診察室の扉を出ると、薬草の香りは少しだけ薄くなった。
かわりに、温めた湯の匂いと、乾かした布の匂いがした。どこかで小さな鍋がことことと鳴っている。
棚の上には白い陶器の瓶がいくつも並び、それぞれの首に細い紐と札が結ばれていた。
札には、ルミナにはまだ読めない文字が、几帳面な手で書かれている。
白露の小治療院は、外から見た時よりもずっと静かだった。
椅子を引く音。布を畳む音。誰かが咳をする音。受付の机で羽根ペンが紙をこする音。奥の部屋で水差しを置く、かすかな陶器の音。
それらはみんな、急いでいるのに乱れていなかった。
家の中で熱にうなされていた時に聞こえた音とは違う。
あの時のルミナの耳には、全部の音が遠く、大きく、怖く聞こえた。
お母さんの声でさえ、水の底から聞こえてくるみたいだった。
けれど、ここにある音は、ひとつひとつが小さく区切られている。
誰かが何かをするための音だった。
メリゼルは診察室の扉の前で、少しだけ身をかがめた。
「ルミナさん。お疲れになったでしょう。少し、こちらで座っていましょうね」
そう言って示されたのは、窓際の長椅子。白く塗られた木の椅子で、座面には薄い青色の布が敷かれている。窓から入る光がやわらかく、その布の上をすべっていた。
エリアナが先に腰を下ろし、ルミナを抱くようにして座らせた。オ
スカーはその隣に腰を下ろさず、少し離れたところに立った。。
メリゼルは、そんなオスカーに向かって静かに頷いた。
「お父さま、お母さま。後ほど、少しお話をいたしましょう。今はまず、ルミナさんにここの空気を知ってもらいましょうね」
ここの空気。
ルミナは、膝の上で丸めた指をそっと見下ろした。
先ほど、メリゼルに診てもらった手。
怖かったことを、なかったことにしなくていいと言われた手。
今ここで、誰も傷つけていないと言われた手。
それでも、見つめすぎると、また赤くなる気がした。
ルミナはあわてて視線を外した。窓の向こうには、小さな薬草庭園が見える。細い葉、丸い葉、薄紫の花、白い小花。どれも雨上がりのようにつややかで、土の上に並んでいた。
その庭を見ていると、待合室の奥から、小さな笑い声が聞こえた。
笑い声は、すぐに咳に変わった。けれど、それでも泣き声ではなかった。
長椅子の反対側に、年の近い女の子が座っていた。母親らしい女の人に背中をさすられながら、両手で湯気の立つ小さな杯を包んでいる。頬は少し赤く、目は潤んでいたけれど、泣いてはいなかった。
「にがい?」
母親が尋ねると、女の子は顔をしかめた。
「にがい。でも、いいにおい」
「そうね。先生が、のどが楽になるお茶だって」
先生。
ルミナはその言葉に、そっと顔を上げた。
先生、と呼ばれたメリゼルは、別の患者のそばにいた。
腕に白い布を巻いた若い男が椅子に座り、申し訳なさそうに肩をすくめている。
冒険者だろうか。服の端はほつれ、靴には乾いた泥がついていた。
「ですから、明日の森入りはお休みです」
メリゼルの声は穏やかだった。穏やかだったが、そこに隙間はなかった。
「いや、先生。これくらい、いつものことで」
「いつものことにしてはいけない傷もあります」
若い男は口をつぐんだ。
メリゼルは怒っていなかったが、笑って許してもいなかった。白い指先で包帯の端を整え、巻いた布の下からのぞく指先を見た。
「指先が冷たくなったり、しびれたりしたら、すぐに戻ってきてください。包帯は、傷を守るためのものです。苦しめるためのものではありませんから」
ルミナは、その言葉をよく分からないまま聞いていた。
包帯は、傷を守るためのもの。
白い布は、怖い赤を隠すためだけのものではない。そこにあるものを、苦しくないように守るもの。
若い男は、ばつが悪そうに頭をかいた。
「……分かりました。今日は帰ります」
「ええ。帰って、温かいものを食べて、眠ってください。帰るところまでが、今日のお仕事です」
帰るところまで。
その言葉が、ルミナの胸の奥に小さく残った。
若い男は立ち上がり、受付に礼を言ってから扉へ向かった。歩き方は少しぎこちなかったけれど、扉の前で振り返った時、その顔には少しだけ笑みがあった。
「先生、助かりました」
「次は、傷を小さくしてから来てくださいね」
「努力します」
待合室に、ふっと笑いが広がった。
大きな笑いではない。
けれど、その笑いは、ルミナの知っている笑い声だった。家でエリオが無理に元気を出す時の声とは違う。誰かを心配させないために作る笑いでもない。痛かった人が、痛いままでも少し息を吐けるようになった時の声だった。
扉が開き、外の光が差し込んだ。
若い男はその光の中へ出ていく。
そして、扉は静かに閉じた。
ルミナは、胸の前で指を握った。
さっきまでその指を見ないようにしていたのに、今は少しだけ、確かめたくなった。
自分の手はまだ小さい。包帯を巻くことも、白い瓶の札を読むことも、熱を測ることもできない。誰かを外の光へ帰すことなんて、できるはずもない。
けれど、メリゼルの手は、それをしていた。
傷を消したわけではない。若い男の腕には、まだ包帯があった。明日も休まなければならない。痛みも、きっと少しは残っている。
それでも彼は、歩いて帰った。
そのことが、ルミナには不思議だった。
治る、というのは、全部がなかったことになることではないのかもしれない。
怖かったことも、痛かったことも、赤かったものも、急に消えるわけではない。
でも、誰かの声と、手と、白い布があれば、人はもう一度、扉の外へ出ていけるのかもしれない。
そう思った時、膝の上の自分の手が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
次に聞こえたのは、泣き声だった。
待合室の空気が、ほんの少しだけ変わる。受付にいた女性が顔を上げ、奥の部屋から別の治療師が布を持って出てくる。メリゼルも、若い男を見送ったばかりの扉から視線を戻した。
玄関の白い扉が開いて、母親に抱えられた小さな男の子が入ってきた。
男の子はルミナよりも少し小さい。片方の膝を抱えるようにして、母親の腕の中で泣いている。靴下の先は泥で汚れ、ズボンの膝が破れていた。破れた布の下から、赤いものが見えた。
ルミナの息が、胸の途中で止まった。
赤い。
膝の上で握っていた指先に、さっと冷たいものが走る。
違う。これは、あの手ではない。泥の中で伸びていた大きな手ではない。自分の手についていた赤でもない。
分かっているのに、目が離せなかった。
男の子の膝から流れた血は、ズボンの布ににじみ、小さな線になって足を伝っていた。ほんの少しの傷なのかもしれない。大人たちの顔に、深刻な色はない。
けれど、男の子にとっては、世界が壊れるくらい怖いものなのだろう。
「いたい、いたい、やだあ……!」
「大丈夫、大丈夫よ。先生に見てもらおうね」
母親の声も震えていた。男の子を安心させようとしているのに、その手は少し強く抱きしめすぎている。
メリゼルはゆっくり歩いて、親子の前で膝を折った。
「転んでしまったのですね」
男の子は泣きながら頷いた。
「石が……石があって、ころんで、あかいの、でた……!」
「そうでしたか。怖かったですね」
怖かったですね。
その言葉は、男の子の泣き声の上にそっと置かれた。泣くな、ではなかった。大丈夫だから黙りなさい、でもなかった。
怖かったことを、怖かったまま受け取る声だった。
男の子は、泣きながらメリゼルを見た。
「あかいの、こわい」
「ええ。赤いものが出ると、びっくりしますね」
「ぼく、こわれた?」
母親が息を呑んだ。
ルミナも、胸の奥がきゅっと痛くなった。
こわれた。
男の子の言葉は、ルミナの中にあるものをそっと撫でた。自分の手も、こわれてしまったのではないか。あの赤いものが見える自分は、どこかおかしくなってしまったのではないか。
ずっと、そう思っていた。
メリゼルは、男の子の膝をすぐには触らなかった。
まず、男の子の目を見た。
「いいえ。あなたは、こわれていませんよ。膝の皮が、少しびっくりしてしまっただけです。転んだところを、私に見せてもらえますか」
「いたいこと、する?」
「痛いことをするときは、先に言います。急に触ったりはしません」
メリゼルはそう言って、自分の両手を男の子に見せた。白く、細く、しわのある手。薬草の匂いがしそうな手。
「まず、泥を落とします。少ししみるかもしれません。でも、傷がちゃんと楽になるために必要なことです」
「……しみる?」
「はい。少しだけ。けれど、あなたが怖くなったら、止めます。教えてくださいね」
男の子は、母親の服をぎゅっと握ったまま、少しだけ頷いた。
メリゼルは受付の女性に目で合図をした。清潔な布、ぬるい水の入った器、小さな瓶。すべてが、静かな手順で運ばれてくる。誰も慌てていない。けれど、遅くもない。
ルミナは、その動きを目で追った。
怖い赤だけを見ていると、そこに世界の全部が集まってしまう。けれど、メリゼルの周りでは、赤以外のものがきちんと並んでいた。白い布。透明な水。薄茶色の薬草液。母親の腕。受付の人の頷き。
赤いものだけでは、なかった。
メリゼルは布を湿らせ、男の子にもう一度声をかけた。
「今から、膝の周りを洗います。ここです」
触れる場所を指で示してから、ほんの少しだけ布を当てる。
男の子は肩を跳ねさせた。
「しみる!」
「しみましたね。少し待ちましょう」
メリゼルはすぐに手を止めた。
男の子は大きく息をした。母親も、一緒に息をした。
ルミナも、知らないうちに息を止めていたことに気づいた。そっと吐く。胸が少し痛かった。
「もう一度、少しだけ。終わったら、きれいな布で守ります」
「まもる?」
「ええ。傷が、ゆっくり元気になるために」
男の子は鼻をすすった。
「ぼく、げんきになる?」
「なりますよ。ただし、今日は走らないこと。お母さまの手をちゃんと握って帰ること。それから、明日もう一度見せに来ること」
「あしたも?」
「傷は、今日だけ見れば終わりではありませんから」
メリゼルの声は、やわらかい。けれど、言うべきことは少しも薄まっていなかった。
ルミナは膝の上の指を見た。
手当てとは、痛いところを消すことだけではない。怖い人に説明すること。止めてほしいと言われたら止まること。明日も見ると約束すること。
その一つ一つが、男の子の泣き声を少しずつ小さくしていく。
メリゼルが傷を洗い終える頃には、男の子の泣き声は、しゃくり上げる息だけになっていた。
白い布が膝に置かれる。包帯がやさしく巻かれる。メリゼルは一巻きするたびに、男の子の顔を見た。
「きつくありませんか」
「……だいじょうぶ」
「足の指は動きますか」
男の子は、靴下の中で指をもぞもぞさせた。
「うごく」
「よくできました」
その声に、男の子は少しだけ顔を上げた。涙の跡で頬は濡れていたが、目の中の大きな恐怖は薄くなっていた。
メリゼルは小さな包みを取り出した。香りのよい乾いた花が入っているらしく、ほのかに甘い匂いがした。
「帰り道、これをお母さまと一緒に嗅いでみてください。苦い薬ではありません。怖い気持ちが残った時に、息をするための香りです」
母親は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。あの、私、慌ててしまって」
「お母さまも怖かったですね」
その一言で、母親の目にも涙が浮かんだ。
ルミナは胸の中が、ふいに熱くなるのを感じた。
治療を受けていたのは、男の子の膝だけではなかった。男の子を抱えた母親の手も、たぶん震えていた。けれど、メリゼルはそれを見落とさなかった。
親子は受付で包帯の替え方と、明日の来院のことを聞いてから、扉へ向かった。男の子はまだ母親の手を握っていたが、もう抱き上げられてはいなかった。ぎこちなく、小さな足で歩いている。
扉の前で、男の子が振り返った。
「せんせい」
「はい」
「ぼく、こわれてない?」
メリゼルは微笑んだ。
「ええ。こわれていません。よく転んで、よく泣いて、ちゃんと手当てを受けた子です」
男の子は、それをどう受け取ったのか分からない顔をした。けれど、少しだけ頷いて、母親と一緒に外へ出ていった。
白い扉が閉じる。
待合室には、また薬草の香りと、布を畳む音が戻ってきた。
ルミナは、その扉を見つめたまま動けなかった。
怖かった。
赤いものを見た時、やっぱり胸が冷たくなった。息も止まった。自分の手まで赤くなるような気がした。
でも、今、ルミナの目に一番強く残っているのは、血の色ではなかった。
泣いていた男の子が、母親の手を握って歩いていった背中。
その背中だった。
「ルミナさん」
メリゼルの声が、近くで聞こえた。
いつの間にか、彼女はルミナの前に戻ってきていた。
「怖かったですね」
ルミナは小さく頷いた。
「……あかかったです」
「ええ。赤かったですね。けれど、あの子は帰りました」
ルミナは、閉じた扉を見た。
帰った。
赤いものが出ても、泣いていても、こわれたと思っていても、手当てを受けて、説明を聞いて、母親の手を握って、帰っていった。
帰ることができた。
ルミナの中で、白い扉の意味が少しだけ変わった。
ここは、怖いものを見せられる場所ではない。
怖いものを、怖いまま受け止めて、それでも誰かを帰す場所なのだ。
ルミナは、膝の上に置いた自分の手を見た。
また赤く見えるかもしれないと思った。
でも、さっきよりも少しだけ長く、見ることができた。
小さくて、まだ何もできない手。
お母さんに包まれ、お父さんに握られ、エリオに守ると言われた手。
そして今、白い扉の向こうへ帰っていく人を見た手。
ルミナは、指先をそっと開いた。
「先生」
声は、とても小さかった。
それでも、メリゼルは聞き逃さなかった。
「はい」
「手は……こわいだけじゃ、ないんですか」
メリゼルは少しだけ目を細めた。
窓の外から、薬草庭園の白い小花が揺れるのが見えた。
「ええ」
メリゼルは言った。
「手は、怖いものを覚えることもあります。でも、誰かを支えることも、帰り道を示すこともできます」
ルミナは、ゆっくりと息を吸った。
薬草の匂いがした。
まだ、血の匂いを忘れたわけではない。
それでも、その匂いの中に、白い布と、温かい湯と、帰っていく子どもの背中が混じった。
ルミナはもう一度、自分の手を見た。
赤くは、見えなかった。
ただ、小さな手だった。