白露の小妖精は、小さな薬箱と旅に出る   作:ザキグン

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白露の小治療院と、帰る人たち①

白い扉の向こうから、やわらかな声がした。

 それは、ルミナが夢の中で聞いた声とは違っていた。

 夢の中の声は、いつも遠かった。叫び声も、怒鳴る声も、誰かを呼ぶ声も、泥と雨に混ざって、耳の奥をざらざらとこすっていく。

はっきり聞こえるのに、どこにも届かない声だった。

 けれど、扉の向こうの声は、近かった。

 近いのに、押しつけてこない。細い糸のようにそっと伸びてきて、扉の前で立ち止まっているルミナの足元に、静かに置かれるような声だった。

 

「どうぞ、お入りくださいな」

 

 エリアナの手が、ルミナの右手を少しだけ強く握った。

 オスカーの大きな手は、左側にあった。

熱を出して目覚めたあの夜から何度も握った手。

温かくて、乾いていて、急かさない手。ルミナはその手を握ったまま、白い扉を見上げた。

 白露の小治療院。

 お父さんとお母さんがそう呼んでいた場所。

 怖い夢のことを、少しだけ一緒に見てくれるかもしれない場所。

 けれど、ルミナにはまだ分からなかった。扉の向こうに、何があるのか。そこに入ったら、手の赤いものを見つけられてしまうのではないか。誰かに、なぜそんな手をしているのかと聞かれるのではないか。

 オスカーが扉に手をかけると、古い木の取っ手が、きい、と小さく鳴る。

 

 扉が開いた瞬間、薬草の香りがふわりと外へ流れてきた。

 乾いた草の匂い。温かいお茶の匂い。日に干した清潔な布の匂い。そこに、ほんの少しだけ甘い蜜のような香りが混じっている。

 ルミナは、思わず息を吸った。

 鼻の奥に残ったのは、薬草茶のような温かさだけだった。

 

 三人で、白露の小治療院の中へ入る。

 中は、外から見た時よりもずっと明るく、壁は白く塗られていた。

 窓には淡い青のカーテンがかかり、朝の光をやわらかく受け止めている。床はよく磨かれた木で、歩くたびに小さな音がした。窓辺には、名前を知らない薬草の鉢が並んでいる。細い葉。丸い葉。小さな白い花をつけた草。

 棚には、折り畳まれた布がきちんと積まれていた。白い布、薄い青の布、少し厚手の布。

 ルミナは、知らない場所にいるのに、少しだけ不思議な気持ちになった。

 

「こんにちは」

 奥から一人の女性が出てきた。

 年は、母より少し上に見えた。

淡い栗色の髪をきれいにまとめ、白い治療師の衣に、薄い青の前掛けを重ねている。

目元は穏やかで、けれど眠たそうではない。

笑っているのに、きちんとこちらを見ている人だった。

「エリアナさん、オスカーさん。よくいらしてくださいました」

「メリゼル先生。急にお願いしてしまって、すみません」

「いいえ。心配な時に来ていただく場所ですから」

 メリゼル、と呼ばれた女性は、そう言ってから、ルミナの前で少し膝を折った。

 上からのぞき込むのではなく、ルミナの目の高さに近づいてくれる。

「こんにちは、ルミナさん」

 自分の名前を呼ばれて、ルミナは肩を小さく震わせた。

 メリゼルは、その震えを見ても声を大きくしなかった。

「よく来てくださいましたね」

 叱る言葉ではなかった。

 泣いてはいけないとも、怖がってはいけないとも言わなかった。

「……こんにちは」

 声は、思っていたより小さく出た。

 メリゼルは、それで十分だというように微笑んだ。

「今日は、怖かったことを、少しだけ一緒に見てみましょうか」

 ルミナは、思わず自分の手を見た。

 そこに血はない。

 今朝、お母さんとお父さんが見てくれた。何もついていないと言ってくれた。

 けれど、白い治療院の中で見たその手は、やっぱり少しだけ赤く見えた。

 ルミナは慌てて指を丸める。

「診察室へ行きましょう。お母様も、お父様もご一緒で大丈夫ですよ」

 その言い方に、ルミナは少しだけ息を吐いた。

 

 診察室の椅子は、ルミナには少し高く、足を下ろしても床に届かない。

 ルミナはそれが急に心細くなって、隣に座るエリアナの袖をつまんだ。

「大丈夫よ」

 エリアナが小さく囁く。

 オスカーは少し後ろの椅子に座った。近すぎず、遠すぎず、ルミナが振り返ればすぐに見える場所だった。お父さんは何も言わない。ただ、そこにいた。

 メリゼルは机をはさんで向かいに座るのではなく、斜め前に椅子を置いた。

「まず、体のことから聞かせてくださいね。お熱は、いつ頃から出ましたか?」

「三日前の夜からです。昨日の朝には下がりました。でも、目を覚ましてから……」

 そこでエリアナの声が少し揺れた。

「食事は取れていますか?」

「少しだけなら。薬草粥と、薄い果実水を」

「眠れていますか?」

「あまり。眠る前に手を何度も見て……夜中に起きることもあります」

 メリゼルは、紙に短く何かを書いた。

 羽根ペンの音は、かりかりと小さい。夢の中の金属の音とは違う。

 

「赤いものを怖がることはありますか?」

 

 その言葉に、ルミナの指がこわばった。

 エリアナが静かに答える。

「赤い果実の汁を見て、固まってしまいました。水桶の中も、赤く見えたようで……」

「そうですか」

 メリゼルは頷いた。

 その声には、驚きも、困惑も、責める響きもなかった。

 ルミナは、少しだけ顔を上げる。

 メリゼルは、ルミナを見ていた。けれど、その目は怖くなかった。何かを暴こうとしている目ではなく、暗い部屋に小さな灯りを持って入ってくるような目だった。

「ルミナさん」

「はい」

「どんな夢を見たのか、話せるところだけで大丈夫です。話したくないところは、話さなくてもいいですよ」

 話さなくてもいい。

 そう言われると、少しだけ話してもいいような気がした。

 ルミナは唇を開いた。

 けれど、言葉はすぐには出てこなかった。

 夢のことを考えると、泥の匂いがする。鉄の匂いがする。知らない男の大きな背中が見える。倒れていく人の影が見える。

「……知らない、男の人がいました」

 やっと、それだけ言えた。

「はい」

「大きい、武器を持っていて……血が、たくさんありました」

 部屋の中は白い。

 白い壁。淡い青のカーテン。清潔な布。

 それなのに、ルミナの目の奥には赤が広がっていく。

「それで……私の手も、赤くて。洗っても、落ちないの」

 エリアナがルミナの肩を抱く。

 オスカーが少し身を乗り出した気配がした。

 メリゼルは、少しだけ眉を下げた。

 

「そうですか……とても怖かったですね」

 

 その一言で、ルミナの喉の奥がきゅっと詰まった。

 怖くないと言われなかった。

 何もないと言われなかった。

 夢だから忘れなさいとも、そんなものは見えないでしょうとも言われなかった。

 とても怖かったですね。

 メリゼルは、そう言った。

 ルミナが本当に怖かったことを、そこに置いてもいいと言ってくれたようだった。

「見えたものが、本当に今ここにあるかどうか。それと、ルミナさんが怖かったことは、別のことです」

 ルミナは意味が分からず、瞬きをした。

 メリゼルは言葉を選ぶように続ける。

「たとえば、暗い部屋で物音がしたら、怖くなりますね。あとで見てみたら、ただ窓が揺れただけだったとしても、怖かった気持ちが嘘になるわけではありません」

「……うそじゃない?」

「はい。怖かったことは、なかったことにしなくていいのですよ」

 ルミナは、お母さんの袖をつまむ指に力を込めた。

 怖かったことを、なかったことにしなくていい。

 その言葉は、まだ全部は分からない。けれど、胸の中で固まっていたものが、ほんの少しだけ形を変えた。

 

「ルミナさん。手を見せてもらってもいいですか?」

 

 ルミナの体がこわばる。

 胸の前に隠した手。赤く見える手。お母さんに何度も拭いてもらった手。お父さんの手を握って夜を越えた手。

 見せたら、何かが分かってしまうかもしれない。

 本当に赤いと言われるかもしれない。

 綺麗ではないと言われるかもしれない。

 エリアナが、握っていた手を少しだけ緩めた。

 無理に出させるのではなく、ルミナが選べるように。

 オスカーも、何も言わなかった。

 ただ、背中の方から低く落ち着いた声がした。

「ルミナ」

 それだけで、お父さんがそこにいると分かった。

 ルミナは、ゆっくり手を開いた。

 指先が震えている。

 小さな手のひら。白い手。けれど、ルミナにはやはり、うっすら赤く見えた。

 メリゼルは、すぐには触れなかった。

 

「触れても大丈夫ですか?」

 

 ルミナは驚いて、メリゼルを見る。

 触る前に、聞いてくれた。

 夢の中では、誰も聞かなかった。叫び声も、血も、手も、勝手に押し寄せてきた。

 けれど、この人は聞いてくれた。

 ルミナは、小さく頷いた。

 メリゼルの指が、そっとルミナの手に触れる。

 温かい手。お母さんの手とは少し違う。お父さんの手とも違う。やわらかいけれど、迷いすぎない手。触れる場所を知っている手。

 メリゼルは、ルミナの手のひら、指先、爪の間、手の甲を順番に見た。

 まるで、そこに書かれた小さな文字を読むように。

「小さな手ですね。でも、よく頑張っている手です」

「……がんばってる?」

「はい」

 メリゼルは微笑んだ。

「怖い夢を見ても、お母様の手を握れましたね。夜には、お父様の手も握れたのでしょう?それなら、この手は怖いだけの手ではありません」

 メリゼルの声は、白い布のように静かだった。

「誰かとつながれる手です」

 ルミナは、自分の手を見た。

 まだ、赤く見える。

 完全に白くなったわけではない。

 でも、メリゼルに触れられているところだけ、少し温かかった。

「この手は、今ここで、誰も傷つけていません」

 その言葉は、ルミナの胸の中に落ちた。

 この手は、今ここで、誰も傷つけていない。

 ルミナは、涙が出そうになるのをこらえながら、小さく頷いた。

 

 メリゼルは手を離す。急に離すのではなく、ゆっくりと。

「今日はよく話してくれました」

「……これで、いいの?」

「はい。とても大事なことを教えてくれました」

 怖い夢の話が、大事なこと。

 それが不思議で、ルミナは少しだけ首を傾げた。

 メリゼルはエリアナとオスカーを見る。

「少し、お父様とお母様にお話をします。その間、待合室で薬草茶を飲んで待てますか?」

 一人で、と言われるかと思って、ルミナは不安になった。

 けれどメリゼルは続ける。

「もちろん、すぐ近くにいます。怖くなったら、呼んでください」

 ルミナは、お母さんとお父さんを見た。

 エリアナが頷く。

 オスカーも静かに頷く。

 ルミナは、自分の手をもう一度見た。

 赤はまだ、消えたとは言えなかった。

 でも、その手はさっき、メリゼル先生の手に触れられていた。

 怖くなかった。

 そのことが、ほんの少しだけ、不思議だった。

「……待てます」

 小さく答えると、メリゼルは嬉しそうに微笑んだ。

「では、温かい薬草茶を用意しましょうね」

 

 診察室の外から、かすかに人の声がした。

 泣いている子どもの声。誰かをなだめる声。椅子が動く小さな音。

 白露の小治療院には、ほかにも人がいる。

 苦しそうな人。怖がっている人。泣いている人。

 けれど、ここでは、その人たちがどこへ行くのかを、ルミナはまだ知らない。

 メリゼルに案内され、ルミナは診察室を出た。

 白い廊下には、薬草の香りが静かに満ちていた。

 

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