その日の朝も、私は真っ暗な部屋の中で目覚めました。
夜間は防弾シャッターを締め切っておりますので、一日の始まりにする仕事は、このシャッターを上げるスイッチを押すことになりますね。
とはいえ、いきなり起き上がって動き出せる訳ではありません。それよりも先に、まず最初に確認するべきことがあるのです。
自分の腹部にしっかりと回されている腕から抜け出さないことには、体勢を変えることも出来ませんから。
肌と肌が直接、長い時間触れ合っているせいで、お互いの体温が溶け合っていて、いつの間にか違和感というものがいなくなってしまっているのです。よくあることで、思わず何も考えずに起き上がり、その度にご主人様のことまで起こしてしまいます。
そんなことで腹を立てる方ではありませんが、気持ちよさそうに眠っている所を、私の不注意で起こしてしまうのは忍びないのです。
ですから、こうしてそろりそろりと息を殺して、ご主人様の腕を慎重に私の体から引き離します。
体から離した腕を、優しくベッドの上に下ろします。すると、何かを捜すようにご主人様の手先が動くので、私はなんだか申し訳なく思ってしまうのですが…ここは我慢です。
出来るだけ静かに体をベッドから下ろし、地に足をつけると、隣接するシャワールームに入り、手早く体を洗った後で、仕事着でもあるメイド服に着替えます。お化粧はまるで慣れないのですが、バラライカ様に勧められて保湿とリップだけは欠かしません。鏡を見て最終確認をば…相変わらず愛想の足りない顔ですが、ご主人様はそれが「そそる」そうなので差し支えありません。
さて…これで何時ものメイド一匹が完成しました。
仕度が整いましたら、ようやく防弾シャッターを上げるスイッチを押します。シャッターが完全に上がり切ると、閉め切られたカーテンの隙間から僅かにですが朝日の光が漏れ出してきます。でも、まだです。私が朝だな、と思う瞬間はもう少し先なのです。
僅かな光が注がれて、空気中の微細な塵まで照らされると、照らし出された塵の浮遊する動きを、僅かな間ぼんやりと追いかけます。静かな時間ですが、意識して耳を澄ませると、穏やかな寝息が耳に届きます。その音を追い、光を受けて淡く白んだ薄暗い室内で目を凝らすと、まだ眠ったままのご主人様の寝顔が見れるのです。
夜目は利く方ですが、それでもここまで無防備な御顔が観察できるのはこの時間だけですので、朝を共に迎えられた人の特権でしょう。以前は週に二度は必ず、今でも週に一度は必ず見れるのですから、これ以上は望むべくもありません。
最近は双子ちゃんとも交代で一緒に寝ておりますので、必然的にご主人様と二人きりの時間は減りましたが、特に不満はありません。むしろ、ご主人様が親として立派に努めておられることを誇らしく感じます。
以前、朝起こしに寝室にお邪魔した際は、バラライカ様とご主人様が双子ちゃんを挟んで眠っておられました。私も同じことをしたいと、さり気なく伝えて、その日のうちに叶えていただいた事は、今の暮らしの中で与えられた素敵な思い出の一つです。
…少し、静かな時間に意識を委ねておりました。いけないいけない。そろそろ、ご主人様を起こしましょう。
私は閉め切られていたカーテンを端から順に開けていきます。朝の光が眩しく、少し慣らしていたというのに、目に痛いほどに明るく感じます。これもいつもの事。ここまで何も考えずに熟してしまう日も増えてきて、それが寂しくもあり、嬉しくもあります。
「さぁ、ご主人様、起きてください。朝ですよ」
振り返ると、眩しさで目を強く瞑る貴方の姿が見えるのです。いつも通りなのに、今日の私は特別一つ一つにしみじみと感じ入ってしまいます。それもそのはずで…
「ご主人様…今日はお子様たちがこのお家に来て、初めてのお誕生日ですよ?さ、起きてください」
あの日、双子ちゃんをお家にお迎えした日から数えて、気づけばこの日でちょうど一年が経過しておりました。
お誕生日が分からないと言う二人の話を聞いて、私達で相談して家族になった日を誕生日にしようと決めたのです。あれから、あっという間に時間が経ち、最初のお誕生日が来たと言う訳です。
誰も子供を育てた経験などありませんでしたし、子育てにも一概に正解と言えるものなどありません。ですので、ご主人様もバラライカ様も私も、双子ちゃん達を一人の人間として尊重した上で、自分達の子供として接してきました。
既に物心も分別もある程度ついている状態から、子育てに途中参加することが出来たのは、幸か不幸か…わかりません。
ですが…何であれ、健康で幸せに生きていてくれれば、それ以上は望むべくもないでしょう。これは私達の総意です。多くを求めたり、多くを求められたりして、壊れてしまった私達だから、そこだけは読み違えたくなかった。
「…おはよう、ロベルタ」
「おはようございます。ご主人様」
「……」
「……?私の顔に、何か?」
朝の挨拶の後で、不思議な沈黙。シーツに体をすっぽり収めたまま、ぼんやりと私の顔を見詰められるご主人様に、私は問いかけました。
すると貴方ときたら…
「…みたいだ」
「…はい?今、なんと?」
聞き返すと、貴方は私の顔をまじまじと見詰めながら、まるで初めて見たような口ぶりでこう言いました。
「女神様みたいだ…」
まぁ!
「まぁ!…あ、あの、ご主人様?」
「すごい、なんて綺麗なんだろう…」
この人はほんっとに!なんでっ、なんで、そう言う事ばっかり言うのかしら!
「あ、あの…ご主人様?お気を確かに…」
私が熱を測る為に額に手で触れると、ようやく夢でも何でもない事に気づかれたのか、貴方は目をパチクリと瞬かせました。どうやら、夢の中だと思い込んでいたご様子。これもいつもの事です。
「え?あぁ、うん…ごめん」
「いえ…よろしいの、ですよ?その、私は、嬉しいだけですので…」
はぁ…。
こう言う時に、ビシッと言うべきなのですが…やはり、私には出来そうにありませんね。
貴方は体を起こして、のっそりとベッドから降りようとします。
「うん…起きるよ」
ベッドの淵に腰掛けて、気怠そうにしているので、私は先を促すように、今度はキッパリと申し上げます。
「はい、おはようございます。まずはシャワーを浴びてきてくださいね。それから、お着替えをお手伝いさせて下さい」
「いや、着替えも自分で出来るよ…」
貴方はそう仰います。知っておりますとも。ですが、ダメです。
「ダメです。私がお手伝いしたいので。それと、バラライカ様から予めこちらの服を着せるようにと言いつけられておりますので」
私はそう言い、クローゼットを開いて、ハンガーに吊るされてあるシルクのシャツとブルーグレーのスリーピースを示します。バラライカ様は、双子ちゃんを迎えに行った時の、ご主人様の服装をちゃんと覚えていらっしゃいました。
その一揃いを見て、貴方も納得された様子で頷かれました。
「わかったよ、じゃあ、お願いね」
「畏まりました。委細、このロベルタにお任せ下さい」
ぺこりと一礼すると、私の頭のてっぺん目掛けて、貴方が感嘆の吐息を零すのが分かりました。
「すごい、本物のメイドさんみたいだ…」
そんな言葉まで添えられて…。
それが、なんだかこそばゆくて、今更になってさっきの貴方の褒め言葉が私の胸を締め付けてくるのは、まったくどうにかならないものなのでしょうか。
次に私が顔を上げるまで、いつもよりも余分に時間が必要になった理由が、ニヤけた顔を落ち着かせるのに手間取ったからだというのは秘密です。
「なにもこんなにピチッとしなくても…」
着替えて降りてきた一階の食卓では、既に双子とバラライカが朝食を食べ始めていた。夜ご飯は全員で一緒に食べるが、朝昼は基本的に各自が好きなものを好きな時に食べるスタイルなので、いつもの事ではある。
しかし、格好が少し気張り過ぎである。バラライカはワインレッドのスーツだし、双子の格好もなんだか見覚えのあるハレの日用の洋服である。ロベルタまで、いつにも増してメイド服姿が様になっているように見えた。
「仕方ないわよ、これから写真を撮ってもらうんだから。家族写真を撮りたいって言い出したのは貴方なのよ?」
確かに記念写真を撮りたいとは言ったが、てっきり午後からだと思っていたのだ。撮影スタジオが近くにあればいいな、と溢していたのをバラライカが拾い、スタジオに行くのではなくて人を呼ぶことにしたのだという。
「いや、わかってるよ。でも、朝飯食べる時くらいはパジャマのままでもよかったんじゃないか?こぼしちゃうかもだろ?」
ヴィレイスが席につきながら言うと、バラライカは食後の紅茶にジャムを混ぜながら言った。双子は口一杯にトーストを詰め込んでいて喋れそうにないが、視線はバラライカとヴィレイスに向いていた。
「二人とも子供だけど、そこまで幼くないわよ」
「確かに君の言う通りだけど…なんか、いいなそれ。すっかりお母さんって感じで」
サッパリとした口ぶりが、ヴィレイスの中の母親像に重なったのか、彼は懐かしそうな笑みを浮かべた。温かい目で見られて、バラライカは照れたように口角を上げた。
「そう、かしら?」
「そうだよ。うん…なんか、偶にはいいかも、家の中でこういうちゃんとした格好をするのも」
ヴィレイスが何かを思い出したように、遠くを見つめながら言った。バラライカは咄嗟に彼の肩を指先で払った。
「ん?なに?ゴミでもついてた?」
「えぇ、そんな感じ」
ゴミなんかついてなかったが、お互いにそれはどうでもよかった。何となく浮ついた気持ちが、いつも通りの日常の中に浮かんでいるので、フワフワとして不思議な心地がしたのだ。
「…俺もなんか食べようかな」
ヴィレイスが言うと。
「作ってあげましょうか?」
バラライカが拾った。
「作ってくれるの?君が?」
「そんな大層なものじゃないわ。いつもの朝ごはん」
二人とも、基本的には料理人や部下に用意させるのが当たり前になって久しかった。もともと料理を得意としていた訳でもないし、軍人としてはレーションやらの既製品か、そうでなくても手間も暇も掛けない食事に慣れきっているのだ。
だからこそ、二人の頭の中に同時に浮かんだいつもの朝ごはんは、全く同じ内容だった。元々、料理が出来ないヴィレイスが前世で食べ慣れたものがどうしても食べたくなって、それで作ってみたものだった。米でもパンでもいいし、味噌汁でもスープでもいい。メインは目玉焼きか卵焼きと、お気に入りのウィンナーは二本か三本か、付け合わせの緑の野菜をなんでも少しだけ。全体的に茶色になること請け合いのメニューだった。
俺に作れるのはこれしかない。不名誉除隊された後で始まった新しい共同生活の中で、ヴィレイスはそう言いながらしばしばバラライカと自分の前に、この朝ごはんを出したのだった。
味は素材次第。卵焼きには砂糖を入れて甘めに。目玉焼きなら塩胡椒をたっぷり振りかけて。ウィンナーは焼いただけ。野菜にはマヨネーズかドレッシングに浸す勢いで。米なら白米ご飯。パンなら厚切りのトーストで、スプレッドはお好み。味噌汁にはワカメと豆腐が必ず入っていて欲しい。スープはジャガイモのポタージュかあっさりとしたコンソメがお気に入りだ。
バラライカは必ずパンとスープだったし、ヴィレイスはその日によるが、米と味噌汁の日が多いのだった。
ただ、今日はパンとスープの気分だった。何も言わなければ、そうなるだろう。それがわかっているから、ヴィレイスは黙って「お任せで」とだけ。
一足先に食べ終わったバラライカは、すっと立ち上がるとキッチンの方に向かった。入れ替わりにロベルタがやってきて別の席に座ると、いつもヴィレイスがしているのに倣い、手を合わせてから自分の朝食を食べ始めた。バラライカと話している間に、キッチンの方で用意を済ませていたのだ。
メニューはバターを塗ったトーストと果物のボウルとヨーグルトにミルクだった。実は彼女が家族の中では一番食べるのだが、朝食はあっさりしている。というか彼女もパンである。今日は全員パン食の日みたいだ。
ヴィレイスは、白い手袋を外してからトーストを一口大に千切って食べ始めたロベルタを見てから、食べ終わるやピャッと椅子から降りてキッチンの方に向かった双子の姿を目で追った。
「あれ、ヴィリーも見るの?」
「ヴィリーも、やっぱり気になるわよね?」
「うん。俺も混ぜて。ソーフィヤ、見ててもいいかな?」
双子が興味津々で見つめる先には、上着を脱いで、シャツの上からエプロンを纏い、フライパンとフライ返しを握るバラライカの姿が。なんと非常に貴重な光景であろうか。そりゃ見たくもなる。
「ヴィリー、貴方は初めてじゃないでしょ?」
「あぁ、だけど、いいもんだよ」
「ヘンゼルとグレーテル。貴方たちも、見ててもつまらないわよ?」
バラライカがヴィレイスに、次いで双子を窘めるように言うが、三人は揃って首を横に振った。
「そんなことないよ、お母さん」
「そうよ、兄様の言う通りだわ。こんなに見てて面白いものも、きっとないわ」
「「ヴィリーもそう思うでしょう?」」
尋ねられたヴィリーに視線が集中すると、彼は素直な笑みを浮かべて言った。
「ヘンゼルとグレーテルの言う通りだよ。俺、この光景は何度見ても飽きないもん」
「「ほら!」」
ヴィリーの言葉に「やっぱり」と双子が反応したのを見て、バラライカは心中でもっと料理をする頻度を増やそうかしら、と真剣に考えるのだった。