白い扉の向こうから、やわらかな声がした。
それは、ルミナが夢の中で聞いた声とは違っていた。
夢の中の声は、いつも遠かった。叫び声も、怒鳴る声も、誰かを呼ぶ声も、泥と雨に混ざって、耳の奥をざらざらとこすっていく。
はっきり聞こえるのに、どこにも届かない声だった。
けれど、扉の向こうの声は、近かった。
近いのに、押しつけてこない。細い糸のようにそっと伸びてきて、扉の前で立ち止まっているルミナの足元に、静かに置かれるような声だった。
「どうぞ、お入りくださいな」
エリアナの手が、ルミナの右手を少しだけ強く握った。
オスカーの大きな手は、左側にあった。
熱を出して目覚めたあの夜から何度も握った手。
温かくて、乾いていて、急かさない手。ルミナはその手を握ったまま、白い扉を見上げた。
白露の小治療院。
お父さんとお母さんがそう呼んでいた場所。
怖い夢のことを、少しだけ一緒に見てくれるかもしれない場所。
けれど、ルミナにはまだ分からなかった。扉の向こうに、何があるのか。そこに入ったら、手の赤いものを見つけられてしまうのではないか。誰かに、なぜそんな手をしているのかと聞かれるのではないか。
オスカーが扉に手をかけると、古い木の取っ手が、きい、と小さく鳴る。
扉が開いた瞬間、薬草の香りがふわりと外へ流れてきた。
乾いた草の匂い。温かいお茶の匂い。日に干した清潔な布の匂い。そこに、ほんの少しだけ甘い蜜のような香りが混じっている。
ルミナは、思わず息を吸った。
鼻の奥に残ったのは、薬草茶のような温かさだけだった。
三人で、白露の小治療院の中へ入る。
中は、外から見た時よりもずっと明るく、壁は白く塗られていた。
窓には淡い青のカーテンがかかり、朝の光をやわらかく受け止めている。床はよく磨かれた木で、歩くたびに小さな音がした。窓辺には、名前を知らない薬草の鉢が並んでいる。細い葉。丸い葉。小さな白い花をつけた草。
棚には、折り畳まれた布がきちんと積まれていた。白い布、薄い青の布、少し厚手の布。
ルミナは、知らない場所にいるのに、少しだけ不思議な気持ちになった。
「こんにちは」
奥から一人の女性が出てきた。
年は、母より少し上に見えた。
淡い栗色の髪をきれいにまとめ、白い治療師の衣に、薄い青の前掛けを重ねている。
目元は穏やかで、けれど眠たそうではない。
笑っているのに、きちんとこちらを見ている人だった。
「エリアナさん、オスカーさん。よくいらしてくださいました」
「メリゼル先生。急にお願いしてしまって、すみません」
「いいえ。心配な時に来ていただく場所ですから」
メリゼル、と呼ばれた女性は、そう言ってから、ルミナの前で少し膝を折った。
上からのぞき込むのではなく、ルミナの目の高さに近づいてくれる。
「こんにちは、ルミナさん」
自分の名前を呼ばれて、ルミナは肩を小さく震わせた。
メリゼルは、その震えを見ても声を大きくしなかった。
「よく来てくださいましたね」
叱る言葉ではなかった。
泣いてはいけないとも、怖がってはいけないとも言わなかった。
「……こんにちは」
声は、思っていたより小さく出た。
メリゼルは、それで十分だというように微笑んだ。
「今日は、怖かったことを、少しだけ一緒に見てみましょうか」
ルミナは、思わず自分の手を見た。
そこに血はない。
今朝、お母さんとお父さんが見てくれた。何もついていないと言ってくれた。
けれど、白い治療院の中で見たその手は、やっぱり少しだけ赤く見えた。
ルミナは慌てて指を丸める。
「診察室へ行きましょう。お母様も、お父様もご一緒で大丈夫ですよ」
その言い方に、ルミナは少しだけ息を吐いた。
診察室の椅子は、ルミナには少し高く、足を下ろしても床に届かない。
ルミナはそれが急に心細くなって、隣に座るエリアナの袖をつまんだ。
「大丈夫よ」
エリアナが小さく囁く。
オスカーは少し後ろの椅子に座った。近すぎず、遠すぎず、ルミナが振り返ればすぐに見える場所だった。お父さんは何も言わない。ただ、そこにいた。
メリゼルは机をはさんで向かいに座るのではなく、斜め前に椅子を置いた。
「まず、体のことから聞かせてくださいね。お熱は、いつ頃から出ましたか?」
「三日前の夜からです。昨日の朝には下がりました。でも、目を覚ましてから……」
そこでエリアナの声が少し揺れた。
「食事は取れていますか?」
「少しだけなら。薬草粥と、薄い果実水を」
「眠れていますか?」
「あまり。眠る前に手を何度も見て……夜中に起きることもあります」
メリゼルは、紙に短く何かを書いた。
羽根ペンの音は、かりかりと小さい。夢の中の金属の音とは違う。
「赤いものを怖がることはありますか?」
その言葉に、ルミナの指がこわばった。
エリアナが静かに答える。
「赤い果実の汁を見て、固まってしまいました。水桶の中も、赤く見えたようで……」
「そうですか」
メリゼルは頷いた。
その声には、驚きも、困惑も、責める響きもなかった。
ルミナは、少しだけ顔を上げる。
メリゼルは、ルミナを見ていた。けれど、その目は怖くなかった。何かを暴こうとしている目ではなく、暗い部屋に小さな灯りを持って入ってくるような目だった。
「ルミナさん」
「はい」
「どんな夢を見たのか、話せるところだけで大丈夫です。話したくないところは、話さなくてもいいですよ」
話さなくてもいい。
そう言われると、少しだけ話してもいいような気がした。
ルミナは唇を開いた。
けれど、言葉はすぐには出てこなかった。
夢のことを考えると、泥の匂いがする。鉄の匂いがする。知らない男の大きな背中が見える。倒れていく人の影が見える。
「……知らない、男の人がいました」
やっと、それだけ言えた。
「はい」
「大きい、武器を持っていて……血が、たくさんありました」
部屋の中は白い。
白い壁。淡い青のカーテン。清潔な布。
それなのに、ルミナの目の奥には赤が広がっていく。
「それで……私の手も、赤くて。洗っても、落ちないの」
エリアナがルミナの肩を抱く。
オスカーが少し身を乗り出した気配がした。
メリゼルは、少しだけ眉を下げた。
「そうですか……とても怖かったですね」
その一言で、ルミナの喉の奥がきゅっと詰まった。
怖くないと言われなかった。
何もないと言われなかった。
夢だから忘れなさいとも、そんなものは見えないでしょうとも言われなかった。
とても怖かったですね。
メリゼルは、そう言った。
ルミナが本当に怖かったことを、そこに置いてもいいと言ってくれたようだった。
「見えたものが、本当に今ここにあるかどうか。それと、ルミナさんが怖かったことは、別のことです」
ルミナは意味が分からず、瞬きをした。
メリゼルは言葉を選ぶように続ける。
「たとえば、暗い部屋で物音がしたら、怖くなりますね。あとで見てみたら、ただ窓が揺れただけだったとしても、怖かった気持ちが嘘になるわけではありません」
「……うそじゃない?」
「はい。怖かったことは、なかったことにしなくていいのですよ」
ルミナは、お母さんの袖をつまむ指に力を込めた。
怖かったことを、なかったことにしなくていい。
その言葉は、まだ全部は分からない。けれど、胸の中で固まっていたものが、ほんの少しだけ形を変えた。
「ルミナさん。手を見せてもらってもいいですか?」
ルミナの体がこわばる。
胸の前に隠した手。赤く見える手。お母さんに何度も拭いてもらった手。お父さんの手を握って夜を越えた手。
見せたら、何かが分かってしまうかもしれない。
本当に赤いと言われるかもしれない。
綺麗ではないと言われるかもしれない。
エリアナが、握っていた手を少しだけ緩めた。
無理に出させるのではなく、ルミナが選べるように。
オスカーも、何も言わなかった。
ただ、背中の方から低く落ち着いた声がした。
「ルミナ」
それだけで、お父さんがそこにいると分かった。
ルミナは、ゆっくり手を開いた。
指先が震えている。
小さな手のひら。白い手。けれど、ルミナにはやはり、うっすら赤く見えた。
メリゼルは、すぐには触れなかった。
「触れても大丈夫ですか?」
ルミナは驚いて、メリゼルを見る。
触る前に、聞いてくれた。
夢の中では、誰も聞かなかった。叫び声も、血も、手も、勝手に押し寄せてきた。
けれど、この人は聞いてくれた。
ルミナは、小さく頷いた。
メリゼルの指が、そっとルミナの手に触れる。
温かい手。お母さんの手とは少し違う。お父さんの手とも違う。やわらかいけれど、迷いすぎない手。触れる場所を知っている手。
メリゼルは、ルミナの手のひら、指先、爪の間、手の甲を順番に見た。
まるで、そこに書かれた小さな文字を読むように。
「小さな手ですね。でも、よく頑張っている手です」
「……がんばってる?」
「はい」
メリゼルは微笑んだ。
「怖い夢を見ても、お母様の手を握れましたね。夜には、お父様の手も握れたのでしょう?それなら、この手は怖いだけの手ではありません」
メリゼルの声は、白い布のように静かだった。
「誰かとつながれる手です」
ルミナは、自分の手を見た。
まだ、赤く見える。
完全に白くなったわけではない。
でも、メリゼルに触れられているところだけ、少し温かかった。
「この手は、今ここで、誰も傷つけていません」
その言葉は、ルミナの胸の中に落ちた。
この手は、今ここで、誰も傷つけていない。
ルミナは、涙が出そうになるのをこらえながら、小さく頷いた。
メリゼルは手を離す。急に離すのではなく、ゆっくりと。
「今日はよく話してくれました」
「……これで、いいの?」
「はい。とても大事なことを教えてくれました」
怖い夢の話が、大事なこと。
それが不思議で、ルミナは少しだけ首を傾げた。
メリゼルはエリアナとオスカーを見る。
「少し、お父様とお母様にお話をします。その間、待合室で薬草茶を飲んで待てますか?」
一人で、と言われるかと思って、ルミナは不安になった。
けれどメリゼルは続ける。
「もちろん、すぐ近くにいます。怖くなったら、呼んでください」
ルミナは、お母さんとお父さんを見た。
エリアナが頷く。
オスカーも静かに頷く。
ルミナは、自分の手をもう一度見た。
赤はまだ、消えたとは言えなかった。
でも、その手はさっき、メリゼル先生の手に触れられていた。
怖くなかった。
そのことが、ほんの少しだけ、不思議だった。
「……待てます」
小さく答えると、メリゼルは嬉しそうに微笑んだ。
「では、温かい薬草茶を用意しましょうね」
診察室の外から、かすかに人の声がした。
泣いている子どもの声。誰かをなだめる声。椅子が動く小さな音。
白露の小治療院には、ほかにも人がいる。
苦しそうな人。怖がっている人。泣いている人。
けれど、ここでは、その人たちがどこへ行くのかを、ルミナはまだ知らない。
メリゼルに案内され、ルミナは診察室を出た。
白い廊下には、薬草の香りが静かに満ちていた。