砂嵐を抜けて、難民キャンプが見えてくると、貴方は立ち止まった。
そこでグッと背伸びをして、私の方へ振り返ると、場違いに気の抜けた声で言った。
「たまには人間らしいことをするのも悪くない、だろ?」
「少佐殿…今回のことは、私の独断です」
だから処罰をどうにか自分一人に限定できないか、と。
そう尋ねようとして、彼が口元に人差し指を立てたことで、私は咄嗟に口を閉じた。
「シーッ!パブロヴナ大尉、君の言いたいことは理解できる。でも、それは君が気にすることではない」
貴方は、安心させるように、心底から何でもないことのように言った。
「俺たちは軍人だが、なにも軍を辞めたら死ぬわけじゃない。いざとなったら全員、俺が食わせてやる。こう見えても稼ぎには当てがあるんだ…まだ芽は出てないがね」
難民キャンプが近づいてくる。蜃気楼の奥から現れたオアシスにしては、煤けていてみすぼらしい。それでも、そこがゴールだった。
子供の手を引いて、私は歩いた。貴方はずっと先導するように少し先を歩いていて、でも、今はその背中が近くにある。貴方の呟き声が届く距離に。
「だから、今回のことは寧ろ好かった。たまにはイイことをしたくなるよな、わかるよ。こういう時、人間はどうしようもないんだ。だから、君は悪くない」
気づけば、貴方は私たちの隣を歩いていた。横顔は鋭く映えて、だというのに穏やかな波を感じる出で立ちは、泰然自若としていて頼もしかった。私たちが、脇目も振らずに追いかけ続けてきた貴方の広い背中。でも、その身体は、横から見ると仲間の兵士たちの中でも薄い部類で、その双肩は華奢でさえある。真横から見た時の、横顔の華やかさが、砂漠の日射に晒されて一層眩しかった。
貴方はその、自ら意識していると零した、特徴的な歩き方で私の横を歩く。ガシガシと音が聞こえてきそうな、腕を振りながらの、大股で乱暴な足取りだが、下品さは感じられないそれは、私と子供のことを置いてけぼりにはしてくれない。貴方は正面に難民キャンプを見据えたまま、さっぱりとした口調で言う。
「軍令違反だからな、そういう意味では正しいことをしたとは思わない。だが、俺は、君が成すべきことをしたと、そう思うよ。やらなきゃずっと後悔してた。良し悪しじゃないんだ。だから、この道を選んで好かったよ」
目の前に広がる難民キャンプは、天国には見えなかった。環境は決して理想的なものではなかった。本当に、ただ生き延びることができるだけの余裕しかない場所だ。だが、それでも砂漠の真ん中に、戦場の真ん中に、子供を置いてけぼりにするよりは、きっとマシな環境なのだと思いたかった。
子供を送り届けてから、帰路についた今更になって思う。果たして、どうしてこんな真似をしたのか。よりにもよって私が、貴方と一緒にいる時に…。軍令違反だ。それもただのミスや失態なんかじゃない。自分の意志で行動したのだ。背くことを選んだ結果だ。国際法違反だと理解した上で、秘密裏に完遂されるべき作戦を、私の個人的な都合で破綻させた。私一人の首で済むものか。大隊そのものを危険にさらす行為だった。
足取りは重かった。縋るように隣を歩く貴方を盗み見る。貴方は私の方を見たりしない。ただ、前を真っ直ぐに見ていた。見据えた先に何があるのか…そこに私はまだ居ることができるだろうか。
複雑な考えが混ざり合っていて、坩堝に嵌りそうだった。答えなどない。或いは、最初からわかりきっていて、それでも動いたのだ。言い訳のしようもない。
ただ…どうしてか、孤独だった。醜い感傷と、自己保身が湧きあがりそうになって、沈黙を保つので精いっぱいだった。
正しいことではなかった。でも、間違ったことをしたとは、到底思われない。私はすべきことをした。貴方の言葉を震えながら噛み締める。そうだといい。きっと、そうだといい。
歩き続けて、辿り着いた合流地点で迎えの車がやってくるのを待つ間。私は覚悟を決めるのに忙しかった。
しばらく待って、迎えの車が巻き上げる砂埃の軌跡を遠くに認めると、私たちは廃村近くの岩場から腰を上げた。私は後戻りの出来ない何かを言いだそうとして、また、貴方の手振りに止められた。
貴方はスラっと背筋を伸ばして、純粋な瞳を私に注ぎ、言った。
「気にしなくてもいい、と言っても気になるよな…でもまぁ、心配するな。直ぐに気にならなくて済むようにしてやる。辞めた後の方のことを楽しみにしておけよ?今よりもイイ暮らしをさせてやる。そしたらみんな、きっかけを作ってくれた君に、泣いて感謝するだろうぜ?」
貴方はそれだけ言うと、軍令違反を犯した帰り道だとは思えないほど軽妙な振る舞いで、いつも通りに過ごしていた。その日からずっと、祖国の土を踏むまでずっと。
そして、私たちが祖国の土を踏み、命令違反の咎を責められて部隊ごと不名誉除隊となった後でも、貴方は変わらずに軽々としていた。
軽々と私たち五百人足らずを、その華奢な双肩に載せて、あの日の苦悩など何でもなかったかのように、躊躇なく走り出したのだ。
終わったはずの人生が、貴方の道に、否応なしに繋げられて、望外に生き永らえてしまった。
不名誉を背負って軍を追い出されたことを、大きな失望と共に抱えることを貴方は許さなかった。
「食わせてやるからついてこい」
そんなぶっきらぼうな言葉一つで、貴方は私たちを国家に属する軍人ではないけれども、貴方という希望に属する戦士として、戦士のままで生きる道を示してくれた。
マフィアに堕ちることを、貴方はなんとも思っていないようだった。まるで、軍人から別の仕事に転職しただけだとでも言うみたいに。貴方はどこまでも爽やかに、私たちの抱えていた憂いを、貧窮への怯えごと吹き飛ばしてしまったのだ。
そこから、私たちはまた始まった。再び戦う理由ができたのだ。それは、前と同じようでいて、全く違う。今度こそ、私たちは選ぶ立場に立ち、その上で敢えて銃を取ったのだから。
懐かしい夢を見た。こうして偶に夢に見る。悪いものではない。
空調が効いていても、自分とは別の体温がそこにあるせいか、いつもよりも部屋の中が温かく感じられた。
温度とは別の温かさに安らぎながら、体にべったりと纏わりつく汗を洗い流したくて体を起こした。
彼はまだ眠っている。思えば、こんなに無防備な彼のことを見るのは初めてだった。
しばし、動きを止めて寝顔に見入った。頬を胸に寄せられて、名残惜しくなって頭を掻き抱いた。優しく、優しく。
触れるか触れないかのところで彷徨う手を、勇気を出して頭に添えて、撫でた。剝き出しにされた胸板や肩や首筋は、どこもかしこも傷だらけだ。
手が欲張って、背中に指を這わせると、昨日の傷跡がすっかり瘡蓋になっていた。こんなところまで治りが早いことに、変なもやもやが浮かんでは消えた。
「私…シャワーを浴びてくるけど…まだ、眠っていていいのよ?」
起こす気がないのに、起きて欲しいような匂いを垂らしているのは、あざと過ぎるかもしれない。自省の気持ちが沸々としてきて、彼の顔を真正面から見れなくなった。照れてしょうがない。
「あと少しだけ…」
そう思い、また彼を胸の中にやんわりと閉じ込めてみた。彼は起きない。胸元を伝い、喉元を擽る寝息が愛おしくって、私は自然と体を離した。
ギシっと音を出して、ベッドから降りると、地に着いた足とは別に、ベッドについていた手が自分以外の体温に包まれた。振り向くと、青い目が開いていた。
「おはよう、ソーフィヤ」
そういう彼の声は寝起きで少し低かった。私は自然と笑みが零れて、ニヤけ顔に崩れないように微笑みを維持するのに苦労した。
「おはよう、寝坊助さん」
少し気障な言葉回しをしてみる。憧れていたわけではないが、手近に転がっていた語彙に手を伸ばした。この安直さを受け入れてもらえることに、憧れていたのかもしれない。
貴方は欠伸を嚙み殺して、目尻を薄っすら濡らしながら、時計を探してキョロキョロした。
「今何時かな?」
そういえば今のロアナプラがどんな状態なのかを知るために、彼はこの地に訪れたのだった。私は本命が果たされた所為か、気が抜けていたようだ。表情を引き締めて彼に告げる。
「時間は気にしなくてもいいわ。連絡会に顔を出すのは夜だもの」
「ならいっか…」
私の返答に満足したのか、彼は仰向けにベッドに寝転がると、しばし天井を見つめていた。
「いつもと違うお目覚めは如何だったかしら?」
私が問うと、目に見えて顔に赤みが差した。
「なんというか、凄かった…毎日は体によくない気がするよ」
「あら、毎日する気だったの?」
私がからかうと、貴方は微笑ましくなるほど照れ臭そうにして苦笑を浮かべた。
「あ、いや、そうじゃなくてさ…こう、隣に誰かの体温があることが、こんなに安心するだなんて、今まで知らなかったから…」
だから、また一緒に寝て欲しい。
真意は丸見えだったが、途切れた言葉を拾ってやらぬのが慈悲というものだろう。私は、貴方のいじらしさにどうにかなってしまいそうだった。いや、もう既にどうにかなっているのだが…。
「宿舎でもルームメイトはいたのでしょう?戦場でなら、雑魚寝だって当たり前だったでしょうに」
冷静さを保つためには会話を続ける必要があった。飛び出た言葉は切れ味が思いのほか鋭くて、貴方の顔をいっそう赤くしてしまったが。
「それは、ね?わかるだろ?生きるか死ぬかの状況で、そういうことは意識できるものじゃなかったんだよ。それに…」
「それに…?」
「ソーフィヤ、君は、特別なんだよ。俺にとって。だから、そういうことだっ…これくらいで勘弁してくれ!」
貴方はピシャンとスプリングから得られた反動だけでベッドから起き上がると、下半身は布団の中にしまったまま、膝を抱いていじけたような姿に落ち着いた。
「ふふふ…ええ、そうしましょう。私、シャワーを浴びてくるから…入ってきてもいいのよ?」
「待ってる!」
「ふふ、はいはい、分かったわ…じゃあ、いい子にして待っててね?」
「う、うん…わかった、から…シャワー、行ってきなよ、ほら」
「ふふふ…かーわいいんだから、もう」
私は内心で快哉をあげた。嗚呼!今日は、なんて好い日なのだろう!私は貴方の特別なのだ!その一言だけで、私は満たされた。すべてを手に入れたような気持になり、震えそうになる体を抑えつけるのに手間取った。歓喜の震えが全身を貫いたのだ。結局、耐えきれなくてシャワーに走った。シャワーを浴びている最中も、何度、いったい何度叫び出しそうになったことか!
シャワーから上がると、彼は入れ替わりでシャワーを浴び始めた。頼りないタオル一枚で戻ってきた私に、彼は言葉を失って、真っ赤になってシャワールームに逃げ込んだのだ。
乱入してもう一度入るというのも魅力的な提案だったが、流石に朝昼が一緒になるのは彼の生態から逸れてしまう。ああ見えて、細かい自分なりの決まりの中で日常生活を送るタイプだと知れたのは、除隊してから新しい共同生活を送る中での嬉しい誤算だった。
朝昼晩とちゃんと食べないと彼はほんのり不機嫌になるのだ。あれは不機嫌と言うよりは、しょんぼりという表現が適切かもしれないが…。いずれにせよ、彼は平時においてルーティーンがある。彼の幕僚たるもの、そこまで配慮して行き届いた環境を整備できなければ、一人前とは言えないだろう。
それに…なにせ、私は特別なのだ。ほかの誰よりも、彼のことを満たせるように力を尽くさなければ、そうでもしなければ、一体どうして今の地位と権力に意味があるだろうか。この力は何のために使うべきものなのか、誰のために使うべきものなのか…その辺りを、私は読み違えるつもりはない。
ロアナプラにいる間は、私が彼の身の回りのすべての世話を焼く。そう決めているのだ。これはホテル・モスクワ、タイ支部の総意である。だから、これも仕事の一環。仕事なら仕方がない。朝食の用意から夜に安息の眠りに落ちるまで。そのすべてを私が責任を持って遂行する。是非とも遂行したいのだ。
手始めに朝食の用意から始めよう。
彼の朝はあっさりと、水分と塩気は多めに、ヨーグルトは甘めのプレーン、果物は出さない、スープはコンソメかポタージュが好み、コーヒーはパンのスプレッドが甘い時だけ、スプレッドにも果物のジャムは厳禁、米飯と味噌汁が確保できた場合はこれを優先的に提供すること、味噌汁を米飯に掛けるかは彼が判断するから予め掛けることはしないように…エトセトラエトセトラ…。
この辺りはアジア圏だから米や味噌の入手に困らないのがいい。とはいえ、日本の米でないと彼がしょんぼりするので、これは取り寄せを使うし、味噌も日本からの取り寄せだ。大抵はもっと高価なものに海運リソースを投入するのだけれど…まぁ、彼らしいわね。
着替えてからの時間が余ったので、彼がシャワーから上がるまで、私は誰に憚ることもなく耳を澄ませていた。シャワーを浴びているのが彼だというだけで、水音がなんとも心地よかった。シャワーの勢いや、ボディソープとシャンプーで体と頭を洗う音にまで、彼の人柄や好みが滲み出ているような気がして、私の心を惹きつけて離さなかった。
これから先、今までよりもずっと長い時間を、今までよりもずっと濃い時間を、彼と共有することができると理解していても、シャワーの水がタイルを叩く音に、私は耳を傾けずにはいられなかった。
部屋の中は静かで、私と貴方だけがいる。清掃員が入り、昨日の想い出をすべて綺麗さっぱり洗い流してしまうでしょうけど…今夜もまた、あわよくば貴方を抱いて、貴方に抱かれて眠れたら、と…そんなことを想う。
貴方が私に頬へのキスをせがんでくれた時、私もまた、貴方に救われていたのだ。
ヴィレイスは朝食を部屋で食べた。側にはバラライカがいて、なんとなく時間を一緒に過ごした。シャワーから上がった彼はしおらしく、着替えまでバラライカの好きに任せた。押し着せられるままになる彼の姿は、とても珍しいものだった。護衛の兵士たちは言うまでもなく大隊出身者で固められていたから、彼らは好いものを見たと、今日のことを同僚に自慢するだろう。例え副官からの提案だとしても、自分の日常生活の範疇について口出しされることを彼が許容することは、それは非常に稀なことだったのだから。
これはつまり、変なところで頑固さを出す彼が、バラライカを自分の日常生活の範疇に新たに加えたことを意味していた。彼が意識しての振る舞いではないことは、その性格からも明らかだ。彼はそこまで器用な人間ではないし、嫌だと思えばサッパリと断ることができる人物だ。この点を踏まえれば、バラライカは現状、誰よりもヴィレイスの近くに立つことを認められた存在だと言い換えることができるだろう。
そんな新しい関係性に収まった二人は、事務連絡が終わると心地よい沈黙を共有しながら朝食を摂った。ヴィレイスは希望調査通りの和食が出されてご満悦。白米にもち麦まで混ぜられていて、彼は思わず声が出たくらいだ。それと味噌汁、目玉焼きにウィンナー、それから彩を足す意味も込めてブロッコリーが添えられたプレートだった。無駄に拡張高い、されど嫌味のない白磁のプレートに乗せられて饗されたそれを、彼はご機嫌で口にした。ちなみに、目玉焼きとブロッコリーには塩胡椒をたっぷりかけて食べた。これが卵かけご飯だったらば、彼も流石に醤油を所望しただろうが。
対して、バラライカはトーストとバターとジャム、あっさりとしたコンソメのスープと紅茶だけだった。ヴィレイスは「もっと食え」とは言わなかったが、「それで足りるのか」とは流石に聞いていた。対して彼女の返答は「昼が重いの」という端的なものだった。これにはヴィレイスも納得し、それからは特に何も言わずに自分の食事にありついた。こういうところには人それぞれが出るもので、ヴィレイスは戦場でも朝飯は必ず食べる人であった。重い軽いの差はその日ごとの調子によるものの、どんなものであれ必ず朝食を摂るもので、激しい戦闘の最中でも徐にレーションを取り出してパクつく姿は味方を鼓舞したり、時には呆れさせたりもした。戦場から離れても習慣は変わらず、彼はご機嫌なのを隠そうともせず、彼女とベッドに並んで腰かけて朝食を食べ尽くした。
二人とも軍人の出であるため、食べるのは早い方である。早食いはある種の職業病なのだが、直せるものかというと人それぞれだろう。この二人の場合も差が出ていて、バラライカは今の仕事も忙しいので基本は早くなってしまう。それに対してヴィレイスは比較的ゆっくり食べるようになっていた。この日は彼女も日頃よりは遥かにゆっくりと食べたのだが、それでも彼よりは早く、余った時間はジィっとヴィレイスの食事風景を眺めることに没入していた。咀嚼する動作だったり、嚥下する動作だったり、鼻で呼吸する動作だったり…人物観察も仕事の範疇に入っているせいか、バラライカのそれは見守るというよりも本格的な観察であった。
食事をしているだけなのに妙に熱い視線を浴び続けたヴィレイスは段々と気恥ずかしくなっていたが、それはさておき食べ続けた。そして、バラライカが食事を終えて、食後の紅茶も飲み終えてから更に数分後に朝食を終えたのだった。
前掛けのナプキンを取り払ってから、彼はバラライカが用意してくれたスーツの袖に腕を通した。シルクのシャツの上から着込んだブルーグレーの気品のある上質のスーツは、寸法を教えた覚えがいないのに、ヴィレイスの身体に吸い付くようにぴったりだった。革靴も鏡のように磨き上げられた新品を出してきて、これを履けと言われて、その通りにしたら足にぴったりシンデレラフィットしたので彼を驚かせた。姿見に映った自分を見て、「ポマード頭だけは嫌だ」と彼が言うと、バラライカは笑って「頭はそのままでいい」と言い、続けて「むしろ、もっと髪を伸ばしてほしい」と付け加えた。軍人時代は短髪で通したから、それもいいかと思った彼だったが、今度は逆に髪を切らせて貰えなくなり、後にはポニーテールになるまで髪を伸ばすことになるのだが…それはもう少し先の話である。ちなみに、腕時計は軍用品を壊れるまで使うつもりなのか、傷だらけで塗装の禿げたステンレスケースに毛羽立ったナイロンベルトのままで一向に買い替える気配がなく、周囲を少しやきもきさせている。
支度を終えたヴィレイスはバラライカに先導され、周囲を護衛の壁に囲まれながら地下駐車場まで移動すると、そこで防弾仕様のセダンに乗り込んでロアナプラの散策へと出かけた。夜までの間、隣に座ったバラライカから逐一解説を受けながらロアナプラの各地区を観光したヴィレイスは、日が沈んでからその足で黄金夜会の会場へと足を運んだのである。
昼飯はバラライカの言葉通り重めだった。子牛肉のローストなんか生まれて初めて食べたんじゃなかろうか、と益体のない満足感を抱えながら、ヴィレイスは黄金夜会に参加するべく会場に向かった。隣にはバラライカが居り、電話でほかの幕僚と今日の議題についての話を詰めているようだ。難しい言葉が多く、ヴィレイスには聞こえていても理解し難い内容で、彼は車窓越しに夜のロアナプラで蔓延る喧騒をぼんやり眺めていた。キラキラと輝いていて毒々しい感じだが、表面だけでは言うほどの腐敗を感じ取ることはできそうにない。まして、夜会が行われる場所はこの島の中でも整備されている地域だからか、小奇麗な建物も多いし、道端にゴミや吐しゃ物が落ちているなんてこともない。表面上は東南アジアの中でもハイソでさえあるだろう。
その裏で多種多様な、人間が思いつく限りの悪徳が蔓延しているのだと思うと、そしてその場所の最深部にこれから他ならぬ自分が赴くのだと思うと、ヴィレイスは不思議な心地になった。恐ろしいような、わくわくするような。面倒くさいような、首を突っ込んで中を覗いてみたいような。そんなチグハグな心持は、ある意味ではこの街の矛盾が伝染した結果生まれた感情なのかもしれない。
重厚な防弾セダンの護衛車列が、あるクラブの前に止まり、店名を綴ったギラつくネオンの光を、黒光りする車体が跳ね返した。
車が停止してすぐさまホテル・モスクワの構成員が後部座席の扉を開け放つ。無論、他の護衛は周囲からの射線を遮る場所に位置を取った上でだ。
「おお、ここか…ここでやるんだ…」
お上りさんのようなセリフを吐きながら、分厚い防弾ドアから頭を出したのはヴィレイスだった。
「そうよね、貴方は初めてだもの…心配しないで、何も起こらないわ」
というより、何も起こさせる気はない。と、そんな意気込みを感じるバラライカのセリフに背中を押されて、彼はクラブの入口の方へと進んだ。
「道具はこちらに、終わるまではお預かりさせていただきます」
「はい、どうぞ」
指示されるままに、慣れた動作でバラライカがホルスターから銃を抜き取って守衛に手渡した。余裕の表情だ。態度から大物感が漂う彼女のことを、横でガン見していたヴィレイスは俄かにテンションを上げた。前に進んだバラライカを見て自分も前に進もうとして、手で制される。何事か。
「道具はお持ちではありませんか?」
怪訝な顔をした男に聞かれ、首を振った。今日は文字通りの無手である。寸鉄すら帯びてはいないのだ。
「何も。金属はタイピンと、カフスと、あとは腕時計くらいしか身に着けてない…はず」
「…わかりました、次はボディチェックですので、お進みください」
納得というよりも、理解を諦めた様子の守衛に促されて前に進んだ。バラライカはヴィレイスを待っていてくれるようで、ボディチェックを見守るように腕を組んで立っていた。
「続いて、ボディチェックをさせていただきます」
やや緊張した面持ちの守衛に体をまさぐられたヴィレイスは「ちょ、くすぐったいって」と、部屋に入る前から緊張感が抜けてしまった様子である。それを見た周囲は変な奴が来たという空気感に埋まりかけたが、次にバラライカが楽し気にしているのを見て、信じられないものを見たような驚愕に顔を染めた。
なぜならば、彼女は笑っていたからだ。あのバラライカが、である。
ホテル・モスクワの尖兵としてロアナプラへの進出を果たした彼女は、部下たちを手足のごとく巧みに操り、結果の見え切っている軍事演習さながらに一方的な破壊を当時のロアナプラに齎し、実力のみで実質的な新秩序の成立を既存の大マフィア諸勢力に認めさせたのだ。その手腕たるや恐るべきものであり、彼女の舌三寸に胸三寸でそれまでの大物が幾人もロアナプラに自分の墓を建てる羽目になった。剰え、新秩序運営の為の連絡会を結成するにあたって各所に打ち込んだ伝言の内容は常軌を逸するものであり、要約すれば「参加要請に従わずにロアナプラごと核爆弾で更地にされるか、黙って安全な儲け話に乗るか」の判断を委ねるものだったのである。無論、その時に否応なく主要な勢力が全て従い、連絡会を形成したからこそロアナプラの今がある。
中華系の三合会、イタリア系のコーサ・ノストラ、中南米の麻薬カルテルであるマニサレラ・カルテルがこの連絡会に参加したことで、取り敢えずは核爆弾をロアナプラに落とされることはなくなったが、引き換えに新秩序に従容と服さなかった中小の組織が追放、或いはお取り潰しに遭うなど、余波は小さくはなかった。だが、ホテル・モスクワの提示した秩序は現状において、非常に理に適った、また利益効率の高いビジネスとして連絡会を構成する勢力のすべてに大きな利益を齎しており、提案者であるホテル・モスクワも足るを知っているとばかりに利益が出た後でもこれの独占に動くことはなく、堅実に秩序の守護者として振舞っている為、現在のロアナプラには不気味な沈黙と平穏が、微妙な均衡の上で成り立っているのだった。
そんな新秩序構築の立役者である、あのバラライカが穏やかな笑みを浮かべているのだ。視線の先には女寄りの顔をした若い男の姿がある。スーツに着られているわけではないあたり、只者ではないことは明らかだが、にも増してバラライカの寵愛を受けているとなれば、それはとんでもないことである。ボディチェックを担当する守衛に緊張が走るのも無理はなかった。
「は、はい、問題ありません。どうぞ、先へお進みください」
「ああ、ありがとう」
すれ違い様にさらりと礼を言って、建物の中へと入っていくヴィレイス。だが、扉を開けたのは彼ではない。ドアマンでもなかった。バラライカだった。ヴィレイスは片手を上げて礼を述べると、自然な堂々とした振る舞いでバラライカが明けた扉を潜り、中へと進んだのだ。
それは異常事態だった。あのバラライカが小間使いじゃあるまいに、寵愛を与えているだけの男にあんなに恭しく接するだろうか。
否、である。それだけは断じてあり得なかった。つまり、明確に立場上の違いのある人物が相手だったのである。
この瞬間を目撃し、その意味を悟った守衛たちは顔を真っ青にした。今日はとんでもないことになるかもしれない、と。
考えてみれば単純明快な話で、恐ろしいバラライカが恭順しているような恐ろしい彼女の上司なのだから、彼女よりもっと恐ろしい上司が来訪したようなものなのである。しかも、間違いなく関係性が良好な、微笑みを浮かべて視線を交わすような仲の相手である。あのバラライカと懇ろな仲で居て尚且つ五体満足な男など、およそ、尋常の者であるわけもなかった。
そして、彼らの予想は概ね当たっていた。
なにせ、彼らの前に現れた男は、従軍中でさえ当局から命を狙われた挙句、ムジャヒディンによる圧倒的な武力での奇襲をも生き延びて、ソ連軍のアフガン撤退までの間に銃剣一本を携えて単独潜入の末に、大小数百の武器庫や貯蔵庫を燃やし尽くして『放火魔』の異名で恐れられ、ムジャヒディンの後援者であったアメリカからは『ブレイザー・ヴィリー』のコードネームで要注意人物としても認識されているヴィレイス・ヴァイオンその人なのだから。
或いは、ゲリラ戦術でソ連軍を翻弄したムジャヒディンを逆にゲリラ戦術で翻弄し、白兵戦においてのみで五百人以上を殺害したと言われている狂戦士だろうか。どちらにせよ、守衛たちが想像する以上の化け物であることには疑いの余地がなかった。
彼が去った後もしばらくは、彼の背中が守衛たちを苛んだ。緊張している内心とは裏腹に、散歩の途中でコンビニに立ち寄った時のような気軽さでクラブの中へと消えていったヴィレイスの背中が、怖気と共に守衛たちの視界にリフレインしていたのである。
部屋の中には既に他の組織の面子が揃っていた。三合会からは張維新、コーサ・ノストラからはヴェロッキオ、マニサレラ・カルテルからはアブレーゴが、それぞれの席に収まっていた。
「私たちが最後のようね」
「ああ、待たせちゃったかな?」
「いいえ、時間通りだから心配はいらないわ…さ、ここへ」
「いいの?」
「今日は貴方の席よ」
バラライカはヴィレイスと短いやり取りをした後で、最後の一つの席には自分で座らずに彼に勧め、自分は近くにあったスツールを手繰り寄せてこれに腰かけた。
「じゃあ、遠慮なく」
そう言うと、彼はバラライカが座ったのを確かめてから、勧められた席に腰を下ろした。
一部始終を見ていた三者はと言うと、気が気ではなかった。ある者は彼のことを知るが故に。ある者はバラライカの振る舞いに驚愕して。また、ある者はホテル・モスクワから人数外のもう一人が現れた無作法に対する怒りで。彼らは気が気ではなかった。
「さて、じゃあ何から話そうかしら…あら?」
口火を切ろうとしたバラライカに対して、一人が手を挙げた。
「何かしら、張。言いたいことがあるのなら、気兼ねなく話してくれて構わないのよ?」
「じゃあ有り難く、そうさせてもらうよ…」
手を挙げたのは三合会のタイ支部のボスを務める張維新だった。「おお、生の張維新だ!」とヴィレイスは心躍ったが、対する張の顔は強張っていた。
「言いたいことは沢山あるが…今日のところは一つにまとめよう。その一つだが…目の前の彼についてだ。どうして彼がここにいるんだ?」
視線はバラライカに突き刺さっていたが、話の槍はヴィレイスに突き刺さっていた。彼はそのことに気付いても、バラライカが何とかするだろうと呑気に構えていたが。
案の定、バラライカが答えた。
「そうね、話してなかったのを今、思い出したわ」
「ふむ…それで?どういう理由で、ホテル・モスクワの大親玉がこんなクソ暑い辺鄙な場所までお越しになられたのか…そこのところを伺っても?」
「理由はそうね…観光だと言えば伝わるかしら?」
「…観光?正気で言ってるのか?ここはロアナプラだぞ?」
バラライカの言葉に食いついたのは、ホテル・モスクワの大親玉という単語で固まっていたヴェロッキオだった。理解不能な単語が飛び出して、我を取り戻したらしい。
悪態も罵声も、呆れる余り出てこなかった。悪党らしい汚い言葉を使わずに済んだこと、それは非常に幸運なことだったのだが、その点に彼は気づいていない。
ヴェロッキオの指摘にもバラライカは一歩も引かない。ヴィレイスの前では見せたがらない、凶悪な笑顔を浮かべて応えた。
「ええ、そうよ。ロアナプラ『だから』じゃない。彼はここに観光のために来たの。前々から興味はあったみたいだし…この際だから御招待したってわけ」
バラライカは一息に言った。周囲は唖然。途中からは当のヴィレイスも内心では驚いていた。自分のロアナプラへの関心を、どういう訳かバラライカには読み取られていたことに驚愕したのである。とはいえ、ここには微妙な齟齬があった。バラライカはヴィレイスがロアナプラに行きたいと考えていると推測していたが、ヴィレイスは原作のロアナプラを知っていればこそ、寧ろ、行きたくはなかったのである。ただ、原作を知るが故に関心は強かった為、バラライカに頻繁に状況や風景について尋ねたことで、望まざる結果を招いたようである。
無論、最も望まざる結果に晒されているのは他の三人である。バラライカの我が意を得たりとばかりの満足感とは真逆の、恐るべき厄介を招いたことへの深い失望と不安が渦巻いていた。
ましてや、マフィアに参入しビジネスマンとして振る舞う以前の、彼の鬼神の如き活躍を情報筋から聞き及んでいる張にとって、素手で銃火器で武装した護衛を皆殺しに出来るような男と空間を共有している事実は、笑えない冗談以外の何物でもなかったのだ。彼が生きた心地のしない時間を過ごしたことは言うまでもない。
「ま、まぁ、観光というなら…そうだな、歓迎しよう。ただ、ここでの決め事は君の領分だと思うんだが…部外者を入れるのはルール違反だと思うんだが?」
張は新しい煙草に火を点けてから言った。ヴェロッキオと、先ほどから息を殺して一言も発していないアブレーゴもだ。三者が煙草に火を点けた。バラライカが倣うように葉巻を取り出して火を点けるも、それは傍から見ればおちょくるようだった。煙草も吸わないヴィレイスはというと、周りの濃い副流煙を浴びて、一つ軽く咳き込んだ。彼が不機嫌になることはなかったが、それを見てアブレーゴだけが慌てて灰皿に煙草を押し付けた。
僅かな沈黙のあと、バラライカが濃い煙を短く含み、ゆっくりと細く吐き出した。火傷で飾られた片目を眇め、口角が上がった。
「ふふ…そのルールを作った人を相手に、結構な言い草だと思うのだけれど…今の秩序で我々が儲けているのは、そもそも彼が利益を独占しない方針でアメリカと交渉した結果だということを、貴方たちは忘れてしまったのかしら?」
「というと…今の仕組みをそいつが考えたってことか?」
「ええ、話をまとめたのは彼。私はただ、ロアナプラでの話をまとめただけ」
張の淡々とした問いに、バラライカも淡々と返した。
「へぇ…そりゃまた、すごい…なら、部外者とは言えないな?そこのところは理解した…だが、アンタはいいのか?バラライカ」
「ええ、何の問題もないわね」
続けてヴェロッキオが問い、これにもバラライカは肩を竦めて悪戯っぽく応えた。笑ってさえいる。何が問題になるのか、心底理解できない風だ。無論、これがアウトローの神経を逆なですることくらいは理解した上での行動だろう。だが、そうだとしても、ヴェロッキオは我慢することを止めた。
「…驚いたな、こいつ女の顔をしてやがるぜっ!付き合ってられねえ…こちとらビジネスでやってるんだぞ!?ここは男と遊ぶための場所じゃねえってことも、忘れちまったのか?ええ?」
「今日はお上品な口ぶりね?彼がいるから緊張してるの?」
「なんだと!?この死にぞこないのイワンめ…いいだろう、ご期待通りに罵ってやろうか?」
乱暴な口ぶりとは別に、全く以て真っ当な言い方だったが、バラライカは怯みもしない。寧ろ、もっと言えとばかりに、何かを期待するような楽し気な視線をヴェロッキオに送る。ヴェロッキオは癪に障る彼女の振る舞いに尚も怒り昂ぶり、テーブルを蹴り上げて耳障りな音を鳴らすと、身を乗り出して詰め寄った。
「前々から気に食わなかったんだ…大事な連絡会だ、そうだろ?お互いにリスペクトがなくちゃ、やっていけない。そういうもんだ。だってのに、てめえは自分の男をこれ見よがしに連れ込みやがって。そんなに空気を乱したいのか?この秩序が崩れて困るのはお前らの方じゃねえのか?ああ?」
「私と彼の個人的な関係はここでは問題ではない。だがヴェロッキオ、貴様の言い分も最もだ。確かにこの秩序が壊れて一番困るのは我々だ。そして、今日の議題は外ならぬその秩序を破壊しようとしている連中についての話なんだよ…」
この日のヴェロッキオはやはり運がよかった。運がよかった点は二つ。一つは、この日のバラライカの標的が彼ではなかったということ。一つは、彼が思いのほか紳士的な言葉選びで終始通したこと。以上の二つである。もしもこれが、彼女の標的が彼であり、尚且つ、勢いに任せて口汚く罵声を並べ立てていたならば、彼は確実にヴィレイスの不興を買い、挙句その真の恐ろしさを垣間見ていただろう。
結果的にバラライカの期待していた通りに踊ってくれたヴェロッキオだったが、彼のセリフのおかげで自然な形で『今の秩序を破壊しようとする者』へと水が向いた。その先は…
「ねえ、アブレーゴ…マニサレラ・カルテルがアメリカに向けて輸出している麻薬だけど、規定外のものが多すぎるのよね。どういうことか皆に説明してくれるかしら?」
これだ。バラライカが恐れられるのは、この期に及んでも維持される物腰の穏やかさなのだ。それは原作よりも、遥かに確固たる基盤からくる余裕なのか。それとも、ヴィレイスとの出会いから今日までに至る関係性の中で育まれたものなのか。いずれにせよ、彼女の持つ凄みは、いつ噴火するとも知れない活火山への恐怖を思わせた。
アブレーゴがヴィレイスとバラライカの一挙手一投足にビクビクと反応していたのは単なる臆病さ故ではなかった。彼には、然るべき心当たりがあったのだ。
「なぁ、バラライカ、あんただって理解できるはずだ。麻薬は儲かるビジネスだからな、どれだけ統制しようと努力しても、零れちまう所が出てくるんだよ。な?わかるだろ?ありゃ、たまにある紛れさ。どこでだってある話だ」
アブレーゴは両手を忙しなく動かして弁解した。彼の言い分には道理が通っているように思う。だが、その一方で道理があればこその常套句でもあった。
「アブレーゴ、お前の言い分はよくわかった。だが…問題は紛れが頻繁に出ているということではない。わかるだろう?この秩序の要点はアメリカが我々を統制していることに満足して、我々の商売を黙認させることにある。では、そのために必要なことは?」
バラライカはそこで一度言葉を切ると、それまで静寂を保っていたヴィレイスの方へと視線を向けた。向けられたヴィレイスは「え、俺?」とは思いつつも、自分でも説明できる領域…というか、そもそもは自分が計画したことだったので、何でもないことのように嫌味のない口調で語った。
「ああ、えっと…アメリカには最低限しか手を出さないことだな。例外は選挙期間の前後だけだ。俺たち側の候補者には麻薬撲滅を叫ばせて、これをその都度成功させる必要がある。政治の道具として、麻薬はリーズナブルで且つ確実な成果を上げるものとして認識される必要があるんだよ。政治家どもに、完全に撲滅させるのが勿体なくなるように仕向けないとな…」
ヴィレイスはそこで「喉が渇いた」と言うと、バーテンに瓶コーラを注文した。間もなく、キンキンに冷えた瓶コーラが提供された。王冠は取り去られている。ヴィレイスはコーラに口を付けて、二度に分けて少しずつ含むと、炭酸の刺激を心地よさそうに噛み締めてから、一息に飲み込んだ。そして、また口を開く。
「ただ、やりすぎれば愛国者が出しゃばってくるから要注意だ。欲の皮が突っ張ると、根こそぎ失いかねないからな。ビジネスそのものが立ち行かなくなる。これは誰にとっても問題だ。だから、ホテル・モスクワは秩序を提案したわけだが…わかっているなら、紛れはともかく、アメリカへの流通量が急激に増えることは許容できないな。ましてや、今は選挙期間でもないし…」
ヴィレイスはまた瓶に口を付けた。冷えて霜を帯びた瓶を傾けながら、彼はあくまでも能天気にそう言ったのだ。
バラライカは腕を大仰に広げた。張もサングラス越しに鋭い視線をアブレーゴに注ぐ。ヴェロッキオに至っては、今にも胸倉を掴みそうだ。彼らの中には、ヴィレイスが『本物』だということと、アブレーゴが『秩序を壊そうとする者』だという認識が共通して浮かび上がっていた。
「おい!アブレーゴ!てめえ、どういう了見だ!俺だってロシア野郎に頭を押さえつけられんのは気に食わねえさ!だがな?今の方が儲かるってことくらいは弁えてんだよ!誰だってロアナプラに注目してる!この連絡会から裏切り者が出てみろ!他所が下手なマネするのを認めるようなもんじゃねえか?あん?わかってんのか!?」
「ホテル・モスクワの肩を持つ気はない。だが、アブレーゴ…お前さんのやってることが本当だとすれば、俺たちはお前ん所の身勝手のせいで、一世一代の稼ぎを喪うことになるんだが…これを保証してくれる何かしらの策は用意してるんだろうな?俺たちはビジネスでやっているんだ、わかるだろう?そっちの都合だけで俺たちの乗る船の底に穴をあけようってのは、話の筋が通らないぜ?」
「ま、待ってくれ!わかった、わかったよ…だが、これは、俺にゃどうしようもねえ話なんだ!」
ヴェロッキオはその行いを指で抉りだすように、アブレーゴを指弾し。張もアブレーゴを淡々と詰めていった。アブレーゴは目を白黒させながら、参ったと、或いはヴェロッキオと張を制して落ち着かせるように手を挙げた。これをバラライカは頃合いと見て、葉巻を咥えると、空いた手を繰ってアブレーゴに話を促した。
「わ、わかった…話すよ…だが、これは俺もついこの間、一方的に告げられたんだ」
そう前置いてから、アブレーゴは話し出した。
「本部の意向でな…FARCとの協力体制を強める過程で、連中を秩序の内側に招き入れることになったんだ」
「それで?」
張が先を催促した。
「ああ、それで…なんていうか、連中は革命を叫んでるわけでな、一言で表すなら融通が利かねえ。こっちがどれだけ言い含めても、一で十も儲かるところを、一で百も儲けようと企みやがる」
「このビジネスは節度が重要だ。そこんところは説明したのか?」
張が尋ねた。アブレーゴは頷く。だが、その顔にはびっしり汗をかいていた。不都合があることは明らかだった。ヴィレイスは二本目のコーラに口を付けていた。それを横目で見つつ、バラライカが先を促すように首を傾げた。アブレーゴは乾いた口の中をもごつかせていたが、やがて温くなった唾を飲み込むと、再び話し始めた。
「説明したよ。もう何度も!だが、連中は耳を貸しやがらない。その時はわかったと言うんだが、直ぐに破りやがる。仕入れたヘロインやコカインを十倍に薄めて、三分の一の値段で売り飛ばすんだ。連中はそれをビジネスだと言ってくるが…ありゃ、ただ金が欲しいわけじゃねえんだ。アメリカが嫌がることをしてえんだよ!奴ら、俺らの稼業を見下してるんだ。俺らのことなんかどうでもいいんだ。麻薬を安く仕入れるために使ってやってる気でいるんだよ!」
「なぜマニサレラ・カルテルは動かない?FARCとの関係はそんなに美味いのか?え?」
アブレーゴの言い分を更に掘り出そうと、ヴェロッキオが眉を寄せながら尋ねた。
「それもあるだろうな…本部だって馬鹿じゃない。FARCのやってることは理解しているが、それでも連中の武力が惜しいんだよ。もとはと言えば、これはホテル・モスクワが出しゃばってきたからってのもあるんだぜ?俺たちだけの所為じゃないっ!核で脅しを掛けてくるような相手だ、俺たちだって身の安全の為に動く。当然の権利だ!そうだろう?」
アブレーゴの言葉に、ヴェロッキオと張は押し黙った。視線の先にはバラライカがいた。彼女は無表情だが、薄く笑っているように見える。何を馬鹿なことを…とでも言いたげな表情に見えたのは、アブレーゴの気のせいだろうか。
アブレーゴの言葉には一理あった。明らかに流れは変わっていた。これはホテル・モスクワが解決するべき問題ではないか、という空気感へと。日ごろの鬱憤もあり、見ものだとでも言いたげな三者の視線がバラライカに集中した。
だが、ここで…
「げっぷ…おっと、失礼…少しトイレに行っても?」
ヴィレイスだった。
五本目の瓶コーラを飲みほした彼は、沈黙を肯定と受け取り、徐に立ち上がると、護衛に案内されてトイレに向かった。
気まずい、何とも言えない沈黙が辺りに満ちた。なぜか愉快気なのはバラライカだけだ。それがまた三人の気に障った。或いは、その警戒心を煽った。
「いや~、悪い悪い。ちょっとお腹が冷えちゃったみたいでさ…えっと、それで、何の話だったかな?FARCだったか…」
そして、ヴィレイスは帰ってくるなり次のように言った。
「奇遇だね、俺もそこに用があってね。丁度いいタイミングを計りかねてたんだよ。都合よく機会が巡ってくるなんて…実に運が好い。な?ソーフィヤ、そうだろ?」
ヴィレイスの表情は、三人が期待したようなものでも、想像の範囲内のものでもなかった。
それは安堵と期待だった。純粋に、穏やかに喜んでさえいる。凶悪な笑みではない。冷徹な無表情でも、乱暴な威嚇でもない。それは、何かに期待していた者の、まるでクリスマスを前にした子供のような無邪気な面持ちだった。何かを傷つけるような棘など、あるはずもなく。FARCへの憎悪のようなものも、まるで見えなかった。
得体の知れない存在を前にして、あの張でさえ押し黙って様子見に徹するような状況で、バラライカは内輪乗りに乗っかるような気持ちで、軽く言ってのけた。
「ええ、そうね。でも、南米もここと変わらず暑いでしょうけど…貴方がわざわざ行かなくてもいいのよ?」
わざわざ行くとは、誰がどこへ行くというのか。それは言うまでもなかった。だが、今となってはホテル・モスクワの頂点に立つ、唯一無二の重しが、こんなに軽々と敵陣に乗り込むことを公言していいものなのか…。少なくともヴィレイスは気にしない。バラライカも信頼があるからなのか、自分が輔弼すれば問題ないと自信があるからなのか、気にする素振りがなかった。
「いや、行くよ。用があるって言っただろ?直接会ってみたい奴がいてね。できれば勧誘したい」
「そんなに見どころがあるの?」
フンスッと鼻息も荒く、ヴィレイスは言い、バラライカは初めて怪訝そうに尋ねた。
「ああ、すごいぞ?あれの相手を部下には任せられない。無駄に死人が出るからな。だから俺がやる。今ならまだ、FARCにいるだろう」
ヴィレイスのべた褒めに、バラライカは「仕方ないか」と口では言わず、態度で示した。かるーい溜息を一つ吐いたのだ。
「…女ね、間違いない」
「ありゃ、バレたか!すごいな、よくわかったな…」
バラライカが確信を込めて言うと、ヴィレイスは心底驚いたように目を瞬かせた。だが、やはり楽しげである。二人ともに。
「それじゃあ、話も済んだことだし。今日はここまでにしましょうか」
バラライカはヴィレイスの目的も明らかになったことで満足したのか、そう言って話を切り上げた。
「待て…」
「なにかしら?張」
参加者の大半が腰を上げたところで、張が待ったをかけた。彼はサングラスを外すと、バラライカ…ではなく、ヴィレイスに向き直った。
「ミスター…」
「ヴィレイス」
「ありがとう。ミスター・ヴィレイス…聞いておきたいことがあるんだが、いいかな?」
「構わない」
「!?」
「遠慮なく聞いて欲しい」
「あ、あぁ…」
張が驚いたのも無理はなかった。その気安く親し気な雰囲気もさることながら、ヴィレイスが話したのは極自然な中国語だったのだ。おまけに香港あたりの広東訛りで、である。張の前職は香港で警察官をやっていた、というもの。当然ながらネイティブは英語ではなく、ここまではずっと第二言語で話していたことになる。そこに来て、唐突な母語での返答である。切れ者の張をして、これは全くの想定外だった。張だけでなく周囲が、バラライカを除く全員が息を吞むのがわかった。
「それで、何が聞きたいのかな?」
「…FARCとのことだが、ホテル・モスクワだけで収拾を付けるというのなら、結構だ。俺たちはビジネスを細く長く続けたい。そこのところは皆同じ気持ちだ。ただ…どこまでやるつもりなのか。そこだけは予め、トップである貴方の言葉を貰っておきたい。可能ならば保証もな。潰し合いが大事になり過ぎてアメリカに目を付けられれば、それこそ本末転倒だ」
張の問いかけに、ヴィレイスは納得した様子だ。指先で頬を掻いて、思案顔になった彼は、案の定、バラライカの方を見た。
「貴方の好きにしたらいいわ」
それがバラライカの返答だった。
ヴィレイスはバラライカから視線を張へと移し、淡々と言った。
「なら…とりあえず、麻薬の流通には二度と関わらせないってことでビジネスからは弾く。それと、FARCとマニサレラ・カルテルとの関係性はアメリカに伝えておく。身の安全の保証については、本部の連中に伝えておけ。核は使わない。ビジネスを破綻させない限りはな」
そう言い、暗にマニサレラ・カルテルがやったことは身の安全を保証することの、まるで真逆のことだったと含んだ。その上で、彼は手を広げて、穏やかにこう続けた。
「俺たちはそこそこ稼げれば何の不満もない。共存共栄というやつだ。だから、秩序を防衛するために核を一度は振りかざしたが、秩序が成立した以上はこれが崩壊しない限りは核を持ち出すことはない。これはホテル・モスクワの総意だ」
英語に戻してから彼が言い切ると、張だけでなく、ヴェロッキオとアブレーゴも頷いた。少なくとも、話していることに嘘があるようには見えず。何よりも、その声や態度には真摯さと説得力が宿っていたからだ。海千山千の悪党から見ても、いや彼らが見ればこそ、ヴィレイスの堂々たる振る舞いは好感触だった。序盤で見せた得体の知れなさも、今ここでは却って底知れない魅力として還元されていた。
あのバラライカの現上司であり、元上官でもある彼は確かに恐るべき存在感を持っていたが、それ以上に大物に特有のどっしりとした包容力があり、これがそれぞれの知る理想的な、或いは憧憬的な首領像と強烈に重なっていたことも味方した。ヴィレイスの眼差しは終始穏やかで、優しさや温かみまである。
だがしかし、彼は怯懦でも優柔不断でもなかった。
そのことを、今まさに淡々とFARCへの対処と、問題の不拡大への決意、そして秩序と共存可能なビジネスを尊重する姿勢を明言する姿に、集約して見せられたのである。バラライカへの鬱憤や不信、敵愾心が強かった分だけ、ヴィレイスへの印象は強烈で、かつ好意的なものとして結実していた。
「そう、でしたか…他にはあるでしょうか?」
目つきは柔らかくなっていた。サッとサングラスを掛けなおした張は、丁寧な言葉遣いでヴィレイスに尋ねた。この時は広東語である。対してヴィレイスも、淡々と答えた。
「ああ、あと、さっき話した奴は俺が引き取るから、そのつもりで。まぁ、これくらいかな…」
ヴィレイスはそう言うと、未練もなく椅子から腰を上げた。それに倣い、張も腰を上げた。彼にも異存はなかった。
「わかりました、では、くれぐれも宜しくお願いします」
「ああ、大丈夫だよ。戦争にはならないさ」
「それはまた、どうして?」
「多分、一方的になるだろうからね」
「……」
ヴィレイスは目を優しく細めてそんなこと言う。サラリと言う内容は激烈で、どこまでも冷淡だった。張は絶句し、ヴィレイスはそんな彼が回復するのを待たずに、背を向けてバラライカと護衛の先導を受けながら部屋を出ていった。
「おい、張!あいつは、なんて言ったんだ?」
「……」
流石に火元が我が身に近いからか、珍しくアブレーゴが強気で聞いた。張は煙草を咥えると、アブレーゴの肩をなんとなく叩いた。
「ん?なんだ?なんだってんだ?」
困惑するアブレーゴを他所に、張は平坦な声で言った。
「アブレーゴ、悪いことは言わん。本部にはFARCから距離を置くように言うんだな」
「いきなり何を言い出しやがる!そんなこと言ってみろ!俺が疑われちまうっ…」
「張…お前らしくないな、あの男から何を吹き込まれた?」
張の言葉にアブレーゴは驚き惑い、ヴェロッキオは怪訝に目を細めた。張は煙草の先を赤くテラテラと燃やし、吸い口のフィルターを噛みながら続けて言った。口の端からだらしなく煙草が逃げていく。
「アブレーゴ、あの御仁が言ったことは明確だ。疑問の余地もない。これは個人的な意見だが…あの人はヤルと言ったことは本当にやるぞ。逆もまた然りだが」
「…何が言いてえ」
「……」
アブレーゴが苦し気にぼやくと、ヴェロッキオも合点が言ったのか、口出しせずに張の言葉を待った。張は煙草を人差し指と中指の間で挟み、口から離すと、明確に言葉を並べて言う。
「さっき言われた通りだ。今は誰もが儲けてる。元を辿れば彼が独占しようとしなかったからだ。俺たちは損をしない。これでいいじゃないか。マニサレラ・カルテルがやったことは悪くない。だが、組んだ相手が不味かった。ルールを破ったのはFARCだ、アンタらじゃない。それは理解してる。だが、秩序を破った以上は、進退を決めなくちゃな。曖昧なままでいることを許される問題じゃないんだよ、これは…ロシア人は気に食わないだろう、だがな、今の秩序はもはやロシア人だけの秩序じゃないんだ」
張はそう言い、フィルターを噛み、煙草の煙を深く吸い込んだ。張の言葉がすべてだった。アブレーゴもヴェロッキオも、何も言わなかった。
翌日、ヴィレイスはバラライカにロアナプラでの全権を改めて委任すると、一旦、準備を整えるためにモスクワの本部へと帰還した。
その日のうちに、ロアナプラの連絡会の結論として、マニサレラ・カルテルに対してはFARCへの麻薬の流通を停止することが要請され、FARCに対してはホテル・モスクワがアフリカに所有する鉱山の一つを麻薬ビジネスの代替として譲渡する代わりに、ビジネスからは手を引くように要請された。
実質的にホテル・モスクワしか損をしない提案であったが、マニサレラ・カルテルがFARCへの麻薬の流通を速やかに停止したのに対して、FARCは鉱山を受け取りつつも、自家製の麻薬製造を開始してアメリカ市場での利益拡大を図るなど、明らかに協定に違反する挑発行動を繰り返した。
再三にわたる勧告を無視したため、最初に鉱山が差し押さえられた。そして、アメリカからの南米での行動に対する黙認を得た上で、ロアナプラで戦争を繰り広げた時と同規模の五個小隊三百人を南米はコロンビアを中心に展開することが決定された。名目的な指揮官はヴィレイスが務め、実質的には幕僚により指揮される点は、アフガン以来の不変の点であった。
表向きはコロンビア政府による合法的な国内での治安維持のための出動として処理された。投入される人員の三分の一はヴィレイスの大隊出身者により構成されており、彼らはヴィレイスの単独行動を補強する形で動かされることになる。
そうである。ヴィレイスによる単独行動…つまりは、FARCの重要拠点、武器庫、食料保管庫などを中心に、徹底的な破壊工作と攪乱工作が展開されるのである。
この情報なのだが…なぜか戦う前から敵側に漏れていたようで、伝説的な破壊工作の達人が敵側にいることが判明した為に、FARCは狂人には狂人をぶつけると言う企図の元で、自身の虎の子とも言える、恐るべき兵士を呼び寄せていた。
召喚されたのは一人の女兵士だった。だが、彼女を侮ることなかれ。彼女こそは『フローレンシアの猟犬』として恐れられ、『第二のカルロス・ザ・ジャッカル』とも称される凄腕の女工作員、ロザリタ・チスネロスである。
彼女に下された至上命令は唯一つ。敵の最高指揮官ヴィレイス・”ブレイザー・ヴィリー”・ヴァイオンの抹殺である。
こうして一人の猟犬が野に放たれた。
だが、疾走する影が行き着く先は、果たして…。