麻薬ビジネスからの完全撤退は、ホテル・モスクワにとって大きな転換点となった。
FARCへの懲罰を済ませ、コロンビアから帰還したヴィレイスは組織の全体に新たな方針を通達したのだが、その内容が『麻薬ビジネスからの完全撤退』であった。
彼の言葉は内外で波紋を呼んだが、逆に言えばそれ以上の強硬な反対は起こらなかったとも言える。というのも、この段階における組織の収入の大半が、所謂正業によって賄われており、麻薬売買に関しては継続的に規模が縮小され続けてきたのである。
また、主な収入源として最も大きな割合を占めているのはヴィレイスが予てから進めてきたファンドによるものだが、のみならずホテル経営、不動産売買に加え、ロシアのエネルギー産業やアフリカの鉱山経営においても莫大な利益を上げていた。
結果論だけで語れば、ヴィレイスはホテル・モスクワ並びにブーゲンビリア貿易を、犯罪組織から合法的な多国籍企業へと生まれ変わらせたのだ。
ただし、彼はその過程で看過できない重要な手順を踏んでいた。それは約めて言えば、金銭では獲得することが難しい表裏両面への影響力の獲得と拡大である。彼は秩序の調停者としての地位を確固たるものにすることと引き換えに、数値上の利益を度外視して、麻薬ビジネスの旨味を惜しみなく周囲にばら蒔いた。
運転資金の為に麻薬ビジネスを始めたかに見えたが、実際は全く異なる目的のために動いていたのである。具体的には、世界基準の秩序を成立させた上で、ホテル・モスクワが中立的なゲームマスターとしての地位を確固たるものにすることを求めたのである。
ヴィレイスの頭の中には、最初から最終的に行き着く場所が定まっていたのだ。それは、とりもなおさず仲間の安穏である。
世界一の金持ちになっても、世界一強大な軍事力を持っても、世界で最も恐れられる組織に育ったとしても…安穏とできる、とは言い難い。
これを理解していればこそ、彼は正業への転換を大前提に置いた上で、裏稼業に手を出したのである。網の目のような人間関係や勢力間関係を一度強引に混乱させ、この混乱に乗じて、ホテル・モスクワを中心にそのネットワークの再構成を試みた結果、彼はその総仕上げとして正業への転換の為に、麻薬ビジネスを躊躇なく捨てたのである。
ここで注目するべきは、彼が捨てたのは麻薬ビジネスや武器売買などへの直接関与であって、あくまでも調停者として、統制者としての立場を捨てた訳ではない、という点である。
そうだ、彼は調停者として、秩序を司り、ルールを考える側の立場を完成させるために、信頼の裏付けの為に誠実さを行動で示したのである。表向きには、だが。
そもそも、ヴィレイスは麻薬ビジネスや武器売買を金の卵だとは、欠片とも考えていなかった。そんなものは道具でしかなく、楽して稼ごうとすればするほど余計な金がかかるという悪循環に囚われる、非常に効率の悪い…言い換えれば頭の悪い商売だとしか思えなかったのである。彼は最初から切り捨てるつもりで、甘いだけの毒饅頭を同業他社にせっせと食わせていた訳である。
そうして、彼らが麻薬ビジネスの甘味にすっかりはまり込み、安全で儲かるビジネスだと思い込む頃に自身は堂々と手を引いたのである。利益を捨てて信頼を勝ち取った裏では、事実上の損切が行われていたのだ。
これはアメリカなどの国家機関との折衝においても同様に機能した。ホテル・モスクワは中立的な調停者としての立場を堅持する一方で、利益追求の面では利害調整の為に譲歩することは勿論、身銭を切ることも厭わなかった。このような姿勢は与しやすいという意味でも、約束は必ず守り有言実行を体現しているという意味でも、信頼に足る組織として彼らを印象付けることに貢献していた。
組織としての安定感が高いということも、麻薬ビジネスに関与している段階で既に節度をもって流通を管理していた点や、動員能力と練度が高水準である点から高い評価を受けることに繋がっていた。
結論として、世界の警察アメリカの視点から見ると、いつでも潰せるが、非常に安定していて有能かつ忠実な協力者として、ホテル・モスクワは認識されたのである。いつでも潰せる、という点は非常に重要であった。これをヴィレイスも理解しており、組織が大マフィアの中では小粒だが、機動性と安定性が抜群に高い点を根気強く演出することに腐心していた。
果たして、ヴィレイスの演出が功を奏して、アメリカや先進国の情報機関を中心として、ホテル・モスクワを表裏の利害調整を担う架け橋と見做す勢力が俄かに起こったのである。この動きで重要な点は、ホテル・モスクワが一切の官憲の買収を行わなかったことである。寧ろ、賄賂を要求してきた警官を政府に直接報告してくるようなことまでしている。
組織の頂点がヴィレイスに代わってから、十年と経たずにホテル・モスクワは裏稼業を捨て、正業への転換を成功させた上で、以前よりも遥かに巨大な資本を自由自在に動かせるまでに成長していた。
洗わなければ使うことのできない金ばかりをチマチマと稼ぐ元同業他社を尻目に、彼の組織は天文学的な利益を投資に次ぐ投資で合法的に金転がしで生み出し、これを将来有望な産業の生産設備を製造する企業や、技術開発で大きなシェアを誇るが表面的には目立ちにくい中小の株式を買い占めることに注ぎ、或いはアフリカや中南米のレアアースや鉱山の利権を買い漁ることに集中投入させてきたのである。
ヴィレイスが徴兵されて以来継続してきた未来の先進企業への投資も、軌道に乗りつつあった。彼はこのビジネスを途中から大規模化させており、その配当だけで彼の資産は莫大な額に登っていた。だが、彼はこれらを独占するでもなく、給与を株式の譲渡で済ませるという荒業で、大隊出身の部下たちに分配したのである。最終的に、全員が家族を養いながら働かなくても不自由なく暮らしていける程度の資産を、元部下五百人足らず全員に保証したことになった。この時点で、ヴィレイスの退役以来の悲願は達成されたことになるが、完全に足を洗い、彼の元を去る者は少なかった。バラライカは無論、居残った。
全員の進退を丁寧に聞きこんでから、大半が居残ることに決まった。この一件もあり、ヴィレイスは組織の経営方針を完全に正業へと転換させ、その過程で退役軍人を中心とした要員で構成される警備会社を設立し、大隊の全員をここの役員ないしは正社員として改めて採用した。これにより、彼らは表社会での正式な立場と肩書をも得たことになり、彼らは様々な特権を持ちながらも、何食わぬ顔で税金を納める模範的な市民として祖国への凱旋を果たしたのである。
警備会社の設立は単なる覆面ではなく、大隊の人間の武器の携帯を公的に認めさせ、その上で国家と政治との関係性をより強固にするための手段でもあった。特に古巣である軍部への影響力は、現役時代のヴィレイスの名声が依然として強く残っており、潜在的な彼のシンパが非常に多かった。生来のカリスマも相合わさり、彼は顔パスで軍の基地への出入りが利く立場であった。崩壊後の余波が完全に抜け切らないうちに、ヴィレイスは軍人時代のコネをより強固なものとするべく、またより上位の政治・経済的な視点から見ても組織が不可欠の存在となるべく、国内の新興財閥オリガルヒを実力で屈服させ、これを影響下に置くと共に、彼らをホテル・モスクワの経済圏へと組み込んだ。これにより、原材料や警備の手配も、輸送手段も、最新の生産設備の導入にも、開発事業の提携にも、すべて一括でホテル・モスクワが噛むことが出来る仕組みを整えたのである。
新しい秩序の成立にあたり、ヴィレイスは巧妙な仕掛けで五方良しを実現した。退役軍人の為の天下り先を用意できるようになり軍部もよし、仲介業者から買わずに安価で原料を入手できるからオリガルヒもよし、国内経済が活気づく上に失業率も解消できるから政府もよし、資本主義経済の加速とホテル・モスクワの仲介でアメリカ資本も参入のハードルが緩和されるのでアメリカもよし、そしてこれらすべてにホテル・モスクワが基点として関わり、組織が必要不可欠の存在である以上は周囲が自ずと組織を守るように動くのでホテル・モスクワもよし。
利害調整の旨味とは、第一にも第二にも第三にも、常に脅かされないということに尽きた。
ホテル・モスクワは他のギャングやマフィアから見れば馬鹿に違いない。自分たちが麻薬でがっぽりと汚い金を稼いでいる横で、自分で独占することもせずに、自分から進んでスキームを公開し、利益を分散させた挙句、麻薬ビジネスそのものから手を引いてしまったのだから。彼らの手に残ったものは流通網の管理者であり、利害調整の調停者であるという肩書だけである。おまけに彼らはFARCに懲罰を与えたが、その際の費用の一切を自腹で負担しているのだ。黄金夜会を構成している他の組織は1セントも支払っちゃいない。なのに、麻薬では1セントも儲けられていないホテル・モスクワが麻薬ビジネスの秩序を守るための番犬としてかかずらっているのだ。ロシア人を軽蔑する組織が、内心では大いに溜飲を下げたことは言うまでもない。
同様に、アメリカから見てもホテル・モスクワは可笑しな連中だった。当初は成金だと思われたギャングが、どういうわけか自分から進んでアメリカの秩序の内側に麻薬ビジネスを引き込んだのだ。アメリカの管理できるだけの量が流通し、麻薬ビジネスを統制可能なものとして失墜させた功績は、政府にとっては喜ばしくとも、ギャングどもからすれば裏切り同然であるはずだ。現に、ホテル・モスクワはスキームの開発者でありながら、新秩序構築の言い出しっぺとして麻薬ビジネスから弾き出されて一人で冷や飯を食わされているではないか。加えて、連中は売国奴でもあるらしく、旧ソ連の巨大な市場を躊躇なく門戸開放してしまったのだ。おかげでアメリカはロシアに昔日の恨みを晴らすかの如く、莫大な資本を投入して侵食を開始している。その尖兵を買って出たのもホテル・モスクワだった。アメリカが金を渡すと、ホテル・モスクワはアメリカの為に、アメリカの資本で旧ソ連の各地に工場を建て、ホテルを建て、拠点を設営するのだ。他ならぬロシア人がこれをするのだから、ロシア政府も文句は言ってこない。いや、今はそれどころではないのかもしれないが。
このように、ホテル・モスクワは表と裏の勢力から同様に道化として見られている。
だが、現実には道化に徹することで、莫大な情報と資本のうねりを自由自在に動かし、遂には正業を生業とする巨大な多国籍企業へと成りおおせた。
麻薬を扱わないのは、割に合わない儲からない上に面倒くさくて危険な商売だからである。アメリカの資本を呼び込んだのは、崩壊の波から抜け切れていないロシアを完全かつ恒久的な影響下に置きつつも、これの早期復興を目指すうえで、暴力的なアメリカ資本の投入は復活の呼び水となり得たからである。そしてなにより、アメリカとロシアという巨大な超大国の間を取り持つ権利の独占こそが、最大の安全保障になり得るからである。両国の足並みさえ揃えば、世界最大最強の経済的・軍事的連帯を実現することも夢幻とは言えない。
ただし、ヴィレイスにそこまでしてやる心づもりはない。彼はその夢現を演出しつつ、国際的な安定を背景としてホテル・モスクワの勢力を隠然たるものとして表裏の両面において不可分にまで浸透させることを見据えているのだ。
そして、この大戦略の一環として、彼は金を使うことにした。
篤志家を装って、彼は世界中にホテル・モスクワやその傘下企業の名義で病院や学校などを建てまくり、教師や医師を育てるための基金を創設し始めたのである。
一連の事業の中で、彼は旧ソ連圏を中心に孤児院を無数に建設することもしていたのだが…その日、彼はその中の一つ、ルーマニアの片田舎に建てられた孤児院の一つを訪れていた。
彼の目的は唯一つ。予てより気掛かりだった、とある『双子』を引き取ることにあった。
「これが偽善だと思うか?」
ブルーグレイのスリーピース、シルクのシャツ、磨き抜かれた革靴、ネクタイは焦げ茶色の落ち着いたもの。パリッとしたスーツと革靴の一揃いを仕立てたのは例のごとくバラライカだった。
この日、孤児院に訪れたのは護衛を除くとヴィレイスとバラライカそれから新たに加わったロベルタの三人だけだった。施設の人間に先導されて、三人は進んだ。
辿り着いた先には二人部屋があり、『双子』はその中にいた。
「お姉さんたち、だぁれ?」
来客のことを知らされていたのだろう。二人はそれぞれのベッドに腰かけて待っていた。ノックの後、「はーい」という間延びした返答の後でドアが開いて、幼い声で迎えてくれた。
「この二人はお姉さんだけど、俺はおじさんだよ」
ヴィレイスが言うと、双子は目をぱちくりさせた。興味の色が瞳に浮かんだのがわかった。
「え?おじさんなの?こんなに綺麗なのに」
髪の短い男の子の方がそう言った。この時のヴィレイスは髪がすっかり伸びていた。ポニーテールに結われているせいで、猶のこと女性的に見えた。
ヴィレイスはにっこり笑って答えた。
「ああ、おじさんだよ。こう見えてもね…今日は、少しお話があってお邪魔させて貰ったんだ。おじさんのお話を聞いてくれるかな?」
膝を折って視線の高さを合わせてから、まずは男の子の目を見て、次に髪の長い女の子の目を見て、彼はそう言った。
双子は顔を息ぴったりに見合わせて、それから頷きあった。
「うん。いいよ。ね?姉様」
「そうね、兄様。どんなお話なのかしら」
二人が少し前のめりになってくれたのを見てから、ヴィレイスは口を開いた。
「実は…俺と、そこにいるお姉さん達はね、君たちのことを自分たちの子供として育てたいと思っているんだ」
背後でロベルタが身動ぎするのが分かった。初耳だった。
対して、バラライカは平然としていて、事前に聞いていたのか、或いは彼の突拍子のない行動に慣れているかのどちらかだと思われた。
「あの、それって…おじさんとお姉さんが、僕たちのお父さんとお母さんになるって、こと?」
男の子に尋ねられると、ヴィレイスははっきりと頷いた。このとき、男の子のお父さんとお母さんと言う口ぶりが、何となくぎこちないことを彼は聞き逃さなかった。
「うん。そうなるね。難しいなら無理にお父さんやお母さんと呼ばなくてもいい。俺はヴィレイスって言うんだ。ヴィリーって呼んでくれていい。あっちの金髪のお姉さんはバラライカで、隣の黒い髪の眼鏡のお姉さんがロベルタだ」
「ヴィリーさんと、バラライカさんと、ロベルタさんね、わかったわ」
女の子が納得したように頷くと、男の子も頷いた。
「今日、いますぐに決めなくても大丈夫だ。また明日も、明後日もお話をしにここへ来るから。よく考えて、気持ちが固まったらお返事をくれるかな?」
ヴィレイスが問うと、二人は顔を見合わせて頷いた。
「わかりました、ヴィリーさん」
「ヴィリーでいいよ」
ヴィレイスが言うと、双子は恐る恐る言葉を紡いだ。
「「…ヴィリー?」」
「そうだ、よくできました」
ヴィレイスの顔が綻んで、それを見た双子の雰囲気もさっきよりずっと柔らかくなっていた。
「二人ともこっちにおいで、お姉さんともお話してくれるかい?俺が言葉を伝えるから」
「うん、いいよ」
「私もよ」
ヴィレイスは自然に二人の手を取っていた。体を双子に近づけると、怯えられていないことを確かめながら、その小さな手を温めるように包み込んだ。
「バラライカ、ロベルタ、さぁ、こっちへ。俺が通訳をしよう」
そうして、バラライカとロベルタを双子の近くまで招き寄せた。ロベルタは恐る恐る、バラライカは自然体で笑みまで浮かべて。二人とも双子と視線を通わせるように膝をついて、それからヴィレイスを介しつつ、何気のない言葉を双子と交わした。
ヴィレイスを通じて、それぞれの母語で余すところなく意思を伝え合う内に、双子と二人の緊張は相互にほぐれていった。そうなると、好奇心旺盛な子供の質問が矢継ぎ早に放たれるようになった。
「ねえ、バラライカさんのお顔にあるそれは、生まれつきなの?痛くないの?」
「ロベルタさんはどうしてメイドさんの格好をしているのかしら?」
「二人はヴィリーの奥さんなの?二人ともそうなのかな?じゃあ、二人ともお母さんになるの?」
「ヴィリーはどうしてそんなに髪を長くしているの?男の人なのに…綺麗だからかな?」
それぞれの質問に、ヴィレイスは懇切丁寧に答えていった。
「バラライカは昔、酷い怪我を負ってしまってね。今は大分よくなったけど、まだ時々痛むようだよ。肌が突っ張ると痒くもなるからね」
「ロベルタは本当のメイドさんだからだよ。お仕事でメイドさんをしているんだ。だから、これは仕事着なんだ」
「う~ん…結婚はしてないから、奥さん、ではないかな?これは少し複雑な話だけど…でも、二人とも君たちのお母さんになってくれるよ。それだけは言える」
「俺の髪が長いのは…えっと、バラライカが切るなって言うから、かな。昔はずっと短かったから、今は逆に長くしてるっていうのもあるかも」
ヴィレイスは淀みなく二人と双子の言葉と言葉の間の架け橋となった。
「あれ、もうこんな時間か…」
ふと部屋の壁に掛けられた時計を見ると、いつのまにか時間は過ぎて、そろそろ帰る時間だった。
「俺たちは、そろそろ帰らなきゃだな…また明日、来てもいいかな?」
ヴィレイスが問うと、双子は頷いた。だが、この時初めて不服そうな表情を見せて、女の子が言葉に迷うのが見て取れた。その意を汲んだように、男の子が言った。
「…ねぇ、ヴィリー」
「ん?なんだい?」
ヴィレイスが首を傾げると、男の子が申し訳なさそうに言った。
「お話が楽しくて、僕たち、自分の名前を名乗るのをすっかり忘れてたよ」
「あ、ああ、確かに、そういえば聞いてなかったね」
男の子の言葉に、ヴィレイスはまたもや自分が間違いを犯していたことに気付いた。
「ごめんね、これは俺が悪かったよ。今からでも、二人の名前を教えてもらえるかな?」
動揺を見せたのも束の間、彼は双子をそれぞれ、真っ直ぐに見つめ直すと、その名前を尋ねた。
ヴィレイスの言葉に、双子はイタズラが成功したみたいに無邪気な笑みをこぼして、チロりと舌を出して笑った。
「ふふ…ふふふ、ヴィリー、大丈夫よ。そんなに謝らなくたって」
「そうだよ、だって僕たちも、自分の本当の名前は知らないんだから」
コロコロと笑う二人に対して、ヴィレイスをはじめ大人たちは言葉が出なかった。だが、ヴィレイスは一番に持ち直すと、今度は穏やかに微笑みを浮かべながらも、芯の通った真剣な声で問うた。
「…じゃあ、みんなからは、何て呼ばれているのか、教えて欲しいな」
ヴィレイスが問うと、双子は少し考えた後、頷いた。
「僕がヘンゼルで」「私がグレーテル」
「ずっと一緒にいるし、お人形さんみたいだって」「だから、みんなからはそう呼ばれてるんだ」
二人の顔に憂いは無かった。ただ、平然としていて、当たり前のことを話している声音だった。
それを聞いて、ヴィレイスは掌で目元をグッと拭って、それから優しい顔で言った。
「そうか、二人はその名前を気に入っているのかな?」
問われて、双子は顔を見合わせた。
「考えたこともなかったよ」「だって、人から呼ばれるものが名前でしょう?」
「僕は、嫌いじゃないよ」「ええ、私も。全然、嫌じゃないのよ?」
それが二人の答えだった。キョトンとした顔が愛らしい。
そっか、そっか。
ヴィレイスは何度も頷いて、それから二人にこう尋ねた。
「俺たちは、今日はもう帰るけど…最後に、頭を撫でてもいいかな?」
双子は勢いよく頷いた。
「うん!もちろんいいよ!」
と、ヘンゼルが言い。
「先生以外に撫でてもらうのなんて、初めてだわ!」
そう、グレーテルが言った。
「それじゃあ、いくよ?…今日はありがとう。また明日ね、ヘンゼル、グレーテル」
ヴィレイスは噛み締めるように、ゆっくりと左右の手で双子の頭を撫でた。想像の何倍も優しい手つきで撫でられて、途中から、双子はそわそわと落ち着きがなかった。
「さあ、お姉さんたちも二人に今日のお別れを言おうか」
ヴィレイスに促されて、ロベルタとバラライカも前に出て二人の頭を撫でた。
「ええ、そうね。ヘンゼル、グレーテル、今日はありがとう。また明日、お話ししましょうね」
「うん。バラライカさんも、また明日ね?」
「今日は私たちも楽しかったわ。また明日、約束よ?」
バラライカの手つきは妙に手馴れているようにも見えた。危なげなく、子供の小さな頭を慈しむ姿は、堂に入り絵になった。
「次は私の番ですか…えっと、ヘンゼルとグレーテル…今日はお話に付き合ってくださってありがとうございました。疲れたでしょう?ゆっくり休んでくださいね?」
ロベルタは案の定、不器用な手つきだった。双子のプラチナブロンドの髪があっという間にぐしゃぐしゃになるが、当の双子は困り顔を浮かべつつも楽しそうに笑っていた。
「わ、わわ、ロベルタさん、っちょ、力が強いよ~」
「はわわ…これは失礼いたしました」
「うふふ、そうそう、今度はちょうどいいみたい」
ヘンゼルに指摘されて咄嗟に力を抜いたり色々試していると、グレーテルが丁度いい具合になったと教えてくれた。ロベルタの顔はわかりやすく、困惑、羞恥、反省、安堵…と移り変わって双子を楽しませていたようだ。
双子との別れの挨拶を済ませると、ヴィレイス達は孤児院を後にした。車に乗り込んで、ふと後ろを振り返ると、双子が先生に付き添われて出入口まで見送りに来てくれていた。
「また明日」
届くかは別として、そんな言葉が漏れていた。
手を振れば、双子は揃って手を振り返してくれる。豆粒よりも小さな影になるまで、口裏を合わせるでもなしに、彼らは互いに手を振り続けていた。
もう何も見えなくなってしまってから。
正面を向いて、息を整えてから左右に視線を配ると、物言いたげな視線とかち合った。ロベルタとバラライカから注がれる視線をしばらく受け止め続けると、ヴィレイスは瞼を閉じて、喉を鳴らすと、ゆっくりと目を開いた。
「これが偽善だと思うか?」
二人は頷くこともできない様子で、ただ、「なぜ?」を顔に張り付けていた。
ヴィレイスは頬を掻いた。そして、フッと笑みを零して、両脇の二人の女の手を、それぞれの手で包み込んだ。
「いいか?勘違いするなよ?こんなものは、善なんかじゃないぞ?善なんかじゃないんだから、そこに偽りもクソもない」
ヴィレイスは唇を舌で湿らせると、バラライカの方を見て言った。
「ソーフィヤ、あの双子はな、君にとっての難民キャンプの少年では『ない』んだ」
そして、今度はロベルタの方を見て言う。
「それとロベルタ、あの双子はな、君にとっての革命の大義でも『ない』んだ」
彼は正面を向いて、二人に、或いは自分自身に語り掛けるように言葉を紡いだ。
「俺はな…赦しが欲しくてこんなことをしているわけでもなければ、正しいことがしたいわけでもないんだ」
「どうしてあの子たちなのか?そんなの、俺が気に入ったからだ。これ以上に理由なんて必要なのか?俺の目に留まったのが、偶々、彼らだったんだよ」
「今日、話してみて、よぉーく分かったよ。やっぱり、俺は何も知らないんだ。そして、全部を知らなくてもいいってことも」
「俺は自分が罪を背負っているとは思ってない。ただ、俺を殺したいと思ってる人間が沢山いることは知ってる。そんでもって、それは俺がどれだけ世のため人のために何かしたところで、増えたり減ったりするもんじゃないことも、俺は理解してる。一人を殺して、その後で別の一人を生かしても、死んだ一人が生き返るわけじゃないんだ」
「だから、生かすも殺すも、全く別のこととして、どっちも受け止めるしかないんだ。受け止めて、その上で…俺は幸せになるよ」
「今でさえ、幸せなんだ。健康に暮らしてるよ。ご飯も好きなものを腹一杯食べれるし、毎日ぐっすり眠れるし、いつでも体を清潔にできるし、おまけに手の届くところに君たちがいてくれる…これ以上に、一体何を求めるんだ?」
「ああ、そうさ、まだ足りないね。こうなったら可愛い子供も欲しくなるし、気が向いたらイイことだってしたくなるものさ。気ままに、気まぐれに生きられるってのは、幸せなことだよ」
「だから、それをいっぺんに叶えることにした。俺がしたいからするんだ。俺は偉いし、金も持ってる。どうにかできる範疇さ。なにも、全員を抱え込むわけじゃない。ただ…あの双子だけはどうしても、うん…そうだな、欲しいんだよ。どうしても欲しいんだ」
「あの子達には、幸せになってもらわないと困るんだ。俺の為に、幸せになって欲しいんだ。だから全部、全部俺の為にやるんだ」
「…どうだ?納得したか?」
そこまで訥々と話したヴィレイスは、いつにも増して穏やかな笑みを浮かべた。満足げな表情である。逃げてもいいよ、と。そう言われているような気がして、バラライカとロベルタは同じように胸を衝かれたような痞えを覚えた。言葉が出てこなかった。悔しさも、悲しみも、失望も抱くことなどなくて、ただ無性に目の前の男が、目を離した隙にどこか遠くへと飛んで行ってしまわないかと気が気ではなかった。
共に過ごしてきた月日の長いバラライカは無論のこと、日の浅いロベルタにも、目の前の男が自分たちとは違う視座で世界を見ていることは理解できた。否、理解せざるを得なかった。そういう彼が持つ奇特さに、良くも悪くも引っ張られてここまで生きてきたのだし。そんな彼だったからこそ、その手を取って生き永らえてしまったのだから。
彼はすべてを飲み込んで、その上でこの場に踏み留まることを選んでいるのだ。すべてを吞み込んで、その上で幸せにもなってやると。幸せを守り通してやると。或いは、壊れるまで。
彼の言葉を噛み締めると、まるで何時の日にか壊されるために幸せになろうとしているような、殊勝さが滲むのだ。
例え、彼の意識の範疇にそんな考えがなかったとしても、彼は滅びの日が訪れたならば、この穏やかな微笑みを浮かべたまま、それを従容として受け入れることだろう。言うまでもなく、抗い尽くした上で。
徴兵を受けて、誰に頼まれるでもなく人を殺してしまった。相手は死んで、引き換えに自分が生き残った。彼はその話を滅多なことでは話さないし、話したとしてもそこに憂いを滲ませることはない。
彼はただ、淡々としていて、だから、自分にそのときが訪れても淡々と受け入れてしまうことだろう。やるべきこと、できることのすべてをやり尽くしてから。
彼は敵に憎しみを抱くから殺すわけでもないし、利益を追求するためにビジネスで殺しを請け負うこともない。だが、必要になれば自ら手を掛けてきた。
彼は自分が殺した人間の顔を覚えていないと言う一方で、人を殺した数で人間の幸不幸が決まるわけではないが、人を殺すと人間は必ず変化を経験すると言う。
戦争の影響を受けない者は存在しない、とも言い。戦争は金の無駄、人の無駄、物の無駄でしかなく、だからこそ戦争を起こすにあたって正当な理由は存在しないとも断言する。
彼はこうも言う。戦争により獲得される利潤を最大化したところで、戦争による損失を補填することは不可能であると。どれだけの利潤を獲得したところで、喪失したものが戻ってくるわけではない。勝利したところで、死者が生き返るわけでも、破壊された建物が瞬時に再構築されるわけでもないのだ、と。
それは、技術革新による進歩を差っ引いても、圧倒的に赤字である。人材の赤字であり、物質の赤字であり、金銭の赤字であり、心身の赤字であり、時間の赤字である。
であればこそ、ホテル・モスクワは戦争をしない。一方的な懲罰や混乱を与える場合にのみ、武力を用いてきたのはその為だ。戦争になど付き合ってられない。我々は軍隊ごっこをするために、わざわざマフィアになったわけではないのだ。
彼は正気ではないかもしれない。どこか壊れていたとしても不思議ではない。
だが、愚かではないし、また嘘吐きでもなかった。
その証拠に、彼は有言実行して大隊の部下たちを食わせ続けている。彼は麻薬ビジネスに関与している時でさえも、部下たちの軍人としての矜持を傷つけるような振る舞いをすることは決してなかった。大隊の出身者を売人として使うことはなく、会計役や集金係として使うこともなかった。終始、戦士としてのみ遇してきたのだ。
ロベルタにしてみても、彼は彼女を裏切らなかった。少なくとも、彼女に荒事での才能を求めることはしなかった。それを自ら発揮することは止めないが、命じて誰かを殺させるようなことは、そういう仕事があるとしても素振りすら見せないのだ。破壊工作にしても同じだった。ただ、彼女が牙を研ぐことを止めはしないだけだ。
先日は、遂に麻薬ビジネスそのものから完全に撤退してしまった。これで、ロベルタが彼の元を去る理由がまた一つ減ってしまった。いや、どんな理由があったとしても、今の彼女が彼の元を去ることはあり得ないだろうが…。
長々と話したが…結局は、バラライカにしてもロベルタにしても、そんなことは今更なのだ。わかっているのだ。知っているのだ。彼が思っているよりも、ずっとずっと。彼女たちは覚悟を決めるまでもなく、彼にすべてを懸けている。都合が悪くなるわけもない。嫌いになれる程度の浅瀬には、既に居ない。もっと深い深い場所にまで、沈んでしまっているのだ。もう取り返しがつかないほどに。
だから…
「ねえ、そんなに恥ずかしがらなくたっていいんじゃない?そもそも、そんなに照れるのなら、何も言わずに黙ってついて来いって、そう何時もみたいに言えばいいだけだったのに…ねえ?ロベルタ、貴女もそう思わない?」
「同感です。ご主人様にしては珍しいことですが…少し力みすぎでは?もっと肩の力を抜かれてはいかがでしょうか。少し、セリフが気障に過ぎるように思われます…」
だから、二人は心の底から「今更、何を言っているんだこの人は」という表情を浮かべた。優しい優しい呆れ顔を向けられて、ヴィレイスは顔を真っ赤にした。
らしくない。らしくないな。
そんなぼやきを漏らそうとして、喉が絞られて「くぅ~…」という羞恥の鳴き声しか聞こえてこないくらいには。今の彼はらしくなかった。
「貴方、そういう湿っぽいのも、明け透け過ぎるのも、露悪的なのもダメダメでしょ?大の苦手なのに…こういう日に限って、親心でも芽生えたのかしら?気が早すぎるんじゃない?」
「ご主人様、私もバラライカ様と同じ意見です。まだあの双子から承諾を得ていませんのに、気持ちが前のめり過ぎですわ」
「くぅ~~ぅ、うぅ、わ、わかった!もう、もうたくさんだ!俺が悪かった!」
バラライカとロベルタは本当に心配したように語るものだから、ヴィレイスは白旗を上げた。
しかし、彼女たちの口撃は止まらない。
「悪いって何のことかしら?貴方は何も悪くないわ。貴方が善悪のどちらかに割り切れるだなんて考えたこともなかったのに、私は貴方にとって、そんなに残念な女なのかしら?」
「嗚呼…ロベルタは悲しゅうございます。ご主人様は確かに私のことを『頭でっかちの馬鹿女』とお呼びになられましたが、尻軽だとまではお呼びにならなかったはず…ですのに、この程度の理由で私が貴方様を見限るなどと…見縊られたものです」
「あらあら…貴方、ロベルタにそんな殺し文句を使ったのね?はぁ…羨ましい、私にはそんなセリフは一度だって言ってくれたこともないのに」
「あ、あわわわ…わかった、わかったわかった…もう降参だっ!二度と言わん!二度と言わんから!だからもう勘弁してくれぇッ!」
居住性の高い快適な高級車の中だとしても、車の広さである。限度と言うものがあった。両脇からの圧に、ヴィレイスは情けない声を上げた。それは非常に珍しい光景で、バラライカとロベルタは内心で満面の笑みを浮かべつつ、顔には悲し気な表情を張り付けた。
「はぁ…貴方はあの双子にご執心なのね。もう私のことはいらないのだわ…」
「ご主人様、私は暇を出されるくらいなら、自害して果てますので、私に暇を出される場合はどうかそのおつもりで…」
「はい…」
ヴィレイスは何度も何度も頷いた。
それを見てようやく溜飲が下がったのか、バラライカとロベルタは一転して優しい笑みを浮かべた。バラライカの顔にはあの自然な笑みが宿り、ロベルタも甘さを帯びた女の表情をしていた。
「それじゃあ、はい。これでおしまい。難しい話も、複雑な話も…考えて答えが出ないことくらい、敏い貴方なら理解してるはずよ?悩まないで、前へ進むのよ。いつだって、そうしてきた。そうでしょう?私も貴方も、まだ生きている。本能を優先して、理性は温存するの。上官なんて居ないわ。でも、貴方は一人じゃない。今は私も、ロベルタも一緒なのよ?一緒に迷うし、一緒に転げ落ちてあげる。堕ちた先でまた最初から始めればいいのよ。ただ、それだけのこと…だから、もうこの話はおしまい」
「私は…ご主人様曰く『頭でっかちの馬鹿女』ですので、この身も心もすべてをご主人様に捧げる以外には、今は難しいことを考え過ぎないように心掛けております…私には最早、自分を責め苛む権利も、罪の赦しを希う権利もありません。そんなものは、今の私にはもう必要ないのです。貴方が私に『生き』の仕方を教えてくれたから…だから、この身の全てを貴方様に捧げましょう、この傲慢さまでも含めて」
両耳に流し込まれた甘い囁きで、ヴィレイスの顔に生気が戻った。傍目にも分かるほどに、彼の表情に、『彼』が戻るのがはっきりと見て取れた。
その顔に漲るのは、ソーフィヤとロザリタのよく知る男の息吹だ。倜儻不羈、泰然自若、豪放磊落の彼の人の真性が、その相貌から滲み出して疑うことを許さない。
彼は座席に深く沈みこんだ。溶けた猫のように、ぐったりとしているが、その顔は先ほどとも異なる、満足げな表情が浮かんでいた。
「やっぱり俺は悪い奴だ。でも、君達も大概…悪い女だな」
ヴィレイスが喉を鳴らして笑いながら言った。快活な笑みと、そぐわない切れ味の言葉が、妙な味わい深さを醸し出していた。それが可笑しかった。
「うふふ…あはははは…ねえ、貴方、今更気づいたの?遅くなぁい?」
バラライカが笑って言った。
「ご主人様、そうですよ、そうなのです。私たちは怖くて悪い女なのですよ。ですが…そんな女ばかりを好んでいるのは、一体何処の何方でしょうか?」
ロベルタが言葉とは裏腹に、明るく、楽しそうに言った。
ヴィレイスは堪らず噴き出した。
「ぶふッ!ふふ…あっはっはっはっ!そうだね!確かにその通りだ!俺だよ!俺だ!でも…だって、仕方ないだろう?好きなんだからさ!」
ヴィレイスがそう言って笑うと、バラライカとロベルタがぐっと彼に身を寄せた。耳たぶに唇が触れてこそばゆい。
「わかったのなら好いの。いつも言ってるでしょう?貴方はそれでいいのよ」
「私も…ロベルタもそのように思います。貴方は…狂ったままでいてください。私が可愛く思えるくらいに、そのままずっと…」
耳に舌が這いまわる。舐りつくされる勢いで誘惑されると、ヴィレイスは却って冷静になった。
深く息を吸って、吐いた。瞼をじっくりと時間をかけて閉じて、持ち上げる。両掌を左右の獰猛な雌豹の首元に滑り込ませて、宥める様に摩った。触れるか触れないかの距離で、掌の温度だけが伝わるような、穏やかな刺激だけを与えると、彼女たちの動きもそれに合わせて緩慢になっていった。
「ここではありえんから。直ぐに着くから、ほら、今はこれだけ」
落ち着いた二人が身を僅かに離したのを見計らい、彼はそう言い終わるや否や、バラライカとロベルタの頬にそれぞれ口づけた。唇が触れるくらいの、本当にあっさりとしたそれに、二人はしかしすっかり毒気を抜かれてしまった。一人、照れた顔の彼が、座席に座りなおして、正面をじっと見つめた姿勢で固まっていた。
上がった口角と、その真っ赤な耳を見ると、二人は彼を責める気にもならなかった。全く慣れる気配のない男の姿に、惚れた弱みか胸が苦しくて仕方なかった。華奢な双肩に全てを載せている割には、こういうところだけは頼りない。だが、それが好い。少なくとも二人にとって、彼のその性分は、ただただ愛おしかった。
興を削がれて、空気まで壊されたというのに、彼女たちに萎えた様子は皆無だ。ただ健気にも、二人は座りなおして前を向く。彼の肩に頭を預けたり、横目で見たりもしてみるが…それだけだ。
二人は静かに、一人の男の弱さを尊重することにして。
今はただ、彼の手を握っていよう。
そんな、聞こえない合言葉が交わされたような気がした。
一週間後、ヴィレイスの一行はルーマニアを発った。
行きは三人だったヴィレイスの一行には、小さな影が二人分増えていた。
それがヘンゼルとグレーテルの分だということは言うまでもない。
延長されて一週間余り、ヴィレイスらと交流を深めた双子は、彼らに付いていくことを決めたのだ。
二人は正式にヴィレイスとバラライカの養子として迎え入れられ、新しい家族と共に暮らす為に、モスクワに建てられた新居へと移った。
ロアナプラでの仕事を一時的に同輩の幕僚に委任したバラライカと、ヴィレイス在るところに共に在るロベルタと、それからヴィレイスが双子と共に暮し初めて間もなくのこと、双子がバラライカのことを『お母さん』と呼んだのである。これにバラライカは激しい反応を見せなかったものの、一日中ご機嫌なことを隠さなかったそうな。
子供を育てるにあたって、教育方針をどうするかという議論があったが、結局はヴィレイスのいつもの行き当たりばったりに対応するが採用された。
白熱した議論の末に、共通理解として辿り着いたのは『ただ、伸び伸びと育ってくれればいい』という、どこまでも月並みな答えだった。
バラライカは最初にお母さんと呼ばれたのは自分なのに、何故か双子からの懐かれ具合が凄いヴィレイスと、ヴィレイスに甘やかされる双子、その両方に嫉妬を覚えて仕方がない様子。
対してロベルタは、ヴィレイスにしか興味が無い様に見せて、人並みに子供を大事にできる感性が生き残っていたことを周囲に驚かれていた。心外だ、と思うのも無理からぬことである。
そして、ヴィレイスはと言えば、何故か双子に懐かれまくっていた。だが、それも無理はない。恐らく最も一般的な家庭の愛情を注がれて育てられた経験があるのは、この中では前世に日本の一般家庭で育ったヴィレイス唯一人である。人間は与えられたものしか他者に与えることはできない、という言葉通りに。ヴィレイスにしか、普通の愛情を双子に注ぐことが出来る者はいなかった。彼以外の振る舞いでは、どこかしらで行きすぎたり、足りなさ過ぎたりしてしまうのだ。その点、彼の前世の平凡さが、双子にとって何よりも必要なものを、物質と精神の両面において満たす上で最後の条件として不可欠だったのだ。
変にブランド服を着せるわけでもなく、見栄を張ることを覚えさせず、自然体で人と接することができるように、双子の無垢さを殺さずに、かといってそのナイーブに殺されないように。ヴィレイスは双子に自分なりの愛情を注いだ。年月は浅く、まだまだこれからだった。それでも、孤児として育ち、少なくとも前世のヴィレイスよりは逞しく、また敏感に人の表情や視線の意味を読み解く力に長けた双子には、彼の剥き出しの感情が偽りのないものであることなど、察するに余りあるようで。
意地でも『お父さん』とは呼んで貰えないものの、愛情たっぷりの声で『ヴィリー』と呼んでくれることに、彼は深い安堵と満足を覚えずにはいられなかった。
利口にならなければ生き残れなかった。そんな悲哀がどこかに滲むこの双子を、ヴィリー達は生涯見守り続けるのだ。