白露の小妖精は、小さな薬箱と旅に出る   作:ザキグン

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白露の小治療院と、帰る人たち③

朝の光は窓の高いところへ移り、薬草棚の影が床に細く伸びている。

受付の机では、紙に小さな文字を書く音がしていた。湯を沸かす音。布を畳む音。外を通る荷車の音。

 ルミナはエリアナの隣で、温かな薬草茶を両手で包んでいた。苦くはなかった。少し甘くて、喉の奥に草の香りが残る。

「眠くなってきたか」

 オスカーが低く尋ねた。

 ルミナは首を横に振ろうとして、少しだけ遅れた。たぶん、眠かった。朝からたくさんのものを見た。白い扉、メリゼルの手、泣いていた子、大きな冒険者の傷、包帯、帰っていく背中。

 見たものが胸の中でいっぱいになって、うまく言葉にならなかった。

 

 そのとき、扉の外で急いだ足音がして白い扉が開く。

 

 入ってきたのは、若い母親だった。腕の中に、小さな子どもを抱いている。子どもの頬は赤く、額には汗がにじんでいた。ぐったりとしているわけではないが、目が半分閉じていて、息が少し荒い。

「先生、熱が……朝から下がらなくて」

 母親の声は震えていた。

 待合室の空気が、すっと引き締まる。けれど、誰も大きな声を出さなかった。

 メリゼルがすぐに近づいた。

「こちらへ。お母さま、歩けますか。ゆっくりで大丈夫ですよ」

「はい、はい……」

「お子さんのお名前は?」

「ニコ、です」

「ニコさんですね」

 メリゼルは子どもの名を呼んだ。

「ニコさん、聞こえますか。白露の小治療院です。今から少しだけ、おでこや胸の音を見せてくださいね」

 子どもは返事をしなかった。けれど、まぶたが少し動いた。

 

 ルミナは息をひそめた。

 血は出ていない。赤い傷もない。それなのに、さっきより怖い気がした。

 傷は見える。包帯も見える。けれど、熱は見えない。体の中で何が起きているのか、ルミナには分からない。母親が震えている理由だけが、胸に刺さるように分かった。

「朝から、ということは、昨日の夜は?」

「少し咳をしていました。でも、食べられていました。今朝から熱くて、水は少しだけ……」

「吐きましたか」

「いいえ」

「お腹は下していますか」

「いいえ」

「眠れていますか」

「うとうとはします。でも、苦しそうで」

 メリゼルは質問を続けながら、子どもの額、首、手の先を確かめた。小さな手を包む動きが、とても静かだった。

「息は少し速いですね。けれど、今すぐ危ない呼吸ではありません。水を少しずつ取りましょう。冷やした布を用意します」

「だ、だいじょうぶなんですか」

 母親のその声に、ルミナの胸がきゅっとなった。

 高い熱にうなされていたあいだ、エリアナもきっと同じように怖かったのだ。

何度も額に触れて、息を確かめて、名前を呼んでいたのだろう。

 メリゼルは、母親の問いにすぐ答えなかった。けれど、遅すぎもしなかった。

「今見た限りでは、このままこちらで少し休んで、薬湯を飲めれば、お家へ帰れます」

 母親の肩が、わずかに落ちた。

「ただし、今夜また熱が高くなったり、水が飲めなくなったり、呼んでも反応が悪くなったら、すぐに連れてきてください。これは、怖がらせるためではありません。お母さまが、次に何を見ればいいか分かるようにするためです」

 母親は唇を噛み、それから何度も頷いた。

「はい。見ます。ちゃんと、見ます」

「一人で全部背負わなくて大丈夫ですよ。分からなくなったら、ここへ来てください」

 その言葉を聞いた瞬間、ルミナは思わずエリアナを見上げた。

 エリアナは、ルミナの視線に気づくと、静かに微笑んだ。

 そうして、ほんの少しだけ、ルミナの手に指を添えた。

 

 

 

 ニコという子どもは、診察室の奥でしばらく休むことになった。

 冷やした布を額に当て、少し甘くした薄い薬湯を、匙で一口ずつ飲ませる。メリゼルは急がなかった。一口飲めば待ち、飲み込めばまた待つ。母親が焦って二口目を運ぼうとすると、そっと手で止めた。

「ゆっくりです。飲めた、ということを重ねましょう」

 飲めた。

 その小さな言葉が、母親の顔を少しだけ明るくした。

 ニコは三口飲んで、また目を閉じた。荒かった息は、まだ少し早い。けれど、さっきよりも苦しそうではなかった。

 メリゼルは母親に紙片を渡した。そこには、丸みのある文字でいくつかのことが書かれている。

「水分は少しずつ。汗をかいたら服を替えること。寒がるからといって、布をかけすぎないこと。今夜、名前を呼んでも反応が鈍い時は、迷わず来ること。明日の朝、熱が下がっていても、一度顔を見せてください」

「はい……ありがとうございます」

 母親は紙片を両手で受け取った。まるで薬そのもののように、大事に握っている。

 ルミナはそれを見て、また不思議な気持ちになった。

 薬草でも、魔法でもない。紙に書かれた言葉。けれど、母親はそれを持っただけで、少しだけ息がしやすくなったように見えた。

 

「先生」

 ルミナは小さく呼んだ。

 メリゼルが振り返る。

「あの紙も、お薬なの?」

 母親が驚いたように目を瞬かせた。オスカーが少しだけ息を漏らし、エリアナは困ったように、けれど優しく笑った。

 メリゼルは真面目な顔で頷いた。

「ええ。薬のひとつです」

「紙なのに?」

「紙に書いた、安心です。何を見ればいいか、いつ来ればいいか、どうすれば少し楽になるか。それが分かるだけで、人は少し息ができます」

 ルミナは、母親の手の中の紙を見た。

 安心。

 それは瓶には入っていなかった。薬草の匂いもしなかった。淡い光も出なかった。

 でも確かに、そこにあった。

 やがて、ニコは母親の腕の中で小さく身じろぎした。

「……おかあさん」

 かすれた声だった。

 母親の目に涙が浮かぶ。

「うん。いるよ。ここにいるよ」

 メリゼルはその様子を見守ってから、静かに言った。

「今日は、帰れます」

 母親は何度も頭を下げた。

「ありがとうございます。ありがとうございます、先生」

「明日の朝、また待っていますね。帰り道は冷たい風に当てすぎないように」

 母親はニコを抱き直し、紙片を胸元にしまった。白い扉が開き、外の光が差し込む。

 ルミナは、その背中を見ていた。

 小さな子どもを抱いた母親が、慎重に、でも来た時より少しだけまっすぐに歩いていく。

 

 帰っていく。

 

 泣いていた男の子も、腕に包帯を巻いた冒険者も、熱を出したニコも。

 みんな、ここへ来た時は怖い顔をしていた。痛そうで、苦しそうで、帰れるのか分からない顔をしていた。

 それでも、白い扉の向こうへ戻っていく。

 ルミナは、自分の手を見た。

 この手は、まだ何もしていない。

 誰かを治したわけでもない。包帯を巻いたわけでもない。薬を作ったわけでもない。ただ、見ていただけだ。怖くて、息を止めて、お母さんの手に支えられて、見ていただけ。

 それなのに、胸の奥に小さな火が灯ったようだった。

 怖いものが消えたわけではない。血も、熱も、泣き声も、まだ怖い。

 けれど、怖いものの隣に、別のものがあった。

 清潔な布。温かな声。小さな紙片。帰る背中。

 そして、誰かの手を見捨てずにいる人の手。

 

 

 

 白露の小治療院を出る頃には、空の色が少し薄くなっていた。

 昼の明るさはまだ残っている。けれど、屋根の影は長く、道の石畳には夕方の冷たさが少しずつ降りてきていた。

 エリアナがルミナの手を取り、オスカーが少し後ろを歩く。来る時と同じ並びだった。けれど、ルミナの足取りは、来る時よりもほんの少しだけゆっくりだった。

 疲れていた。

 でも、ただ疲れたのとは違った。胸の中がいっぱいで、歩くたびに何かが揺れる。

「ルミナ」

 エリアナが呼んだ。

「今日は、たくさん見たわね」

 ルミナは頷いた。

「こわいものも、見た」

「ええ」

「でも……帰っていく人も、見た」

 エリアナは何も言わずに、ルミナの手を少しだけ握り直した。

 オスカーが後ろから静かに言った。

「いいところだったな」

「お父さん」

「ん」

「手は……人を帰せるの?」

 オスカーはすぐには答えなかった。

 道の脇で、風が小さな白い花を揺らした。ルミナはそれを見た。白い花。薬草の庭の匂いに似た、やわらかな色。

「手だけでは、難しいかもしれないな」

 オスカーはゆっくり言った。

「でも、手がなければ、できないことも多い」

「できないこと?」

「支えること。包むこと。押さえること。誰かのそばにいると、知らせること」

 ルミナは、自分の手を見た。エリアナに握られている手。まだ小さくて、熱を出したあとだから少し細く、指の先は頼りない。

 この手で、誰かを支えられるとは思えなかった。

 けれど、メリゼルの手も、最初からあんなふうだったのだろうか。

 最初は小さかったのだろうか。

 最初は、怖かったのだろうか。

「お母さん」

「なあに」

「わたしの手も、あんな手になれる?」

 エリアナは立ち止まった。オスカーも足を止める。

 ルミナは、お母さんを見上げた。怖くて、少しだけ胸が痛かった。聞いてしまったら、なれないと言われるかもしれない。やめた方がいいと言われるかもしれない。赤いものを見ると怖がる子には無理だと言われるかもしれない。

 けれど、聞きたかった。

 エリアナはしゃがんで、ルミナと目の高さを合わせた。

 熱を出して目覚めたあの時と同じように、急に抱きしめたりはしなかった。ただ、ルミナの両手を自分の手で包んだ。

「なれるかどうかは、今すぐには分からないわ」

 正直な答えだった。

 ルミナの胸が、少しだけ沈む。

「でも、なりたいと思った手を、大切にすることはできるわ」

「大切に?」

「ええ。怖いと思う心も、見ていたいと思う心も、どちらも捨てないで」

 エリアナの手は温かかった。

「あなたの手は、今日も綺麗な手よ。誰も傷つけていない手。怖がりながら、それでも見ようとした手」

 ルミナは、瞬きをした。

 目の奥が少し熱くなった。

「……わたし、先生みたいになりたい」

 声にしてみると、それはとても小さな願いだった。道の音に紛れて消えてしまいそうなくらい、小さかった。

 でも、言えた。

 エリアナは微笑んだ。

 オスカーは、少しだけ目を細めた。

「そうか」

 父の返事は短かった。

 けれど、ルミナには十分だった。

 

 

 

 

 

 その夜、ルミナはまた自分の手を見た。

 寝台の上で、白い夜着の袖から出た小さな手。指を開いて、閉じる。赤くはない。水差しに映しても、赤くは見えなかった。

 それでも、目を閉じると、泥の中に沈んだ大きな手が浮かんだ。誰の手なのか分からない。見たことがないはずなのに、知っている気がする手だった。

 ルミナは布団を少し引き上げた。

 

 怖い。

 まだ怖い。

 

 でも、今日見たものは、それだけではなかった。

 白い扉。薬草の香り。泣いていた男の子。包帯を巻いた冒険者。熱の子を抱く母親。紙片を握る手。帰っていく背中。

 メリゼルの手。

 あの手は、血を消すためだけの手ではなかった。

 怖がっている人に、ここにいていいと伝える手だった。帰る道を作る手だった。

 ルミナは、自分の手を胸の上に置いた。

「……なりたい」

 誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。

 先生みたいになりたい。

 泣いている人に、怖かったですねと言える人になりたい。痛いところを見るだけでなく、その人が帰るところまで考えられる人になりたい。

 そして、もし。

 もし、あの夢の中の誰かにも届くなら。

 泥の中で動かなくなった大きな手にも、いつか、帰っていいのだと伝えられるなら。

 ルミナのまぶたが重くなっていく。

 

 

 

 

 部屋は静かだった。窓の外で、夜風が葉を揺らしている。

 

 薬草の香りはないはずなのに、なぜか鼻の奥にほんの少し残っている気がした。

 

 眠りに落ちる直前、遠くで雨の音がした。

 

 それは、リーフェンベルクの夜の雨ではなく、もっと遠く、もっと暗い場所で降る雨。

 

 土と鉄の匂いを含んだ雨。

 

 そして、誰かの低い声を聞いた気がした。

 

「……嬢ちゃん?」

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