俺は逃げ切る。俺は逃げ切るぞ。どこまででも走っていく。この世界を泳ぎ切る。駆け抜けて、全てを置き去りにしてでも。抱えられるだけのものを、それだけを抱えて。背負えるだけのもの全てを守り通して。俺は何人にも縛られない。傷つけられるつもりもない。俺は先頭に立ち続ける。他の追随を許す気などない。誰にも並び立たせる気はない。俺は逃げ切って見せる。
逃げ切るか、或いは死か。それだけだ。物事はシンプルに。思考もシンプルに。無駄に重たいものも捨ててしまえ。
逃げられる限りは逃げ続ける。追いつかれる時が来たとしても、俺はタダでは死んでやるものか。引きずり回して後悔させてやるとも。
…。
……。
俺は、日本に行くことにした。世界で一番安全に子育てができる場所は、日本をおいて他にはない。暮らすうえでも、銃の乱射事件が多発するようなアメリカは論外だし、ロシアは場所にも依るが寒すぎる。ロアナプラの仕事は、ソーフィヤだけに任せっきりだったから、他の幕僚に任せて回してみることにした。彼女がいなければ回らないようではいけないから、早めに、試せるときに試すべきことだ。だから、問題はない。ただ、万が一のこともあるから、ボリスに率いらせて信用できる部下を日本にも回させる。専ら、警備保障業務を任せるつもりだ。
第一優先目標は、他でもないヘンゼルとグレーテルの身の安全だ。体だけじゃない。心身の平穏を約束したいのだ。
日本でやりたいことは色々とあるが…一番は子供たちの為だ。そして二番目は、俺の個人的な欲望だ。これは二つあって、一つはロックに会ってみたい。それからもう一つは、鷲峰組をどうにかしたい。この二つが気がかりだ。ロックについては、大きな介入をすることはない。ただ、本当に生で見てみたいというだけだ。だが、二番目の鷲峰組に関しては、大きく変えてしまうかもしれない。それもこれも、鷲峰龍三の決断次第だが…。
俺はアク抜きが得意みたいだから。これを、今回も遺憾なく発揮しようと思う。悪からアクを抜く、なーんてな。兎に角、鷲峰組を鷲峰龍三抜きでも、さり気なく存続させられるように出来れば…これで俺は大満足というわけだ。ネットが隆盛していく中で、ヤクザ者の地場的な関係性の力も衰えていくわけで、海外勢力に圧されて全体的に没落を経験することは必定だろう。だが、これは正直いただけない。ヤクザとて、必要から生まれた組織だ。叶うならば、その本分を思い出してほしいものだ。超法規的な措置を取れて、尚且つ警察ともなぁなぁでやり取りできる、そういう存在は今後貴重になるだろう。法律の融通が利かないことは悪いことだけではないが、日本において、それは常に悪党の側に有利に働くようになってしまっている。
悪党が言うのもなんだが、これは不愉快な話だ。
とはいえ、法律改正の為に動くつもりはない。ただ、警察との連絡通路は鷲峰組を通じて構築しておきたい。より深く言えば公安とも。日本を中国系を筆頭に海外の犯罪組織の根城に変えないためにも、対抗馬として地場のヤクザ者を糾合することは道理だ。反共産主義の砦として、アメリカが独裁政権をアフリカや南米の各地で後押しして成立させたのと同じように。ただ、違うところがあるとすれば、俺はヤクザ者を独裁者に育て上げる気は毛頭ない。彼らのアク抜きに、ちと協力する程度である。その上で、彼らには厳格な秩序を形成して頂こう。半グレやらは社会の癌だ。公権力が介入できない病巣に、利益を度外視して果敢に挑みかかる存在として、ヤクザは自己を再定義する必要がある。
汝、初心を忘れるべからず、である。戦後の混乱期を堪え凌ぐために自然形成された自警団に立ち返る必要があるだろう。誕生の理由がそこにあるのなら、これ以上の仁義も存在しない。寧ろ、これ以外に何を差して仁義を全うすると言えるのだろうか。泰平の江戸期に完成された精神修養的な武士道の論理が、いつの間にか退化してしまい、鎌倉期から戦国末期までに至る実利主義的で粗暴な、裏切りをも正当化する、生存の為の屁理屈として誤って援用されてしまっていることは、蓋し嘆かわしいことだ。
武力を専売として持つ者が泰平の世に居場所を求めようとすると、必ずどこかに歪が生まれる。武士の貧困や内職といった側面は、これを如実に表していると思う。ただ、現代にはこの歪を最小化することを可能とするだけの豊かさや余裕も備わっているはずで、適切に遣り繰りすれば、必ずしも一方的な疎外の構造を生まずに済むのではなかろうか。加えて、これはいかなる時代も場所も問わないことだが、馬鹿に合わせると基準はどこまでも下がっていくので、これは断固として戒めるべきである。
『困っている人』は助けるべきだ。しかし、『困った人』の為に、公共の福祉を犠牲にすることだけはあってはならない。これは海外からの移民問題にも当てはまる。
この点で言えば、他はともかく、鷲峰雪緒は間違いなく『困っている人』だろう。生まれてしまったものは仕方がない。ましてや、そこがヤクザのお家だったのは、何も彼女の選択によるものではないのだから。そこで生まれてしまったことも、そこで育てられたことも、彼女の過失とは言えない。無論、継続的に受益者の立場に置かれ続けてきたのだから、被害者とも言い切れない。非常に苦しい立場である。能天気に境遇から利益だけを享受できれば、また違ったのかもしれないが、少なくとも彼女の環境は比較的正常なものであったようだし、その点が却って彼女のことを苦しめることになるとは、当事者にしてみれば思わぬことであっただろう。
立派な娘に育てたら、家業への懐疑の念から懊悩を得てしまうなど…教育としては成功したが、当人を終生苛むに足る種を植え付けることにもなったのだから笑えない。この悩みに、適切な答えは存在しない。必ずどこかで角が立つ。ここで、角を立てることを踏まえて尚、生きるために一歩踏み出すことができたのならば、これは真の意味で生きる為の実行力を伴った子育てが成功した、と言えるだろう。だが、彼女はそうではなかったし、そうではない彼女の弱さを否定することは、それこそ誰にも許されないことだ。
理想を言えば、いかなる境遇にあれど、人が抱える弱さを捨てずとも、弱さを抱えたまま生きていける環境を整えるべきである。だが、これは今のところ現実的とは呼べないが為に、代替案として鷲峰組のアク抜きをしようと言うのだ。
こんなことは、利潤の追求からかけ離れた行為であると自覚している。だが、それがどうしたというのか。利潤の追求は生存の為の手段であって、それそのものは目的などではない。だのに、いつの間にか手段と目的を履き違えた者どもが跳梁跋扈するようになり、今やディストピア化しつつあるのが現実だ。であればこそ、利潤の追求からは逸脱した目的の為に、蓄積された資本を投入することには意味がある。無理をおしてでも、あくまで人の義を貫くのが仁義だろう。
なら、その言葉通りに、俺は俺の仁義を通そう。世界を丸ごと楽園に変えることはできないし、世界を丸ごと救うこともできない。だが、俺は俺の世界だけは変えられる。俺の見ている範囲、俺の見える範囲でだけは、やりきれなさを甘受する道理も、不条理や理不尽をみすみす見過ごす道理もない。その必要もない。俺は自然の摂理に介入することを否定する学者ではない。かといって、一度手を伸ばした先にあるものを、途中で手放すこともしない。貫徹する。その上で、最期の瞬間まで逃げ切ってやるのだ。すべてを抱えて飛び続けて、俺一人になってから、静寂の中で朽ちて死ぬ。そう、この道に足を踏み込んだ時に、最初から決めてある。
そして、その道は確かに果たされるのだ。そうでなければ…一体どうして、この世界に生を受け、転がり込んだ意味があるのだろうか。
関東和平会傘下の規模の小さな一極道組織でしかなかった鷲峰組にとって、国際的な裏社会の総元締めとして表裏の両面において著名なホテル・モスクワから提案された業務提携の話は、晴天の霹靂以外のなにものでもなかった。いっそ荒唐無稽な作り話であったとしても、周囲はもちろんのこと、当人でさえも信じるに足るほどである。ましてや、彼らの中から送り込まれてくる人間はタダものではない。世界的な大富豪でもあり、世界最大規模の民間警備保障会社をも保有する、組織のナンバーワンであるヴィレイスと、その右腕であり組織のナンバーツーでもあるバラライカなのである。ホテル・モスクワと比べれば木端の鷲峰組に対するものとは思えない、丁重な交渉姿勢に、流石の鷲峰組も身構えた。
だが、未だ鷲峰龍三が存命の折であったこともあり、ここまで礼を尽くされて何も話を聞かずに断ることは道理に反するとして、鷲峰組はあくまでも関東和平会への義理を果たすうえでも、ロシア人たちの思惑を探る必要があるという大義の下、この会談は実現することになったのである。
会談の場所は鷲峰組の勢力圏内にある、経営をホテル・モスクワの傘下組織が担っている系列のホテルと決められた。鷲峰組はこの場所の指定から、ホテル・モスクワの勢力がすぐ身近に迫っていたことを気づかされ、警戒心を強めた一方で、彼らが人目も多く、堅気が大半を占めるような、安全な場所を指定してきたことに安堵してもいた。
ホテル・モスクワは国際的なシンジケートとして知られつつも、稼業自体はほぼすべて合法という異色の存在である。その財力は他のマフィアやカルテルを圧倒しており、資産の大半が洗う必要のない綺麗な状態にあることから、常に動かせる上に、注ぎ込める桁が文字通り違う。裏社会との濃厚な繋がりを持ち、アメリカとロシアの二大国の意向を汲みつつ、裏でも表でも主導的な立場で秩序を保全しているのだから、彼らの影響力は一国に収まるものではなく、その範疇には当然、アメリカの同盟国であり、地政学的にロシアとの関わりも持たざるを得ない日本も含まれているのである。
余りにも強大な客人の腰が予想外に低く、外交姿勢にも剣呑なものが含まれていないとなると、鷲峰組は猶の事、理由も意図も見えずに困惑することになった。
しかし、無常にも何もしかけないままに、何もしかけられないままに会談の日がやってきてしまった。
鷲峰龍三をはじめ幹部は揃って紋付き袴の正装で、ロシア人たちを出迎えるために、自身の勢力圏内にあるホテル・モスクワ系列のホテルへと向かった。
果たして、到着して十分も立たないうちにロシア人たちは彼らの前に現れた。先頭に立つのは、青い目の色を除けば、どこからどうみても日本人で、おまけに女にしか見えない男…ヴィレイスだった。
彼は着慣れたブルーグレーのスリーピースのスーツを着て現れた。背後にはワインレッドのスーツを着込んだ顔に火傷痕のある女…バラライカ…と、何故かクラシカルなメイド服を着こなすロベルタが左右に控え、さらに護衛と事務を統括するバラライカの副官であるボリスと、彼に率いられてきた数人の屈強なロシア人のボディガードが続いた。
異色だった。完全な外人連中の中にあって、明らかに日本人の容貌を持ちながらも、その場の最先頭に確固として存在するヴィレイスの有様は、異色の一言に尽きた。
「お待たせして申し訳ない。今日は会談を受けていただき感謝します。さ、部屋はとってありますから、そちらへ移動しましょう」
出会い頭に投げられたのは流暢な日本語だった。流暢と言うよりも、ネイティブそのものだ。これに、鷲峰組の面々は今度こそ呆気にとられた。
いち早く復活したのは、鷲峰龍三だった。彼は気さくに手を差し出して、言った。
「いやいや、こちらこそわざわざご丁寧に話を通していただけて有難い。今時、これだけ仁義を通したお誘いを受けることは滅多にありませんからな」
龍三の言葉に、ヴィレイスも人好きのする笑みを浮かべて答えた。自然な動作で握手をする。
「そう言って頂けると嬉しく思います。部屋に着くまで、仕事の話は置いておくとして、お互いの話でもどうですか?」
ヴィレイスに言われて、今度は龍三が目を見開いた。いきなり、まずは個人的なお話をしましょうというお誘いだった。
「ほぉ…というと、貴方のお話も教えていただけるということで、よろしいのかな?」
龍三は興味深そうに問う。すると、ヴィレイスは深く頷いた。
「ええ、こういうのは人と人とのお付き合いですから。私の個人的な話でよければ、何なりと。お話しできないこと以外は、なんでもお答えしましょう」
ヴィレイスの返答に龍三は満足したようで、ここで初めて自然な笑みを浮かべた。
「はははっ…こりゃ、今時珍しいや。殊勝なお心がけですな…では、お言葉に甘えまして。ゆっくり歩きながら話しましょうや」
龍三が歩き出すと、ヴィレイスも歩き出した。二人が歩き出すのに引かれて、双方の一行も続いて歩き出した。二筋に分かれたまま、彼らはぞろぞろと用意された部屋までの道のりを進んでいく。
会談の為に用意された部屋までの道のりは、随分と長く感じられたが、この時間にはそれだけの価値があった。
「いやぁ~…ヴィリーさんも大変な苦労をなさってきたんですなぁ…いやいや、一人の日本人として感服いたしますよ、ええ」
部屋についてからも、話は龍三とヴィレイスの一対一で進められた。余人の入り込む隙間がなくなるまで、そう時間はかからず。それぞれが、腹を割って話す態勢に入っていた。龍三はヴィレイスのアイデンティティを日本人のものと見定めたらしく、終始、一人の日本人と考えて彼に話しかけていた。
「龍三さんも、考え方の違いやらで、任侠の中では肩身の狭い思いをされているんじゃありませんか?」
対してヴィレイスの方も、龍三を日本人という意識の強い人間として見ていた。龍三の意識する日本人は古い日本人であり、それは武士道の息づくものだと見えた。だから、ヴィレイスも惜しみなく、自分の思うところを真っすぐに伝えることに努めた。仁義の話を持ち出すのは、その一環だった。地雷にもなり得たが、腹を割って話すには、自ずから通らざるを得ない道だった。
「ほう、この鷲峰龍三、世間様に恥ずかしいことは何一つとしてしてこなかったと、それだけは己の任侠道に誓って申せますが?」
龍三の眉がピクリと動くのを見て、ヴィレイスはある確信を強めた。その上で打ち明けた。
「だからこそでしょう。貴方は仁義に生きておられる。それは絵に描いたような古い極道の生き方です。でも今の時代じゃ、そう上手く運ばないことも増えてきた。違いますか?」
ヴィレイスが問うと、龍三は少し考えてから言葉を紡いだ。
「ああ、確かに貴方のおっしゃる通りでしょう。でもね、生き方をとっかえたら、極道もんはそこまでですよ。誰だってね、なりたくて極道になるわけじゃない。行き場所がなくて極道になるんだ。成ったもんは仕方がない。だからね、せめて誇りをもって生きられるように。お天道様に見られても恥ずかしくはないように、せめて仁義だけは通さなくちゃならねえ…違うかね?」
龍三がそう言うと、ヴィレイスは何度も相槌を打ちながら、「だからこそ」と切り出した。
「龍三さん、だからこそだよ。俺はね、だからこそ、この話を鷲峰組に持ってきたんだ」
ヴィレイスが前のめりになって言うと、龍三は目を丸くした。
「なんでい、そりゃまた、どういうことでい?」
龍三が驚いて素の喋り方を漏らす。ヴィレイスは畳みかけるように、ねっつく、強く訴えた。
「今時ね、仁義ってもんを誠実に守ってる極道はそういない。でも、その滅多なのが鷲峰組だ。これはな、大変なことなんだぜ?」
ヴィレイスに言われて、龍三は面映ゆそうにした。
「お、おう、ありがとうよ…それで?何が言いたいんだい?」
龍三に促されて、ヴィレイスは続けた。
「俺たちは国を跨いで商売してるが、元々はそこらのマフィアやギャングと同じだったのさ。でもな、それじゃあ上手くない。結局は真っ当な仕事が一番儲かるし、角も立たないんだ。そういうことに、遅ればせながら気づいて、それで今じゃ真面な仕事で食ってるわけなんだが…真面な仕事だけじゃ世界は回らない。これも真理だ。俺たちは真面な仕事をしながらな、真面じゃない世界の連中が真面な世界を荒らさないように、見張るって仕事もしてるんだ」
ヴィレイスの話は規模が大きかったが、言わんとしていることは龍三にも理解できた。
「へぇ~…そらまた、剛毅な話だな…それで?どうして、そこで俺たち鷲峰組の話が出てくるんだ?」
龍三の問いは最もだった。まだ、話は見えてこない。
「ああ、そうだな。理由はある。それこそ、鷲峰組が嘘みたいに仁義に忠実な、古い極道だって話を聞きつけたからだ」
龍三は目を瞬かせた。
「それだけかい?それだけで、ウチに話を持ってきたってのかい?」
龍三が信じられないものを見る目でヴィレイスを見た。ヴィレイスは真剣な顔で続けた。
「そうだ。それだけだ。でも、それだけのことが出来ない奴のほうが、世の中には多いんだ。だから、鷲峰組にはそのままでいて欲しくってね…業務提携の申し出は、言ってしまえばこっちからの恩の押し売りなんだが…別にそれだけじゃない。どうせ仕事で仲良くするなら、話のわかる、誠実な人間と組織を相手にしたい。誰だってそうじゃないか?少なくとも、俺はそうだ」
ヴィレイスに言われて、龍三も考えた。確かに、今や近在の極道の中で古くからの仁義を尊ぶのは鷲峰組だけになってしまった。他はどこも、経済的な発展のために仁義に悖る商売にばかり手を伸ばし、金で代紋の株を上げ、関東和平会内部の義理場での地位を押し上げることにばかりかかずらう始末だ。
とはいえ、それもまた組員を食わせる為だという大義があるのだが…それと、仁義を捨てるかは別の問題だと思われた。切り詰めるべきを切り詰めず、見栄を捨ててでも仁義を重んじる覚悟が問われた所で、彼らは保身と見栄を優先して芋を引いたのだから。
そう思えば、ヴィレイスの言葉は最もだった。土壇場で芋を引く様な相手を取引相手に選ぶことは賢明とは思われないし、その点、鷲峰組は踏みとどまるだけの勇気を示しているのだから。
だが、それも親である香砂会の会長と龍三との兄弟杯の効力が続く限りの話である。上納金も十分に納められない現状で、親が子に果たすべき義理としては過分なものが鷲峰組から香砂会へと一方的に圧し掛かっているのが現状だ。
龍三とてそこのところは理解している。だが、それでも仁義を捨てることだけはできない。原作での彼は、まごまごしている間に自分が死んでしまい、香砂の会長も死んだことで義理のセーフティネットが途切れてしまい、結果として鷲峰組の崩壊を招くこととなった。極道としての正解を踏み続けた結果、踏み抜いた地面の先に地獄が広がっていたのは、なんともやりきれない話である。
龍三の死まで数年しかない頃合いに、ホテル・モスクワから持ち掛けられた日本でのホテル・モスクワによる合法ビジネスへの協力要請は、はっきり言って恵の雨に他ならなかったのだ。
自分の死期を遠目に見つつも、まだ時間はあるはずと、堂々巡りの悩みごとを捏ね回す日々の中で、ふっと湧いた好機だった。ゆえに、ある意味では鷲峰組には初めから選択肢などなかったのかもしれない。
ただし、招かれる結果は、原作とはかけ離れたものになるだろうが。
「…モスクワさんの話はよぉっく分かった。だが、一つだけ教えて欲しい。こんなことをして、あんたらには、一体どんな得があるんだ?」
龍三は続けて言った。
「集められる頭数だって、使える金や物にしたって、それに情報や伝手だって…俺たちよりも、親の香砂会や、それこそ関東和平会へ直接話を持ってった方が、話も早いし、なにより…その方がアンタらにとっちゃ金になるんじゃないのかい?」
彼は更に言う。
「俺たちゃ落ち目だ。声を掛けても集まる人間はそう多くない。それこそ、慕ってくれるもの好きくらいのもんさ。アンタらが真っ当な仕事を、どうして俺たちなんかの為に用意してくれるのか、俺には見えねえんだ。だって、そんなのは、余りにもウチにばっかり都合が好すぎるじゃねえか」
龍三は、とどめにこうも言った。
「アンタらとの話がまとまれば、自ずから実績のある俺たちがモスクワさんとの窓口に指名されるだろう。そうなりゃ、鷲峰の代紋は今までになく高まる。おまけに、真面目に仕事をすれば警察や公安の覚えもよくなる。彼らに顔が繋がれば、関東和平会の中でも俺たちの話を無視できる連中はほとんどいなくなるだろうな。警察とは癒着じゃなくて、信頼関係を結ぶことができれば、これほど心強いこともない。どうだ?俺たちには得ばかりだ。対して…俺たちが提供できるものは何がある?アンタらには金もある。人もいる。物だって。それに…そもそもが合法的なシノギで稼いでるんだろう?なら、俺たちと関わるだけでも、アンタらは痛くない腹まで探られることになるってのに…一体、何の得があるってんだい?」
龍三からの問いは、最終確認だった。ヴィレイスとは何者なのかを見極めるための、最後の問いだった。ヴィレイスが、鷲峰組とどのように付き合っていくのかを、明確に示す時が訪れたのだ。
そして、これにヴィレイスは非常に簡潔な一言で以って応えたのである。
「だが、仁義は通る」
と。
「ぷっ…あははははははは!!こりゃ参った!そうか、そうか!なら仕方あんめえな!そうかい!仁義が通ると来たか!そりゃそうだ!金も何もあったもんじゃねえからな!仁義ってのは、そういうもんだからな!あーっはっはっはっはっは!!」
龍三は笑った。ヴィレイスも笑みを浮かべたが、そこには照れ臭さが混じっていた。龍三は笑い、大いに笑った。久方ぶりに、古い気質への理解がある好漢と出会って、彼は楽しさのあまり、舎弟たちにも見せたことがないような大笑いを見せたのだ。
「乗った!鷲峰龍三はアンタに賭けることにしたわ!モスクワにじゃない、アンタが気に入ったから賭けるんだ!これでどうだ?俺の肚は決まったぞ!皆の衆、聞いとったか?儂はな、このお若いのに賭けることにした!仁義を通して、今度こそ勝ってみせようじゃねえか!」
一頻り、気持ちよく笑った龍三は、周囲に意見を求めるまでもなく、この話に乗ることを決めた。その証拠にがっちりとヴィレイスの手を握った。互いに両手で握手を交わした龍三とヴィレイスは、それぞれ浮かしていた腰を椅子に落ち着けると、何事かと説明を求める双方の部下たちに、今まさに目の前で決まった内容を伝えた。
ホテル・モスクワ側はヴィレイスの決定を尊重し、彼の決断を全員で支持することが明確に共有された。対して、鷲峰組の方も、龍三の決断を全員で支持することが決められた。
ここに、ホテル・モスクワと鷲峰組の同盟が成立した。
同盟成立と同時に、鷲峰組は本格的に建設会社並びに警備保障会社としての体制を整えるべく、ロシア人の教官の受け入れや、各種装備、制服などの受け取りなどの準備に駆り出された。また、近辺にあるホテル・モスクワ系列のホテルの備品や内装の修繕や補修作業と警備業務が一括で鷲峰組に委任される運びとなったため、開始早々に経営難を迎えることなく、また過酷な顧客争奪戦に参入することもなく、豊富な経験と実績を積む機会に恵まれる形となった。
これまでのテキ屋や賭博のしのぎはそのままに、鷲峰組は合法的な株式会社として順調な滑り出しを迎えたのである。
業績があがるのに合わせて納められる上納金の額面も増加していき、これにより香砂会の会長の顔も立てられ、鷲峰組の代紋の影響力も高まっていった。真っ当な合法営業を行う鷲峰組は所轄の官憲の目にも留まり、程なくして接触が図られるとともに、鷲峰組が実質的に関東和平会ではなくホテル・モスクワの関連組織として経営方針が刷新されたことが周知の事実となった。これにより、警察の鷲峰組への認識は俄かに変更を余儀なくされた。
なぜならば、ホテル・モスクワはアメリカの中枢と直通回線を有する巨大な多国籍企業群であり、国際的な影響力を持つ実質的な秩序の執行者だからである。彼らと関東和平会とでは、明らかに前者の方が強大かつ厄介な存在であることは疑いの余地がなかった。そのため、警察の警戒は強まった一方で、鷲峰組への対処は常に外国政府への忖度を踏まえて処理されることになったのである。これは、実質的な鷲峰組への免罪符の付与であった。鷲峰組が誠実である限り、警察は彼らを強引に逮捕に動くことはなく、また多少のグレーは白として処理されることだろう。それこそ、裏社会に絶大な影響力を誇りつつも、決して自身は手を汚さない合法企業として君臨するホテル・モスクワのように。
鷲峰組の経済状況が上向きになったことで、香砂会の会長の面目は保たれた。しかし、鷲峰組の極道としての格が上がったのも束の間、鷲峰龍三はこれまでに滞納してきた上納金を迷惑料も含めて綺麗さっぱり支払った後で、鷲峰組を解散させる旨を兄弟分である香砂の会長に打ち明けたのである。
龍三からの突然の告白に、香砂の会長も流石に驚いた。面と向かって話がしたいと、龍三親分を呼び出すと、二人は腹を割って話し合うことにした。
「よお、兄弟。呼び出しちまって悪いな。商売は繁盛しとるんだろう?」
香砂の会長に言われて、龍三は頭をかいた。
「そんなとんでもねえよ。急なことを言い出したのは俺の方が先だ。商売は…まぁな、モスクワの親分さんのおんぶにだっこで世話になってるよ」
龍三が言うと、会長は笑った。
「へへへ…よかったじゃねえか、やっぱり、誰かは見ててくれるもんなんだよ。兄弟が大事に守り通してきた任侠としての道が、間違ってなかったってことに違いあるめえ」
会長が我がことのように嬉しそうに言った。龍三は鼻をすすって、それから言葉につなげた。
「あぁ…そう言ってくれるのは兄弟だけだ。ありがとうよ…それでな、電話で話した通りなんだがよ…」
龍三が言い出しにくそうにしているのを見かねて、会長は手で制して言葉を継いだ。
「いい、わかってる。本当のカタギにしてやりてえんだろ?わかってるよ…雪緒ちゃんのこと、そうだな?」
会長に問われて、龍三はまた鼻をすすった。
「あ、ああ…すまねえ…ここまで、ぐって堪えてきたってのに、今更になって欲が出てきちまった…」
龍三は肩を震わせながら言った。戦後の混乱の中を共に生き抜いて、ここまでのし上がってきたのだ。その双肩には並々ならぬ苦労が乗っかっている。それは会長も同じだが。
共に荒波を越えてここまで生きてきた者同士、二人の間には血を分けた兄弟よりも深い絆があった。互いに酸いも甘いも知り尽くしてきたからこそ、年を取り、後は死ぬばかりとなった今、降って湧いた好機を前にして、龍三本人も戸惑っているのだ。
極道として、舎弟たちのことは本物の家族として扱ってきた。その家族の中で、彼の一人娘である鷲峰雪緒も育まれてきたのだ。だが、他に行き場所もなく、鷲峰組の門を潜った連中と違って、雪緒は生まれた場所が極道の家だった。本来ならば、子供を残さずに死ぬべきだったと、そう頭に過ることもあった。組のことは若頭である坂東が順当に継いでくれるとも、心のどこかで期待している。
だが、そのすべてを押し退けて、かつてないほど現実的な、堅気への道筋が目の前に現れたのだ。龍三は、目の前の希望を見過ごすには年を取りすぎていたし、娘は若過ぎた。自分はどうでもいい。極道として生きてきたのだから、極道として死ぬつもりだ。だが、娘は違うだろう。自分はできなかったが、雪緒は表の世界で生きられるはずだ。
いい娘だ。立派な、賢い子に育った。誇りであり、夢でもあり、希望でもある。あの子に残してやれるものなど、かつては落ち目の極道組織を背負うかもしれない重責だけだった。だが今は違う。今なら、日の当たる道へと、他の組員と一緒に送り出してやれるかもしれないのだ。これを見過ごすなど、龍三にはできない。見なかったことにも、できなかった。
兄弟である会長には、龍三の苦悩が手に取るようにわかった。だからこそ、彼に言わねばならないことがあった。
「兄弟、お前の気持ちはわかる。和平会には俺から言っておく。香砂は俺がまとめる。それに、こういうのはな、言ったもん勝ちだ。鷲峰組が傾いてたことくらいはな、皆知っているんだ。だから、看板を下ろすことになっても、驚くやつは少ないだろうさ。ただな、金を返しただけじゃぁ、義理を通したとは言えねえと今頃になって言い出してくる連中もいるだろう。必ず出てくるぞ。そこんところは、わかってんだろうな?」
会長に問われて、龍三は強く頷いた。
「ああ、そこはわかってる。全員が日の下での暮らしに馴染めるとも思ってねえ。少なくない数が、他所の組に流れるだろうな…」
龍三はそう言った。その答えを聞き、会長は頷いて、それから龍三の肩に手を置いた。
「ほうか、そこまでわかってんのなら、俺から言うことは何もねえ。覚悟は…決まってるんだな?」
会長が言う。龍三は笑って言った。
「ああ、もう決まってるよ。俺の人生だ。悔いはないよ」
龍三の覚悟の決まった眼差しを受け止めて、会長も涙ぐんだ。彼は龍三の肩をバシバシと叩いた。若かりし頃のように乱暴に。
「そうか、そうか…なら、いいんだよ。お互い…年を取ったが、俺は兄弟が羨ましいよ。最期に、なんとも極道らしいアガリが見えてきたじゃねえか…だから、兄弟の信じる通りにやんな」
会長はそう言うと立ち上がった。そして、龍三との別れ際に彼を抱擁し、その耳にこう言い残した。
「わかっちゃいると思うが、政巳の奴には気を付けろ。馬鹿な弟だが、根っからの極道だ。地位と金がありゃ大抵の悪事は成せるだろう。そのロシア人は信用できるのか?」
龍三は頷いた。
「ああ。俺はな、モスクワの親分さんの中に、一本通った仁義を見たのよ。あれに賭けるぜ、俺ぁ。それに…老い先短い命だ。明日か今日かの違いさ、構わんよ」
会長はじっと龍三の顔を見つめた。目に焼き付けるように、その満足げな相貌を見つめてから、彼は去っていった。
「じゃあな、兄弟」
二人の声が自然と重なった。視線は重ならなかったが、その心は重なっていた。
龍三は会長との会談を終えた後で、一家全員を集めて鷲峰組の解散を宣言した。今後の生活の面倒は、社員として見るとも告げた。組員の多くは龍三の意志に従うことを決め、少数が別の組に流れるなどしたが、流れる際には龍三は他所の組に頭を下げて回るなど力を惜しまなかった。そして、全員の進退が定まった後で、彼は警視庁に出頭して正式に鷲峰組の解散を宣言し、自身の極道からの引退をも宣言した。これにより、書類上から鷲峰組という暴力団は喪失し、鷲峰建設と鷲峰警備保障が合法の会社として残された。鷲峰龍三は二社の経営権を元若頭・坂東次男に託すと、自身は会長として彼の相談役に就任した。こうして、事実上の旧鷲峰組の代替わりは恙なく行われたのである。
鷲峰組が暴力団から脱皮を果たし、正式に合法企業として走り出してから間もなくの頃、ヘンゼルとグレーテルを本格的に日本で養育することを決定したヴィレイス一家も、新居に入居を済ませた上で日本での生活に馴染み始めていた。地頭が頗る優秀なのか、双子の日本語への習熟度は非常に高く、既に生活には支障がない程度のレベルにまで達していた。最近だと、学校で友達もできたようで、日常の話題には、以前にもまして彩が増していた。
子供たちの現況は順調そのものだが、鷲峰組解散の余波を敏感に感じ取っているヴィレイスは先手を打って、双子の警備をより堅固なものとした。ボディガードを増員し、送り迎えは装甲を施した大型車の車列で行うことを義務付けた。双子は幼くとも賢く、また分別もあるので、養父の心配りを素直に受け取った。物物しさは仕方がない。それだけ愛されているのだと感じて、双子は納得している。
張り詰めた雰囲気が時折流れるものの、まだ何も起こってはいない。ので、ヴィレイスは時間を作って趣味の範疇で金を使うことにした。手始めに自分が株の過半を所有する鉱業会社を一つ新設すると、会社の代理人という体で旭日重工に突撃した。無論、アポはとってある。
正面玄関に見覚えのない黒塗りの大型車が停車したことで、旭日重工のフロントは俄かに騒がしくなるが、我関せずとばかりに車から降りたヴィレイスはずんずんと進み、フロントに要件を伝えた。
「資材調達部の方にアポを取ってある、ブーゲンビリア鉱業南米総本社の代理人ですが、こちらに岡島緑郎さんはいらっしゃいますか?」
ブーゲンビリア鉱業といえば工業関連では知らぬ者はいない新興の大企業である。取り扱う商品は資源中心で、ロシアとアメリカの資本が多く流入しており、アフリカと中南米の鉱山を多数所有していることで有名だ。フロントの女性社員は急いでアポを確認する。あった。確かに予約されている。
「はい、確かに連絡をいただいております。すぐに案内の者をお呼びしますので、少々お待ちください。あと、申し訳ないのですが…オカジマロクロウなる方は幹部社員の方に居られませんが…部署が違うということは考えられますでしょうか?」
「あ、じゃあ、いいです。案内の方にお聞きしますので。お手数おかけしたようで、申し訳ない」
「いえ、滅相もございません…あ、来ました。あの者が案内いたしますので、よろしくお願いします」
だが、ヴィレイスが持ち出したオカジマロクロウの名前には心当たりがなかった。部長や課長の中に、岡島の姓のものがいただろうか。記憶を浚ってもそれらしき人はいなかったはずだ。女性社員は混乱しつつも、自分の記憶が正しくないのだと自責し、ヴィレイスに謝罪した上で案内に引き継いだ。
「うーん…新卒で入って直ぐの頃なのかな?いや、一年浪人したんだっけか?それは大学の方か?…まぁ、いいや」
案内の人の後を続きながら、ヴィレイスは小さな声で呟いた。
しばらく歩いて、エレベーターで上階へと上がり、そのまま応接室に通されたヴィレイスは、駆け足で飛んできた資材調達部の部長と握手を交わしながら、その背後で文字通り鞄持ちをさせられている青年に目を遣った。
「本日はようこそお越しいただきました!御社のご高名はかねがね伺っております!ささ、どうぞお座りになって下さい!岡島!お茶のご用意を!」
居た。彼だ。
上司からせっつかれて、お茶酌みの女性社員を待たずに萎びた様子の岡島緑郎が、応接室に隣接している給湯室でお茶を淹れて持ってきた。構わず飲むと、下手じゃないけど上手じゃない、そういう味だった。目の前の部長も同感だったようで、わかりやすく腹を立てて岡島を りつけた。
「岡島!これがお客人に出すお茶か!お前は出ていろ!隣の課から茶を淹れるのが上手いやつを呼んで来い!」
ああ、それが狙いか。ヴィレイスは感心した。部長はどうやら岡島をいびることが目的ではなくて、ブーゲンビリア鉱業の裏の顔については何も知らない岡島緑郎を追い出したうえで、後ろ暗い話を内密にしようという心積もりだったらしい。確かに、原作でも旭日重工はそういう裏もあったっけな。
しかし、今日の目的は商談などではない。それは口実で、真の目的は生でロックを見ることなのだから、主役を追い出されては構わない。そこで、ヴィレイスは一芝居打つことにした。
「ああ、いや、部長さん、その必要はないですよ。このお茶は、実に私好みです。上手に淹れてくれたね、ありがとう。えーっと…君の名前は?」
呆気に取られている部長を他所に、人好きのする微笑みを浮かべるヴィレイスからの質問に、岡島緑郎は驚いている様子だった。然もありなん、新入社員で鞄持ちの自分と比べれば、国際的な大企業の代理人など天上の存在に違いなかった。直接会う機会に恵まれたこと自体が、滅多にないことだったのに、その上に名前まで聞かれるとは。この時点で既に、緑郎のキャパシティは大幅に超過していたと見ていいだろう。
まっすぐ見られて、緊張のあまりだんまりの緑郎を見かねて、部長が目で急かした。それに気づいて再起動した彼は、ようやく背筋を正してから名乗った。
「あ、はい!岡島、岡島緑郎と申します…」
ぺこり。綺麗な九十度のお辞儀を受け取ってから、ヴィレイスも明るく応じた。
「はじめまして、岡島緑郎君。私はヴィレイス・ヴァイオン。こう見えてロシア人だけど、母が日本人だから、その血が半分入っている。今日は商談で来たんだけど…いや~、久しぶりに美味しいお茶をいただいたよ。ありがとう」
「そ、そうでしたか…きょ、恐縮です…」
そこまで言ってから、ヴィレイスはまた可もなく不可もないお茶に口を付けた。温い。だが、実に美味そうに飲んで見せた。緑郎はあからさまに胸を撫でおろしていた。
ヴィレイスと緑郎との会話はそこで終わった。そこからは、ヴィレイスと部長とが話をした。表向きの、上っ面だけの商談で終始して、それもヴィレイスがポケットマネーで用意した分の資材を、格安価格で一年間卸すという内容で合意しただけだ。断るわけがないほどの割引なのだ。最初から出来レースの、出血大サービスだった。だが、これで困るのは補填するヴィレイスだけだ。旭日重工も嬉しい。ブーゲンビリア鉱業も問題なし。ヴィレイスもロックを見れたので嬉しい。三方ヨシだ。実に結構だった。
「今日はありがとうございました。実に有意義な時間だったと感じています」
話は終わった。ヴィレイスは応接椅子から立ちあがり、部長と握手を交わした。部長の顔はだらしなく緩んでいた。それも当然だ。なにせ今回の商談は旭日重工に得しかない。さぞかし高得点だろうな。
「いえいえ!こちらこそ、素晴らしい商談でした。是非とも、また弊社へお話をいただけますと幸甚の至りです。もしご連絡いただけるのでしたら、是非とも私の方へ!次回からは、お待たせすることも無くなるかと!」
暗に自分を指名しろと添えてきた鼻息の荒い部長を受け流しつつ、ヴィレイスは自然な流れで岡島緑郎にも手を差し出した。
「……え?あ、どうも…本日はありがとうござい、ました…」
なんとなく理解できていない岡島緑郎を見て、ヴィレイスは満足げに笑った。
「ありがとう。君のお茶のおかげで商談が捗ったよ」
思わぬお褒めの言葉に、岡島緑郎は面映ゆそうに笑った。
「いえ…そんな」
腰の低い彼とは視線が中々合わなかった。ヴィレイスは手を握っていない方の手で、彼の肩に手を置くと、ポンポンと叩き、彼にだけ聞こえる声でこう言った。
「それじゃあ、また何時か、どこかで会えるといいね。その時は、改めて自己紹介をしよう…さらばだ、ロック」
そう言って、ヴィレイスは去っていった。応接室を出て、部長と共にヴィレイスを正面玄関のロータリーまでお見送りに出た緑郎は、車が見えなくなってからポツリと呟いた。
「ロック?」
聞き覚えのない愛称に困惑していたが、その親し気な呼び方が、どうにも引っ掛かっていた。だが、彼が悩むことに使える時間は長くなかった。
「おい岡島!ロシア人は茶の味もわからんらしいな!だが、商売も下手なのは有難かった。見ただろう?この一年は丸儲けだぞ!今日は早めに上がって飲みに行こう。お前も来るだろ?」
そう言う部長は上機嫌だ。相手がいなくなった途端に、客の品評をするあたりが、なんとも日本人らしい。岡島緑郎は部長に誘われるままに、仕事を終えた後で、今度は上司の飲みに付き合うことになった。勧められるままに杯を重ねるうちに、『ロック』と呼ばれた違和感も、記憶の棚のどこか深くへとしまい込まれてしまった。十時過ぎに解放された後で、路地裏で吐いたゲロはほとんど酒ばかり。食うものも食わずに酒に付き合った証だった。ぼんやりと、ダルさが抜けきらないままに、次の日の朝日を迎えるころには、謎の愛称で呼ばれたことなど、すっかり忘れているのだった。
ヴィレイスの日本での目的は、直ぐに片づけられるものに限れば全て済ませられたと見てよかった。彼は大満足だった。
だが、気掛かりが皆無というわけではなかった。専らそれは、鷲峰組の解散により生まれた余波を慮ってのことである。
ヴィレイスの憂慮に反応してのことではないだろうが、小さな問題が各所で起きていた。これは、周辺の暴力団の構成員による、旧鷲峰組への営業妨害が主な案件だった。彼らは鷲峰組の元組員が建設作業や警備に立っている現場や、内装を担当しているホテルなどに乗り込んでいって、座り込んだり、物を壊したり、叫んだりして営業を妨害するのである。始末が悪いことは、彼らが叫ぶ内容は、概ね事実で占められていて。鷲峰組は名前を変えただけで暴力団の体質そのまんまで、カタギの振りをして社会に馴染もうとしている、ということを揶揄し、或いは糾弾する内容であった。
彼らの営業妨害は、はっきり言って効果の面で言えば局所的である。何せ鷲峰組に仕事を依頼するのは、彼らの同業者のようなホテル・モスクワの系列がほとんどだからである。真面目な仕事ぶりを見ているし、暴力団員からの営業妨害にも龍三親分の言葉を信じて粘り強く堪えていることも知っている官憲も、この件については鷲峰組に同情的である。なので、問題となっているのは、構成員たちの中に鬱憤が溜まっているという点だろう。
経済的な問題は発生していないが、もともとが短気が多いヤクザの集団であるから、こういう分かりやすい挑発を受けると、メンツが云々と言ってすぐにドスを抜こうとする奴が一定数いるのである。
これは問題だった。
お天道様の下で胸を張って暮らすには、これまで以上の忍耐が求められるのだ。無論、やられてばかりでいる必要はない。業務内容がセキュリティなのだから、公然と迷惑行為を排除する大義は既に持っているのだ。座り込みだろうが、大声だろうが、公序良俗を乱す者たちを放っておく必要はなかった。だから、ある程度の実力行使は認められている。
度し難いのは、鷲峰組の内部にも、少なからず暴力団員の気質を捨てきれない者がいて、営業妨害を加えてくる敵対組織の構成員とつるむ者たちが出てきたということである。これでは、会社の内情が筒抜けになっているのと同じことだ。この件に対して、ヴィレイスに代わってバラライカが龍三に注意を呼び掛けたのだが、龍三は厳しく言うことはあっても、問題行動の多い者でも果断な処分を加えることは終ぞなかった。そう、終ぞ。そこが龍三の限界だった。
龍三の視点から見れば、組を解散して、それでも付いて来てくれたことに感謝することはあっても、その逆はあり得なかった。子分たち全員を含めて大きな家族を構成してきたのだから、今更それを変えることは酷なことでもあった。だが、周囲の見る目は違う。明らかな素行不良の者が、時には守るべきホテルの備品を盗み出して、勝手にうっぱらってしまう事件が起きても、犯人を叱責するだけで切り捨てることはなかった。
当然、バラライカはこの事態を重く見た。
「命令違反の兵隊は必要ないし、無能な上官はもっと不要だ」として、彼女は龍三に完全な現役からの引退を提案し、その上で社長を務める坂東次男に事件の首謀者たちを窃盗罪で警察に突き出すか、或いはクビにするかを迫ったのである。
この一件に対して、龍三は素直に提案を呑み、相談役から降りて隠居生活に入ることで誠意を示した。また、坂東も事態を重く見て、事件を起こした者を追放処分とした。それでも温情のある処置として、追放される者たちには一律で半年分の給与が退職金として支払われた。
これで終わればよかったのだが…そうは問屋が卸さなかった。時期を同じくして、龍三と香砂の会長が立て続けに亡くなったのである。
龍三は既に代替わりを済ませており、会社の経営は頭の切れることで知られる坂東が引き継ぎ、危なげなく回していたので鷲峰組に、表向きの問題はなかった。
しかし、香砂会を引き継いだのは、生前の先代と龍三との仲が非常に険悪だったことで知られる、香砂政巳であった。彼が会長に就任した以上、一波乱あることは予想できることであった。
そして、その予想通りに、政巳は就任早々に元々鷲峰組のシノギだった地域に進出して、これを差し押さえる動きを見せたのだ。組事務所などはそのまま、鷲峰建設などに引き継がれて運営されている以上は、出入りが監視されることを意味した。のみならず、該当地域の治安が悪化するのに伴い、鷲峰組が解散したことが原因で香砂会の伸長を招いた、と見る動きが徐々に表れたのである。これは組織の内外に現れるとともに、警察内部からも似たような声が上がる始末であった。
これは明らかな、香砂政巳からの揺さぶりであった。彼が黒幕であることは間違いなく、根っからの極道であり、それも悪い方の極道でもある政巳は、文字通り何をしでかすのか分からなかった。
営業妨害も執拗に続けられたため、鷲峰の営業所や事務所では厳戒態勢が敷かれ、これは連日連夜続けられた。厳戒態勢に入ったのはホテル・モスクワも同じであったが、警戒レベルの引き上げは営業妨害の予兆が現れた段階で済まされており、警察との連携を行いつつ、自助努力として警備の数を増やすなど余念がなかった。
このような緊張状態も、長く続けば弛緩していくもので。何も起こらないままに時間が過ぎていくと、軍人の集団ではない鷲峰組は当然ながら停滞状態の中で綻びを見せ始めた。
長い停滞の中で、内通者が出るのは当然のことではあったが、その多くを占めたのは鷲峰組の内部において新入りとして扱われていた青年たちであった。彼らは典型的な不良や非行青年を母体としており、旧来の極道への入り口であるはずの特別の事情を持たず、軽い気持ちで極道の世界へと足を踏み入れた者たちが多かった。
彼らは組に入った後でも、同じようなチーマーや暴走族のような不良たちとの繋がりを継続し、彼らを外付けの暴力装置として扱うこともしばしばだった。世間を知らず、無礼千万な非行青年たちをそれでも組に招き入れるのは、そういった使いやすい暴力が集めやすい、という背景があるのかもしれない。相互の利害の一致から、非行青年や半グレと暴力団との共存関係が生まれたわけだが…鷲峰組にも少なからずそう言う者たちが入り込んでいたのだ。
その最大の理由は龍三の死にある。彼の死により、一時的な求心力の低下は避けられず、この穴埋めのために新顔を積極的に受け入れたのだ。純粋に経済的な、また政治的な判断を下したのであって、坂東はそういう意味では一般的な経営者としての適性は高かったと言える。だが、極道の世界においては、これは悪手ともなりえたため、微妙な注意が必要だった。坂東はこの注意を払っていなかったわけではなかったが、それでもすべての人間に目を行き渡らせるには、坂東一人では足りなかった。結局、紛れが出てしまったのである。
政巳が目を付けたのは、こういう半グレ上がりの狂暴な連中であった。中でも、龍三の死後に鷲峰組に入った新入りを重点的に懐柔し、彼らを通じて鷲峰の内情を探った。
そして、探るうちに政巳はあることに気が付いた。それはロシア人の中でも、一際目立つ日本人風の容貌のヴィレイスの存在である。政巳が会長を務める香砂会は大規模な暴力団であり、外国とも付き合いがある。その付き合いの中で、青い目の日本人の見た目をしたロシア人の話は幾度となく耳にしていたのだ。政巳には、彼こそがブレイザー・ヴィリーであることがすぐに分かった。
分かったのなら話は早い。そう考えて、彼はホテル・モスクワを懐柔するつもりで、鷲峰組の内部に潜ませてある半グレあがりの内通者どもに一斉に号令をかけたのだ。目的は、ヴィレイスへの接近であり、可能ならば彼との会談を取り付けることだった。香砂会としても、鷲峰組には内密にホテル・モスクワとの折衝を重ねるつもりであったのだ。
だが、ここで政巳は運が悪いことに、大きな下手を打ってしまう。というのも、彼は半グレどもの頭の悪さ加減を甘く見ていたのである。
見上げるほどの巨人にも、その大きさを見ようともせずに食らいつく、そういう愚かしさを、政巳はなまじっか頭が回るせいで思いつきもしなかったのだ。
政巳からの電話を受けたのは、チャカという男だった。彼は鷲峰組の内部で内通している者の中でも、真っ先に裏切ってきた軽薄者で、その中身に負けず劣らずの外見をしていた。
「ちーっす、会長さん?なんすか、今、仕事サボりの最中なんすけど?」
渡された警備員の制服を脱ぎ捨てるや、ホスト風の格好に着替えて平然と仕事をサボる彼の素行の悪さは折り紙付きだが、人の目のつかないところで悪さをすることにかけてだけは、妙に悪知恵が働く男だった。狡賢く稼ぐことに長けていることもあり、好き好んで極道になったつもりが、今や警備員である。彼は不満たらたらで、鷲峰組が解散した後でも平然と自分は極道だと威張り散らすくらいには、立派なノータリンである。
しかし、そのノータリンであればこそ、金の匂いや、強者の匂いには敏感であった。生き残るべきではなかった愚劣な遺伝子の集大成のようなこの男は、良くも悪くも生き汚く、手段を択ばない酷薄さを持っている。平然と人を裏切ることもすれば、暴力を振るうことも、殺すことも厭わない。そのイカレ具合を、政巳は見込んだのだ。
政巳の命令は簡潔で、「青い目の日本人を俺の前に連れてこい」というものだった。もっと詳しく言っていたかもしれないが、チャカが理解できたのはそこまでだったので割愛する。
「了解しましたー!それじゃあ、さっそくヤっちゃいますけど…もういいっすか?」
チャカの調子のよさに政巳は不安になったが、とりあえずはGOサインを出した。
命令を受けたチャカは何も考えずに仕事に戻るでもなく、事務所にまっすぐに帰ると上司に嘘八百を捲し立てた。
「社長から、モスクワの親分さんにメッセージを預かってますんで…直接会って伝えなきゃなんすけど、どこに行けば会えますかね?」
「…ちょっと待ってろ、今、電話で確認する」
この再確認必須のガバガバの理由を、どういうわけか彼の上司は聞き逃してしまった。ただ、これには理由がある。チャカは徹頭徹尾、何をするにしてもコレなのだ。周囲からは凄まじいバカだが、任せた仕事は最低限熟す人間だと思われている。そう思わせるのが得意だとも言う。どちらにしろ、チャカは上司を出し抜いて、ホテル・モスクワへの電話を掛けさせることに成功した。
「モスクワの親分さんの居場所は言えんらしい。ただ、メッセージは受け取るから、この場所に来いとのことだ」
「うっす…じゃあ、行ってきますんで。あとはよろしくでーす」
「おう、さっさと行って戻ってこい」
気のない上司の声を聞き流して、チャカは車に乗り込んだ。法定速度を平然と超過して走り続けながら、道すがら知り合いの半グレや不良連中に電話をかけまくり、教えてもらった住所に集まれと命じた。問答無用で突っ込んで、そこにいる外人を全員捕まえろ、と。ただし、殴っても構わないが、殺すな、とも。それからこうも付け足した。俺が着いたら、すぐに逃げる振りをしろ、と。
「鷲峰組だ!死にてえ奴以外は動くんじゃねえ!」
チャカは目的地の手前で降りると、自慢のリボルバーを見せびらかすように抜いて現場に突入した。
彼の予定では、現場には外人が転がされているはずだった。ピンチにチャカが颯爽と駆けつけて、外人を救い出すのだ。そして、その恩を振りかざして、モスクワの親分とやらに会う。そこからはどうとでもなるだろう。噂では女みたいな男だと聞いているし、気弱な奴なのだろう。部下に囲まれていても、ボスを人質に取ればあとは逃げるだけだ。或いは、人質に取るのが難しければ、政巳のことを密告しても構わない。そうすれば、金になるかもしれないし、もっと甘い蜜にありつけるかもしれなかった。
チャカの未来は明るかった。少なくとも、この時までは。
「遅かったな」
掛けられた声は緊張感のないものだった。
目的地は倉庫街の一角だったようだ。辺りには見覚えのあるバイクや車が並んでいることから、この場に不良仲間が集まっていたことは確かなことだった。その確認を取った上で、チャカは銃を抜いたのだから。そのまま目的の倉庫に突入して、問答無用で電話を受けた相手は口封じに殺すつもりだったのだ。
だが、倉庫の中は整然としていて、喧騒の名残もなかった。天井から吊るされた照明に照らされて、銃を携えた男たちが壁になって待っていた。左右の壁の境目に、ちょうど立っているのは青い目をした日本人。
ヴィレイスだった。
いつものチャカならば、ヴィレイスの外見に食いついただろう。そして、自分の欲望のために政巳の命令から逸脱した行動に出ていたに違いなかった。
だが、生憎と、彼はそういった遊びに付き合ってくれるような、脇の甘い人間ではなかった。彼はバラライカを傷物にして以来、片時も抜け目のない男になったのだから。
「いい。何も言わなくていい。すべて知っている。だから、何も言わなくていい」
ヴィレイスは大きくも小さくもない声で言った。
「俺は…君のような、絵にかいたような不良というものを、初めて見たかもしれない。びっくりしたよ、まさかここまでとはね」
ヴィレイスは指で鼻を触ると、フッと笑った。
「歯が溶けてそうなお友達が一杯集まってくれたお陰で、近場の葬祭場はてんてこ舞いになるだろうな…だが、心配はいらない。そこもウチの系列だし。それに、骨も残らないから」
ヴィレイスは自分から近づくことはなかった。ただ、周囲を屈強な男たちに、しっかりと守らせたまま、一方的に告げた。
「この先に、君のセリフはない。馬鹿を描くのは…疲れるんだよ。ほら、わかるだろう?」
ヴィレイスは体を左右に小さく揺らし、止まってから右手を徐に持ち上げた。
「聞くに堪えない罵声もそうさ…まったく、嫌になる…だから、君は沈黙したままでいたまえ」
ヴィレイスの手先が小さく動くと、彼の両脇に立っていた兵士たちが一斉に銃を構えた。チャカに向かって赤い可視光線が集中する。蠢くレーザーポインターに集られて、チャカは後ずさった。
だが、彼が元来た道を帰るよりも早く、倉庫の扉が閉まっていく。間に合うか?いいや、間に合わない。遅過ぎた。
例え間に合ったとしても、結末は変わらない。
ヴィレイスは両手を後ろに回して組むと、少し俯いた。
再び彼が顔を上げると、そこには穏やかな笑みがあった。
「言ってなかったけど、これは君に敬意を表してのことなんだ。ずいぶん泳がせた。その上で、ここまで大掛かりになったのも、君のためにちゃんとしたケジメを用意したかったからなんだ」
そう言って、彼は再び手を持ち上げた。
「それじゃあ、さようなら」
そして、その言葉を最後に、その手は振り下ろされた。
瞬間。チャカが銃を向けるより早く、一斉に数十丁のカラシニコフが一斉に火を噴き、無数の鉛玉をチャカ一人目掛けて吐き出した。
近くで聞けばけたたましい銃声も、倉庫を出て少し離れてしまえば何でもなくなる。ミキサーに掛けられたようにズタボロにされたチャカの死体は、埋められることもなくその場で燃やされた。ガソリンの匂いが辺りに充満していたが、予め可燃物はどかしてある。ただ、チャカの死体だけが燃え続けた。
燃えカスは翌日、海に散布された。
一日のうちに、半グレや不良が町から消えたことを不思議がる人はあっても、彼らの身を案じるものは皆無だった。
倉庫は綺麗に清掃され、痕跡が完全に抹消された上で売りに出された。
この場所では何も起こらなかったのだ。
チャカが出社しなかったことが報告されると、彼の上司と社長の坂東は平然と「そうか」とだけ答えた後で、彼を社員名簿から抹消した。記録によれば、チャカは行方不明となる三か月前に解雇されていたそうである。
香砂政巳はというと、チャカの失態を受けて重い腰をあげたものの、修復不可能な段階まで拗れてしまっていることを悟り、全面戦争の準備に動き出したところで屋敷が火事となり爆散。遺骨すら残らなかったことから、家ごと燃えて果てたようである。政巳の死亡により、香砂会は穏健派の幹部が会長代行に就任し、同人が和平会の承認を待ってから正式な会長に就任することが決まった。
政巳の死に対して、和平会は旧鷲峰組とロシア人に疑いの目を向けたが、度重なる営業妨害を和平会による教唆に基づいて香砂会が行ったものとして捜査する為に、警察内部に捜査本部が設立されたことでそれどころではなくなってしまった。結局、和平会は公式に鷲峰組が極道組織ではないことを認め、香砂会の営業妨害を教唆した事実はないことを明言させられた。その上で、カタギである鷲峰建設と鷲峰警備保障に対して、下部組織には今後一切の営業妨害に準ずる行為を行わせないことを誓わせた。
異例の速さで警察が動いたことを、和平会の親分衆は訝しんだものの、すべては後の祭りであった。香砂会をトカゲの尻尾として切り離すと、彼らはくわばらくわばらと鷲峰組には金輪際関わるまいと心に誓うのだった。
これにて完結となります。お付き合いいただきありがとうございました。