君の弾き語りが聴きたい   作:待ってください

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『きらきら星』

 ──一月ほど前。紆余曲折の末、ライブハウス・STARRYで働くことが決まった夜のその後の話。

 

 

 アルバイト初出勤で風邪を引き、まさかのダウンを喫した後藤さん。当初は一人で帰れると強がっていたものの、帰りの電車の中で見る見る具合を悪くする彼女を放置する訳にもいかない。結局、彼女を介抱しながら金沢八景まで同伴することになった。

 

 途中下車して休んだこともあって、駅で親御様に後藤さんを預けた頃にはとっくに僕の最寄り駅への最終電車は過ぎていた。仕方がないので、交番か何処かで夜を明かすか……と考えていたはずなのだが。

 

「……はっ」

 

 ふと、手を止める。……恐らくは後藤さんへ供されるはずだったのだろう。目の前の卓上に並んだ手料理の数々。

 

 素朴で、しかし肉々しい噛み心地が次の一口を煽る手作りのハンバーグステーキ。側に添えられたのは瑞々しく、鮮やかな対比が目にも楽しいサラダ。市販品を使いつつも一手間加わった、味の染みた野菜が盛りだくさんのコンソメスープも嬉しい。

 そして何より粒が立ち、その芳しい匂いが僕を駆り立てて止まない、炊きたての白米。

 

 いつの間に卓に置かれたそれは、気付けば既に半分ほどが消えている。

 昼から何も食べていなかった──そして長らく真っ当な食事を味わっていなかった僕には、まさに砂漠に降る慈悲の雨だったのだ。

 

「我を忘れて、はしたない真似を……申し訳ありません。大変、美味しいです」

「はは、無我夢中で食べてたなあ。ガッついてる割にやたら食べ方が整ってて逆に怖かったんだけど

「まあまあ、あんなに美味しそうに食べてくれるなら、作ったほうも冥利に尽きるわ」

 

 家の主人を無視して食欲に耽るなど、僕としたことが飛んだ無礼である。恐縮しきりに恥じ入る僕を、後藤夫妻は苦笑混じりに歓待していた。……お父様のほうは、どこかたじろいだような様子もあったが。

 

「ひとりのこと、ありがとうな。夜遅くに大変だったろ?」

「あなたが居なかったらひとりちゃん、どうなっていたことやら……」

「本当に大変だったのはお嬢様ですから」

 

 朗らかに感謝を述べる後藤夫妻へ軽く会釈を返す。僕は彼らのご好意に甘えて、後藤さんの家に泊めていただけることになっていた。

 家族が居るとはいえ、同級生の女性の家に泊まることになるとは。些か躊躇いはあったものの、彼らからすれば、僕のような未成年が深夜出歩くほうが問題なのも当然だった。

 

「改めて、水木南と申します。本日はお世話になります」

「ひとりから話は聞いてるよ。それにしても、本当に男の子の友達が居たなんてなあ……」

「本当にね……」

「……念の為申し上げておきますが、お嬢様とは普通の友人付き合いです。決して疚しい関係ではありませんよ」

 

 しかし、こちらへ向けたはずの夫妻の視線が、妙に遠くを見据えるような。謎の感慨に少々不穏なものを感じた僕は、改めて立場を明言しておく。

 痛くもない腹を探られるのは勘弁願いたかったのだが、夫妻は苦笑しながらかぶりを振った。

 

「ああいや、そういうことじゃなくて。「残念イケメン訳アリ凄腕ピアニスト」なんて聞いてたから……」

「私達も正直いつもの架空の友達じゃないかって思ってたんだけど、まさか実在してたなんて」

「後藤さん、説明が胡散臭過ぎます」

 

 関係以前に、僕は存在自体を疑問視されていたらしい。珍獣の類でもあるまいに……いや、確かにそんな説明をされていたら、虚言やイマジナリーフレンドだと見做されるのも無理はないが。というか「いつもの」とは。

 後藤さんは僕を一体何だと思っているのか。垣間見えたその悲しい生態も併せて内心頭を抱えていると、後藤さんのお母様はこちらをすっと覗き込んだ。

 

「イケメンってのも本当ねぇ。どちらかと言えば美人さんかしら。……女物も似合いそうね」

「こら、母さん。水木君が困ってるだろう」

「だって、ひとりちゃん私が買った服全然着てくれないんだもの〜! 」

 

 スン、と獲物を定めるように目を細めたお母様。お父様が窘めるのも聞かず、彼女は子供のように駄々を捏ねている。幼少期ならいざ知らず、今の僕がそれを着たところで酷い絵面になるだけだ。過去の経緯から言っても勘弁願いたい。

 困惑を隠せない僕に、彼女はスマホの画面を向けた。

 

「ほら、こんなに可愛いのに」

「! な、なるほど……。仰るだけあって、確かに魅力的だ。しかしあのジャージ姿にも、所帯染みて垢抜けないが故の愛嬌があるのであって、うぐぐ……」

「うーん、確かに「残念イケメン」ねえ」

 

 そこに写っていたのは後藤さんの私服姿。俯きがちに青褪めた表情から嫌々着ているのは明白なのだが、それを差し引いて尚、ゴシック調の落ち着いたドレスを纏う彼女は可憐で淑やかだった。

 しかし、その奇行を含めた後藤さんの「可愛さ」には、あのジャージこそが相応しいとも言える。これはむしろ、上等な料理に蜂蜜をぶち撒けるにも等しい暴挙なのではないか。

 

 写真を手に思わず声を戦慄かせる僕に、お母様はなぜか困ったように首を傾げた。

 

「待て! ひとりが可愛いのは分かるが、君にはまだやらんぞ!」

「ええ、間違いない。僕は特に、お嬢様のあの弾き語りが愛おしくて仕方がない」

「えっ、……まさか弾き語りって、ひとりが部屋でベソかきながら弾いてるアレ、じゃないよな?」

 

 そしてお父様はお父様で、口角を吊り上げながらベタな言動で絡んでくるのだが、確かに後藤さんの可愛(顔映)さは言うまでもない。

 とくに、美しい旋律に卑近で俗っぽい悲哀が絶妙に同居するあの弾き語りは最高である。怪訝な顔をしたお父様が挙げられた弾き語りも、きっと素晴らしいものだったのだろう。

 

 僕は力強く頷いた。

 

「はい。僕は、彼女の弾き語りが聴きたい」

「ええ……」

 

 真剣に同意したのだが、彼はなぜか困惑が籠った慨嘆とともに絶句してしまう。

 ……何か、失礼なことを言ってしまっただろうか。いやまあ、「娘はやらん」に対して御息女の愛らしさを語るのは、父親としては憤懣やる方ないのかもしれないが。

 

 しかし、親子だからだろうか。お父様のその様子は、後藤さんと初めて会った時にも似ていた。

 

「と、ともあれ、ひとりがお世話になっているようだね。君もひとりのバンド仲間なのかな?」

「僕はお嬢様の一介のファンです。多少ピアノを嗜んではいましたが、それも進学を機にやめてしまいました」

「ひとりは、君に随分助けられたと言っていたけどね」

 

 若干困惑の影は残るものの、ソファに座り直したお父様は話題を変える。後藤さんの友人となればそう考えるのも当然なのだが、やはり訂正しておかなければならない。

 

「確かに結果的に共演はしましたが、バンドに直接的に勧誘したのは伊地知先輩ですしね。僕は多少の手助けをしたに過ぎません」

「『訳アリ』、か……。深くは聞かないでおくよ」

「恐縮です」

 

 棚に飾られた……後藤さんも持っていたギターを抱える、おそらく若い頃の彼の写真。

 それを少し寂しげに眺めたお父様は、しかし僕の事情に踏み込むことを良しとはしなかったのだろう。話題を打ち切るように、その姿勢を僅かに崩した。

 

「伊地知……虹夏ちゃん、よね? バイト先のお嬢さんに、ご迷惑掛けてないかしら」

「まあ、初日ならあんなものでしょう。お母様が心配されるようなことはないと思いますよ」

「そう。昨日もバイトのことで随分不安そうにしてたから」

 

 伊地知先輩の名前から、今日の後藤さんのアルバイト出勤に思い当たったらしい。不安そうに眉尻を下げたお母様。

 確かに、唐突に弾き語りを始めたり──僕としては好ましいものの、一般的に奇行とされる行為ではある──手が掛からないとは言えないが、バイトの新人なら誰でも大なり小なり失敗はあるものだろう。

 

「あの子ったら、水風呂に浸かった後水着姿でギターを弾き鳴らしたりして……」

「ひとりも何をしているんだ」

 

 なのでお母様、そういう情報は伏せてあげてください。水風呂に浸かったとは聞いたし、女性が無闇に身体を冷やすものではないと叱ったものだが、そんなに嫌だったのか。

 それはともかく、伊地知先輩は勿論、山田先輩や店長もあの面倒見の良さだ。彼女が業務に苦戦することはあれど、いじめられたり爪弾きにされたりするようなことはあるまい。

 

「あなたも知ってると思うけど、ひとりちゃんあんな子だから。これからも気に掛けてくれると嬉しいわ」

「ええ、こちらこそ。紆余曲折あって同じ職場で働くことになりましたしね。……おや?」

 

 彼女のことは好ましく思っているし、僕自身、店長にも「見ていろ」と言われた訳だからな。頷く僕に、後藤夫妻も安堵の表情を浮かべた。

 

 と、何となく視線を感じて背後へ振り向く。そこには後藤さんを小さくしたような寝巻き姿の幼子が、半身を隠してこちらを伺っていた。その足元には柴犬が控えているのも見える。後藤さんの妹様だろうか。

 

「あら、ふたり。もう遅いから寝なさいって言ったでしょ?」

「うん、でも……」

「お母様。家に見知らぬ人間が居れば、気になってしまうものでしょう」

 

 お母様が窘めても、ドアの向こうから怪しげにこちらをまなざす眼。まあ、僕のような男が夜半家に上がり込めば、幼子が不安に思うのは当然だろう。知らない人間への興味もあるかもしれない。

 お母様を抑え立ち上がった僕は、彼女の前で膝を立てることで目線を合わせる。

 

「こんばんは、初めまして。お姉様の友達の水木南と申します。お母様とお父様のご厚意で、今晩泊めていただくものです」

「わ、わたし、後藤ふたりです! こっちはジミヘン!」

「ふたりさんとジミヘン君ですね。どうぞ、よろしくお願いします」

 

 柴犬の鼻先に掌を翳し、軽く会釈しながら名乗れば彼女、ふたりさんは少し戸惑いながらもぺこりとお辞儀。かのギターへの殉教者が名の由来であろう彼も僕の匂いを判別したのか、手を一舐めした後ワンと一声鳴いてみせた。威嚇というよりは名乗りのようで、中々躾が行き届いている。

 

 などと妙な感心をしていると、ふたりさんはおずおずと口を開いた。

 

「あの、聞いてもいい?」

「はい。僕に答えられることなら、何でも聞いてください」

ホントに、お姉ちゃんのお友達なの? お姉ちゃん、今までず〜っとお友達、いなかったんだよ?

 

 ……後藤家の詳細な関係性は分からないし、僕も大概逸れ者ではあるのだが。家族全員が友人の存在を疑問視するのは流石にちょっと。

 こてんと首を傾げた可愛らしい仕草とは裏腹に、なんとも無情な質問を真剣に投げ掛けてくるふたりさん。悲しい気持ちを抑えながら、僕は努めてはっきりと答えを返す。

 

「少なくとも、僕はお姉様をお友達だと思っています。そうでなければ、お姉様をここまで送り届けはしないのではないでしょうか」

「……送りオオカミ?」

「こ、こら! ふたり!」

 

 おねえちゃん顔だけはかわいいもんね、と彼女は悪戯っぽくほくそ笑む。恐らく言葉を深くは理解していないのだろうが、後藤さんと違ってなかなかおませなお嬢様である。

 しかし、……送り狼か。あの夜、腕の中の彼女へ向けそうになった衝動を思えば、内心の苦笑は禁じ得ない。

 

「そこは僕を信じて頂くほかないのですが……困ったな。確かに僕は送り狼だ」

「えーっ?! ホントに!?」

「ええ、お姉さまはとても可愛らしい。それこそ、食べてしまいたいほどに。けれど、貴女も柔らかくて美味しそうですね?」

「きゃあーっ! 食べちゃやだー!」

 

 敢えて難しい言い回しをしても、この子を混乱させるだけだろう。数瞬の逡巡の末、観念した僕は端的にふたりさんの言葉を肯定した。

 僕の冗談に目を丸くした彼女は、けれど楽しそうにドアに隠れる。

 

「……今からでも帰ってもらおうかな……」

「ひとりちゃん、お友達も変なのかしら」

 

 ……背後の心外な警戒が籠った視線は一旦無視する。娘を実家に送り届ける送り狼が何処にいるというのだ。

 

「んー……でも、お姉ちゃんってひとりぼっちで暗いし、ヘンなことばっかりいうし、クソ面倒くさいよ? それでもお友達なの?」

「これは手厳しい。しかし、ふたりさんが仰ることはその通りなのでしょう」

 

 戯れはともかく、まだ納得しがたいように首を傾げた幼子と柴犬。確かに、後藤さんが一般的に人好きされない性質だとは言わざるを得ないのだが、しかしどう説明したものだろう。ふたりさんの、幼く純粋な疑問を浮かべた表情。

 

 ……こんなことを語るなんて。どうにもむず痒く落ち着かない気分に、僅かに言葉が詰まる。

 

「なんと言うのかな。だからこそ、僕はお姉様のお友達になりたかった」

「えっ?」

 

 ただ、大人げないお為ごかしで幼いふたりさんをやり込めること。それにこそ羞恥を感じたのも事実だった。

 なんとはなしに胸元の襟を弄ぶ。僕は彼女の驚きに見開かれた、きらきらと輝く瞳を見据えた。

 

「何を隠そう、僕もお姉様と同じ。暗くて、変なことばかり宣って、面倒臭い。だから、やはり一人の友達もいませんでした」

「……お兄ちゃんも、ひとりぼっちだったの?」

 

 幼い少女の問いに、ゆっくりと頷く。

 

「けれど僕と同じひとりぼっちのお姉様は、格好悪く泣きながら、弱音を吐きながら、それでもめげずにギターを弾いていた。あの壇上から逃げなかった」

 

 彼女なりのやり方で……校舎の隅っこの埃っぽい物置に隠れて、観客に背を向けて。それでも、猫背の虎は震えながら吠えていた。

 ひとりぼっちの六弦の嵐に、僕はどうしようもなく心惹かれた。何もかもが色褪せて、死んでばかりいた僕にあの子はひどく鮮やかに映った。

 

「ふたりさんは、お姉様のギターはお嫌いですか?」

「ううん。ギター弾いてるときだけは、お姉ちゃんカッコいいもん。きらきら星、いっしょに弾いてくれたんだよ?」

 

 ふたりさんはふるふると首を振り、穏やかに微笑んだ。

 

「『きらきら星(Twinkle, Twinkle, Little Star)』……それは素敵だ、羨ましい」

 

 よみがえる最初の旋律。零れた言葉に、我ながら得心してしまった。

 

「僕は羨ましかったのです。そんなカッコいい、お姉様のようになりたかった」

 

 みんなとバンドを組みたい。仲間に入れて欲しい。認めてほしい。でも、誰かに話しかけるのは怖い。

 側から見ればなんでもない、けれど彼女にとっては切実な悩み、弱さ。そんな孤独を抱えた後藤さんは、それでも側から見ればどんなに情けなく、醜く見えたとしても、決して逃げ出すことはしなかった。

 

 もしも、彼女のように在れたのなら。

 

 

「よく、わかんない」

「ごめんなさい。話を小難しくするのは、僕の悪い癖です」

 

 幼いふたりさんに対して、あまりに独りよがりな独白。それでも、彼女は満面の笑みで答えてくれた。

 

「でも、お姉ちゃんのお友達なのはわかった! 送りオオカミのお兄ちゃん、お姉ちゃんと同じくらいクソ面倒くさいもんね!」

「ククッ、ふたりさんの仰る通り」

 

 子供らしい身も蓋も無さと率直さで、僕のまだるっこしさを快刀乱麻に断ってみせる。その痛快な失笑を抑えるのに苦労しながら、僕は彼女の頭を軽く撫ぜた。

 小さく可愛らしいかむろ頭をくすぐったそうに傾けて、ふたりさんはころころと笑った。

 

「では、そろそろお休みください。お二方の『きらきら星』。今度、是非聴かせてくださいね」

「うん! お兄ちゃんにも聴かせてあげるね! おやすみなさい」

 

 ペコリと会釈をして、ふたりさんとジミヘン君は廊下の奥の部屋へ戻っていく。きっと彼女なりに、後藤さんの友人なる人物のことを見極めたかったのかもしれない。おませな所はあれど、お姉様思いのなんと素敵な妹様だろうか。

 さて、と。彼女達の背中を見送り、立膝から立ち上がって後藤夫妻へと振り返る。紛れもない本心とはいえ、結局彼らの懸念通り幾らか失礼なことも宣ってしまった、と思ったのだが。

 

「……あの、いかが致しましたか?」

 

 

「良かったなあ。良かったなあ、ひとり。なあ、母さん」

「ええ、そうねお父さん。あの子のことをあんなに大事に思ってくれる子が、ひとりちゃんのお友達だったんだもの」

 

 ソファーに腰掛けたまま、感極まったように目元を押さえるお父様。彼に寄り添って、その震える肩を抱くお母様の目尻にも、光る雫が見え隠れする。

 

「まあ、正直途中までは家に上げたのは間違いだったか、とも思ってたんだけど」

「ひとりちゃんも変な子といえばその通りだし、割れ鍋に綴蓋っていうのかしら?」

 

 その感涙を引っ込ませてぶっちゃけるお二方には、流石に脱力も覚えてしまったが。全く、後藤一家は僕のことを一体何だと思っているのか。

 それが態度に現れていたのだろう、お父様はすまんすまん、と手を振った。

 

「ひとりは昔から、色々と周りについていけなくてな。その悔しさを埋めるようにギターに没頭して……」

「そんなあの子のギターをカッコいいって言ってくれて、本当に嬉しい。ありがとう水木君」

 

 一人孤独にギターを掻き鳴らす御息女の姿に、後藤夫妻も心を痛めていたはずだった。僕如きの逸れ者であったとしても、彼女が積み重ねた努力が認められ、友人という形で報われた。その喜びは、僕の想像が及ぶ所ではないのだろう。

 「本当は誰もが、どこかに弱さを抱えている」……後藤夫妻にとっては、彼女の交友関係がまさにそうだったのだ。

 

「……僕の言葉が、子供騙しの嘘だとは思われないのですか?」

「君は本当に「残念」な奴だな。ひとりが歌うからこそ、君はあの弾き語りが好きなんだろう? 全部筋が通ってるじゃないか」

「あなたがそんな嘘を吐く子なら、ひとりちゃんがあんなに懐く訳ないわ」

 

 嘘を言ったつもりはないし、その言葉の重さも覚悟の上。それでもほぼ初対面、しかも少なからず訝しんでいたらしい僕のことを、彼らは信じられるのだな。

 そんな僕の問いに、後藤夫妻は善良さが滲む苦笑を浮かべた。もっとも、そこには少なからず呆れの感情も載せられていたが。

 

「湿っぽくなっちゃったけど、食べて食べて! おかわりもあるんだから」

「そうだ、学校での様子も聞かせてくれないか? ひとりの話は、それだけだとイマイチ信用できないからなあ」

「頂きます。そしてお父様、そういう所も彼女の可愛らしさだと思います」

 

 お母様は目元を拭って明るく膳を勧め、お父様も御息女の言動に苦笑しながら話を乞う。そこに当初感じられた及び腰な距離はもう存在しない。

 

『ぼっちちゃんにも、その本当の気持ちを伝えてあげてよ。そうしてはじめて、動かせるものだってあるんじゃないかな』

 

 ……後から思えば、伊地知先輩が仰ったのはこういうことだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 ──眠れない。

 

 No sleep, No sleep, No sleep.

 No mad video machine to eat time.

 

 『路上(On the Road)』。手にした文庫本から顔を上げる。

 寝床として間借りした、鎮まり返ったリビングの隅。カーテンを捲った窓からは雲一つない深夜の空、満天の綺羅星が瞬いていた。

 

「『Twinkle, Twinkle, Little Star』。そう言えば、初めに賞を貰った課題曲がこれだったな」

 

 久しく忘れていた……いや、思い出さないようにしていた。表情まで虫食いのように欠け、灰色に染まり切った遠い過去の残滓。それでも、記憶の中の母は間違いなく笑っているはずだった。

 

 A city scene I can't explain.

 The Seine alone at 4 A.M.

 

 暖かで賑やかな食事。おませな、けれど純真な興味を瞳に乗せた妹様。幸せそうな笑顔と共に、僕へ御馳走を振る舞うお母様。僕が語る学校での後藤さんの姿に、感慨深く耳を傾けるお父様。

 あの時、間違わなければ。彼女のように在れたのなら、こんな未来が僕にもあったのだろうか。

 

 

 あり得ない。

 

 

 傷痕から走る冷たい痺れ。ぎちり、ぎちり。母が望んだ、機械仕掛けの過去が嘲笑う。

 初めて指先に熱を灯したあの夜。……どの道、あの頃の僕にはもう戻れやしなかった。

 

「お母さん」

 

 僕にあったのは役目だけ。そしてあの人との綺麗な夢。それらも全部なくしてしまった。鮮やかだったあの色と熱──それさえ、塗り潰されてしまうなら。

 だからこんなザマになり果てた。せめて、なって仕舞うことを望んだのだ。

 

 

 それでも、……羨ましい。羨ましい。

 

 The Seine alone at 4 A.M.

 Insane alone at 4 A.M.

 

 初めから持ってないのに、胸が痛んだ。

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