白露の小妖精は、小さな薬箱と旅に出る   作:ザキグン

7 / 11
白露の小治療院と、帰る人たち②

診察室の扉を出ると、薬草の香りは少しだけ薄くなった。

 かわりに、温めた湯の匂いと、乾かした布の匂いがした。どこかで小さな鍋がことことと鳴っている。

棚の上には白い陶器の瓶がいくつも並び、それぞれの首に細い紐と札が結ばれていた。

札には、ルミナにはまだ読めない文字が、几帳面な手で書かれている。

 

白露の小治療院は、外から見た時よりもずっと静かだった。

 椅子を引く音。布を畳む音。誰かが咳をする音。受付の机で羽根ペンが紙をこする音。奥の部屋で水差しを置く、かすかな陶器の音。

 それらはみんな、急いでいるのに乱れていなかった。

 家の中で熱にうなされていた時に聞こえた音とは違う。

あの時のルミナの耳には、全部の音が遠く、大きく、怖く聞こえた。

お母さんの声でさえ、水の底から聞こえてくるみたいだった。

けれど、ここにある音は、ひとつひとつが小さく区切られている。

誰かが何かをするための音だった。

 

 メリゼルは診察室の扉の前で、少しだけ身をかがめた。

「ルミナさん。お疲れになったでしょう。少し、こちらで座っていましょうね」

 そう言って示されたのは、窓際の長椅子。白く塗られた木の椅子で、座面には薄い青色の布が敷かれている。窓から入る光がやわらかく、その布の上をすべっていた。

 エリアナが先に腰を下ろし、ルミナを抱くようにして座らせた。オ

スカーはその隣に腰を下ろさず、少し離れたところに立った。。

 メリゼルは、そんなオスカーに向かって静かに頷いた。

「お父さま、お母さま。後ほど、少しお話をいたしましょう。今はまず、ルミナさんにここの空気を知ってもらいましょうね」

 ここの空気。

 ルミナは、膝の上で丸めた指をそっと見下ろした。

 先ほど、メリゼルに診てもらった手。

 怖かったことを、なかったことにしなくていいと言われた手。

 今ここで、誰も傷つけていないと言われた手。

 それでも、見つめすぎると、また赤くなる気がした。

 ルミナはあわてて視線を外した。窓の向こうには、小さな薬草庭園が見える。細い葉、丸い葉、薄紫の花、白い小花。どれも雨上がりのようにつややかで、土の上に並んでいた。

 その庭を見ていると、待合室の奥から、小さな笑い声が聞こえた。

 笑い声は、すぐに咳に変わった。けれど、それでも泣き声ではなかった。

 長椅子の反対側に、年の近い女の子が座っていた。母親らしい女の人に背中をさすられながら、両手で湯気の立つ小さな杯を包んでいる。頬は少し赤く、目は潤んでいたけれど、泣いてはいなかった。

「にがい?」

 母親が尋ねると、女の子は顔をしかめた。

「にがい。でも、いいにおい」

「そうね。先生が、のどが楽になるお茶だって」

 

 先生。

 

 ルミナはその言葉に、そっと顔を上げた。

 先生、と呼ばれたメリゼルは、別の患者のそばにいた。

腕に白い布を巻いた若い男が椅子に座り、申し訳なさそうに肩をすくめている。

冒険者だろうか。服の端はほつれ、靴には乾いた泥がついていた。

「ですから、明日の森入りはお休みです」

 メリゼルの声は穏やかだった。穏やかだったが、そこに隙間はなかった。

「いや、先生。これくらい、いつものことで」

「いつものことにしてはいけない傷もあります」

 若い男は口をつぐんだ。

 メリゼルは怒っていなかったが、笑って許してもいなかった。白い指先で包帯の端を整え、巻いた布の下からのぞく指先を見た。

「指先が冷たくなったり、しびれたりしたら、すぐに戻ってきてください。包帯は、傷を守るためのものです。苦しめるためのものではありませんから」

 ルミナは、その言葉をよく分からないまま聞いていた。

 包帯は、傷を守るためのもの。

 白い布は、怖い赤を隠すためだけのものではない。そこにあるものを、苦しくないように守るもの。

 若い男は、ばつが悪そうに頭をかいた。

「……分かりました。今日は帰ります」

「ええ。帰って、温かいものを食べて、眠ってください。帰るところまでが、今日のお仕事です」

 

 帰るところまで。

 

 その言葉が、ルミナの胸の奥に小さく残った。

 若い男は立ち上がり、受付に礼を言ってから扉へ向かった。歩き方は少しぎこちなかったけれど、扉の前で振り返った時、その顔には少しだけ笑みがあった。

「先生、助かりました」

「次は、傷を小さくしてから来てくださいね」

「努力します」

 待合室に、ふっと笑いが広がった。

 大きな笑いではない。

 けれど、その笑いは、ルミナの知っている笑い声だった。家でエリオが無理に元気を出す時の声とは違う。誰かを心配させないために作る笑いでもない。痛かった人が、痛いままでも少し息を吐けるようになった時の声だった。

 扉が開き、外の光が差し込んだ。

 若い男はその光の中へ出ていく。

 そして、扉は静かに閉じた。

 

 ルミナは、胸の前で指を握った。

 さっきまでその指を見ないようにしていたのに、今は少しだけ、確かめたくなった。

 自分の手はまだ小さい。包帯を巻くことも、白い瓶の札を読むことも、熱を測ることもできない。誰かを外の光へ帰すことなんて、できるはずもない。

 けれど、メリゼルの手は、それをしていた。

 傷を消したわけではない。若い男の腕には、まだ包帯があった。明日も休まなければならない。痛みも、きっと少しは残っている。

 それでも彼は、歩いて帰った。

 そのことが、ルミナには不思議だった。

 治る、というのは、全部がなかったことになることではないのかもしれない。

 怖かったことも、痛かったことも、赤かったものも、急に消えるわけではない。

 でも、誰かの声と、手と、白い布があれば、人はもう一度、扉の外へ出ていけるのかもしれない。

 そう思った時、膝の上の自分の手が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。

 

 次に聞こえたのは、泣き声だった。

 待合室の空気が、ほんの少しだけ変わる。受付にいた女性が顔を上げ、奥の部屋から別の治療師が布を持って出てくる。メリゼルも、若い男を見送ったばかりの扉から視線を戻した。

 玄関の白い扉が開いて、母親に抱えられた小さな男の子が入ってきた。

 男の子はルミナよりも少し小さい。片方の膝を抱えるようにして、母親の腕の中で泣いている。靴下の先は泥で汚れ、ズボンの膝が破れていた。破れた布の下から、赤いものが見えた。

 ルミナの息が、胸の途中で止まった。

 

 赤い。

 

 膝の上で握っていた指先に、さっと冷たいものが走る。

 違う。これは、あの手ではない。泥の中で伸びていた大きな手ではない。自分の手についていた赤でもない。

 分かっているのに、目が離せなかった。

 男の子の膝から流れた血は、ズボンの布ににじみ、小さな線になって足を伝っていた。ほんの少しの傷なのかもしれない。大人たちの顔に、深刻な色はない。

 けれど、男の子にとっては、世界が壊れるくらい怖いものなのだろう。

「いたい、いたい、やだあ……!」

「大丈夫、大丈夫よ。先生に見てもらおうね」

 母親の声も震えていた。男の子を安心させようとしているのに、その手は少し強く抱きしめすぎている。

 メリゼルはゆっくり歩いて、親子の前で膝を折った。

「転んでしまったのですね」

 男の子は泣きながら頷いた。

「石が……石があって、ころんで、あかいの、でた……!」

「そうでしたか。怖かったですね」

 怖かったですね。

 その言葉は、男の子の泣き声の上にそっと置かれた。泣くな、ではなかった。大丈夫だから黙りなさい、でもなかった。

 怖かったことを、怖かったまま受け取る声だった。

 男の子は、泣きながらメリゼルを見た。

「あかいの、こわい」

「ええ。赤いものが出ると、びっくりしますね」

「ぼく、こわれた?」

 母親が息を呑んだ。

 ルミナも、胸の奥がきゅっと痛くなった。

 こわれた。

 男の子の言葉は、ルミナの中にあるものをそっと撫でた。自分の手も、こわれてしまったのではないか。あの赤いものが見える自分は、どこかおかしくなってしまったのではないか。

 ずっと、そう思っていた。

 メリゼルは、男の子の膝をすぐには触らなかった。

 まず、男の子の目を見た。

「いいえ。あなたは、こわれていませんよ。膝の皮が、少しびっくりしてしまっただけです。転んだところを、私に見せてもらえますか」

「いたいこと、する?」

「痛いことをするときは、先に言います。急に触ったりはしません」

 メリゼルはそう言って、自分の両手を男の子に見せた。白く、細く、しわのある手。薬草の匂いがしそうな手。

「まず、泥を落とします。少ししみるかもしれません。でも、傷がちゃんと楽になるために必要なことです」

「……しみる?」

「はい。少しだけ。けれど、あなたが怖くなったら、止めます。教えてくださいね」

 男の子は、母親の服をぎゅっと握ったまま、少しだけ頷いた。

 メリゼルは受付の女性に目で合図をした。清潔な布、ぬるい水の入った器、小さな瓶。すべてが、静かな手順で運ばれてくる。誰も慌てていない。けれど、遅くもない。

 ルミナは、その動きを目で追った。

 怖い赤だけを見ていると、そこに世界の全部が集まってしまう。けれど、メリゼルの周りでは、赤以外のものがきちんと並んでいた。白い布。透明な水。薄茶色の薬草液。母親の腕。受付の人の頷き。

 赤いものだけでは、なかった。

 メリゼルは布を湿らせ、男の子にもう一度声をかけた。

「今から、膝の周りを洗います。ここです」

 触れる場所を指で示してから、ほんの少しだけ布を当てる。

 男の子は肩を跳ねさせた。

 

「しみる!」

「しみましたね。少し待ちましょう」

 メリゼルはすぐに手を止めた。

 男の子は大きく息をした。母親も、一緒に息をした。

 ルミナも、知らないうちに息を止めていたことに気づいた。そっと吐く。胸が少し痛かった。

「もう一度、少しだけ。終わったら、きれいな布で守ります」

「まもる?」

「ええ。傷が、ゆっくり元気になるために」

 男の子は鼻をすすった。

「ぼく、げんきになる?」

「なりますよ。ただし、今日は走らないこと。お母さまの手をちゃんと握って帰ること。それから、明日もう一度見せに来ること」

「あしたも?」

「傷は、今日だけ見れば終わりではありませんから」

 メリゼルの声は、やわらかい。けれど、言うべきことは少しも薄まっていなかった。

 ルミナは膝の上の指を見た。

 手当てとは、痛いところを消すことだけではない。怖い人に説明すること。止めてほしいと言われたら止まること。明日も見ると約束すること。

 その一つ一つが、男の子の泣き声を少しずつ小さくしていく。

 メリゼルが傷を洗い終える頃には、男の子の泣き声は、しゃくり上げる息だけになっていた。

 白い布が膝に置かれる。包帯がやさしく巻かれる。メリゼルは一巻きするたびに、男の子の顔を見た。

「きつくありませんか」

「……だいじょうぶ」

「足の指は動きますか」

 男の子は、靴下の中で指をもぞもぞさせた。

「うごく」

「よくできました」

 その声に、男の子は少しだけ顔を上げた。涙の跡で頬は濡れていたが、目の中の大きな恐怖は薄くなっていた。

 メリゼルは小さな包みを取り出した。香りのよい乾いた花が入っているらしく、ほのかに甘い匂いがした。

「帰り道、これをお母さまと一緒に嗅いでみてください。苦い薬ではありません。怖い気持ちが残った時に、息をするための香りです」

 母親は深く頭を下げた。

「ありがとうございます。あの、私、慌ててしまって」

「お母さまも怖かったですね」

 その一言で、母親の目にも涙が浮かんだ。

 ルミナは胸の中が、ふいに熱くなるのを感じた。

 治療を受けていたのは、男の子の膝だけではなかった。男の子を抱えた母親の手も、たぶん震えていた。けれど、メリゼルはそれを見落とさなかった。

 親子は受付で包帯の替え方と、明日の来院のことを聞いてから、扉へ向かった。男の子はまだ母親の手を握っていたが、もう抱き上げられてはいなかった。ぎこちなく、小さな足で歩いている。

 扉の前で、男の子が振り返った。

「せんせい」

「はい」

「ぼく、こわれてない?」

 メリゼルは微笑んだ。

「ええ。こわれていません。よく転んで、よく泣いて、ちゃんと手当てを受けた子です」

 男の子は、それをどう受け取ったのか分からない顔をした。けれど、少しだけ頷いて、母親と一緒に外へ出ていった。

 

 白い扉が閉じる。

 待合室には、また薬草の香りと、布を畳む音が戻ってきた。

 ルミナは、その扉を見つめたまま動けなかった。

 怖かった。

 赤いものを見た時、やっぱり胸が冷たくなった。息も止まった。自分の手まで赤くなるような気がした。

 でも、今、ルミナの目に一番強く残っているのは、血の色ではなかった。

 泣いていた男の子が、母親の手を握って歩いていった背中。

 その背中だった。

「ルミナさん」

 メリゼルの声が、近くで聞こえた。

 いつの間にか、彼女はルミナの前に戻ってきていた。

「怖かったですね」

 ルミナは小さく頷いた。

「……あかかったです」

「ええ。赤かったですね。けれど、あの子は帰りました」

 ルミナは、閉じた扉を見た。

 

 帰った。

 

 赤いものが出ても、泣いていても、こわれたと思っていても、手当てを受けて、説明を聞いて、母親の手を握って、帰っていった。

 帰ることができた。

 ルミナの中で、白い扉の意味が少しだけ変わった。

 ここは、怖いものを見せられる場所ではない。

 怖いものを、怖いまま受け止めて、それでも誰かを帰す場所なのだ。

 ルミナは、膝の上に置いた自分の手を見た。

 また赤く見えるかもしれないと思った。

 でも、さっきよりも少しだけ長く、見ることができた。

 小さくて、まだ何もできない手。

 お母さんに包まれ、お父さんに握られ、エリオに守ると言われた手。

 そして今、白い扉の向こうへ帰っていく人を見た手。

 ルミナは、指先をそっと開いた。

「先生」

 声は、とても小さかった。

 それでも、メリゼルは聞き逃さなかった。

「はい」

「手は……こわいだけじゃ、ないんですか」

 メリゼルは少しだけ目を細めた。

 窓の外から、薬草庭園の白い小花が揺れるのが見えた。

「ええ」

 メリゼルは言った。

「手は、怖いものを覚えることもあります。でも、誰かを支えることも、帰り道を示すこともできます」

 ルミナは、ゆっくりと息を吸った。

 薬草の匂いがした。

 まだ、血の匂いを忘れたわけではない。

 それでも、その匂いの中に、白い布と、温かい湯と、帰っていく子どもの背中が混じった。

 ルミナはもう一度、自分の手を見た。

 赤くは、見えなかった。

 ただ、小さな手だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。