朝の光は窓の高いところへ移り、薬草棚の影が床に細く伸びている。
受付の机では、紙に小さな文字を書く音がしていた。湯を沸かす音。布を畳む音。外を通る荷車の音。
ルミナはエリアナの隣で、温かな薬草茶を両手で包んでいた。苦くはなかった。少し甘くて、喉の奥に草の香りが残る。
「眠くなってきたか」
オスカーが低く尋ねた。
ルミナは首を横に振ろうとして、少しだけ遅れた。たぶん、眠かった。朝からたくさんのものを見た。白い扉、メリゼルの手、泣いていた子、大きな冒険者の傷、包帯、帰っていく背中。
見たものが胸の中でいっぱいになって、うまく言葉にならなかった。
そのとき、扉の外で急いだ足音がして白い扉が開く。
入ってきたのは、若い母親だった。腕の中に、小さな子どもを抱いている。子どもの頬は赤く、額には汗がにじんでいた。ぐったりとしているわけではないが、目が半分閉じていて、息が少し荒い。
「先生、熱が……朝から下がらなくて」
母親の声は震えていた。
待合室の空気が、すっと引き締まる。けれど、誰も大きな声を出さなかった。
メリゼルがすぐに近づいた。
「こちらへ。お母さま、歩けますか。ゆっくりで大丈夫ですよ」
「はい、はい……」
「お子さんのお名前は?」
「ニコ、です」
「ニコさんですね」
メリゼルは子どもの名を呼んだ。
「ニコさん、聞こえますか。白露の小治療院です。今から少しだけ、おでこや胸の音を見せてくださいね」
子どもは返事をしなかった。けれど、まぶたが少し動いた。
ルミナは息をひそめた。
血は出ていない。赤い傷もない。それなのに、さっきより怖い気がした。
傷は見える。包帯も見える。けれど、熱は見えない。体の中で何が起きているのか、ルミナには分からない。母親が震えている理由だけが、胸に刺さるように分かった。
「朝から、ということは、昨日の夜は?」
「少し咳をしていました。でも、食べられていました。今朝から熱くて、水は少しだけ……」
「吐きましたか」
「いいえ」
「お腹は下していますか」
「いいえ」
「眠れていますか」
「うとうとはします。でも、苦しそうで」
メリゼルは質問を続けながら、子どもの額、首、手の先を確かめた。小さな手を包む動きが、とても静かだった。
「息は少し速いですね。けれど、今すぐ危ない呼吸ではありません。水を少しずつ取りましょう。冷やした布を用意します」
「だ、だいじょうぶなんですか」
母親のその声に、ルミナの胸がきゅっとなった。
高い熱にうなされていたあいだ、エリアナもきっと同じように怖かったのだ。
何度も額に触れて、息を確かめて、名前を呼んでいたのだろう。
メリゼルは、母親の問いにすぐ答えなかった。けれど、遅すぎもしなかった。
「今見た限りでは、このままこちらで少し休んで、薬湯を飲めれば、お家へ帰れます」
母親の肩が、わずかに落ちた。
「ただし、今夜また熱が高くなったり、水が飲めなくなったり、呼んでも反応が悪くなったら、すぐに連れてきてください。これは、怖がらせるためではありません。お母さまが、次に何を見ればいいか分かるようにするためです」
母親は唇を噛み、それから何度も頷いた。
「はい。見ます。ちゃんと、見ます」
「一人で全部背負わなくて大丈夫ですよ。分からなくなったら、ここへ来てください」
その言葉を聞いた瞬間、ルミナは思わずエリアナを見上げた。
エリアナは、ルミナの視線に気づくと、静かに微笑んだ。
そうして、ほんの少しだけ、ルミナの手に指を添えた。
ニコという子どもは、診察室の奥でしばらく休むことになった。
冷やした布を額に当て、少し甘くした薄い薬湯を、匙で一口ずつ飲ませる。メリゼルは急がなかった。一口飲めば待ち、飲み込めばまた待つ。母親が焦って二口目を運ぼうとすると、そっと手で止めた。
「ゆっくりです。飲めた、ということを重ねましょう」
飲めた。
その小さな言葉が、母親の顔を少しだけ明るくした。
ニコは三口飲んで、また目を閉じた。荒かった息は、まだ少し早い。けれど、さっきよりも苦しそうではなかった。
メリゼルは母親に紙片を渡した。そこには、丸みのある文字でいくつかのことが書かれている。
「水分は少しずつ。汗をかいたら服を替えること。寒がるからといって、布をかけすぎないこと。今夜、名前を呼んでも反応が鈍い時は、迷わず来ること。明日の朝、熱が下がっていても、一度顔を見せてください」
「はい……ありがとうございます」
母親は紙片を両手で受け取った。まるで薬そのもののように、大事に握っている。
ルミナはそれを見て、また不思議な気持ちになった。
薬草でも、魔法でもない。紙に書かれた言葉。けれど、母親はそれを持っただけで、少しだけ息がしやすくなったように見えた。
「先生」
ルミナは小さく呼んだ。
メリゼルが振り返る。
「あの紙も、お薬なの?」
母親が驚いたように目を瞬かせた。オスカーが少しだけ息を漏らし、エリアナは困ったように、けれど優しく笑った。
メリゼルは真面目な顔で頷いた。
「ええ。薬のひとつです」
「紙なのに?」
「紙に書いた、安心です。何を見ればいいか、いつ来ればいいか、どうすれば少し楽になるか。それが分かるだけで、人は少し息ができます」
ルミナは、母親の手の中の紙を見た。
安心。
それは瓶には入っていなかった。薬草の匂いもしなかった。淡い光も出なかった。
でも確かに、そこにあった。
やがて、ニコは母親の腕の中で小さく身じろぎした。
「……おかあさん」
かすれた声だった。
母親の目に涙が浮かぶ。
「うん。いるよ。ここにいるよ」
メリゼルはその様子を見守ってから、静かに言った。
「今日は、帰れます」
母親は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。ありがとうございます、先生」
「明日の朝、また待っていますね。帰り道は冷たい風に当てすぎないように」
母親はニコを抱き直し、紙片を胸元にしまった。白い扉が開き、外の光が差し込む。
ルミナは、その背中を見ていた。
小さな子どもを抱いた母親が、慎重に、でも来た時より少しだけまっすぐに歩いていく。
帰っていく。
泣いていた男の子も、腕に包帯を巻いた冒険者も、熱を出したニコも。
みんな、ここへ来た時は怖い顔をしていた。痛そうで、苦しそうで、帰れるのか分からない顔をしていた。
それでも、白い扉の向こうへ戻っていく。
ルミナは、自分の手を見た。
この手は、まだ何もしていない。
誰かを治したわけでもない。包帯を巻いたわけでもない。薬を作ったわけでもない。ただ、見ていただけだ。怖くて、息を止めて、お母さんの手に支えられて、見ていただけ。
それなのに、胸の奥に小さな火が灯ったようだった。
怖いものが消えたわけではない。血も、熱も、泣き声も、まだ怖い。
けれど、怖いものの隣に、別のものがあった。
清潔な布。温かな声。小さな紙片。帰る背中。
そして、誰かの手を見捨てずにいる人の手。
白露の小治療院を出る頃には、空の色が少し薄くなっていた。
昼の明るさはまだ残っている。けれど、屋根の影は長く、道の石畳には夕方の冷たさが少しずつ降りてきていた。
エリアナがルミナの手を取り、オスカーが少し後ろを歩く。来る時と同じ並びだった。けれど、ルミナの足取りは、来る時よりもほんの少しだけゆっくりだった。
疲れていた。
でも、ただ疲れたのとは違った。胸の中がいっぱいで、歩くたびに何かが揺れる。
「ルミナ」
エリアナが呼んだ。
「今日は、たくさん見たわね」
ルミナは頷いた。
「こわいものも、見た」
「ええ」
「でも……帰っていく人も、見た」
エリアナは何も言わずに、ルミナの手を少しだけ握り直した。
オスカーが後ろから静かに言った。
「いいところだったな」
「お父さん」
「ん」
「手は……人を帰せるの?」
オスカーはすぐには答えなかった。
道の脇で、風が小さな白い花を揺らした。ルミナはそれを見た。白い花。薬草の庭の匂いに似た、やわらかな色。
「手だけでは、難しいかもしれないな」
オスカーはゆっくり言った。
「でも、手がなければ、できないことも多い」
「できないこと?」
「支えること。包むこと。押さえること。誰かのそばにいると、知らせること」
ルミナは、自分の手を見た。エリアナに握られている手。まだ小さくて、熱を出したあとだから少し細く、指の先は頼りない。
この手で、誰かを支えられるとは思えなかった。
けれど、メリゼルの手も、最初からあんなふうだったのだろうか。
最初は小さかったのだろうか。
最初は、怖かったのだろうか。
「お母さん」
「なあに」
「わたしの手も、あんな手になれる?」
エリアナは立ち止まった。オスカーも足を止める。
ルミナは、お母さんを見上げた。怖くて、少しだけ胸が痛かった。聞いてしまったら、なれないと言われるかもしれない。やめた方がいいと言われるかもしれない。赤いものを見ると怖がる子には無理だと言われるかもしれない。
けれど、聞きたかった。
エリアナはしゃがんで、ルミナと目の高さを合わせた。
熱を出して目覚めたあの時と同じように、急に抱きしめたりはしなかった。ただ、ルミナの両手を自分の手で包んだ。
「なれるかどうかは、今すぐには分からないわ」
正直な答えだった。
ルミナの胸が、少しだけ沈む。
「でも、なりたいと思った手を、大切にすることはできるわ」
「大切に?」
「ええ。怖いと思う心も、見ていたいと思う心も、どちらも捨てないで」
エリアナの手は温かかった。
「あなたの手は、今日も綺麗な手よ。誰も傷つけていない手。怖がりながら、それでも見ようとした手」
ルミナは、瞬きをした。
目の奥が少し熱くなった。
「……わたし、先生みたいになりたい」
声にしてみると、それはとても小さな願いだった。道の音に紛れて消えてしまいそうなくらい、小さかった。
でも、言えた。
エリアナは微笑んだ。
オスカーは、少しだけ目を細めた。
「そうか」
父の返事は短かった。
けれど、ルミナには十分だった。
その夜、ルミナはまた自分の手を見た。
寝台の上で、白い夜着の袖から出た小さな手。指を開いて、閉じる。赤くはない。水差しに映しても、赤くは見えなかった。
それでも、目を閉じると、泥の中に沈んだ大きな手が浮かんだ。誰の手なのか分からない。見たことがないはずなのに、知っている気がする手だった。
ルミナは布団を少し引き上げた。
怖い。
まだ怖い。
でも、今日見たものは、それだけではなかった。
白い扉。薬草の香り。泣いていた男の子。包帯を巻いた冒険者。熱の子を抱く母親。紙片を握る手。帰っていく背中。
メリゼルの手。
あの手は、血を消すためだけの手ではなかった。
怖がっている人に、ここにいていいと伝える手だった。帰る道を作る手だった。
ルミナは、自分の手を胸の上に置いた。
「……なりたい」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
先生みたいになりたい。
泣いている人に、怖かったですねと言える人になりたい。痛いところを見るだけでなく、その人が帰るところまで考えられる人になりたい。
そして、もし。
もし、あの夢の中の誰かにも届くなら。
泥の中で動かなくなった大きな手にも、いつか、帰っていいのだと伝えられるなら。
ルミナのまぶたが重くなっていく。
部屋は静かだった。窓の外で、夜風が葉を揺らしている。
薬草の香りはないはずなのに、なぜか鼻の奥にほんの少し残っている気がした。
眠りに落ちる直前、遠くで雨の音がした。
それは、リーフェンベルクの夜の雨ではなく、もっと遠く、もっと暗い場所で降る雨。
土と鉄の匂いを含んだ雨。
そして、誰かの低い声を聞いた気がした。
「……嬢ちゃん?」