白露の小妖精は、小さな薬箱と旅に出る   作:ザキグン

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高熱のあと、少女は赤を見た④

その夜、ルミナは早く寝かされた。

 

昼間、エリオが来てくれたことで少しだけ笑うことはできた。

けれど、眠る前になると、やはり手のひらを何度も確かめてしまう。

 

母に洗ってもらった手。

父の大きな手に包まれて夜を越えた手。

エリオに「起きている時は守る」と言われた手。

そこに血はついていない。

けれど、ルミナにはまだ、ときどき赤く見えた。

エリアナは、寝台のそばでしばらくルミナの髪を撫でていた。

銀色の髪は熱が下がってから少し艶を取り戻していたが、頬の色はまだ薄い。

まつげの下に残る影も、子どもらしい眠たさだけではなかった。

 

「お母さん」

眠りに落ちかけたルミナが、小さく呼んだ。

「なあに、ルミナ」

「明日も、赤く見える?」

その問いに、エリアナはすぐ答えられなかった。

大丈夫よ、と言ってあげたい。

明日には消えるわ、と言ってあげたい。

けれど、その言葉が本当かどうか、エリアナには分からない。

だから、彼女は嘘をつかなかった。

 

「分からないわ」

ルミナの指が、掛け布の端をきゅっと握る。

エリアナは、その小さな手に自分の手を重ねた。

「でも、赤く見えても、見えなくても、お母さんは何度でも一緒に見るわ。怖かったら、何度でも拭きましょう。何度でも、あなたの手は綺麗だって言うわ」

ルミナは、少しだけ目を開けた。淡い青の瞳が、眠気と不安で揺れている。

「何度でも?」

「ええ。何度でも」

「……じゃあ、明日も、言って」

「もちろん」

そう答えると、ルミナは安心したように目を閉じた。

けれど、本当に眠るまでにはまだ少しかかった。

息が浅くなりかけるたび、エリアナは小さな手を包み直した。

扉の近くにいたオスカーは、椅子を寄せることもせず、ただ静かにその様子を見守っていた。

 

やがて、ルミナの呼吸がゆっくりになった。

エリアナは、しばらくその寝顔を見つめていた。

幼い額。まだ丸みの残る頬。

熱に苦しんでいた時よりは穏やかになった寝息。

だが、眠りながらも、ルミナの指はときどき何かを探すように動いた。

エリアナはそっと立ち上がり、音を立てないように部屋を出た。

廊下には、夜の冷えた空気が薄く流れていた。

家の中は静かで、台所の火も落とされている。

窓の外では、遅い風が庭木を揺らしていた。

居間に戻ると、オスカーが先に椅子に座っていた。

眠っていないことは、顔を見れば分かった。

彼はいつものように多くを語らず、ただ机の上のランプの火を少し弱めた。

 

「眠ったか」

「ええ。でも、怖いのはまだ消えていないわ」

エリアナは椅子に腰を下ろした。

座った瞬間、張り詰めていたものが少し緩み、膝の上で組んだ手に力が入る。

「あの子、明日も赤く見えるかって聞いたの」

オスカーは目を伏せた。

「……そうか」

「私、分からないって答えたわ。大丈夫とだけ言えなかった」

「それでいい」

短い返事だった……けれど、その声は静かで、責めるものではなかった。

エリアナは小さく息を吐いた。

「でも、このまま家の中だけで抱えさせていいのかしら」

オスカーはすぐには答えなかった。彼はルミナの部屋がある方へ顔を向け、それから自分の手を見た。大きな手だった。仕事で硬くなった手。夜、ルミナが握って眠った手。

「熱は下がった」

「ええ」

「食事も、少しずつ取れている」

「ええ。でも、心は……」

エリアナは言葉を切った。心、と言ってしまってから、それだけでは足りない気がした。ルミナの中で何が起きているのか、二人には分からない。

高熱のせいなのか、ただの怖い夢なのか。

 

それとも、もっと別のものなのか。

 

分からない。

分からないからこそ、怖い。

オスカーは、机の上で組んだ手をほどいた。

 

「白露の小治療院へ行こう」

エリアナは顔を上げた。

「メリゼル先生のところ?」

「ああ」

白露の小治療院。リーフェンベルクの街の端、薬草の庭を持つ小さな治療院。白い壁と淡い青のカーテンが目印で、熱を出した子どもから依頼帰りの冒険者まで、いろいろな者がそこを訪れる。

院長のメリゼル・クラウディアは、王都の治癒院にいたこともあるという元一等治療師だ。

けれど、エリアナが思い出すのは肩書きよりも、待合室で泣いている子どもに膝を折って話しかけていた姿だった。

痛みを急いで消す前に、まず相手の目を見て、声をかける人。

「メリゼル先生なら、体だけでなく、不安も見てくださるかもしれないわね」

「分からないことを、分からないまま家に閉じ込めるよりはいい」

オスカーはそう言った。いつも通り、言葉は少ない。だが、そこには決めた人の静かさがあった。

エリアナは頷いた。

 

「明日、連れていきましょう」

「ああ」

少し沈黙が落ちた。

廊下の奥で、ルミナが寝返りを打つような小さな音がした。エリアナは反射的に立ち上がりかける。オスカーも顔を上げた。

しかし、泣き声は聞こえなかった。少し待つと、また静かな寝息だけが戻ってくる。

エリアナは胸に手を当てた。

「あの子の手、本当に小さいの」

「ああ」

「あんな小さな手で、何をそんなに怖がっているのかしら」

オスカーは答えなかった。答えられるはずもなかった。

ただ、彼は立ち上がり、ランプの火をもう少し小さくした。夜を長くしすぎないための、ささやかな仕草だった。

「明日、行こう」

「ええ」

その夜、二人はいつもより長く眠れなかった。

けれど、決めたことが一つあるだけで、部屋の空気はほんの少し変わっていた。

恐怖の名前はまだ分からない。

けれど、明日、その恐怖を一緒に見てくれる人のところへ行く。

そのことだけが、灯を落とした居間に、かすかな明るさのように残っていた。

 

 

 

翌朝、ルミナはいつもより早く目を覚ました。

目を開けて最初にしたことは、やはり手を見ることだった。

寝台の上に置かれた自分の手。細くて、小さくて、まだ熱の名残で少し力の入らない手。朝の光を受けて、指先は白く見えた。

 

赤くはない。

 

ルミナはゆっくり息を吐いた。けれど、安心したのはほんの少しだけだった。赤くない、と分かった途端、今度は「また赤く見えるかもしれない」という思いが胸の奥に座り込む。

そこへ、エリアナが部屋へ入ってきた。

「おはよう、ルミナ」

「おはよう……お母さん」

エリアナは、まず娘の顔を見て、それから手を見る。

ルミナが自分の手を確認していることに気づいても、急いで隠させたり、見ないふりをさせたりはしなかった。

「今日は、白露の小治療院へ行きましょう」

ルミナは瞬きをした。

「ちりょういん?」

「ええ。メリゼル先生に、怖い夢のことを少し相談してみるの」

「病気なの?」

「病気かどうかを、先生に一緒に見てもらうのよ」

ルミナは掛け布を握った。

治療院と聞くと、少し怖かった。

 

知らない場所。

知らない先生。

自分の手を見られるかもしれない場所。

 

けれど、家の中にいても怖いものは消えなかった。

水桶も、赤い布も、眠る前の暗さも、全部が時々、夢の中へつながってしまう。

「お母さんも、行く?」

「もちろん」

「お父さんも?」

扉の向こうから、低い声がした。

「行く」

オスカーが顔を出していた。

仕事着ではなく、外出用の上着を羽織っている。

ルミナはそれを見て、少しだけ目を丸くした。

父が一緒に行くのだと分かると、胸の中の硬いものがほんの少し緩む。

 

朝食は、いつもよりゆっくりだった。

ルミナは柔らかいパンを少しと、温めたミルクを飲んだ。

パンの焼けた香りは嫌ではなかった。

けれど、赤い木苺のジャムが小皿に置かれた時、手が止まった。

エリアナは、すぐに小皿を遠ざけようとはしなかった。まずルミナを見る。

「今日は、蜂蜜にしましょうか」

「……うん」

赤いジャムは、何も悪くない。

分かっている。けれど、今のルミナには、そこに目を置き続けるのが難しかった。

エリアナは蜂蜜を薄く塗ったパンを小さくちぎって渡した。ルミナはそれを両手で受け取り、少しずつ食べた。指に蜂蜜がついて、光った。金色で、赤ではなかった。

 

 

支度を終えると、エリアナが淡い青のリボンでルミナの髪を結んだ。

銀色の髪が、朝の光の中でふわりと揺れる。

熱で寝込む前より少し細く見える肩に、薄手の外套を掛けられると、ルミナは袖口から出た自分の手をまた見た。

「手、握っていていい?」

ルミナが小さく聞く。

エリアナは微笑んだ。

「もちろん」

玄関で、オスカーも手を差し出した。

ルミナは右手で母の手を、左手で父の指を握った。

二人の手の大きさは違う。

母の手は柔らかく、父の手は硬い。けれど、どちらも温かかった。

 

家の扉が開く。

 

外の空気は、思っていたより明るかった。

朝のリーフェンベルクには、いろいろな音があった。

遠くでパン屋の扉が開く音。

水を汲む桶の音。

荷車の車輪が石畳を叩く音。

どこかの家から聞こえる子どもの笑い声。

数日前まで、ルミナはその音の中へ出ていくのが普通だった。

エリオや近所の子どもたちに呼ばれ、庭先で遊び、転んで膝を汚し、母に叱られて、父に笑われる。

けれど今は、同じ街が少しだけ遠い場所のように感じられた。

石畳の隙間に残った朝露が光っている。店先に並ぶ果物の中には、赤いものもある。

干された布が風に揺れる。

 

そのうち一枚が濃い赤だった。

 

ルミナの足が止まる。

「ルミナ?」

エリアナが名を呼ぶ。

赤い布は、ただの布だった。

洗濯され、風に揺れ、朝の光を受けているだけの布。

誰の血でもない。泥の中に落ちたものでもない。

それでも、一瞬、布の端から赤が滴るように見えた。

ルミナは父と母の手を強く握った。

オスカーは歩みを止めた。エリアナも止まる。二人とも、早く行こうとは言わなかった。

「赤い布ね」

エリアナが静かに言った。

ルミナはこくりと頷く。

「怖い?」

もう一度、頷く。

エリアナは、ルミナの手を包む指に少しだけ力を込めた。

「では、少しだけ一緒に立っていましょう」

立っているだけでいいのか、ルミナには分からなかった。けれど、母がそう言うなら、少なくとも今すぐ逃げなくてもいい気がした。

風が吹く。赤い布が揺れる。何度か揺れて、やがてただの布に戻っていく。

ルミナは小さく息を吸った。

 

「……もう、いい」

「そう」

エリアナは歩き出した。オスカーも、それに合わせる。ルミナは二人の間で、また小さな歩幅を進めた。

道の途中、薬草市の横を通った。木箱に入れられた乾いた葉、束ねられた青い草、瓶に詰められた蜜のようなもの。そこから、少し不思議な匂いがした。苦いような、甘いような、日なたで乾いた草のような匂い。

ルミナは、その匂いに少しだけ顔を上げた。

血の匂いではなかった。

夢の中で何度も嗅いだ、あの鉄のような匂いではない。

「あれは、薬草よ」

エリアナが言った。

「くすりの草?」

「ええ。熱を下げるものや、眠りやすくするもの、痛みを和らげるもの。いろいろあるの」

ルミナは、薬草の束を見た。

草はただ草で、何かを怖がらせるものには見えなかった。

けれど、それで誰かの熱が下がったり、痛みが少し楽になったりするのだという。

 

不思議だった。

 

「白露の小治療院にも、薬草がある?」

「あるわ。窓辺にも、お庭にも」

「血の匂い、しない?」

その問いに、エリアナは一瞬だけ胸が締めつけられた。

治療院なのだから、怪我人が来ることもある。

血を見ることも、きっとある。

けれど、ルミナが今聞いているのは、そういう意味だけではない。

エリアナは答えを選んだ。

「薬草の匂いがすると思うわ」

ルミナは少し考え、頷いた。

「薬草の匂い……」

その言葉を覚えるように、口の中で繰り返す。

やがて、街の賑わいが少し薄くなり、道は静かな通りへ入った。石畳はよく掃かれていて、家々の窓辺には小さな鉢植えが並んでいる。奥に、白い壁の建物が見えた。

エリアナの手が、少しだけルミナの手を握り直す。

 

「見えてきたわ」

ルミナは顔を上げた。

白い建物だった。

大きなお城のようなものではない。

商会の建物のように立派でもない。

けれど、朝の光の中で、そこだけ静かに白く見えた。

窓には淡い青のカーテンがかかり、入口の横には知らない草が植えられた鉢が置かれている。

白露の小治療院。

その名前を、ルミナはまだうまく言えなかった。

けれど、白い壁と薬草の匂いは、少しだけ胸に残った。

 

白露の小治療院の前に立つと、ルミナは足を止めた。

近くで見ると、その建物はやはり小さく、白く塗られた壁は、強い白ではなく、朝の光を吸って柔らかく見える白だった。

木の扉は磨かれていて、取っ手の金具には小さな手の跡がいくつも残っている。

窓辺には、名前も知らない草が並んでいた。

 

細い葉のもの。

丸い葉のもの。

小さな白い花をつけたもの。

風が吹くたび、その葉がかすかに揺れる。

 

その時、ふわりと匂いがした。

乾いた葉。温かいお茶。日に干した布。

全部が少しずつ混ざったような、初めてなのに、どこか静かな匂いだった。

 

ルミナは、そっと自分の手を見た。

小さな手だった。母に何度も拭いてもらった手。父の大きな手に包まれて夜を越えた手。エリオに「起きている時は守る」と言われた手。

そこに、血はついていない。

けれど、ルミナはまだ、それを信じきることができなかった。

朝の光の中で見れば白い。母の手の中にあれば温かい。父の指を握れば少し落ち着く。

それでも、目を閉じれば、また赤く濡れてしまう気がして。

エリアナが優しく握り返してくれる。オスカーは何も言わず、歩く速さをルミナに合わせたまま扉の前で止まってくれた。

 

「ここ?」

ルミナが小さく聞く。

「ええ。白露の小治療院よ」

エリアナの声は、少しだけ緊張していた。

母もまったく不安がないわけではないのだと、ルミナには分からない。

ただ、手の温かさで、母がそこにいることだけは分かった。

オスカーが扉へ目を向ける。

「入れるか?」

それは急かす言葉ではなかった。行くぞ、ではない。入れるか?、と聞いてくれた。

ルミナは白い扉を見上げた。

扉の向こうに何があるのか、まだ知らない。

怖いことを聞かれるかもしれない。

手を見せてと言われるかもしれない。

夢の話をしなければならないかもしれない。

 

けれど、扉の隙間から流れてくる匂いは、血ではなかった。

 

薬草の匂いだった。

ルミナは小さく頷いた。

「……手、握ってて」

「ええ」

「ああ」

母と父の返事が、左右から重なった。

オスカーはルミナがもう一度、小さく頷くのを待ってから、取っ手に手をかける。

その時、扉の向こうから、誰かの声が聞こえた。

低い声ではない。急かす声でも、叱る声でもない。

静かで、柔らかく、温かいお茶の湯気のように、扉の向こうから届いた。

 

「どうぞ、お入りくださいな」

 

ルミナは、びくりと肩を震わせた。

けれど、逃げなかった。

母の手と父の手を握ったまま、白い扉を見上げる。

薬草の香りが、もう一度ふわりと流れてきた。

ルミナの手に、血はついていなかった。

けれど、まだそれを信じることはできなかった。

だから彼女は、父と母の手をぎゅっと握った。

 

白い扉の向こうから、穏やかな声がしていた。

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