうあんまりないの」

「じゃあ、なんで外に来ないんだ」

いつものように、まっすぐな問いだった。

ルミナは答えに詰まった。

なんで、と聞かれても、うまく言えない。

 

手が赤く見えるから。

水も、果実も、布も、赤いものが怖いから。

夜になると、知らない男の人の手が泥に沈む夢を見るから。

外で転んで手が赤くなったら、自分が壊れてしまう気がするから。

 

そんなことを、どう言えばいいのか分からない。

ルミナは膝の上で手を握った。

エリオは、その動きを見た。

「手、痛いのか?」

「痛くは、ない」

「じゃあ、どうしたんだ」

ルミナは視線を落とす。窓辺の光が、自分の指先に落ちている。今日は赤くない。

けれど、言葉にしようとすると、また喉の奥に泥が詰まるようだった。

 

「夢を、見るの」

 

ようやく、それだけ言えた。

エリオは黙った。

ルミナは、少しずつ続ける。

「知らない男の人がいて……血がいっぱいで……手が、赤くて」

言いながら、自分の手をさらに強く握った。

「起きても、時々、わたしの手が赤く見えるの」

エリオは、すぐには笑わなかった。

いつものエリオなら、「夢だろ」とか「そんなの怖くない」とか言いそうだった。少なくとも、ルミナはそう思っていた。

けれど、窓の外のエリオは、眉を寄せたまま、じっとルミナの手を見ていた。

それから、少し困ったように自分の手を見た。

 

「……今は、赤くないぞ」

「うん」

「白いぞ」

「うん」

「ちっこいし」

「……ちっこいのは、関係ないよ」

ルミナが小さく抗議すると、エリオは少しだけ安心したような顔をした。

いつものルミナに少し戻ったと思ったのかもしれない。

けれど、そのあとすぐ、彼は真面目な顔になった。

「怖い夢って、どれくらい怖いんだ」

「……眠るのが、こわいくらい」

「そんなにか」

ルミナは頷いた。

エリオは腕を組んだ。六歳の子どもが精一杯大人のように考えている顔だった。いつもならすぐに強い言葉を言うのに、今日は少しだけ時間がかかった。

やがて、エリオは窓の下でぐっと拳を握った。

 

「じゃあ、俺が守る」

 

ルミナは瞬きをした。

「え?」

「ちっこいお前は俺が守ってやるから泣くな!」

いつものエリオの声だった。

少し大きくて、少し無茶で、自分でも本当にできるか分かっていないのに、できると信じている声。

ルミナは驚いて、それから、少しだけ困った。

胸の奥が温かくなる、けれど、夢の中には誰も来られない。

父の手でさえ、夢の底までは届かないことがある。

エリオがどれだけ胸を張っても、泥と血の夢の中に入ってくることはできない。

だから、ルミナは小さく首を振った。

 

「エリオくん、夢の中までは来られないよ」

エリオは、ぴたりと固まった。

考えていなかったのだろう。

口を開け、閉じ、もう一度開ける。

庭の風が、曲がった襟を揺らした。

「……それは」

「うん」

「たしかに、寝てる時は、俺も寝てるかもしれないし」

「うん」

「お前の夢がどこにあるかも、分からないし」

「うん」

 

エリオは真剣に悩んでいた。

ルミナは、その顔を見ていた。

おかしな顔だった。眉は寄っているし、唇は尖っているし、腕は組んだままなのに、足先だけが落ち着かずに土をこすっている。

けれど、その全部が、ルミナのことを本気で考えてくれている顔だった。

やがてエリオは、何かを決めたように顔を上げた。

 

「じゃあ、起きてる時は守る!」

 

ルミナは、今度こそ言葉を失った。

エリオは、勢いを取り戻したように続ける。

「夢の中までは行けないけど、起きてる時ならいる。外に出るのが怖かったら、俺が先に赤いものがないか見る。転びそうなら、先に言う。変なやつが来たら追い払う」

「変な人は、あんまり来ないと思う」

「分からないだろ。変な鳥とかもいるかもしれない」

「鳥?」

「赤いやつ」

エリオは大真面目だった。

ルミナは、少しだけ息を吸った。

その息は、泣く時の息ではなかった。

胸の奥に詰まっていたものが、ほんの少しだけほどけるような息だった。

「エリオくん」

「なんだ」

「赤い鳥は、たぶんこわくないよ」

「じゃあ、赤い鳥は見逃してやる」

あまりにも偉そうに言うので、ルミナは思わず笑ってしまった。

ほんの小さな笑いだった。声になったかどうかも分からないくらい。けれど、笑った。

エリアナが、すぐそばで息を止めた気配がした。

窓の外のエリオは、ルミナが笑ったことに気づき、得意そうに胸を張った。

 

「ほら、笑った」

「……少しだけだよ」

「少しでも笑ったら勝ちだ」

「勝ちなの?」

「勝ちだ」

ルミナは、また少しだけ笑った。

笑うと、胸が痛かった。長く泣いたあとみたいに、喉も少しひりついた。

けれど、嫌な痛みではなかった。

エリオは窓の下にしゃがみ込み、庭の草を一本抜いた。

細い白い花がついている。

いつもの彼なら、そのまま剣のように振り回すところだが、今日は少し迷ってから、窓辺にそっと置いた。

 

「これ、やる」

「お花?」

「赤くないやつ」

ルミナは、白い小花を見た。

本当に、赤くない。

小さくて、頼りなくて、風が吹けば折れてしまいそうな花だった。けれど、窓辺の光の中で、ちゃんと白かった。

ルミナは手を伸ばしかけて、途中で止まった。

窓の外へ手を出すのが、少し怖かった。外の空気に触れたら、手がまた赤く見えるかもしれない。

エリオはそれを見て、花をもう少し窓の内側へ押した。

「取れそうなところまで置くから」

「うん」

ルミナは、ゆっくり手を伸ばした。

白い花に触れる。花びらは少し冷たく、茎は細く、指で強くつまめばすぐ折れてしまいそうだった。

手は赤くならなかった。

ルミナは花を受け取り、胸の前でそっと包んだ。

 

「ありがとう」

小さな声で言うと、エリオは耳まで赤くした。

「べ、別に。俺は守るって決めたからな」

そう言ってから、彼は急に視線をそらした。

「また来る」

「うん」

「外に出られそうなら、呼べよ」

「うん」

「無理なら、窓でいい」

その言い方が、少しだけ父や母に似ていた。無理に連れ出すのではなく、ルミナが来られる場所まで来る、と言ってくれている気がした。

「……うん」

ルミナが頷くと、エリオはようやく満足したように立ち上がった。

そして、帰り際にもう一度振り返る。

「夢の中は無理でも、起きてる時は守るからな!」

 

庭いっぱいに響く声だった。

ルミナは驚いて肩をすくめたが、今度は泣かなかった。

エリアナが窓を少し閉める。風がやわらかくなり、部屋の中に白い小花の匂いが残った。

ルミナは、膝の上に置いた花を見た。

 

赤くない花。

エリオがくれた花。

起きている時は守る、と言ってくれた、少し乱暴で、少しおかしな約束。

その約束だけで、夜の夢が消えるわけではない。

手が赤く見えなくなるわけでもない。明日すぐに外へ走り出せるわけでもない。

けれど、窓の外に、ルミナを気にして来てくれる人がいた。

それは、ルミナの胸の中に、小さな白い点のように残った。

 

彼女は、花を持っていない方の手を見た。

何もついていない。白く、小さく、まだ怖い手。

けれどその手は、いま、白い花を受け取ることができた。

ルミナは両手で花を包み、窓の外を見た。

エリオの背中は、もう庭の向こうへ消えかけている。途中で一度だけ振り返り、大きく手を振った。

ルミナは、少し迷ってから、白い花を片手に持ち替えた。

そして、もう一方の小さな手を、ほんの少しだけ振り返した。

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