ヴィレイス・"ブレイザー・ヴィリー"・ヴァイオン。
通称はブレイザー。愛称はヴィリー。
危険な男である。
旧ソ連の都市部で日本人の母とロシア人の父の子として生まれ育ち、二十歳で強制徴兵を経験する。
両親から受け継いだ青い目と黒い髪、それから彼に特有の女性的な、嫋やかな美貌も相まって、軍に入隊して間もなく部隊内では話題の人となった。
こういう場合、彼のように美しくも女性的な外見の男性が、ほとんど男所帯の軍に入隊しようものなら、新兵の時期に酷い目に遭わされるのが世の常である。
ましてや、彼が入隊したのはソ連軍、生き地獄が待っていたことは傍から見ても想像に難くない。
だが、結論から言って、彼は尋常の者ではなかった。
彼の自覚や自意識はさておき、この美しい新兵はその外見とは裏腹に非常に頑丈であったのだ。おまけに、俊敏、かつ野性的な振る舞いを見せることもしばしばだった。
彼は不本意ながらも強制的に軍に入れられた口ではあったが、その背景からは想像もつかないほどに…端的に言えば、軍人の適性が高かった。
いっそ、有り余っていたとさえ言っても過言ではない。
その証拠に、自分の入隊した部隊においては、悉く新兵いびりの慣習を廃れさせている辺り、その影響力は個人に留まるものではなかったことが伺えた。
加えて、彼は苛烈な性分や野性的な振る舞いとは掛け離れて、この時期のソ連には相当に不足していたであろう紳士的で温厚篤実な側面をも持ち合わせていた。
一言でいえば、軍内部にあって、彼は異例とも呼ぶべき人徳を発揮したのである。そりゃもう、昭烈帝・劉玄徳も真っ青な程度には。
結果、その温和な人格と苛烈な振る舞いとが、美しい容姿との間で微妙な調和を生むことに繋がり、彼は初陣前から部隊内での大きな影響力を獲得したのである。
かくして、ほぼ力業で軍隊という新たな家の住み心地を改善したヴィレイスだったが、好事魔多し、彼のもとにも出陣となる海外派遣の波が訪れたのだ。
冷戦と聞くと米ソの二大超大国がジッと堪えて、互いの付け入る隙を伺う、不気味な静寂や政治闘争、はたまた双方のスパイによる暗闘なんかが想像されがちかもしれない。
だが、実際には冷戦と言うほど世界は冷え切っておらず、寧ろ、双方が積極的に互いの勢力圏への攻勢を暗に明にも仕掛けていた、非常に熱く、また長い断続的な戦争状態だったという方が、適切かもしれない。
講和して、破って、講和して、破ってを繰り返す様は、イングランドとフランスとの間で繰り広げられた百年戦争にも似ていたかもしれない。
ともかく、そんな熱い戦争が世界各地で惹起されているものだから、当然、社会主義勢力の親玉であるソ連には一番に出兵のお鉢が回ってくるのだ。
時代が変わっても、最も確実な影響力の行使と浸透の方法には、常に陸上部隊による侵攻と占領という公式が付きまとうのである。
自分はそんな激流の表層で流される枝葉の一つに過ぎない、というが当時のヴィレイスの体感的な政治であり、現実であった。
それは言い得て妙だった。彼は軍隊に居場所を作ることに難なく成功したが、それは却って彼を国家と、国家への義務の遂行へと強固に結びつけることになった。
ここまで話して、妙な違和感を彼に抱いたのであれば、それは正解だ。
なにせ、彼は日本人として生きていた前世を持ち、こことは異なる世界から生みなおされた転生者なのだから。
ヴィレイス・ヴァイオンは転生者である。
神にも仏にも遭遇していないが、漫画『BLACK LAGOON』の最新巻を入手したその足で、世に言うトラック転生を果たした人間である。
過去に何変哲もない人間であった彼は、当然ながら今世での特典を期待したのだが、生憎と強烈な個性を発揮する能力などは目覚めなかった。少なくとも、彼の自意識の範疇では。
一方、地味だが非常に重宝したものもある。それが語学力だ。
初歩的な英語を少し話せる程度でしかない彼が、前世の記憶に邪魔されずにロシア語を習得できたのは、彼の才能でも、彼の努力の賜物でもない。
そもそも、前世の段階で英語を碌に話せなかった彼が、どうして生まれ変わった程度で、努力や才能を思うがままに行使し、またそれを使いこなせる道理があるというのか。
ゆえに、彼がロシア語であろうが、何語であろうが、人との会話を苦も無く熟せているのは、一概にそれらが全て日本語で聞こえているからに他ならない。
これは彼の言葉を聞いた側にも言えることだ。無論、一対一での対話時に限られるが、相対する話者の言語で双方が流暢に会話しているように、傍からは見えるのである。
これらを、彼は『自分が漫画の世界に入ったから』ではなく、『ファンタジーのスキルのようなもの』のお陰であると解釈した。
そうだ、彼は自分自身が、あの物騒極まりない悪徳の世界の住人になっていることにさえ、気づいていなかったのだ。
彼が自分が今、どんな世界で生きているのかを自覚するまでには、実に十年近くの潜伏期間を要した。
その間、彼は強制徴兵されて戦地に向かい、そこで目が飛び出るような戦果を挙げ続け、異例の速度で階級を上げていった。
戦地での彼の得意分野は端的に言って二つ。
一つ目は単独潜入による破壊工作。特に火付けが大の得意で、敵軍の貯蔵庫や武器庫を野性的な勘で見つけ出して爆破することにかけては右に出るものがいなかった。あまりにも破壊工作が巧すぎて、GRUとKGBから他国の工作員ではと警戒されるほどであった。
そして二つ目が、部隊の先頭に立って銃剣で突撃する白兵戦である。意外かもしれない。だが、現代戦において、どういう訳か彼は大和魂丸出しの突撃をしばしば敢行しており、意味不明ながら、そのすべてを成功させてきたのである。
特典と言うならば、真相はそのクソ度胸と白兵戦能力の高さに現れているのだが、彼自身にその自意識は芽生えなかった。
なぜか、と問われれば彼が鈍かったのではなく、そういう特典だったから、という説明に落ち着くだろう。
要するに、それは彼の意識の外で行われるものだったのだ。
その人間離れした動体視力にしても、死も苦痛も恐れないとばかりの土壇場でのクソ度胸も、そのすべてを一つにまとめて上げて見事な結果を生む頑丈な身体も、すべては違和感の外に置かれた異常性だったのである。
これは、彼が無能だったというよりも、人並みの能力しかない人間を過酷な環境で手っ取り早く生かすための筋道を試行錯誤した結果の、合理的な判断だと言えなくもない。
前世一般人が恣意的に超能力を行使することは、心身にかかる負荷が尋常ではないし、使いこなせるのを待ってくれるほど戦場は甘くないだろう。そうなると、手っ取り早く当人の意識に依存しない形で能力を行使する仕組みを整えた方が有意義であり、また現実的だろう。
そのような思い遣りが実際にあったかはさておくとして、彼はその無意識の本領発揮に助けられて、順調にウォー・ヒーローとしてソ連軍内部で確固たる評判を築くに至るのだ。
だが、評判が確固たるものになればなるほど、彼はあからさまに冷遇を受けることになった。
無論、軍人としての名誉はこれ以上ないほどに認められていたが、その能力は危険視されるに足るのであり、彼の復員に伴う一般社会への帰属が民間にどのような悪影響を与えることか…と、ソ連の高級官僚たちは危ぶんだのである。
ここで、彼の人生に強制徴兵以来の大きなターニングポイントが訪れた。
それは一般人として生きる上で当局からの身辺警護と言う名の監視を受け入れるか、軍人として名誉と共に戦場を駆けずり回る日々を終生おくるか。
彼には二つの道が用意された…ように見えて、実質は一択だった。
言うまでもないが、この頃になると彼の帰るべき家とは、故郷の両親が待つであろう家ではなく、気心の知れた仲間が沢山いる軍隊の方になっていた。
どういうわけか知れないが、自分が戦場に出ると敵は死に、味方はより多く生き残るのだ。
故郷の両親の元に帰れば、戦場に置いてきた友達や知り合いをみすみす死なせることになる。
彼の思考は典型的な形に染まっていたが、おおもとの平凡な人格が持っていた温厚さは失っていなかったし、その証拠に彼の脳内では敵兵を殺すことへの忌避感を拭うために、銃の引き金を引くことは卑怯だが、白兵戦ならより公平だから敵を殺すうえでの心理的負担が少ないと判断して、彼の肉体には銃の引き金を引かせる代わりに、白兵戦で敵を銃剣で突き殺すことに特化させたのである。
結果、大和魂漲るバケモノが爆誕してしまったのだが、彼とて学校を出ていなくとも昇進に際してより高度な軍事教育は受けているので、敵に真正面から突撃することは皆無であり、基本的には虚を突き、否応なしに白兵戦闘に持ち込む、寝技的な戦法を得意とするに至ったのである。
これが、非対称戦闘など、敵が見えない場合の方が多い状況下では非常に有用だったのである。
自軍よりも少数の、かつ装備も劣った相手との戦いにおいて、常に受け身に回らざるを得ない状況を打破することに、彼はしばしば成功していた。
彼のこの非凡な、というか異常な経歴に目を付けた軍上層部は、彼を最終的には少佐にまで昇進させたうえで、彼の経験を大隊規模の特殊部隊育成の為に利用することを企図して、新たな席を空挺軍内部に設けたのである。
一般に空挺軍特殊コマンドと呼称されることになる彼の大隊は、麾下に三個中隊(十個小隊)を抱えており、その中には[[rb:遊撃隊 >ヴィソトニキ ]]も含まれていた。
少佐による異例の独立行動大隊は、来る世界規模での紛争における祖国への多大なる貢献が期待されていたが、同時にその時が来ない限りは表沙汰にもされず、周囲から隔絶された秘密部隊といった感じで、ヴィレイスを体よく飼い殺しにする為の鳥籠として機能していた。
ある側面から言えば、この大隊に配属されることは最高の名誉であると同時に、ヴィレイス少佐のとばっちりを食った挙句、軍人として声望を高める機会を半永久的に失うことをも意味したのである。
果たして、大隊の指揮官となった彼は、お得意の人心掌握を巧みに発揮しつつ、実戦に即日投入可能なまでに部隊を鍛え上げた…と言いつつ、彼自身は特別なことをしておらず、専ら訓練の構成などは幕僚に丸投げだったようである。
だが、それでも大隊の顔であるヴィレイスの名声は高く、殊に大隊内において、その地位には絶対的なものが宿されていたと言えよう。
このままいけば、ヴィレイス少佐が退役するまでは一生訓練だけを続けることもあり得た彼の大隊だったが…そんな折にアフガン戦争が始まったことで、彼らの運命はヴィレイスと共に数奇な方向へと流れだしたのである。
因みにだが、アフガン戦争投入の数年前の段階で一人の女性将校が大隊の新たな幕僚として、より厳密には麾下の[[rb:遊撃隊 >ヴィソトニキ ]]の指揮官として加わったことで、ヴィレイスはこの世界が前世の創作物の世界であるということに、ようやく今になって気づくのだが…。
彼に気付きを与えたこの女性将校こそが、後に『フライ・フェイス』として恐れられることになる女傑バラライカ、もとい当時はソーフィヤ少尉であった。
彼女との出会いにより、彼は自己が漫画『BLACK LAGOON』の世界に転生した転生者であったことをようやく自覚し、その後の生き方について深い思索を重ねた挙句、行き当たりばったりに生きることを決意するに至るのだが…それはまた別のお話。
思い返せば、アフガンがすべての始まりだった。
付け加えるならば、『物語の』という言葉が頭につくが。
ともかく、この紛争に俺と、俺の部隊が派遣されたことが、今日まで続く人生大河の濫觴となったことは確かだ。
来る日も来る日も訓練に明け暮れていたある日、俺はあのバラライカと出会った。
訓練に励む隊員たちを横目に俺たちは初めて言葉を交わした。ピシッとした折り目正しい感じの女性将校で、真新しい空挺軍の制服に身を包んでいた。目つきはそこまで鋭くなかったと思う。寧ろ、その瞳には将来への、拭い難い希望が揺らめいていた。
「ソーフィヤ・イリーノスカヤ・パブロヴナ小尉です。現在時を以て、空挺軍特殊作戦コマンド第十三独立大隊第一遊撃小隊の指揮官として着任いたします」
「ソーフィヤ小尉、我が大隊へよく来てくれた。俺が大隊長のヴィレイス・ヴァイオン。みんなからはヴィリーとか、ヴィルとかって呼ばれてる。あと、いちおう少佐ね」
よく通る声だ。若い声でもある。口調ははきはきとしていて、気後れした様子はなかった。凛々しい顔には火傷の後もなくつるりとしていて、これで前線に出れば戦女神のようにもてやはされることが容易に想像できた。引き締まった身体をしていて、女性にしては高身長だし、身のこなしも洗練されていた。没落しても元はソ連の特権階層に生まれただけはある。振る舞いには気品があり、教養を感じさせる落ち着いた口ぶりも好印象と言えた。バラライカの陽の部分が詰まった姿だと言うべきか…とても、ロシアン・マフィアの親玉になるようには、今の段階では誰も想像がつくまい。
それくらい、彼女はこの段階において、あらゆる意味で綺麗だった。
「お噂はかねがね伺っております。敵地における単独潜入と破壊工作に長け、白兵戦に掛けてはソ連軍全体を見渡しても並ぶものがいない勇者だと」
「あ、うむ。概ね合ってる、と思う。ま、そんなことよりも、君のような将来有望な将校がうちに来てくれて、本当に嬉しいよ」
嬉しいのは本心だ。ただ、この世界があの物騒な世界だというのはいただけない。それでも、全部をひっくるめて、前世で心底好きだったキャラクターが、文字通り生きている姿で現れてくれたことは、幸甚の至りでしかなかった。改めて視てみても、綺麗な人だった。願わくばこのまま、綺麗なままでいて欲しいとも思うのだが…人生には三つの坂があるのだ。
上り坂、下り坂、そして『まさか』の三つが。
いつかはやってくるだろう、その瞬間を想像すると、俺は暗澹たる心地になった。でもまぁ、今は目の前にいる彼女を、一時でも長く視界の中に収めておきたい、と。そう素直に思ったことをはっきりと覚えている。見惚れていたのだ。彼女があまりにも綺麗だから。
「滅相もありません。以前から、お噂は伺っておりましたが、本当に美しくていらっしゃる…こうして実際にお会いするまでは信じられませんでした」
「戦場には似つかわしくないよね、俺もそう思う。これで髪なんか伸ばしたら、本当の女みたいだって皆が言うんだよ」
俺が言った通りで、女々しいとは言われなくなっても、女みたいに綺麗だと言う連中は少なくない。お褒めの言葉に預かり恐悦至極な一方で、彼らの言葉には多分にからかいが含まれているのだ。俺が容姿を気にしていることを、知ってて言ってやがる。だからといって何もしないが…それでも、歩き方やら、喋り方やらには気を付けているのだ。
俺の自虐ネタに対して、この時のソーフィヤ少尉はほんのりと微笑んでくれたように思う。愛想笑いじゃなくて、本当に笑ってくれたのだと、そう思ってる。
「戦場であればこそ、少佐殿は輝かれるのでは?兵士たちは、外から見る限り、誰もが貴方に心酔しているように見えます」
「距離感が他より近いだけだよ。訓練にはいつから参加する?」
なんとなく母親が見守るような視線が照れくさくて、超特急で話題を切り替えた。もったいないことをしたかな、なんて。
対して、彼女は背筋を伸ばしてから、強く断じた。
「部隊の把握が済みましたら直ぐにでも」
なんとも心強いことだった。どのみち、このままだと何れはアフガンが始まるのだ。俺は歴史に詳しくないし、そもそもソ連に本格的な特殊部隊が開設されたのもいつ頃からなのか知らないのだが…我が大隊はほぼ確実に投入されるはずである。今日までひたすらに訓練だけに明け暮れてきたのだ。ごくつぶし呼ばわりされないためにも、引っ張り出されるだろう。
上の連中だって、俺のことは疎ましく思っても、特殊部隊そのものが疎ましいわけじゃない。むしろ逆だ。彼らは使いやすい剣を欲しているのだ。その試金石として、今回の戦場が選ばれるのは極自然な流れだと言える。
「そう。君なら大丈夫だよ。それと、訓練の内容は特別なものは、多分ないと思うよ。格闘訓練が少し多いくらいかな」
俺は自信満々に応えた。そうだ、彼女なら大丈夫。なんだったら、とうの昔から訓練の構成とかは幕僚に頼り切りなのだ。俺の仕事は予算の確保と、戦場で誰よりも多くの敵の命を奪い、誰よりも多くの味方の命を保全することなのだ。
俺の激励らしからぬ激励に、彼女は柔らかい笑みをうかべたのもつかの間、スキッと顔を引き締めて最敬礼で応じた。
「承知しました。以後、ご指導ご鞭撻のほど、どうぞ宜しくお願いします」
バラライカ…もといソーフィヤとの初対面はそんな感じだった。そこからは、特別な便宜を図るとか、そういうこともなく…普通だった。普通に他の兵士たちや将校に接するように心掛けて、そう在ったはずだ。特別なことは何もなかった。俺は上官で、彼女は部下。その関係性のまま数年が経ち、そしてアフガン侵攻が始まった。
俺たちは、予想通りに派遣された。任されるのは困難な任務ばかりで、その大半は秘密作戦に占められていた。小難しいことはさっぱりわからない俺に代わって、複雑な筋書きを次々に成功に導いていったのは、誇らしいことに我が大隊の力あってのことだった。部隊を実質的に動かしていたのはソーフィヤを筆頭に置く幕僚や将校たちであり、彼らは信頼が置けた。だから、俺は大隊長でありながら暇をすることも多く、そういう時は決まって単独任務を買って出ていた。そうだ。お得意の破壊工作による後方攪乱である。
俺たちは来る日も来る日も戦った。戦術単位ではソーフィヤたちが上手くやり、個人単位では俺が巧くやった。得意の単独潜入で破壊工作にいそしみ、時には実地教育とばかりに部下を連れて行きもした。貯蔵庫や武器庫を潰すのは、白兵戦で直接手を汚すよりも効率的だし、精神的な負担も軽かった。そういう逃避もあって、俺は盛んに銃剣一本で敵地に乗り込んで、ありあわせのもので爆破するなり、燃やすなりした。これなら、俺が死んでも敵に渡る道具は銃剣一本だけだ。
そうこうしていると、俺の首に懸賞金が掛かった。生死を問わず、である。額面はアメリカドルで十万ドル。それが一年と待たずに倍々で増えていき、最終的には五十万ドルにまでなった。
だが、俺は死ななかった。捕まりもしなかった。
不思議なもんで、俺は現代戦にあるまじき指揮官先頭を実行する大馬鹿なのにもかかわらず、狙撃手の弾も、機関銃の弾も、迫撃砲の破片も、手榴弾の爆発が間近であっても、死なない、死ななかった。
怪我はした。しまくった。誰よりも多く、手傷は負っていたはずだ。他の追随を許さない速度で、怪我の数を増やし、そして復帰してまた怪我をして復帰して…を繰り返した。
周囲からの心配の声がなかったわけではない。だが、俺たちは善戦していても、周りはそうじゃなかった。全体で見れば戦況は捗々しくなかったし、傍目にも俺たちは武功抜群に過ぎたのだ。だが、現状で部隊を失うようなことはあってはならなかったし、ソ連軍とて馬鹿ではない。寧ろ、彼らは神や迷信を信奉しない分、他よりも合理的でさえあったのだ。だから、この頃に心配していたことといえば、補給が滞らないかどうか、ということくらいだった。
そんな停滞に襲われる中、考える時間が多かったせいか…俺はこの頃になってようやく、自分には『弾が当たりにくい』、何か特別な力が宿されているのではないかと思い込み始めた。だって当たらないのだ。かすり傷を負うことはあっても、胴体や四肢に被弾することはあっても、重要な臓器や血管からは悉く外れていた。
これは痛いけど死なないし、それがずっと続くということだった。できれば、痛くなくなるやつが欲しかった。と、この時の俺は思った。だって痛いのは辛いのだ。当たれば痛いし。かすっても痛い。なら、同じ死ににくいのでも、痛くない方がよかった。
…あーだこーだ言っても、貰ったもので勝負するしかない。何か貰っただけ幸福だろう。そう思うことにして、俺は何度目かも知れない入院から復帰した。今回は骨折と裂傷だったが、一週間で治せた。腕も足も問題なく動く。信じられないことだけど、自分の身体である。止める軍医を振り切って、その日のうちにナイフ一本で出撃し、ムジャヒディンの武器庫を一つ燃やした。汚い花火があがるのを、鹵獲したレーションで小腹を満たしながら眺めたのを覚えてる。
その次の日だ。
俺とソーフィヤが囚われたのは、その次の日のことだった。
その日の朝は、なんとなく、死ぬ気がした。
ああ、死ぬな。
とかなんとか…迷信じみた感覚が身を包んだ。
こりゃいかんと、そう思い、今日は一人で行くのをやめると言った。
戦場に行かないとは言わなかったから、お休みだとは思われなかったようで。間もなく、志願者が何人か俺のもとに来た。潜入任務のお伴に、ということらしい。或いは実地教育のためか。
ともかく、無駄に一部の衆からは人気があったので、それなりの人数が集まった。それでも、少数には違いなかったが。
集まった連中の中から、選ぶことになったのだが…その中には指揮官職のソーフィヤ中尉が居たのだ。昇進して中尉になっていた、とかは今はどうでもよい。なぜだ、お前は俺の代わりに全体の指揮を執らにゃいかんだろうに…と、思いはしたが流石に口が裂けても言えなかった。なにせ、本来ならば俺がする仕事を彼女たち幕僚の衆が肩代わりしてくれるおかげで、俺は自由が利く身でいられるのだから。
「中尉、君の志願理由を聴いても?」
階級も関係なしに横一列に並んだ面々。そこから一歩踏み出したソーフィヤに向かって俺が尋ねると、彼女は幾分鋭くなった瞳を俺にまっすぐ向けて、剣呑さの増した凛とした声を張り、変わらぬ背筋のよさのままで応えた。
「はっ!大隊長である少佐殿が単身で敵地において破壊工作に従事する姿を見て、一指揮官として小官も率先して敵陣の後方攪乱任務に就くべきだと考えました」
「いや、君は最前線で兵士たちと共に銃を撃ってるじゃないか。知ってるだろ?俺が引き金引けないことくらい。できないことの代わりに突っ込んでるだけで、やらないに越したことはないんだぞ?」
そうなのだ。俺は正規の方法では点数を稼げないから、自分に出来ることを選り好みしているだけなのだ。彼女たちが負い目に感じる所は何もない。
「だからこそ、です。平時ならば触れることのできない範疇について、これほど卓越した教官がいるというのに、これに教えを請わないことは軍人として怠慢であると、少なくとも小官は考えます」
「あぁ…おう。うん。わかった…」
彼女の言葉に気圧されて頷きかける俺。
「ではっ!」
「ダメです」
だが…ここではっきり言わなければならないことも理解していた俺は、ギラギラとした目つきのソーフィヤ中尉を真正面から見据えつつ、キッパリと言った。
「なぜですか!?」
当然、彼女はそう言う。だが、俺にも考えがあってのことなのだ。
「何故かと言うと、今日は嫌な感じがするからです。俺も今日は行かないことにします。大人しくしているつもりだからです。だから、君のことは連れて行けません」
指揮官としてできることは少ないが、いざとなれば側面から突撃して寝技に持ち込めるので、俺がいたって構わないはずだ。
そんな心算もあり、俺はそう理由をつけて断った。そもそも、原作で虜囚になっているソーフィヤを、援護も期待できない極少数での潜入任務に連れて行くことなど論外なのだ。
そんな説明できる事情と、説明できない事情もあり、その日の俺は静かな一日を過ごすことに決めていたのである。
だが、胸騒ぎが収まることはなかったし、その胸騒ぎが現実のものとなることなど考えてもいなかった。
ただ、何となく嫌な感じを抱えたまま、その日の作戦が始まった。
作戦自体は順調に推移した、と思う。なにせ指揮官だが、実際に指揮を執るわけではないし、軍学校も出ていないので詳細がわからんのだ。ただ、味方が優勢であり、各所で行われた攻撃が成功しているということだけは指揮所での空気感から察して理解することができた。事前情報の通りだった点も多く、敵であるムジャヒディンよりも装備の面で優位に立てていたこともあるだろう。
ともかく、目的の集落への攻撃は成功し、基地への中継点として利用する為の準備が整ったのである。
問題はその後だった。
その後、俺は単身での上級司令部への出頭を命じられていたのだが、これに異を唱える幕僚が多かったのである。
目的は戦況報告を大隊長が自ら、責任をもって行うように…と、全く以てその通りなのだが、俺の幕僚たちは之を『釣り』だと考えたのである。
俺はそんなことないと言ったのだが、彼らは頑として譲らず、結局は護衛部隊を伴うことになった。
後方に位置する上級司令部に出向くためにしては御大層な、とはいえ少数の護衛を伴って、俺たちは後方へと車両で移動を始めた。この時、護衛部隊の指揮を執ったのがソーフィヤだった。
俺はと言うと、黙って車に揺られていた。出来ることはなかった。補給が滞れば兵士を養えないのだ。俺が出向かなければ、抗命罪で部隊に便宜を図ってもらうのに時間的な齟齬が意図的に加えられることだってあるだろう。最早、このころには昔日まで見られたソ連軍の余裕は吹き飛んでいたと言ってもよい。
全体での戦況が芳しくない中で、あちこちを転戦しながらその都度、局所的な戦果を挙げ続ける我が大隊は、俄かにも疎んじられつつあった。剣の切れ味がよすぎるあまり、使い手の手に余るように思われたのかもしれない。いずれにせよ、軍か情報将校の中にでも内通者がいなければ、掃討が済んだばかりの後方地帯で狙いすましたかのような精度の奇襲になど遭遇するはずもない。
うむ。奇襲である。奇襲を受けた。夜も明けきらぬうちに周囲を囲まれて滅多打ちにされたのである。
敵の部隊はムジャヒディンではあったが、今までの連中よりも遥かに装備も練度も研ぎ澄まされた精鋭部隊であった。彼らは味方が意図的に通過を許すでもなければ隠匿できない規模の大部隊であり、数的不利は圧倒的であり、それは戦う前から火を見るより明らかであった。
事前にその集落に立ち寄った段階で襲撃計画が練られていたようで、我々は非常に無防備な状態だった。
そもそも、味方の影響力が濃厚に反映されている上級司令部のすぐ手前で、どうして数百人規模のムジャヒディンに襲われるというのか。俺は「ああ、コレか」と思った。朝起きた時から続いている胸騒ぎに答えが与えられたようで、その瞬間にスッキリした覚えがある。だってそうだろう?これを切り抜ければ、あとは大丈夫と言っているようなものではないか。
そういうわけで、俺はいつも通りに銃剣を差したカラシニコフを引っ提げて、敵軍に吶喊した。無論、側面から。
目的は明瞭である。部下を生かすこと。一人でも多く逃がすこと。これに尽きた。
戦場で戦う者が全員哲学者だったなら、そもそも戦争になどならないかもしれない。だが、現実には思考の挟まる余地がないほどに、生死を端的に行動によって選択することを迫られるのだ。
思索を深める余裕などない。それは、こういう危機的状況下では猶更のことだったから、俺は無我夢中で動いた。
俺は自他ともに認める猪武者であり狂戦士である。コソコソして燃やしたりする以外には、真直ぐに突っ込んで白兵戦に引きずり込むくらいしか得意なことも、特異だと言える所もない。
ふと脳裏に、上層部とて特殊部隊そのものの存続を脅かす気はない、という弁護が過った。だが、この時に帯同していたのは小隊にも満たない少数の護衛と中尉一人だけだ。替えが利く駒として、許容範囲の損失と判断したのかもしれない。
或いは、五十万ドルの賞金を欲しがったソ連軍内部の誰かがいたのかもしれないが、真相は解らず仕舞いだ。
言わずと知れたことだが、目的は俺だ。間違いない。金を払う相手は誰でもよくて、とにかく俺のことを殺したくて殺したくて堪らない連中がいたのだろう。
ここまで、正しいとは微塵とも思わずに生きてきた。だが同時に、それを間違いだと否定される謂われもないと思い、目の前のことだけに集中して生きてきた。
それがこのざまである。
不思議なことに、悪びれる気持ちは湧いてこなかった。怒りもだ。
ただ、仲間が自分のとばっちりを食ったことだけは、どうしてもやりきれなかった。悪いことは、悪いことをするやつが悪い。騙しは、騙される人ではなく、騙す人が悪い。
だから、こうなったのは仕掛けたやつが確実に一番悪いのだが、俺は今さらになって、自分というものがかなり悪い人間だということに気づかされ、お陰で蒙が啓けた気がした。
そうか、俺は悪いやつだったのか、とね。
そこからは早かった。何も怖くない。俺は悪いやつなのだから。
アフガンに入ってから、否、入る以前から生きた的を撃ったことがなかった愛銃に、初めて初弾を装填し、焦らず引き金を引いた。
引けた、と思うのも束の間。銃の反動は大したことがなかった。前世でなんとなく妄想していた感覚とはかけ離れた、安っぽさに得も言われなかった。
だが、銃が撃てるようになったのだ。それだけで進歩だった。幸い、弾はよく当たるようだった。目がいいのか、腕がいいのか、運がいいのか。
それはさておき、全方位から攻め寄せられ集落の中心に押し込まれつつあった状況を打開するべく、俺はすべての要員に一点突破の後、全力で逃走するように命じた。
すでにあちこちで迫撃砲がさく裂し、車両も一部破壊されていたから、このままではジリ貧である。死傷者も少なくなかった。ならば、やるしかあるまい。
機関銃を据え付けてある火力が期待できそうな軽装甲車両を先頭に、部下を満載した車両が続き、最後に一番死ぬかもしれない殿役をソーフィヤが買って出た。
ここから捕虜になる道に繋がるのだろうか…と感慨一つ。そうでないならこの苦境を脱することに成功したというだけのこと。依然として困難な道である。だが、彼女は生き残ることが高確率で確定しているのだ。俺はそう思いたかった。そう思えば、気持ちが幾分と楽だった。
原作の彼女しか知らなかった俺にとって、部下であるソーフィヤは非常に魅力的な人物だった。数年近く、密接に関わりあってきた。同じものを食べてきたし、同じものを見てきた。一度死んだせいなのか、特に人の生き死にについては、なんとなく元の通りにはなっていない感じのする俺とは違うのだ。
彼女は生身の人間としてそこにある。もっと生き生きとして笑うし、その表情一つとっても多種多様だ。冷たい目の時もあれば、和んだ目をするときもあるし、剽軽さが滲む照れ笑いだってできるのだ。
戦場に出てきても、それをする場所が、環境が変わっただけで、同じ場所と環境を経験している俺にとって、少なくとも俺から見ると彼女はそこまで大きな変質を遂げてはいないと思う。
変化があったとしても、それは許容範囲だろう。考えてもみろ、人の一人や二人殺してみれば、誰だってそうなる。だから、それは当たり前なのだ。変わったように見えて当然だ。影響を受けて居て当然なのだ。ある種の穢れへの忌避感だろうか、いずれにせよ、お前は変わったと何も知らない人々は言い、遠巻きに見るようになるだろう。それもまた、当たり前のことだ。
国の為だとしても、人を一人でも殺せば、それはもう異文化に片足を突っ込むのと同じだ。異文化に生きる、異分子として元の共同体からははじき出される。恐れられ、或いは敬われる。それは、寂しいことかもしれないが、戦士階級にとっての宿命なのかもしれない。
ともかく…準備は整い、俺は得意の寝技を持ち出して、難なく白兵戦に持ち込んだ。多少、白兵戦から免れようとする動きはあったが、俺の前では効果的ではなかったのか、意外にもあっさりと白兵戦に持ち込むことができた。そこからは簡単なことだ。目の前の敵に、正々堂々、銃剣を打ち込むだけである。
俺は先頭に立って突撃し、間もなく後に続く車列が攻撃しつつ通過して、突破口を開いた。
恐らく、あれは追撃されないだろう。そういう確信があった。連中が欲しいのは俺の首だけである。特殊部隊は憎くない。寧ろ、この先に向けて温存しておきたいくらいのはずだ。
後のことになるが、この推測は当たっていた。脱出した部隊は追撃を受けることなくもと来た道をまっすぐ戻り、その道中で上級司令部に再度、即応部隊を送るようにと要請したらしい。
果たして、即応部隊は来襲したが、それは更に一時間も後のことだったというから驚きだ。
跡地には、死人以外は何も残されていなかった。
そして、残されていた死体の中には、俺のものと、ソーフィヤのものが含まれていなかった。
この報告のおかげで、結果的には俺と彼女が救出されることになるのだが…あ、そうだ、俺とソーフィヤは生きていた。無事とは言い難かったが、五体満足で生きていた。
最終的に、殿はソーフィヤを残して全員が戦死し、俺は散々暴れまわった挙句、迫撃砲の至近弾を食らって死んだものと思われていたようで目覚めた時は死体袋の中だった。
ソーフィヤは捕虜となっているようで、連れ込まれた拠点に響く悲鳴は彼女のものであることからも、今が「その時」であることは容易に想像がついた。
と、そこで思考が悪い方向に行った。この状況、どうにかできないだろうか、と。
俺は安置されていた死体置き場から自力で這い出ると、廊下で出会ったムジャヒディンの首を折々しながら進んだ。音が出るから銃は拾わず、銃剣をいただいた。銃剣さえあれば、もうこっちのものである。俺は目の付く人間を片っ端から銃剣でサクサクしながら、散歩でもするように拠点の内部を探索し、ようやく尋問部屋らしき場所を見つけた。迷ったわけではない。通路が無駄に複雑だったのだ。
既に十人は銃剣の錆に変えていたが、ここからは少しばかりデリケートだ。扉を開けて、一瞬で部屋の内部情報を分析し、息つく暇も与えずに白兵戦に持ち込み、かつ時間を掛けずに全員を静かにさせなければならないのだ。文字に直すと嫌に小難しそうなこれを、俺は一息でやらねばならなかった。
自信はない。だが、多分、なんとかなるだろう。
思ってからは進むだけだ。これまでもそうやってきたのだから。何も変わりはない。
そういうわけで、俺はドアを蹴破り、椅子に縛り付けられたソーフィヤを確認してから、手始めに壁際に立つ見張りの喉を切り裂き、続いてガスバーナーのような道具を持ってる奴を蹴り倒すと、銃口を向けようとする奥の兵士を銃剣を投げることで黙らせた。
「ソーフィヤ、もう大丈夫だ。今、縄を解いてやる」
最後の一人の頭に深々と突き刺さっていた銃剣を取り戻してから、俺は一言告げ、それから彼女の身体を縛る縄を解いた。
「あぁ…よかった…」
縄を解いたのが俺だと理解すると、彼女は瞠目して、震える声でそう言った。
「俺もだ。よかった…君が生きててくれて…」
彼女の万感が込められた掠れ切った声を聴いて、俺はこの時、生まれ直して…いや、生まれ変わる前まで含めても初めて、人前で無性に泣きたくなった。
情けなくてどうしようもない自分を、隠すことさえ逃げのような気がしたし、そもそも、泣くこと自体が逃げのような気がした。
結局、涙は流せなかった。ただ、鼻をすすった。
それから、彼女の顔を見て、息を吞んだ。
「ただ…すまん。俺は、ずいぶん長いこと、寝てたみたいだな…すまない」
嗚呼…同じだ。それは、まったく同じだった。場所も範囲も。寸分狂わず、同じだった。
強い熱を持ち、今は膿むことさえ出来ない真新しい火傷を目の当たりにして、俺は発すべき言葉を持たなかった。
情けないだとか、悲しいだとか、そういう感情ではない。もっと、溜息を吐きたくなるような、やりきれなさ、居た堪れなさが胸の奥の奥でズーンと重たく沈んで行くのを感じた。それは二度と浮き上がってこないし、沈んでしまったそれを、取り戻す術もない。ただ、重苦しく、叩きつけられるような現実感だけがあった。
それは重厚で、冷ややかな、ともすると情け深さをさえ感じるような不条理だった。決まってしまった、定められてしまったという不条理を前にして思う、重さに耐えかねた心身の叫びだったのかもしれない。
「ソーフィヤ、帰ろう、仲間のもとに」
「少佐、どの…わたしは…」
倒れこんでくる彼女を受け止める。
「今、治療してやるぞ。俺も怪我ばかりするから、応急処置は誰よりも上手いんだ。隊の中では一番早くて丁寧なんだ、知ってるだろ?」
俺の言葉に、わずかに顔を上げた彼女の顔は憔悴し切っていた。精も根も尽き果てたような状態だろう。なにせ、俺は一か月も死んだように眠っていたようなのだ。あるいは、本当に死んでいたのかもしれない。そうでもなければ、この時間の飛びようが理解できなかった。
でも、真実など、今はどうでもよかった。俺は生きてる。どういうわけか体も動く。死の淵からか、死そのものからか、はわからない。
それでも、再び転生しなかったということは、今の生でまだ果たしていないことがあるはずなのだ。この世界で、俺にはやりのこしたことが、まだあるはずなのだ。そして、その中の一つは間違いなく、目の前の彼女を無事に連れ帰ることなのだ。
「心配するな。何もしなくていい。俺が連れ帰る。だから今はゆっくりと休め、中尉」
「…よかった…」
よかった。
また、それだけを言って、ソーフィヤは瞼を閉じた。
死んだのかと思いゾッとして、心臓のあたりに耳を押し付けると、そこは確かに鼓動を刻んでいた。よかった。生きてる。知識として知っているはずなのに、気が気ではなかった。
俺はそこから一時間と掛けずに基地を一人で掃討し、その上で彼女を救護室に運び込み、出来る限りの手当てをした。
「服を脱がすが、勘弁してくれ。文句なら元気になってから幾らでも受け取るからさ…だから早く、元気になれよ…」
酷い傷跡だったが、詳しくは語るまい。ただ、惨いことをする。こういうことは、俺はしないようにしようと思う。やるなら、速やかにするべきだ。拷問も、痛いのは最低限がいい。それ自体を否定できないのが、軍人の辛いところか。
「とりあえずは、これで大丈夫だ。次に包帯を取り換える時には、ちゃんと軍医にやってもらおうな」
処置をしている間、俺はずっと一人で喋っていた。ひと心地ついてから、ようやくそのことに気が付いた。気づいたからって何も無いが。
「……」
「……」
短い沈黙が二つあって、俺は徐に立ち上がり、味方への無線連絡のことを思い出した。
「そうだ、仲間に知らせなくちゃな」
だから、行ってくる。
そう言って、そのまま救護室を出ようとすると、力強く腕を掴まれたのが分かった。
「…っと、あれ?起きたのか?」
尋ねるも、声が戻ってくるわけじゃなかった。
「ソーフィヤ、すまんな、すぐ戻る」
傷つき荒れた指と罅割れた爪先。かなり綺麗になったが、つい今さっきまで赤黒い血と砂の固まったものに塗れていたのだ。綺麗になった。少なくとも表面上は。
俺はその指を優しく外して、部屋を出ようとして…今度は強く、グイっと引っ張られた。
「うぉ!…力強いな、こんな時に。今はちゃんと休んでいなくちゃ…それに、仲間だって呼んでこないと」
手は離れない。放そうとする気配もない。
「困ったな…」
無理やり振りほどくことは出来るだろう。だが、そんなことは俺にはできなかった。あらゆる意味で、あらゆる理由で、そんなことは断じて出来なかった。
「…わかった。遅れても俺が何とかする。だから、今はここにいるよ」
俺は依然として喋り続けていた。ソーフィヤは眠っている。手は強く俺の腕を握っていたのだが、今や手を繋ぎ合わせ、そうしたまま凝っている。
「…ごめん。こんなことになるなんて、思ってもなくて…」
ずっと手を繋いでいると、彼女の体温が異常に高いのが分かった。物理的に焼かれていたのだ。正確な期間は不明だが。それが一週間でも、二週間でも、熱だって出ようというものだ。
だから、ずっとそうしていると、ポロリと謝罪の言葉が漏れた。
俺は、たぶん、悪いわけじゃない。この件に関しては。
でも、どうしてか、俺は謝るしかない。そうすることでしか、今この状況で存在できる理由が、俺にはこれといって見つけられなかったのかもしれない。
この挟間の時間を、移ろう間を、俺は知らなかった。漫画の中には、そんな時間的な余白は存在しない。体感することでしか存在を感覚できないこの間を、俺はどうして今の今まで知らずに来たのか。或いは、知っていて、そこから目を背け続けてきたのだろうか。
いずれにせよ、俺は今、よく知る姿になった女と、存在しないはずの空間で、描かれていない時間を過ごしていた。
失ったものは戻らない。彼女の焼けた肌は死ぬまでそのままだ。
俺がどんなに命知らずでも、瀕死の重傷から一か月かけて復活するような化け物でも、その苦痛を完全になかったことにはできないし、それを完全に恢復することなど、到底できないことなのだ。
だから、何も贖罪にはならない。
そもそも、罪と言う赦免を前提とした概念は傲慢でさえある。咎人のための論理で、彼女の味方面をするのは変な話だ。
或いは…その傲慢ささえも、捧げるべきなのかもしれない。
…すべては、彼女が目覚めてからにしよう。
俺はそう決めて、しばらくの間、包帯に包まれた彼女の寝顔をじっと見つめていた。
ずっと。
ずっと。