白露の小妖精は、小さな薬箱と旅に出る   作:ザキグン

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夢の中のおじさん①

 雨の音がしていた。

 

 屋根を打つ音ではなかった。窓の外で、細く静かに降る雨の音でもなかった。

 もっと低く、もっと重い音だった。

 水を含んだ土が踏まれる音。濡れた草が潰れる音。

どこか遠くで、何かが崩れる音。

小さな寝台の上で聞くには、あまりにも広く、冷たく、知らない場所の音だった。

 

 ルミナは、目を開けた。

 最初に見えたのは、白い天井ではなかった。空だった。

 灰色の空。雲が低く垂れこめて、今にも地面に落ちてきそうな空。

そこから降る雨が、頬に当たって冷たい。

まばたきをすると、睫毛に溜まった水が落ちた。

 

 寝台はなかった。柔らかな毛布も、母の匂いのする枕もない。

 足元には、黒く濡れた土が広がっていた。

 ルミナは息をのみ、すぐに両手を見た。

 小さな手だった。

 けれど、白くは見えなかった。

 雨に濡れた指のあいだから、赤いものが流れているような気がした。手のひらのしわに入り込み、爪の端に溜まり、指を閉じても開いても落ちない。

 

「……いや」

 

 声は小さく、雨にすぐ呑まれた。

 ルミナは手をこすった。濡れた掌を、片方の手で何度もこすった。けれど、手は冷たくなるばかりで、赤いものが本当に落ちたのかどうかは分からなかった。

 怖い。

 そう思った瞬間、身体が震えた。

 ここは、どこだろう。

 お母さんは。お父さんは。白い扉は。薬草の匂いは。

 昼間、白露の小治療院で嗅いだ温かな匂いを思い出そうとした。

干した葉と、甘いお茶と、洗い立ての布の匂い。

泣いていた男の子が、母親の手を握って帰っていった背中。

 

 けれど、ここにあるのは、濡れた土と、煙と、鉄の匂いだった。

 それは、熱を出して目覚めたあの時、ルミナの手にまとわりついていた気がした匂いに似ていた。

 違う。違うはずなのに。

 胸の奥がぎゅっと縮んで、息が浅くなった。

「おかあ、さん……」

 呼んでも、返事はない。

 代わりに、少し離れた場所で、低いうめき声がした。

 ルミナは肩を跳ねさせた。

 雨の向こうに、人が倒れていた。

 大きな人だった。

 灰色の外套が泥に濡れて、地面に貼りついている。片腕は力なく投げ出され、もう片方の手は、古びた長い武器の柄にかかったままだった。見たことのない武器だった。斧のようにも、槍のようにも見える。重そうで、冷たそうで、ルミナの小さな手では到底持てそうになかった。

 その人の周りだけ、雨が暗く見えた。

 赤いものが、泥に混じっていた。

 ルミナは後ずさろうとした。だが、足が動かない。

 倒れた人の指が、ほんの少しだけ動いた。

 その指先が、誰かを探しているように見えた。

 昼間、男の子が母親の服を握っていた手を思い出した。

 あの子は泣いていた。けれど、メリゼル先生に包帯を巻いてもらって、最後には歩いて帰っていった。

 

 では、この人は。

 この人は、どこへ帰るのだろう。

 

 ルミナは、息を止めたまま、少しだけ足を前に出した。

 濡れた土が、靴の下で小さく鳴った。

 その音に気づいたのか、倒れていた男が、ゆっくりと顔を動かした。

 灰色の目が、雨の向こうからルミナを見る。

 怖い目ではなかった。

鋭くて、疲れていて、ひどく痛そうで、それでも、ルミナを見た瞬間だけ、ほんの少し驚いたような目だった。

 

「……なんだ」

 

 掠れた声だった。

 大人の男の人の声。父より低く、白露の小治療院で見た冒険者より荒れていて、喉の奥に砂が詰まっているみたいな声。

「こんなところに、子どもか」

 ルミナは答えられなかった。

 口を開こうとすると、雨が入りそうで、喉がきゅっと縮んだ。

 男は眉を寄せた。それから、ほんの少し息を吐いた。

「近づくな」

 怒鳴る声ではなかった。

 でも、その一言はとても強かった。

 ルミナの足が、そこで止まる。

「……足場が悪い。転ぶぞ」

 男は、そう続けた。

 ルミナは目を丸くした。

 怒られたのだと思った。けれど、違った。男は、自分が泥の中に倒れているのに、ルミナが転ぶことを心配していた。

 そのことに気づくまで、少し時間がかかった。

「おじ、さん……」

 呼び方が、それしか出てこなかった。

 男の目が、かすかに動く。

「おじさん、いたいの?」

 言ってから、胸が痛くなった。

 痛いに決まっている。見れば分かる。けれど、他に何を言えばいいのか分からなかった。

「まあな。けど、嬢ちゃんが気にすることじゃねえ」

「じょう、ちゃん?」

「嬢ちゃんは嬢ちゃんだろ。名前も知らねえ小さい子どもを、他に何て呼べってんだ」

 ルミナは、自分の胸元を小さく握った。

「ルミナ……です」

「ああ」

 男は、目を細めた。

「ルミナか」

 自分の名前を、知らない男の人が呼んだ。

 怖いはずだった。

 けれど、その声は、思っていたよりも乱暴ではなかった。荒れていて、低くて、上手ではない。それでも、そこにルミナを怖がらせようとするものはなかった。

 

「俺は、アルヴァンだ」

「ある、ばん……?」

「アルヴァン。まあ、覚えなくていい」

 男――アルヴァンは、そう言った。

 けれど、ルミナは心の中で、もう一度その名前を繰り返した。

 

 アルヴァン。

 

 雨の音に混じって、どこかで聞いたことがあるような、でも初めて聞く名前だった。

 ルミナは、アルヴァンの手を見た。

 大きな手だった。

 傷だらけで、硬そうで、泥と血にまみれていて、武器の柄を握るためにあるような手。指は太く、爪は欠けて、手の甲には古い傷がいくつも走っている。

 その手が、少し震えていた。

 ルミナの手も震えた。

 自分の手の赤が、また濃く見えた。

「これ……」

 声がかすれた。

「この赤いの、わたしのせい?」

 アルヴァンの目が、わずかに見開かれた。

 ルミナは、両手を胸の前に持ち上げた。雨に濡れているだけかもしれない。泥がついただけかもしれない。でも、そう思おうとしても、赤く見えた。

「わたしの手、また、赤いの」

 お母さんは綺麗な手だと言ってくれた。お父さんは怖い夢を見たら手を握ればいいと言ってくれた。メリゼル先生は、今ここで誰も傷つけていないと言ってくれた。

 なのに、夢の中では、また赤かった。

「そいつは、お前さんのもんじゃねえ」

「え……?」

「その血は、お前さんのものじゃねえ。お前さんが背負うもんでもねえ」

 ルミナは、息を止めた。

 雨が、掌を叩いている。

 アルヴァンの言葉は、お母さんの言葉とも、父の言葉とも、メリゼル先生の言葉とも違っていた。

 優しく包む声ではなかった。けれど、まっすぐだった。

 泥の中に倒れて、自分の方がずっと苦しそうなのに、その人はルミナの手から目を逸らさず、違うと言った。

「でも……おじさん、血が」

「俺のだ。俺が置いてきたものだ。嬢ちゃんが持つ必要はねえ」

 置いてきたもの。

 その言葉の意味は、ルミナには分からなかった。

 けれど、アルヴァンの目の奥に、雨よりも暗いものがあるのは分かった。たくさんの痛いものを見てきた人の目。取れなかった手を、ずっと覚えている人の目。

 ルミナは、白露の小治療院で見た人たちを思い出した。

 泣いていた男の子。腕に包帯を巻かれた冒険者。熱の子を抱いて、紙片を大事そうに握っていた母親。

 みんな、白い扉の外へ帰っていった。

 この人は、まだ帰っていない。

 そんなふうに思った。

「おじさんは」

 ルミナは、雨の中で小さく聞いた。

「帰らないの?」

 アルヴァンは答えなかった。

 彼の指が、武器の柄を少しだけ握り直す。けれど、もう力は入っていないように見えた。

「帰るところなんざ、もうねえよ」

 やがて、彼は言った。

 帰るところがない。

 それは、白露の小治療院で見た「帰る人たち」と、まったく反対の言葉だった。

 どうすればいいのか、分からない。

 ルミナには包帯の巻き方も分からない。薬草の名前も少ししか知らない。メリゼル先生のように、怖がる人に手順を説明することもできない。

 できることは、ほとんどなかった。

 それでも、何も言わずにいるのは、もっと嫌だった。

 

「きょう、ね」

 ルミナは、濡れた両手を胸の前で握った。

「白い扉のところに、行ったの」

「白い扉?」

「白露の小治療院。お母さんと、お父さんと行ったの。そこには、薬草の匂いがして……あったかいお茶の匂いもして……泣いていた子が、帰ったの」

「帰った?」

 アルヴァンが、掠れた声で聞き返す。

「うん。泣いてたけど、歩いて帰ったの。お母さんと手をつないで」

 ルミナは、少しだけ顔を上げた。

「それから、けがした人も。熱の子も。すぐに元気になったわけじゃないけど……先生が、帰ってからどうすればいいか、紙に書いて渡してたの」

 アルヴァンは、何も言わなかった。

 ただ、目を閉じかけていたまぶたを、もう一度少し開いた。

 聞いている。そう思った。

 だから、ルミナは続けた。

「先生はね、怖かったことは、なかったことにしなくていいって言ったの」

 雨が、少し弱くなった気がした。

「この手は、今ここで、誰も傷つけてないって」

 そう言ってから、ルミナは自分の手を見た。

 赤いように見える手。でも、昼間メリゼル先生に包まれた手。

 お母さんが綺麗だと言ってくれた手。お父さんが握ってくれた手。

「わたし、まだ、こわい」

 言葉は震えていた。

「赤いのを見ると、息ができなくなるの。でも……白い扉のところで、帰っていく人を見たら、手って、こわいだけじゃないのかなって、思ったの」

 アルヴァンは、長く黙っていた。

 雨音が戻ってくる。

 その沈黙が怖くなって、ルミナは少し俯いた。

「ごめんなさい。変なこと、言って」

「いや、変じゃねえ」

 ルミナは顔を上げた。

 アルヴァンは、灰色の空ではなく、ルミナを見ていた。

「いいところに行ったんだな、嬢ちゃん」

 それだけだった。

 それだけなのに、ルミナの胸の奥が、少しだけ温かくなった。

 この人は、怖い人ではない。

 怖い場所にいて、怖い血に濡れていて、怖い武器を握っているけれど、ルミナを怖がらせようとしている人ではない。そう思えた。

 ルミナは、もう一歩だけ近づこうとした。

 

「だから近づくなって言ったろ」

 すぐに、アルヴァンが低く言った。

 ルミナはびくっと止まる。

「怒ってるんじゃねえ。泥が深い。足を取られる」

「……うん」

「そこでいい。そこにいろ」

 追い払う言葉ではなかった。近づきすぎるな。でも、いなくならなくていい。そんなふうに聞こえた。

 ルミナは、その場にしゃがみこんだ。

「おじさん」

「あ?」

「わたし、メリゼル先生みたいに、なれるかな」

 アルヴァンは少し目を細めた。

「その先生ってのは、白い扉のところの人か」

「うん」

「なら、俺に聞く相手を間違えてる」

「おじさん、わからないの?」

「分からねえな」

 アルヴァンは、雨の中でかすかに笑った。

「俺は、治す方じゃねえ。壊す方ばかりやってきた」

 その声は、少しだけ遠かった。

 ルミナには、うまく意味が分からなかった。けれど、聞いているだけで胸がぎゅっとする言葉だった。

 壊す方。そう言ったアルヴァンの手は、武器を握ったままだった。

 ルミナは、その手を見つめた。

 怖い手。痛そうな手。

 でも、さっきルミナが転ばないように止めた手。

 どれが本当なのか、まだ分からなかった。

 

「でも」

 ルミナは、小さく言った。

「おじさん、わたしに、近づくなって言った」

「ああ」

「ころぶからって」

「そうだな」

「それは……壊すことじゃないよ」

 アルヴァンは黙った。雨が、彼の髪から落ちる。

 灰色の目が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。

「あの、違ったら、ごめんなさい」

「いや」

 アルヴァンは、ゆっくり目を閉じた。

 

 その時、雨の音の向こうで、白露の小治療院の匂いが、もう一度かすかにした。

 干した薬草。温かいお茶。清潔な布。

 ルミナは、胸の前で小さな手を握った。

 ここは怖い。

 でも、この人をひとりにしたくない。

 そんな気持ちが、言葉になる前に、胸の中で小さく灯った。

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