──旱魃の蛇、推定襲撃時刻、十三時間前。
午後二時、物置小屋。
空はご覧の通り、天高く青々と。差し込む日差しは嫌味のように鋭利。
昼食を終えたふたりは、作戦会議をしていた。
「決戦はおそらく夜中。私の力が弱くなる時間帯だ」
「使える光が少ないからか」
そう、とタルトゥは頷く。
ルーグが使える術式は三つ。偏移は光を必要としないが、残り二つは光に依存したもの。大幅な弱体化は免れない。
「だから、新しい術式を覚える」
おお、とルーグは歓声を上げた。
「新しい、とは言ったが基礎術式の発展系だよ。偏移を主体として収束と発散を組み合わせた白兵術式」
身体能力を増強する《
光に仮初めの質量を与える《
「基礎術式の組み合わせだから、習得自体は容易い。多少のリスクはあるが、君なら問題ないだろう」
リスクとやらが引っかかるが、とやかくは言えない。ここで活躍しなければタダ飯食らい。多少の危険を承知してでもやるべきだろう。ルーグは気合を入れて、押忍と叫んだのだった。
◇
夜の森は月光を遠ざけ、限りなく闇に近い。人間であれば明かりを必要とするが、そこは天使。闇夜なんてものともせず、目的地に向かう。
「────ああ、すまないが頼んだ」
渋い男性の声がする。闇の中に立つ彼は、四角い何かを仕舞うとタルトゥを見る。マルトは一人だった。
「何の用事だ。作戦なら既に伝えたはずだが」
「いやなに、ただの世間話だよ」
疑念の眼差しを受ける少女は知らんぷり。紳士はたっぷりと息を吐く。
「なんの企みを持ってきた」
「ひどいなあ、天使に言う言葉じゃない」
「ああ、その悪辣な笑みがなければ素直に頷くところだ」
「心外だな、可愛いだろう?」
再びのため息に、ムッとする少女。
「本当に世間話だよ……君さ、ルーグを捨て駒にしようとしてるでしょう」
鋭い眼光がマルトを刺す。
「…………そうだとしたら?」
「どうもしないさ。どうにもできないとも言うけれどね。簡単な話だよ──ルーグを信じてあげて」
マルトは目を見開く。ただそんなことを言う為に来たのかと驚愕ゆえに。
目頭を揉んで、「善処しよう」と告げた。
「ああ、そうしてくれ」
少女は短く返事すると、踵を返して闇に消える。
残されたマルトは三度目のため息を吐いた。
「……まったく、おかしな主従だ」
◇
時刻は午後八時を回っていた。
さすがにギリギリまで修行をして、本番にはヘトヘトなんて真似は出来ない。ルーグはハンモックに臥していた。
タルトゥは居ない。修行が終わると同時に、
『町を見てくるからごゆっくり』
と、何処かに行ってしまった。話し相手が消え、少年は手持無沙汰だった。タルトゥを見習い、逍遥でもしようかとぼんやり天井を見つめる。
「こんばんわー!」
ふいに、小屋の外から声がかかる。
誰かと思えばネフェルであった。籠と壺。夕食を届けに来たのだとルーグはさとる。
「ありがとうネフェルさん」
「いえいえ、戦う人には元気でいてもらわないといけませんからね」
「なるほど」
はにかむネフェルに、ルーグは道理だと頷く。
よく噛めとタルトゥに言われたことを思い出しつつ、パンを噛み砕く。ちぎるではなく、砕く。硬い岩のようなパンだ。
ゴリゴリ。ガリガリ。
まるで食事の音ではない。
ビールにしてもドロドロとした液体である。濁っていて小麦と思しき粒が浮いている。見た目はアレだが、栄養たっぷりなドリンクだ。
「ねえ、ルーグ君」
ネフェルの声に、顔を上げる。
彼女の顔は暗い。それが気のせいではないことは、ルーグでもわかる。端正な顔立ちは曇りに曇って今にも雨が降り出しそう。
蛇への恐怖。非日常の興奮。生活が崩れる不安。混じりに混じった感情のるつぼ。少し、言葉に詰まって吐き出されたのは疑問だった。
「君は、どうして戦ってくれるの?」
「え?」
ルーグは固まる。彼にはまるで予想だにしない質問。
けれど、彼以外からすれば当然の疑問。
──戦う理由。
町の人々は町を守るために。
マルトは帝国の命令によって。
なら、ルーグは?
「マルトと争い、見逃された。それに協力すると約束したしな。もっと言えば、町を守るのは良いことだ」
だから、協力するのだと。命を懸けるに値するのだと言う。
潔白で、善良な理由。それは正しい。助け合いをすることは正義であるとネフェルも思う。
だが、人が言うにはあまりに
「君は別にこの町を守る必要なんてない。貴方を縛るモノは容易く引きちぎれてしまう。貴方は逃げることができる。なのに、どうして逃げないの?」
ルーグの理由は絶対的なものではない。彼個人の感情だ。この町で少年は誰よりも自由だった。だというのに、少年は逃げない。むしろ、災害に立ち向かうのだと言う。それはネフェルには理解できない未知。
どうして、という視線にルーグはたじろぐ。
彼には当たり前の行動を疑えと言うのだから酷だろう。沈黙する少年に、ネフェルは嘆息する。彼女だって彼を責めたいわけじゃない。ただ、いざ本番となって逃げだされては困る。なら、期待をさせずに逃げてほしい。
ネフェルが今夜訪れたのはそれが理由だった。
「……怖くないの?」
ふたたび、問いかける。
一瞬の間を置いて、ルーグは口を開く。
「…………怖いよ。うん、怖い」
それはまごうことなき本音。
ネフェルは瞠目する。物語の主人公のような動機を吐く少年に恐れなどないのだと、考えていた。
しかし、実態はどうだ。目の前にいるのは小さな子供だ。
「オレは記憶喪失だから、昔の記憶が無い。
幸せな記憶。辛い記憶。楽しい記憶。怒った記憶。
日々の小さな機微を積み上げて、人間は作られる。
だとすれば、記憶を亡くしたルーグは赤ん坊と大差ない。
「だけどね。記憶を無くしても経験したものは無くならないと思うんだ。いくら無くしても、気づかなくても傷跡は確かにある」
翠緑の腕をなでる。そこにあったはずの何かを確かめるように。
「その傷跡がささやくんだ」
「ささやく?」
──お前は善であれ、と。
ルーグでなかった誰かの記憶の残滓。たぶん、親しい人だったんだろう、とルーグが言う。
「だから、それを指針にした」
ネフェルは絶句していた。
それでは呪いではないかと。記憶の無い少年に残されたモノが「善であれ」なんて悲しすぎる。
かつての自分でない誰かが、そう願われて、受け継いだルーグが願いを叶える。『それが自分であったはずだ』と。そんなものが呪い以外のなんであろうか。
(なんて、悍ましい)
ネフェルは嘆く。この幼気な少年は、呪いに直向きに、愚直に向き合っている。それがどんな結末をもたらすかも知らずに。
彼女は怒りでどうにかなりそうだった。
「ネフェルさん?」
「────、っ」
ルーグの言葉に、ハッと意識が戻る。
純朴な目だった。打算のない、飾り気一つない無垢なまなざし。昔、会った赤子とひどく似ている。まるで純粋な目で言う。
「オレはきっと、自分を証明したいから蛇の前に立つ。善良であることを示すために」
それが町を救う理由なのだと宣言する。
ネフェルの目にはルーグが自身に言い聞かせているように見えた。真綿で自分の首を絞めつけている。人はそんなにも正しくは生きられない。
言葉は無い。彼女ではきっと彼を変えられない。
──でも、この呪いを解ける人はいるのだろうか。
夜も更け、月は孤独に輝く。
旱魃の蛇が到着するまで、あと──