ブレイザー・ヴィリー   作:ヤン・デ・レェ

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「少佐殿が拳銃ですか、珍しいこともあるもんですな」

 

「だよな、俺もそう思う」

 

眼下に広がる密林を何を思うでもなく眺めながら、貴方は胸ポケットから葉巻とオイルライターを取り出した。

 

徐に咥えた葉巻の先をライターで炙る。先を焦がすように、二度三度と短く煙を口に含み、口の端から逃がしを繰り返す。口腔に広がる香味はビターチョコレートだ。

 

「今度は葉巻ですか…こりゃまた珍しいものを見れました。どこ産ですか?大尉はハバナを好みますが…」

 

同乗する案内役の士官も出身は貴方の大隊である。貴方が煙草も吸わないことを熟知している為に、目の前で葉巻をふかし始めた貴方を物珍しそうに見ていた。

 

対して貴方はと言えば、滅多なことでは吸わないが、必要に応じて口に咥えはするのだ。

 

「少尉、これは虫よけだよ。嚙んでるだけさ。産地は知らないな…安物だし」

 

「はは…そうでしたか。らしいと言えば、少佐殿らしいですな」

 

貴方の返答に少尉は苦笑を漏らした。彼の反応を見るに、どうやら貴方は変わっていないようだ。貴方に自覚はないので、首を傾げて終わったが。

 

「そうかな?…まあ、いいや。それよりも、どうだい調子は」

 

そう尋ねると、少尉が居住まいを正して答えた。

 

「はい。部隊は浸透を済ませて活動を開始しました。既に複数個所から武器の隠し場所や車両の破壊を完了したとの報告が上がってきています」

 

「ほうか、そりゃ重畳。そろそろ降りるぞ、準備しろ。俺たちもそろそろ締めといこう」

 

ヘリが着陸態勢に入り、景色が下がっていく。緑が近づいてくるのを横目に見つつ、貴方はヘリが仮拠点の均されただだっ広いだけのランディングゾーンへと着陸した時の振動に備えて身構えた。

 

「…本当に生け捕りに?」

 

着陸直後、プロペラの騒音が落ち着くのに合わせて、少尉が貴方に問うた。

 

貴方は平然と頷き、答えた。

 

「ああ、その後でどうするかは…捕まえてから考えるよ」

 

貴方の返答に少尉の顔が強張ったような気がした。だが、それを指摘することはしない。

 

「わかりました」

 

「うん、よろしく。じゃあ、俺は行くよ。また後でね」

 

覚悟を決めたのか、少尉はそう言ってドアを開いて貴方を待った。貴方も降りる。すれ違いざまに少尉の肩に手を置いて、貴方は仮拠点には寄らずに、フラフラとジャングルへと踏み込んでいき、そして消えた。

 

 

 

 

 

ヴィレイスに先んじて現地に派遣された三百人からなる部隊は、彼の幕僚の指揮により淡々と任務を遂行した。

 

当初、このマフィア同士の抗争を固唾をのんで見守っていた周辺勢力であったが、彼らの予想に反して全面的な武力衝突は未だ起きていなかった。

 

ただし、それは全面的な武力衝突に限った話である。

 

ホテル・モスクワはFARCに対して当然のようにゲリラ戦を展開したのだ。ゲリラ戦を得意とする反政府武装勢力に対して、真正面からその得意分野で挑んだのである。

 

これに対して、FARCは自分の土俵にわざわざ乗り込んできたホテル・モスクワへの嘲笑を隠さなかったが、それは直ぐに驚愕と困惑へと変化することになった。

 

巧かったのだ。ホテル・モスクワのゲリラ戦術が余りにも洗練されていたのである。FARCを凌駕するようなこともしばしばであり、何よりも個々人の練度が比べ物にならなかったのだ。

 

考えてみれば当然のことである。なにせ送り込まれた三百人を構成しているのはアフガン帰還兵もいれば、他所のスペツナズもいて、極めつけはヴィレイス麾下でハチャメチャな非対称戦闘を十年近く経験してきた歴戦の猛者が百人余り含まれていたのだから。これはつまり、文字通り多額の国家予算を注ぎ込まれたハイエンド兵士が、金では買えない貴重な経験まで積んだ状態で、三百人からなる部隊として投入されているのだ。元は民兵だった者に戦闘員としての訓練を受けさせた者が大半を占めるFARCに対して、要員の質の上で圧倒的に優位に立っていることは明らかであった。

 

これに加えて、装備の面でもホテル・モスクワは非常に恵まれていた。特に、コロンビアの政府軍と警察治安維持部隊が麻薬組織の掃討を行う、という表向きの理由を盾にしてアメリカの協力を受けて人工衛星を使い放題の状況は、天からの視点により密林の中に隠匿されているFARCの施設の多くを発見する上で非常に役立っていた。

 

無論、密林のすべてを虱潰しにするのは人数の面で物理的に不可能である。だが、そもそものホテル・モスクワ側の最優先目標はFARCの殲滅でもなければ、首脳陣の暗殺でもなかった。彼らの最優先目標はFARCが麻薬取引から手を引くことであり、その為には麻薬取引の継続がよりデメリットの大きなビジネスであると認識させる必要があった。そのため、ホテル・モスクワがとった戦略は、FARCが麻薬取引からの撤退を明言して行動に移さない限り、ただひたすらに出血を強いるというものであった。

 

具体的に言えば、武器庫や貯蔵庫、車両などの高価値目標を徹底的に破壊するのである。

 

その戦術は、元はと言えばヴィレイスの元で醸成され半ば完成された破壊工作の手引きに基づくものであった。極めて少数による散発的かつ断続的な高価値目標の破壊は、敵からすれば捕捉が困難な上に、敵を捕獲したとしても与えられる被害は微々たるものであり、非常に釣り合いの取れない状態を強いられるものだった。果たして、実際に展開されたところ瞬く間に各所で高価値目標が破壊される事態に陥ったのである。

 

前線が形成されず、安全地帯から続々と送り込まれる工作員による一方的な破壊により、FARCは一方的に出血を強いられていた。工作員を捕捉しようにも、彼らは常にバックアップの為の部隊と連携して動いており、捕捉した途端に苛烈な掃射や精密な狙撃を受けて、その隙に工作員を取り逃がすといったことも多発していた。

 

このような手詰まりの解消のために投入されたFARC側の精鋭部隊の中に、異常に戦闘能力と索敵能力の高い兵士が確認されたことで、事態は俄かに動き出した。

 

「『猟犬』を確認した」

 

その報告はすぐさまヴィレイスの元に届けられ、彼は空路を乗り継いでコロンビアに辿り着き、そこからヘリでホテル・モスクワの仮拠点へと移動したのである。この時に初めてコロンビアの土を踏んだ彼は、間髪入れずに単独で密林への浸透を開始した。これと同時に、それまで立て続けに起きていたホテル・モスクワ側からの破壊工作がパタリと止んだことで、FARC側はやっと一息吐くことができたのである。

 

が…それは嵐の前の静けさに過ぎなかった、と彼らは後に知ることとなるのだ。

 

そして、彼の浸透から間もなく、案の定、破壊工作が再開された。そこまではFARCも想像の範囲内であった。だが、今度の破壊工作は回数も頻度も前回とは比べ物にならないものであった。おまけに、どれだけ捕捉しようとしても、発見できるのは人間一人分の影だけだったのだ。そこから導き出された荒唐無稽な答えは、今度の破壊工作は明らかに単独犯によるものだ、ということである。無論、バックアップの為に狙撃犯などは引き連れているようだが、どうにも移動の際などは完全に単独で動いているようなのである。これは完全にFARCの想像の範囲外であった。

 

この異様な単独犯の正体は、言うまでもなくヴィレイスである。FARCが彼の存在を情報通を介して知ってからというもの、ここでも彼には多額の懸賞金が設定された。その額なんと五百万ドル!初っ端からこれである。流石にヴィレイスもこの額には驚いたようで、「アフガンの時の十倍じゃん」と半笑いで部下に漏らしていたようだ。

 

とはいえ、懸賞金の額を吊り上げれば彼を捕まえられるかと言えば…それは難しい相談であった。だがそれでも、密告にさえ多額の報酬が約束されると、味方であるはずのコロンビア政府内から密告者が出始めた。しかし、これはホテル・モスクワからすれば遅いくらいであり、問題外であった。

 

問題外だと言い切ることができる大きな理由は、この段階において先遣隊三百名に課されていた任務は、徹頭徹尾までヴィレイスの補佐に終始しており、彼らでさえもヴィレイスが今どこにいるのかを把握できていなかったからである。味方ですら知らないのだ。敵が知るはずもなく、また人間一人が密林に隠れてしまえば流石の人工衛星でも見つけることは困難だった。極めつけは、彼が携帯しているものは銃剣一本とグロック拳銃一丁だけだったからである。拳銃に至っては撃ち切りで、予備の弾倉すら持ち込んでいなかった。おまけに、彼はこの段階でまだ一度として銃を抜いておらず、専ら銃剣のみを使用していた。

 

銃声すら漏らさず、行動するのは夜のこともあれば昼のこともあり、消費する食料も、使用する爆薬も、すべてFARCが保管しているものから使うという徹底ぶりであった。

 

彼はここまでのことを涼しい顔でやってのけると、散歩から帰ってきたような気軽さで、一度基地へと帰還した。ここまでに隠し武器庫や麻薬の貯蔵庫や生産施設を数十件炎上させ、或いは爆散させており、被害総額は未流通の麻薬を除いても優に一千万ドルを超えていた。麻薬を含めれば数億ドル相当を灰塵へと帰していたことは、後に明らかとなったことである。

 

 

 

 

 

ブレイザー・ヴィリーが基地に帰還。現在、仮拠点にて滞在中。

 

その報告がFARCに伝わったのは、ヴィレイスが基地に帰還した翌日の昼間のことだった。FARCの最高幹部はここまでにたった一人の所為で多大なる損失を被っているという現実に打ちのめされていたが、そこに慈雨のように降った報せに歓喜した。基地に滞在しているのかの確認と、その再確認までして、その上で確信が持てたのだろう…彼らはヴィレイス一人の排除を目的にタスクフォースを編成した。指揮官とは別に、本命の刺客としてロザリタ・チスネロスを参加させたことは言うまでもない。

 

送り出されたのは千人にも届く大部隊であったが、作戦の目的はヴィレイスを殺すこと唯一つである。ホテル・モスクワの仮拠点を急襲し、反撃に出てきたところでヴィレイスを孤立させて屠る作戦だった。そのため、攻撃部隊とは別に、首狩り部隊が組織され、これをロザリタが率いる。基地の手前で降車して、全方位から一斉に攻撃を仕掛けることが周知された。

 

破壊され過ぎた結果、貴重品になりつつある重武装のトラックがかき集められ、この作戦のために投入された。仮拠点の門を破壊するために、破城槌代りの装甲車両も持ち出され、FARC側の乾坤一擲の作戦が始動されたのだ。

 

ある軍用トラックの荷台の上で揺られるロザリタの心境は、ここに至る遥か以前の段階で非常に不安定なものへと変わっていた。

 

ここまでの長い闘いの道のりを振り返り、いつから間違いが起きてしまったのかと自問する日々が続いていた。彼女は自身の心身を余すところなく、革命の大義へと捧げてきた。具体的には、革命の大義を実現するために、その障害となる存在の一切を自らの手を汚して排除してきたのである。手段の概ねは苛烈な暴力によって。

 

彼女が信じる大義というものの根幹にあるのは、平和な明日を夢見るが故の直接行動主義である。それは、革命を実現するためには、まずは自分が動かなければならないというものだ。そのために、彼女は自分自身の手を血で汚すことを厭わなかった。彼女には卓越した素質があったことも、或いはその直接行動主義の正当性を補強する理由となりえたかもしれない。

 

自分に与えられた能力を見よ。なんと破壊と殲滅に適したものであることか、と。

 

彼女は、ロザリタは殺しや破壊において、世界を見渡しても稀なほどの天才性を発揮したのだ。それはある意味では芸術的に鮮やかであり、比類なく洗練されていた。

 

彼女がその道に進むにあたり、自分自身の幸福というもの一切を捨て去る覚悟を決めていたことは想像に難くない。彼女は文字通りの革命戦士なのだ。革命の大義という、何か大雑把で小綺麗なもののために、潔癖なまでに徹底して汚れ仕事に邁進してきたのである。それはもう、見事なまでに血も涙もないと言われるほどに。

 

融通は利かない。どこまでも忠実で。地獄の果てまで追いかけて行く。便所の中に隠れていても、探し出して命を刈り取る。機械的に、淡々と。

 

愛されることを捨てたものは、かくも強い。だが、それだけだ。彼女は愛されることを放棄し、ただ只管に公共の敵としての自己を追求した。彼女にその自覚がなくとも、周囲にはその通りに映っただろう。血と泥だけが映えると形容するのは、誤謬だと言うには真に迫る裏付けが多すぎた。

 

無数の血を浴びた。老若男女の関係なく、古今一切の倫理を無視して直接行動し続けた。

 

結果、彼女はFARCが麻薬カルテルと関係を持ち、挙句、麻薬ビジネスに参入したことに対して深い失望を覚えた。

 

どうしてそこで、結果へと繋がるのか…不可解でさえあるだろう。だが、それは必然である。少なくとも彼女の中では、革命の為に老若男女を身代金の為に誘拐して殺戮することは、大義に沿う行いであったのだ。対して、麻薬ビジネスに手を出すことは、彼女の中では大義に沿わない行いとして認識されたのである。彼女の中では、それは必然であったらしい。

 

これはFARCからすれば迷惑な話だっただろう。なにせ、身代金を取るために誘拐するのも、誘拐した人間を殺すのも問題ない扱いだったのに、どうして軍資金確保のために麻薬に手を出した途端に失望されなければいけないのか。寧ろ、FARCは誘拐をするよりも利益効率が高いビジネスに乗り換えただけで、これで誘拐をしなくて済むようになったという認識を持ってさえいただろう。

 

これに対して、それまで大義大義と言って誰彼構わず殺してきた猟犬が、ある日いきなり「失望した。自分は番犬だった」と言い出して、挙句、脱営までしようと考え出すのである。これはとんでもない話である。仲間から「コイツは人の殺し過ぎで頭がイカれちまった」と思われるのも仕方が無いだろう。或いは、ずっと以前から『狂人』だと思われ、恐れられてきた者が今更になって、『まとも』ぶっているように見えたのだろうか。

 

いずれにしろ、ロザリタはFARCへの失望を胸に隠し持ったまま、内心ではこの仕事を最後に脱営することを心に決めていたのである。

 

「これが最後の仕事。これを最後に、私は革命を捨てる」…と。

 

味方からも遠巻きにされながら、彼女はトラックに揺られた。高速で移ろいゆく景色を眺め、銃だけを友として抱いて。

 

 

 

 

 

 

FARCによる急襲は成功した…かに見えた。

 

全方位からの攻撃に対して、基地からの反撃は皆無だった。装甲車両が突撃して門を破っても、フェンスが爆破されてもホテル・モスクワが打って出てくることはなかった。

 

何かがおかしいと思いつつも、トラックから兵員を降車させ、順次基地への攻撃に参加させた。ロザリタに率いられた首狩り部隊も裏口と思わしきドアを爆薬で破壊して侵入した。

 

基地の半ばまで進むと銃撃戦が始まった。基地内部でFARCの兵士が乱射すると、敵の応射がようやく始まり、そこからなし崩し的に銃撃戦へと発展したのである。

 

だが、そこまで行ってもまだ敵の姿を明確に目視できた者はいなかった。敵からの応射は確認されるものの、敵の死体は発見出来ていなかった。

 

更に進むと、逆に苛烈な射撃を受けて脱落者が出始めた。仮拠点にしては、重度の防衛設備が基地内部に構築されていた。屋内戦闘を前提に組まれたそれらを見て、FARCは誘い込まれていることを悟らざるを得なかった。だが、この段階から引くことも出来ない。それもまた確かなことだった。何より、ブレイザー・ヴィリーさえ殺せれば作戦は成功なのだ。その一人を見つけ出すために支払った代価に相応しい戦果を求められていた。故に、兵士たちに退路を取る選択肢は初めから存在しなかった。

 

最先頭を進むロザリタの部隊は、意を決して更に前へと進んだ。残りの部隊は周辺の掃討へと移り、脱出口が無いかを確認するために人員を割いていた。この時点で、戦果らしい戦果は未だなく、敵基地を事実上奪取したという事実だけが上層部を喜ばせるに足るように思われた。

 

時々、散発的な銃撃があったものの、応射の精度は高い一方で限定的であり、大局に変化を与えるような攻撃は受けぬまま、兵士たちは進んだ。進む過程で、確実に死傷者を増やしながら。遮蔽物を利用した銃撃戦の中でも、敵方の隠蔽が巧みである為か、或いは堅固な機銃陣地を設けているのかは不明だが、敵影らしきものは見えぬままであった。敵の、あまりのもあっさりとした引き際に、ロザリタをはじめ、全員が不気味さを覚えていた。

 

 

 

 

 

 

 

果たして、その不気味さは最も望ましくない形で正解を引いた。突如としてロザリタの部隊を、小柄の影が襲ったのだ。銃声はしなかった。ならば、ここまでの統計から言って、相手は唯一人だ。

 

「ブレイザーだ!出たぞ!」

 

最後尾で悲鳴が上がるのと同時に、ロザリタが叫んだ。しかし、射線が味方の身体に遮られて撃つことができない。味方が遮蔽物に隠れて射撃を開始するよりも、ブレイザーが動く方が速かった。異常な身のこなしで射線を搔い潜り、順手で構えた銃剣を的確に生身に当ててくる。時に切り裂き、時に突き刺し。どちらにせよ、あっという間に負傷者が続出した。これをFARC兵士の身体を盾にしながら、目にもとまらぬ速さと手際のよさで連続的に行うのである。密林での作戦の中で、作戦前に切っていた髪が肩まで伸びていた。青黒く艶やかな御髪をさらさらと中空で波打たせながら、ブレイザーは笑いもせず、かといって険しい顔もせず、淡々と、また軽快に兵士たちを無力化していく。

 

「両脇に分かれろ!射線を交差させて寄せ付けるな!」

 

ロザリタの声が響く。反応した兵士が即座に行動に移す。ここまでくれば後尾の味方は壊滅だ。気にせずに撃ちまくった。バリバリと銃声がけたたましく屋内に響く。跳弾が発生する中で、ブレイザーは平然と身を隠し、そのまま消えた。基地の内部を熟知しているのだ。小部屋と小部屋を行き来して、ベッドの下に這い蹲って滑り込み、鉄製のテーブルや椅子を盾や目隠しにして縦横無尽に駆け回る。

 

捕捉が困難だと理解したロザリタは部下を伝令に出して増援を呼び込むか、部隊で動いて後退するかを迫られた。と、その時だった。

 

「基地にはもう俺しかいない。みんな出た後だ。信じるも信じないも『君』次第だが…」

 

ブレイザーの声だった。

 

初めて聞いた声は、想像していたものよりもずっと若く、青く、穏やかで、優しいものだった。とても生死を賭けた銃撃戦の中で聞こえてくる声とも、その中で発される声とも思えなかった。だが、たったそれだけで、その一声だけで、ロザリタは直感的に彼の言葉が真だと確信した。この基地には、もはやブレイザーだけしか、彼一人しかいないのだ。敵の言葉だというのに…否、敵の言葉だからこそ、彼の言葉は信じるに足るように思えた。

 

その声音には、自分に不利なことであれ、なんでもないように言う彼の人柄が表れていた。だが、彼の人柄など知らず、ただ凶悪なだけの敵としてしか認識していないはずのロザリタが、なぜ彼女がブレイザーの言葉を信じようとしたのか。その点は不可解だった。或いは、彼女は信じたくなったのかもしれない。それは断じてブレイザーへの信頼などではなかった。それは彼女の革命戦士としての本能からくる防衛反応だったのかもしれないのだ。FARCへの失望を抱えたまま、革命を捨てる直前の今、最後の仕事の中で出会った狂人を相手に果てることを望んで。言い換えれば、革命を抱いたまま死ぬことを夢見て。

 

「行け…奴の相手は私がする。私のことは構わず火を放て。本部にもそう伝えろ」

 

ロザリタは生き残りの部下全員にそう命じた。兵士たちは脱兎のごとく走り去っていく。誰も彼女の方を振り返りはしなかった。それを見て、寂しさと安堵が彼女の心奥へと去来した。

 

誰も私の死を恐れていない。誰も私に生を期待していない。誰も、戦友と呼ぶべき人々は、到の昔に死んでいたのだ。或いは、最初からそんなものは居なかったのかもしれない。

 

ふと正面に目を遣ると、ブレイザーだけがロザリタのことを見つめていた。迷いのない瞳だ。曇りもなく、平静なる穏やかな瞳だ。まなざしが妙に温いせいで、死への恐怖が蒸散していくようだった。

 

後ろから撃たれるかもしれないのに、去り行く兵士に視線を呉れてやることもなく、ブレイザーはただ彼女だけを見ていた。銃剣を握る手はだらりと、無理なく両脇に垂らされていた。身体からはほどよく力が抜けていて、表情にも気配にも殺気が漲ることはない。兵士たちを相手にしている間も、銃撃を受けている間も、こんな淡泊な表情だったに違いない。

 

最初から役者が違ったか、と。ロザリタはぼんやりと考えていた。意図せぬ形で、彼女はブレイザーと一対一になっていた。部下が戻ってくることはないだろう。増援が送り込まれることはあり得なかった。彼らは躊躇なく基地に火を放ち、ロザリタとブレイザーを丸ごと焼き殺すことに躊躇しない。長年FARCに居たからこそ、ロザリタには自分の命を保全するよりも、目の前の目標を排除する方がよほど経済的だということを理解していた。寧ろ、ロザリタという思想的な不安分子を排除できるのだから、一石二鳥だとすら思っている者もいるかもしれない。だが、それでいい。

 

「ブレイザー…噂は聞いていたが、ここまでとは驚いた。私が呼ばれるのにも納得だ。自惚れではないが、貴様の相手ができるのは私しか居ないだろう」

 

ロザリタはなんとなく口を開いた。言葉を思うままに並べた。自由だった。誰が見ているわけでもなく、聞き耳を立てる者もいない。遠からず火の海になるこの場で、彼女は自由を感じていた。今だけは、彼女は純粋な革命戦士だった。妥協なく、高潔なる革命の大義に殉じる為にのみ戦う者として、彼女は任務ではなく、思想でもなく、純粋に戦闘巧者として目の前の男と向き合っていた。それが許されたことは、記憶にある限り初めての経験だった。きっと美しい記憶になるだろう。そう思い、笑みが零れた。

 

今度はブレイザーの番だった。

 

「俺も同じ考えだったよ。誰も君の相手にはならないだろうから。無駄に死なせたくなかったし、君には個人的な用事もあったからね…それで俺が来たってわけさ」

 

「個人的な用事?私に何の用事があるというんだ?」

 

ロザリタは興味をそそられた。個人的な用事など、指名手配を受ける以外では滅多なことではなかった。

 

彼女が問えば、彼は肩を竦めた。鼻で息を吸い、フッと軽く吐き出した。いや、それは吐き捨てた、と形容するべきか。

 

「それがね…わからなくなっちゃったよ。思えば、この頃の君のことを、俺は知ったかぶってたんだなって…自分の馬鹿さ加減に呆れちゃうよ、まったく」

 

「『知ったかぶる』…何に対して?私に対して?」

 

返答は期待していた内容ではなかった。謎が深まった。目の前の男への関心がジュワリと胸に広がった。敵意も殺気も迫ってこない時間が淡々と続いているせいで、ロザリタの肩からも無駄な力が抜けていく。

 

ブレイザーは銃剣を持っていない方の手で頬を掻き、続けて言った。

 

「君について、理解した気になってたや。でも、これが初めてじゃないんでね…ソーフィヤの時だって、思えば同じ失敗をしてるんだよなぁ。ま、今はそれは置いておくとして…」

 

「…時間を稼ぐつもりか?」

 

こちらにも聞こえるような普通の声音で、ブレイザーは益体のない話をするので、ロザリタは眉をひそめた。時間稼ぎをしているのはロザリタの方なのだが、ついそんな言葉が出た。

 

「いや、別に。ただ…ううん、いいや。今は。とりあえず、俺は最初から『君』のことを知らなければならないようだ…それだけはハッキリした。だから、もう十分だ」

 

「…そうか、なら、私も話すことはない」

 

俄かな失望。それはロザリタの抱いた率直な感想だ。自分の覚悟に水を差された気分だった。ブレイザーと呼ばれ恐れられている目の前の男へと不躾な視線を送る。

 

オリーブ色の動きやすい軍装の下に、水色と白のボーダーシャツを着こんでいた。足元は軍用ブーツで固められ、指貫された革製グローブ越しに銃剣を握っているのが分かる。初期の報告で知らされていた短髪も、今では肩まで伸びていた。顔には傷らしい傷もなく、女のような嫋やかな美貌が備わっていて、愛嬌のある童顔でもある。とても年上には見えなかった。背丈もロザリタの方が大きいくらいで、とはいえ身長差はそこまでではない。雰囲気は…無と言えばいいのか。一般人そのものでしかない。闘気も殺気も皆無。だが、虚無ではない。眼差しには力が込められているし、瞳にも健やかな光が満ちている。

 

そこまで観察して、ロザリタは僅かに目を見開いた。それは発見への驚き、乃至は気づきへの喜びだろうか。

 

朽ちることのなく、また腐ることもない精神。それと健やかな肉体。この二つを、彼女は自らが対峙しているブレイザーの中に見たのだ。

 

それは戦士の、理想的な戦士の条件に他ならなかった。

 

「…貴方のような戦士がいれば、或いは私も…」

 

ロザリタは縋るような色を瞳に滲ませて、そんな言葉を零した。返答を期待してのものではなかったはずだ。だが…

 

「いや、俺が居ても、『君』は『君』のままだったと思うよ。その上で、一緒にいることは出来たかもしれないけど…それと『君』を止めるかは別なんだ」

 

「止めて貰える、だなんて思わないことだ。だって…俺も、君も、もう立派な大人だろ?自分の機嫌は自分で取らなくちゃ」

 

だが、ロザリタは期待していなかったはずの返答に対して、自分にとっての不都合が濃縮された彼の言葉に対して、言葉に囚われない激情を抱かざるを得なかった。

 

理性の範疇にない、激しい憤怒が、理不尽な防衛本能が彼女を突き動かすようだった。そう、その瞬間に彼女は駆け出した。ブレイザーに襲い掛かったのだ。

 

「貴様に何が分かるッ!!!」

 

「……」

 

「何か言ったらどうなんだ!お前だって私とそう変わらない狂人のはずだ!だというのに、何を偉そうに!!」

 

「いや、別に偉そうではなかっただろ…」

 

「うるさい!黙れ!」

 

ナイフがビュンビュンと風を切る音が、すぐそこで鳴るのを聞きながら、ブレイザーは軽やかにステップを踏むように回避行動をとった。無駄のない動きは見とれるほどに研ぎ澄まされていて、掠りそうなほどに近いのに、彼女のナイフが届くことは決してなかった。組手すらしようとしない、ただ体を左右に捌いて凶刃を避け続ける。無尽蔵の体力を誇るロザリタを試すように、彼の両腕が振るわれることはなかった。

 

ロザリタの突然の乱撃にも、ブレイザーの表情はピクリとも働かなかった。腕でいなすこともせずに、暫く、彼女が噛み締めた歯が軋む音と、ナイフが空を切る音だけが微かに響いた。

 

 

 

 

 

 

 

もう何百回避けたかもわからない。大小の連撃に、突き、払い、逆手、順手と続き…咄嗟に抜かれたコルトM1911ガヴァメントの七連射も掻い潜り、ブレイザーは未だ健在だった。

 

「焦げ臭くなってきたな…」

 

彼が頬を掻いてから言った。銃剣を持つ手はぶらりと垂らされたままだ。火の手が上がったのだろう。屋内の温度は順調に上がってきていた。ゼイゼイと荒い息をしながら、ロザリタも落ち着きを取り戻そうと一旦、跳ねるように退き彼から距離をとった。彼女が見れば、ブレイザーも汗をかいていた。じわりと浮かんだ汗の雫は玉のように大粒で、心なしか熱さに目を細めているように見えた。

 

ああ、彼も人間なのだ。ロザリタは希望とも安堵とも知れない心地になり、途端に気安い気持ちが沸き上がってきた。目の前で余裕の表情を浮かべる男とて、所詮は一個の人間に過ぎないのだ。殺せば死ぬ。肌に傷つければ血を流して死ぬ。今までと何も変わらない。これまでに殺してきた相手と何一つ変わらないのだ。

 

気づけば、薄ら笑いが口元に浮かんでいた。

 

「ふふ…ぐふ…ふっふふふ…」

 

ニヤけた顔をそのままに、ロザリタは目の前の、自分よりも余程得体のしれない存在へと視線を注ぐ。嗚呼、なんてオカシな奴なんだろう。笑えてきた。

 

「そんなに面白いか?」

 

彼が両手を軽く広げて見せた。きょとんとした顔には可愛らしささえ宿る。ロザリタは顔を片手で覆い、それでも隠せない笑みを零しながら応えた。

 

「はははっ…ああ、面白いね。貴様はどうだ?面白くないのか?」

 

火の手が強まったのか、ブレイザーの背後、細長く続く廊下の奥から炎が立ち上がった。燃え上がる炎が発する熱と光とを背後に背負い、真っ直ぐ立つ男の姿は幻想的で、まるで死からは遠く離れているようだった。心強く、憎らしい。塩辛い汗が目に入り、途端に涙が滲んできた。

 

「あっはははは…馬鹿馬鹿しい」

 

熱い。苦しい。だが、それは炎とは別の場所から湧き上がってくるものだった。この期に及んで色々な感情が噴き出してきて、ロザリタはギリギリと歯を嚙み締めた。

 

「泣くのか?いいよ、泣いても」

 

ロザリタの気持なんか知らないのか、ブレイザーは嘲るでもなく、純粋に気遣う様子を見せた。そして、ここへおいで、とでも言うように腕を広げた。ロザリタの足は自然と、彼の方へと動いた。

 

「さあ、来い」

 

シャクっと音がして、彼が銃剣を腰に納めたのが見えた。彼は腕を広げたまま、棒立ちでロザリタを待っていた。そこへ、ロザリタは意を決して飛び込んだ。

 

ナイフを逆手に構えたまま、一身を勢いよく委ねて。

 

「やった…」

 

ナイフは寸分の狂いもなくブレイザーの胸元に刺さっていた。

 

「っははは…やった…やったっ…」

 

ロザリタはよたよたと、腕を広げたまま硬直するブレイザーから距離を取ろうとして、足をもつれさせて転んだ。後ろ手をつき、佇む彼を見上げるように、重みに潰されたように足を投げ出した。

 

呆然とした表情で見上げた先には彼の顔があった。

 

「それで?満足した?」

 

初めて見る、冷たい眼差しだった。絶対零度のそれに晒されて…平然とした口ぶりを聞いて、咄嗟にナイフを押し込むために立ち上がろうとするが、そのナイフが彼の手で胸から抜き去られるのを見て、今度こそロザリタの身体からは力が抜けて、彼女はへなへなとへたりこんだ。

 

胸元が真っ赤に染まっていくのをぼんやりと見続ける。それは間違いなく血だった。だが、彼が死ぬ様子はない。斃れる素振りも見せない。ただ、冷淡な瞳でロザリタのことを見下げていた。

 

責めるものではなかった。だが、冷たい視線が、彼女に向けて淡々と注がれていた。温度のないそれは、ロザリタを狂わせるに足る、鋭利で凶悪な沈黙を彼女の胸に流し込んだ。

 

ロザリタに突き立てられたナイフを遠くへ放り捨てると、ブレイザーはゆったりと屈んで、視線をロザリタと合わせると、冷たい眼差しのまま、口元に笑みを浮かべた。

 

「お前、悪い女だったんだな」

 

「でも、これで少しは『君』のことを知れたかな…」

 

この時の彼の表情は、酷く狂暴なもので、口元に張り付いた歯を見せる笑みには、残酷なまでの無邪気さが漲っていた。それは恐らくソーフィヤも見たことがない彼の顔だった。新しい顔だった。彼のままに、彼の新しい側面をロザリタが引き出したのだ。そのことに両者は気づいていないが、少なくともロザリタは、その表情に生まれてこの方、感じたことのない強烈な感情を喚起された。

 

見開いたままの目が乾いて、涙が自然と溢れ出した。それを見て何を思ったのか、彼は笑った。胸からは血が流れ続けている。ボーダーシャツは真っ赤に染みていて、彼の身体を重たくした。

 

「お前みたいな面倒臭い女になら…俺も遠慮しなくていいよな?そうだろ、ロザリタ?」

 

声を掛けられ、名前を呼ばれた。ただそれだけなのに、ロザリタは得も言われない感覚に身を縛られていた。

 

「俺も、『君』も、赦されるとでも思っているのか」

 

「それは無理だ」

 

「だが…試そう」

 

そう言い、彼は腰のホルスターからグロックを引き抜き、スライドを引いて初弾を装填した。

 

「あ…あぁ…ぅ…」

 

向けられた黒々とした銃口を見て、ロザリタの身体から力が抜けた。言葉にならない声が漏れた。彼の表情は変わらない。穏やかで、静かだ。

 

「覚悟は出来てるな?」

 

「……」

 

彼女が頷くのと、彼が引き金を引くのは同時だった。

 

カチっ。

 

「……」

 

沈黙が襲う。彼は黙ってスライドを引き、不発弾を掌に乗せて転がすと、何も言わずにポケットに突っ込んだ。

 

「すぅ……」

 

次の銃口の行方は、今度は自身の蟀谷に。そして間髪入れず。

 

カチっ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁっ……はぁっ……」

 

静寂。ロザリタは目を疑った。だが、現実だ。

 

何かが燃える音だけが轟く。チロチロと炎が這い寄ってくる。それを制するように、彼が勢いよく息を吐き出した。

 

「…答えは出たな。だが、赦されたとはお互いに思わんことだ。こんなものは、ただの撃ち損じだ…」

 

「それでも、な?…」

 

「はははっ…あはは…」

 

彼はぼそぼそと喋った。それから、心底安堵したように笑った。

 

「『君』はともかくとして…まさか、俺”も”とはなぁ…あはは…ははっ…」

 

銃を腰にしまった彼が笑う。ロザリタは目を瞬かせる。彼の笑い声が遠くに聞こえていた。ロザリタはとても静かな気持ちと、とても激しい情動とを相抱えて両手で顔を覆った。

 

それは激しく燃えるような、炎の熱さを忘れるような、骨身に染みる激情だった。怒りでも憎しみでもない。言葉にはできない。目を逸らすことも出来なかった。今のこの瞬間が、二度と訪れることのない、差し出された金色の酒杯のように思われた。曝け出された自分の暴力的な姿をも、吞み込んで尚余りある強大な存在感に、そこに魅力的な安息を見出したのだ。

 

言葉が出ないままの彼女に構うこともなく、ブレイザーはどかっと目の前で胡坐をかくと、そのまま背中から倒れて寝ころんだ。どういうことだ。ロザリタは目を白黒させつつも、動けない。

 

すると、彼が瞼を閉じて、眠るようにゆっくりと息を吸い、吐き出してを繰り返し始めた。あたりはすでに火の海に近い。煙に咽ることもなく、静かな寝息を立てようとし始めた男の異様な振る舞いを前に、彼女はようやく体を起こし、恐る恐る彼に擦り寄った。

 

「嗚呼…ダメっ…そんな、ダメだ!し、死なないでっ…こんなっ、どうして…どうすればっ…!」

 

傍から見れば、それは酷く情けなく、恥知らずな振る舞いだっただろう。必死さが滲む表情に、余裕などなかった。何かに、目の前で見えるもの以上の、何か大きなものに縋り付いたのだ。初めて目の前に現れた、期待してきた以上の何かを手放すまいと。安全毛布を掻き抱くように、自分で刺したことも忘れて、血を流す男を心配してみせた。冷や汗と涙がじわっと噴き出してきて、ぼたぼたと男の顔に降りかかった。

 

「ん?…どうした?」

 

降り注ぐ雨に気付いて男が瞼を開けた。本気で眠りかけていたのか、眠たげな眼のまま、呑気にもそう告げた男に、ロザリタは悲鳴を飲み込むので精一杯だった。

 

「どうする?」

 

それはどういう意味なのか。ロザリタの声は出ない。まるで喉がつぶれたようで、震わせることしかできない。粘っこい唾を飲み下した。喉の動きを見て、男は鼻で笑うと、また目を瞑った。

 

瞑ったままで言う。

 

「この先に、基地の外に繋がるトンネルがある。狭いが…人間が二人くらいならすれ違えるくらいの幅だ」

 

ロザリタの目がこれ以上ないほどに見開かれた。手足が震える。ぐるぐると眩暈がして、世界が回る。これは葛藤なのか、それとも決まりきった答えの先延ばしをしているだけなのか。わかりきった問いかけに答えてくれる人はいなかった。

 

まごつくロザリタを見ようともせずに、男は口を開いた。

 

「派手に爆発するように爆薬を遠隔で起動することになってる。俺とお前が基地から脱出するのが合図だ。それまでは時間がある」

 

「俺は動かない。お前の好きにしろ。ただ…」

 

彼はやはり彼女を見ない。天井を見つめて、淡々と語った。

 

「ただ、もしも俺を無事にここから連れ出せたのなら…その時は、飼ってやってもいい」

 

「お前はどうしようもない頭でっかちの馬鹿女だ。面倒くさい上に、最高に質の悪い女でもある」

 

そこまで言い、一度咳き込んでから、こう続けた。口元には笑みがある。

 

「だが、そこが気に入った。『君』はそのままでいい」

 

そう断言してから、ようやく彼はロザリタを真っ直ぐに見据えた。あの冷たい瞳はどこにない。ただ、澄んだ瞳が彼女を貫いた。彼の瞳の中に映るのは、高潔な革命戦士でも、冷酷なテロリストでもない。涙に濡れて、幼稚にも狂い惑うばかりの、ちっぽけな女の姿だけだ。弱い人間の姿だけだ。

 

「ただし、二度と逃げられるとは思うな」

 

「こんなはずじゃなかったなんて…今回だけだぞ?今度こそ、首輪は自分で嵌めろ」

 

「それとも…このまま一緒に死ぬか?」

 

彼はそう言うと、再び瞼を閉じた。間もなく、穏やかな呼吸の音が耳に届いた。辺りは急激に熱くなっている。もう時間は少なかった。

 

「さぁ、どうする?」

 

寝言のように彼が零した。

 

「ッ……!!」

 

本当に、意図せずに漏れたような一声が、遂にはロザリタを動かした。

 

彼女は何も言わずに、すっかり力を抜いたブレイザーの身体に取りつくと、横抱きにして立ち上がった。

 

「…このまま真っ直ぐに進め。突き当りで右に曲がり、角に突き当たったところにある部屋に入れ。床に空いてる穴が目的地だ」

 

フッと彼の口元に笑みが浮かんだのが見えた。口元が急ぐでも遅れるでもなく動いて、端的に必要な情報だけを告げて再び閉じられた。

 

「……っ…ぅ…!」

 

ロザリタは訳がわからないと、自分に言い聞かせた。そうだ、訳がわからない。自分が殺す気で刺した相手を、今は必死に運んでいた。火の手から逃れて、必死に走った。体が不思議と軽くて、わからない、なのに体が軽くて笑い声が漏れた。泣き笑いは、どうしようもなくて、止められなかった。嗚咽を零しながら、彼を丁重に抱いたままトンネルに身を滑り込ませた。

 

「ふっ…ぅ…はぁ…ぅ…ッ…ふ、あは…は…はは…」

 

這う。這う。彼を背負ったまま這う。地上の喧騒から切り離されて、酷く静かな穴の中を進んだ。誰もいない。彼の寝息だけが耳に囁く。ただそれだけで、思い出したように息を吹き返す自分に、ロザリタは困惑し、納得し、笑った。ははは。漏れた声が、思いのほか明るくて、彼女は少し立ち止まり、俯いた。頬を伝った涙が重かった。けれど、雫の伝った痕は体の熱を吸い取るように、ひんやりと心地よく感じられた。

 

自分が産んだ子供を抱くように、ロザリタは片時も彼を手放すことなく、トンネルを歩き切った。果てが見えて、光に向かって進むと、屈強な腕が何本も伸びてきて、彼女と、彼女に背負われていたブレイザーをトンネルから引き上げた。

 

「お前がロザリタ・チスネロスだな?」

 

「はい…」

 

銃を構えた完全武装の兵士に囲まれても、ロザリタは落ち着いていた。名前を聞かれたので頷くと、兵士も頷いた。

 

銃を構えたまま、顎を繰ると、指揮官から指示を受けた部下が進み出た。手には重厚な手錠があった。

 

「念のため拘束させてもらう。異存はあるか?」

 

「いいえ」

 

「なら、よし…行くぞ」

 

手錠を掛けられても、ロザリタに恐怖はなかった。ただ、傍らでストレッチャーに乗せられてトラックに運び込まれたブレイザーのことが気がかりだった。

 

一足先に出発した救急トラックを見送ってから、彼女も装甲車両に乗せられてその場を後にした。

 

装甲車両の兵員室に設けられた分厚い防弾ガラスの窓越しに、遠目にも黒い煙の筋が幾本も天に伸びていくのが見えた。

 

 

 

 

 

この日、FARCの公式発表の中でロザリタ・チスネロスが死亡したことが知らされた。世界はこの情報を確度の高いものとして信頼し、またこれを吉報として好意的に受け止めた。

 

同日、何故かメイド服に着替えさせられた女が、負傷して本国へ急遽帰還することになったホテル・モスクワの大頭目ヴィレイス・ヴァイオンの付き添いとして同じ軍用機に搭乗するのが確認された。

 

これは余談だが、搭乗前に提示された彼女のパスポートの氏名欄には『ロベルタ・ヴァイオン』の字が並んでいたそうである。

 

彼女の首元で煌めくチェーンの先にはステンレス製ピルケースが揺れていた。

 

その中に、尻の凹んだ9MMパラベラム弾が眠っていることを知るのは、彼女を除けば、この世にただ一人だけ。

 

同じ飾りを首から下げているその男は、今は彼女に付き添われて呑気に眠っているのだ。

 

 

 

 

 

 

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