雨の音がしていた。
屋根を打つ音ではなかった。窓の外で、細く静かに降る雨の音でもなかった。
もっと低く、もっと重い音だった。
水を含んだ土が踏まれる音。濡れた草が潰れる音。
どこか遠くで、何かが崩れる音。
小さな寝台の上で聞くには、あまりにも広く、冷たく、知らない場所の音だった。
ルミナは、目を開けた。
最初に見えたのは、白い天井ではなかった。空だった。
灰色の空。雲が低く垂れこめて、今にも地面に落ちてきそうな空。
そこから降る雨が、頬に当たって冷たい。
まばたきをすると、睫毛に溜まった水が落ちた。
寝台はなかった。柔らかな毛布も、母の匂いのする枕もない。
足元には、黒く濡れた土が広がっていた。
ルミナは息をのみ、すぐに両手を見た。
小さな手だった。
けれど、白くは見えなかった。
雨に濡れた指のあいだから、赤いものが流れているような気がした。手のひらのしわに入り込み、爪の端に溜まり、指を閉じても開いても落ちない。
「……いや」
声は小さく、雨にすぐ呑まれた。
ルミナは手をこすった。濡れた掌を、片方の手で何度もこすった。けれど、手は冷たくなるばかりで、赤いものが本当に落ちたのかどうかは分からなかった。
怖い。
そう思った瞬間、身体が震えた。
ここは、どこだろう。
お母さんは。お父さんは。白い扉は。薬草の匂いは。
昼間、白露の小治療院で嗅いだ温かな匂いを思い出そうとした。
干した葉と、甘いお茶と、洗い立ての布の匂い。
泣いていた男の子が、母親の手を握って帰っていった背中。
けれど、ここにあるのは、濡れた土と、煙と、鉄の匂いだった。
それは、熱を出して目覚めたあの時、ルミナの手にまとわりついていた気がした匂いに似ていた。
違う。違うはずなのに。
胸の奥がぎゅっと縮んで、息が浅くなった。
「おかあ、さん……」
呼んでも、返事はない。
代わりに、少し離れた場所で、低いうめき声がした。
ルミナは肩を跳ねさせた。
雨の向こうに、人が倒れていた。
大きな人だった。
灰色の外套が泥に濡れて、地面に貼りついている。片腕は力なく投げ出され、もう片方の手は、古びた長い武器の柄にかかったままだった。見たことのない武器だった。斧のようにも、槍のようにも見える。重そうで、冷たそうで、ルミナの小さな手では到底持てそうになかった。
その人の周りだけ、雨が暗く見えた。
赤いものが、泥に混じっていた。
ルミナは後ずさろうとした。だが、足が動かない。
倒れた人の指が、ほんの少しだけ動いた。
その指先が、誰かを探しているように見えた。
昼間、男の子が母親の服を握っていた手を思い出した。
あの子は泣いていた。けれど、メリゼル先生に包帯を巻いてもらって、最後には歩いて帰っていった。
では、この人は。
この人は、どこへ帰るのだろう。
ルミナは、息を止めたまま、少しだけ足を前に出した。
濡れた土が、靴の下で小さく鳴った。
その音に気づいたのか、倒れていた男が、ゆっくりと顔を動かした。
灰色の目が、雨の向こうからルミナを見る。
怖い目ではなかった。
鋭くて、疲れていて、ひどく痛そうで、それでも、ルミナを見た瞬間だけ、ほんの少し驚いたような目だった。
「……なんだ」
掠れた声だった。
大人の男の人の声。父より低く、白露の小治療院で見た冒険者より荒れていて、喉の奥に砂が詰まっているみたいな声。
「こんなところに、子どもか」
ルミナは答えられなかった。
口を開こうとすると、雨が入りそうで、喉がきゅっと縮んだ。
男は眉を寄せた。それから、ほんの少し息を吐いた。
「近づくな」
怒鳴る声ではなかった。
でも、その一言はとても強かった。
ルミナの足が、そこで止まる。
「……足場が悪い。転ぶぞ」
男は、そう続けた。
ルミナは目を丸くした。
怒られたのだと思った。けれど、違った。男は、自分が泥の中に倒れているのに、ルミナが転ぶことを心配していた。
そのことに気づくまで、少し時間がかかった。
「おじ、さん……」
呼び方が、それしか出てこなかった。
男の目が、かすかに動く。
「おじさん、いたいの?」
言ってから、胸が痛くなった。
痛いに決まっている。見れば分かる。けれど、他に何を言えばいいのか分からなかった。
「まあな。けど、嬢ちゃんが気にすることじゃねえ」
「じょう、ちゃん?」
「嬢ちゃんは嬢ちゃんだろ。名前も知らねえ小さい子どもを、他に何て呼べってんだ」
ルミナは、自分の胸元を小さく握った。
「ルミナ……です」
「ああ」
男は、目を細めた。
「ルミナか」
自分の名前を、知らない男の人が呼んだ。
怖いはずだった。
けれど、その声は、思っていたよりも乱暴ではなかった。荒れていて、低くて、上手ではない。それでも、そこにルミナを怖がらせようとするものはなかった。
「俺は、アルヴァンだ」
「ある、ばん……?」
「アルヴァン。まあ、覚えなくていい」
男――アルヴァンは、そう言った。
けれど、ルミナは心の中で、もう一度その名前を繰り返した。
アルヴァン。
雨の音に混じって、どこかで聞いたことがあるような、でも初めて聞く名前だった。
ルミナは、アルヴァンの手を見た。
大きな手だった。
傷だらけで、硬そうで、泥と血にまみれていて、武器の柄を握るためにあるような手。指は太く、爪は欠けて、手の甲には古い傷がいくつも走っている。
その手が、少し震えていた。
ルミナの手も震えた。
自分の手の赤が、また濃く見えた。
「これ……」
声がかすれた。
「この赤いの、わたしのせい?」
アルヴァンの目が、わずかに見開かれた。
ルミナは、両手を胸の前に持ち上げた。雨に濡れているだけかもしれない。泥がついただけかもしれない。でも、そう思おうとしても、赤く見えた。
「わたしの手、また、赤いの」
お母さんは綺麗な手だと言ってくれた。お父さんは怖い夢を見たら手を握ればいいと言ってくれた。メリゼル先生は、今ここで誰も傷つけていないと言ってくれた。
なのに、夢の中では、また赤かった。
「そいつは、お前さんのもんじゃねえ」
「え……?」
「その血は、お前さんのものじゃねえ。お前さんが背負うもんでもねえ」
ルミナは、息を止めた。
雨が、掌を叩いている。
アルヴァンの言葉は、お母さんの言葉とも、父の言葉とも、メリゼル先生の言葉とも違っていた。
優しく包む声ではなかった。けれど、まっすぐだった。
泥の中に倒れて、自分の方がずっと苦しそうなのに、その人はルミナの手から目を逸らさず、違うと言った。
「でも……おじさん、血が」
「俺のだ。俺が置いてきたものだ。嬢ちゃんが持つ必要はねえ」
置いてきたもの。
その言葉の意味は、ルミナには分からなかった。
けれど、アルヴァンの目の奥に、雨よりも暗いものがあるのは分かった。たくさんの痛いものを見てきた人の目。取れなかった手を、ずっと覚えている人の目。
ルミナは、白露の小治療院で見た人たちを思い出した。
泣いていた男の子。腕に包帯を巻かれた冒険者。熱の子を抱いて、紙片を大事そうに握っていた母親。
みんな、白い扉の外へ帰っていった。
この人は、まだ帰っていない。
そんなふうに思った。
「おじさんは」
ルミナは、雨の中で小さく聞いた。
「帰らないの?」
アルヴァンは答えなかった。
彼の指が、武器の柄を少しだけ握り直す。けれど、もう力は入っていないように見えた。
「帰るところなんざ、もうねえよ」
やがて、彼は言った。
帰るところがない。
それは、白露の小治療院で見た「帰る人たち」と、まったく反対の言葉だった。
どうすればいいのか、分からない。
ルミナには包帯の巻き方も分からない。薬草の名前も少ししか知らない。メリゼル先生のように、怖がる人に手順を説明することもできない。
できることは、ほとんどなかった。
それでも、何も言わずにいるのは、もっと嫌だった。
「きょう、ね」
ルミナは、濡れた両手を胸の前で握った。
「白い扉のところに、行ったの」
「白い扉?」
「白露の小治療院。お母さんと、お父さんと行ったの。そこには、薬草の匂いがして……あったかいお茶の匂いもして……泣いていた子が、帰ったの」
「帰った?」
アルヴァンが、掠れた声で聞き返す。
「うん。泣いてたけど、歩いて帰ったの。お母さんと手をつないで」
ルミナは、少しだけ顔を上げた。
「それから、けがした人も。熱の子も。すぐに元気になったわけじゃないけど……先生が、帰ってからどうすればいいか、紙に書いて渡してたの」
アルヴァンは、何も言わなかった。
ただ、目を閉じかけていたまぶたを、もう一度少し開いた。
聞いている。そう思った。
だから、ルミナは続けた。
「先生はね、怖かったことは、なかったことにしなくていいって言ったの」
雨が、少し弱くなった気がした。
「この手は、今ここで、誰も傷つけてないって」
そう言ってから、ルミナは自分の手を見た。
赤いように見える手。でも、昼間メリゼル先生に包まれた手。
お母さんが綺麗だと言ってくれた手。お父さんが握ってくれた手。
「わたし、まだ、こわい」
言葉は震えていた。
「赤いのを見ると、息ができなくなるの。でも……白い扉のところで、帰っていく人を見たら、手って、こわいだけじゃないのかなって、思ったの」
アルヴァンは、長く黙っていた。
雨音が戻ってくる。
その沈黙が怖くなって、ルミナは少し俯いた。
「ごめんなさい。変なこと、言って」
「いや、変じゃねえ」
ルミナは顔を上げた。
アルヴァンは、灰色の空ではなく、ルミナを見ていた。
「いいところに行ったんだな、嬢ちゃん」
それだけだった。
それだけなのに、ルミナの胸の奥が、少しだけ温かくなった。
この人は、怖い人ではない。
怖い場所にいて、怖い血に濡れていて、怖い武器を握っているけれど、ルミナを怖がらせようとしている人ではない。そう思えた。
ルミナは、もう一歩だけ近づこうとした。
「だから近づくなって言ったろ」
すぐに、アルヴァンが低く言った。
ルミナはびくっと止まる。
「怒ってるんじゃねえ。泥が深い。足を取られる」
「……うん」
「そこでいい。そこにいろ」
追い払う言葉ではなかった。近づきすぎるな。でも、いなくならなくていい。そんなふうに聞こえた。
ルミナは、その場にしゃがみこんだ。
「おじさん」
「あ?」
「わたし、メリゼル先生みたいに、なれるかな」
アルヴァンは少し目を細めた。
「その先生ってのは、白い扉のところの人か」
「うん」
「なら、俺に聞く相手を間違えてる」
「おじさん、わからないの?」
「分からねえな」
アルヴァンは、雨の中でかすかに笑った。
「俺は、治す方じゃねえ。壊す方ばかりやってきた」
その声は、少しだけ遠かった。
ルミナには、うまく意味が分からなかった。けれど、聞いているだけで胸がぎゅっとする言葉だった。
壊す方。そう言ったアルヴァンの手は、武器を握ったままだった。
ルミナは、その手を見つめた。
怖い手。痛そうな手。
でも、さっきルミナが転ばないように止めた手。
どれが本当なのか、まだ分からなかった。
「でも」
ルミナは、小さく言った。
「おじさん、わたしに、近づくなって言った」
「ああ」
「ころぶからって」
「そうだな」
「それは……壊すことじゃないよ」
アルヴァンは黙った。雨が、彼の髪から落ちる。
灰色の目が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。
「あの、違ったら、ごめんなさい」
「いや」
アルヴァンは、ゆっくり目を閉じた。
その時、雨の音の向こうで、白露の小治療院の匂いが、もう一度かすかにした。
干した薬草。温かいお茶。清潔な布。
ルミナは、胸の前で小さな手を握った。
ここは怖い。
でも、この人をひとりにしたくない。
そんな気持ちが、言葉になる前に、胸の中で小さく灯った。