その夜、ルミナは早く寝かされた。
昼間、エリオが来てくれたことで少しだけ笑うことはできた。
けれど、眠る前になると、やはり手のひらを何度も確かめてしまう。
母に洗ってもらった手。
父の大きな手に包まれて夜を越えた手。
エリオに「起きている時は守る」と言われた手。
そこに血はついていない。
けれど、ルミナにはまだ、ときどき赤く見えた。
エリアナは、寝台のそばでしばらくルミナの髪を撫でていた。
銀色の髪は熱が下がってから少し艶を取り戻していたが、頬の色はまだ薄い。
まつげの下に残る影も、子どもらしい眠たさだけではなかった。
「お母さん」
眠りに落ちかけたルミナが、小さく呼んだ。
「なあに、ルミナ」
「明日も、赤く見える?」
その問いに、エリアナはすぐ答えられなかった。
大丈夫よ、と言ってあげたい。
明日には消えるわ、と言ってあげたい。
けれど、その言葉が本当かどうか、エリアナには分からない。
だから、彼女は嘘をつかなかった。
「分からないわ」
ルミナの指が、掛け布の端をきゅっと握る。
エリアナは、その小さな手に自分の手を重ねた。
「でも、赤く見えても、見えなくても、お母さんは何度でも一緒に見るわ。怖かったら、何度でも拭きましょう。何度でも、あなたの手は綺麗だって言うわ」
ルミナは、少しだけ目を開けた。淡い青の瞳が、眠気と不安で揺れている。
「何度でも?」
「ええ。何度でも」
「……じゃあ、明日も、言って」
「もちろん」
そう答えると、ルミナは安心したように目を閉じた。
けれど、本当に眠るまでにはまだ少しかかった。
息が浅くなりかけるたび、エリアナは小さな手を包み直した。
扉の近くにいたオスカーは、椅子を寄せることもせず、ただ静かにその様子を見守っていた。
やがて、ルミナの呼吸がゆっくりになった。
エリアナは、しばらくその寝顔を見つめていた。
幼い額。まだ丸みの残る頬。
熱に苦しんでいた時よりは穏やかになった寝息。
だが、眠りながらも、ルミナの指はときどき何かを探すように動いた。
エリアナはそっと立ち上がり、音を立てないように部屋を出た。
廊下には、夜の冷えた空気が薄く流れていた。
家の中は静かで、台所の火も落とされている。
窓の外では、遅い風が庭木を揺らしていた。
居間に戻ると、オスカーが先に椅子に座っていた。
眠っていないことは、顔を見れば分かった。
彼はいつものように多くを語らず、ただ机の上のランプの火を少し弱めた。
「眠ったか」
「ええ。でも、怖いのはまだ消えていないわ」
エリアナは椅子に腰を下ろした。
座った瞬間、張り詰めていたものが少し緩み、膝の上で組んだ手に力が入る。
「あの子、明日も赤く見えるかって聞いたの」
オスカーは目を伏せた。
「……そうか」
「私、分からないって答えたわ。大丈夫とだけ言えなかった」
「それでいい」
短い返事だった……けれど、その声は静かで、責めるものではなかった。
エリアナは小さく息を吐いた。
「でも、このまま家の中だけで抱えさせていいのかしら」
オスカーはすぐには答えなかった。彼はルミナの部屋がある方へ顔を向け、それから自分の手を見た。大きな手だった。仕事で硬くなった手。夜、ルミナが握って眠った手。
「熱は下がった」
「ええ」
「食事も、少しずつ取れている」
「ええ。でも、心は……」
エリアナは言葉を切った。心、と言ってしまってから、それだけでは足りない気がした。ルミナの中で何が起きているのか、二人には分からない。
高熱のせいなのか、ただの怖い夢なのか。
それとも、もっと別のものなのか。
分からない。
分からないからこそ、怖い。
オスカーは、机の上で組んだ手をほどいた。
「白露の小治療院へ行こう」
エリアナは顔を上げた。
「メリゼル先生のところ?」
「ああ」
白露の小治療院。リーフェンベルクの街の端、薬草の庭を持つ小さな治療院。白い壁と淡い青のカーテンが目印で、熱を出した子どもから依頼帰りの冒険者まで、いろいろな者がそこを訪れる。
院長のメリゼル・クラウディアは、王都の治癒院にいたこともあるという元一等治療師だ。
けれど、エリアナが思い出すのは肩書きよりも、待合室で泣いている子どもに膝を折って話しかけていた姿だった。
痛みを急いで消す前に、まず相手の目を見て、声をかける人。
「メリゼル先生なら、体だけでなく、不安も見てくださるかもしれないわね」
「分からないことを、分からないまま家に閉じ込めるよりはいい」
オスカーはそう言った。いつも通り、言葉は少ない。だが、そこには決めた人の静かさがあった。
エリアナは頷いた。
「明日、連れていきましょう」
「ああ」
少し沈黙が落ちた。
廊下の奥で、ルミナが寝返りを打つような小さな音がした。エリアナは反射的に立ち上がりかける。オスカーも顔を上げた。
しかし、泣き声は聞こえなかった。少し待つと、また静かな寝息だけが戻ってくる。
エリアナは胸に手を当てた。
「あの子の手、本当に小さいの」
「ああ」
「あんな小さな手で、何をそんなに怖がっているのかしら」
オスカーは答えなかった。答えられるはずもなかった。
ただ、彼は立ち上がり、ランプの火をもう少し小さくした。夜を長くしすぎないための、ささやかな仕草だった。
「明日、行こう」
「ええ」
その夜、二人はいつもより長く眠れなかった。
けれど、決めたことが一つあるだけで、部屋の空気はほんの少し変わっていた。
恐怖の名前はまだ分からない。
けれど、明日、その恐怖を一緒に見てくれる人のところへ行く。
そのことだけが、灯を落とした居間に、かすかな明るさのように残っていた。
翌朝、ルミナはいつもより早く目を覚ました。
目を開けて最初にしたことは、やはり手を見ることだった。
寝台の上に置かれた自分の手。細くて、小さくて、まだ熱の名残で少し力の入らない手。朝の光を受けて、指先は白く見えた。
赤くはない。
ルミナはゆっくり息を吐いた。けれど、安心したのはほんの少しだけだった。赤くない、と分かった途端、今度は「また赤く見えるかもしれない」という思いが胸の奥に座り込む。
そこへ、エリアナが部屋へ入ってきた。
「おはよう、ルミナ」
「おはよう……お母さん」
エリアナは、まず娘の顔を見て、それから手を見る。
ルミナが自分の手を確認していることに気づいても、急いで隠させたり、見ないふりをさせたりはしなかった。
「今日は、白露の小治療院へ行きましょう」
ルミナは瞬きをした。
「ちりょういん?」
「ええ。メリゼル先生に、怖い夢のことを少し相談してみるの」
「病気なの?」
「病気かどうかを、先生に一緒に見てもらうのよ」
ルミナは掛け布を握った。
治療院と聞くと、少し怖かった。
知らない場所。
知らない先生。
自分の手を見られるかもしれない場所。
けれど、家の中にいても怖いものは消えなかった。
水桶も、赤い布も、眠る前の暗さも、全部が時々、夢の中へつながってしまう。
「お母さんも、行く?」
「もちろん」
「お父さんも?」
扉の向こうから、低い声がした。
「行く」
オスカーが顔を出していた。
仕事着ではなく、外出用の上着を羽織っている。
ルミナはそれを見て、少しだけ目を丸くした。
父が一緒に行くのだと分かると、胸の中の硬いものがほんの少し緩む。
朝食は、いつもよりゆっくりだった。
ルミナは柔らかいパンを少しと、温めたミルクを飲んだ。
パンの焼けた香りは嫌ではなかった。
けれど、赤い木苺のジャムが小皿に置かれた時、手が止まった。
エリアナは、すぐに小皿を遠ざけようとはしなかった。まずルミナを見る。
「今日は、蜂蜜にしましょうか」
「……うん」
赤いジャムは、何も悪くない。
分かっている。けれど、今のルミナには、そこに目を置き続けるのが難しかった。
エリアナは蜂蜜を薄く塗ったパンを小さくちぎって渡した。ルミナはそれを両手で受け取り、少しずつ食べた。指に蜂蜜がついて、光った。金色で、赤ではなかった。
支度を終えると、エリアナが淡い青のリボンでルミナの髪を結んだ。
銀色の髪が、朝の光の中でふわりと揺れる。
熱で寝込む前より少し細く見える肩に、薄手の外套を掛けられると、ルミナは袖口から出た自分の手をまた見た。
「手、握っていていい?」
ルミナが小さく聞く。
エリアナは微笑んだ。
「もちろん」
玄関で、オスカーも手を差し出した。
ルミナは右手で母の手を、左手で父の指を握った。
二人の手の大きさは違う。
母の手は柔らかく、父の手は硬い。けれど、どちらも温かかった。
家の扉が開く。
外の空気は、思っていたより明るかった。
朝のリーフェンベルクには、いろいろな音があった。
遠くでパン屋の扉が開く音。
水を汲む桶の音。
荷車の車輪が石畳を叩く音。
どこかの家から聞こえる子どもの笑い声。
数日前まで、ルミナはその音の中へ出ていくのが普通だった。
エリオや近所の子どもたちに呼ばれ、庭先で遊び、転んで膝を汚し、母に叱られて、父に笑われる。
けれど今は、同じ街が少しだけ遠い場所のように感じられた。
石畳の隙間に残った朝露が光っている。店先に並ぶ果物の中には、赤いものもある。
干された布が風に揺れる。
そのうち一枚が濃い赤だった。
ルミナの足が止まる。
「ルミナ?」
エリアナが名を呼ぶ。
赤い布は、ただの布だった。
洗濯され、風に揺れ、朝の光を受けているだけの布。
誰の血でもない。泥の中に落ちたものでもない。
それでも、一瞬、布の端から赤が滴るように見えた。
ルミナは父と母の手を強く握った。
オスカーは歩みを止めた。エリアナも止まる。二人とも、早く行こうとは言わなかった。
「赤い布ね」
エリアナが静かに言った。
ルミナはこくりと頷く。
「怖い?」
もう一度、頷く。
エリアナは、ルミナの手を包む指に少しだけ力を込めた。
「では、少しだけ一緒に立っていましょう」
立っているだけでいいのか、ルミナには分からなかった。けれど、母がそう言うなら、少なくとも今すぐ逃げなくてもいい気がした。
風が吹く。赤い布が揺れる。何度か揺れて、やがてただの布に戻っていく。
ルミナは小さく息を吸った。
「……もう、いい」
「そう」
エリアナは歩き出した。オスカーも、それに合わせる。ルミナは二人の間で、また小さな歩幅を進めた。
道の途中、薬草市の横を通った。木箱に入れられた乾いた葉、束ねられた青い草、瓶に詰められた蜜のようなもの。そこから、少し不思議な匂いがした。苦いような、甘いような、日なたで乾いた草のような匂い。
ルミナは、その匂いに少しだけ顔を上げた。
血の匂いではなかった。
夢の中で何度も嗅いだ、あの鉄のような匂いではない。
「あれは、薬草よ」
エリアナが言った。
「くすりの草?」
「ええ。熱を下げるものや、眠りやすくするもの、痛みを和らげるもの。いろいろあるの」
ルミナは、薬草の束を見た。
草はただ草で、何かを怖がらせるものには見えなかった。
けれど、それで誰かの熱が下がったり、痛みが少し楽になったりするのだという。
不思議だった。
「白露の小治療院にも、薬草がある?」
「あるわ。窓辺にも、お庭にも」
「血の匂い、しない?」
その問いに、エリアナは一瞬だけ胸が締めつけられた。
治療院なのだから、怪我人が来ることもある。
血を見ることも、きっとある。
けれど、ルミナが今聞いているのは、そういう意味だけではない。
エリアナは答えを選んだ。
「薬草の匂いがすると思うわ」
ルミナは少し考え、頷いた。
「薬草の匂い……」
その言葉を覚えるように、口の中で繰り返す。
やがて、街の賑わいが少し薄くなり、道は静かな通りへ入った。石畳はよく掃かれていて、家々の窓辺には小さな鉢植えが並んでいる。奥に、白い壁の建物が見えた。
エリアナの手が、少しだけルミナの手を握り直す。
「見えてきたわ」
ルミナは顔を上げた。
白い建物だった。
大きなお城のようなものではない。
商会の建物のように立派でもない。
けれど、朝の光の中で、そこだけ静かに白く見えた。
窓には淡い青のカーテンがかかり、入口の横には知らない草が植えられた鉢が置かれている。
白露の小治療院。
その名前を、ルミナはまだうまく言えなかった。
けれど、白い壁と薬草の匂いは、少しだけ胸に残った。
白露の小治療院の前に立つと、ルミナは足を止めた。
近くで見ると、その建物はやはり小さく、白く塗られた壁は、強い白ではなく、朝の光を吸って柔らかく見える白だった。
木の扉は磨かれていて、取っ手の金具には小さな手の跡がいくつも残っている。
窓辺には、名前も知らない草が並んでいた。
細い葉のもの。
丸い葉のもの。
小さな白い花をつけたもの。
風が吹くたび、その葉がかすかに揺れる。
その時、ふわりと匂いがした。
乾いた葉。温かいお茶。日に干した布。
全部が少しずつ混ざったような、初めてなのに、どこか静かな匂いだった。
ルミナは、そっと自分の手を見た。
小さな手だった。母に何度も拭いてもらった手。父の大きな手に包まれて夜を越えた手。エリオに「起きている時は守る」と言われた手。
そこに、血はついていない。
けれど、ルミナはまだ、それを信じきることができなかった。
朝の光の中で見れば白い。母の手の中にあれば温かい。父の指を握れば少し落ち着く。
それでも、目を閉じれば、また赤く濡れてしまう気がして。
エリアナが優しく握り返してくれる。オスカーは何も言わず、歩く速さをルミナに合わせたまま扉の前で止まってくれた。
「ここ?」
ルミナが小さく聞く。
「ええ。白露の小治療院よ」
エリアナの声は、少しだけ緊張していた。
母もまったく不安がないわけではないのだと、ルミナには分からない。
ただ、手の温かさで、母がそこにいることだけは分かった。
オスカーが扉へ目を向ける。
「入れるか?」
それは急かす言葉ではなかった。行くぞ、ではない。入れるか?、と聞いてくれた。
ルミナは白い扉を見上げた。
扉の向こうに何があるのか、まだ知らない。
怖いことを聞かれるかもしれない。
手を見せてと言われるかもしれない。
夢の話をしなければならないかもしれない。
けれど、扉の隙間から流れてくる匂いは、血ではなかった。
薬草の匂いだった。
ルミナは小さく頷いた。
「……手、握ってて」
「ええ」
「ああ」
母と父の返事が、左右から重なった。
オスカーはルミナがもう一度、小さく頷くのを待ってから、取っ手に手をかける。
その時、扉の向こうから、誰かの声が聞こえた。
低い声ではない。急かす声でも、叱る声でもない。
静かで、柔らかく、温かいお茶の湯気のように、扉の向こうから届いた。
「どうぞ、お入りくださいな」
ルミナは、びくりと肩を震わせた。
けれど、逃げなかった。
母の手と父の手を握ったまま、白い扉を見上げる。
薬草の香りが、もう一度ふわりと流れてきた。
ルミナの手に、血はついていなかった。
けれど、まだそれを信じることはできなかった。
だから彼女は、父と母の手をぎゅっと握った。
白い扉の向こうから、穏やかな声がしていた。