僕達がアルバイトとして働くライブハウス・STARRYは、法律上飲食店扱いで営業している。そして実際にもドリンクや軽食の販売を行う以上、それら商品の仕入れは当然に業務の一環であった。
そういう訳で買い出しから戻り、入り口へ手を伸ばしたその時。不意を突いてドアが自ずから、しかも勢い良く開かれた。すわ何事かと思う間もなく、胸元に些か強い衝撃が走る。
「三十路なのに未だにお人形抱かないと寝れない癖にィィィッ!!……きゃっ!?」
鼻先に触れた金糸のサイドテール。その小柄な身体は一応は男性である僕に弾かれ、完全にバランスを崩していた。
この先は更にフロアへ降っていく階段が続くのであり──拙い。
反射的に手を伸ばして、少女を胸元へ抱え込んだ。そのままドアを潜って、手すりにもたれ掛かって勢いを殺す。
「お怪我はありませんか?」
「あわわ、だ、大丈夫……」
腕の中の彼女の呆けた表情。突然のことでこちらも流石に肝が冷えた。したたかに打ち付けた背中は多少痛むものの、その少女こと伊地知先輩が無事ならばいい。
「どうぞご安全に。此処から落ちれば怪我どころでは済みませんよ」
「ご、ごめん。ありがと」
「いいえ、こちらも役得ですので」
「ばっ!? ……コイツはまたそういうことを……!」
腕の中で気恥ずかしそうに目を逸らした伊地知先輩。軽く揶揄を飛ばせば、ばっと飛び退いた彼女は悔しそうに呻いた。元を糺せば前方不注意の貴女が悪いので、この程度はご寛恕頂きたい。
「それはともかく、外にご用件があったのでは?」
「えっ?」
「何やらお急ぎのご様子でしたが、行かなくてもよろしいのですか?」
「……い、いやその、なんというか……」
じっとりとこちらを睨め付けた伊地知先輩だが、そもそも何か火急の用件があったからこそ僕にぶつかってしまったのではないか。
そう首を傾げると、彼女はフロアとこちらへ視線をくるくると巡らせた末。
「ぐっ……お、お姉ちゃんのバーカ! 水木君のクソ野郎!」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「お前らそれでいいのか」
結局説明が面倒になったのか、伊地知先輩は雑な罵倒とともに走り去っていった。店長は怒りというより困惑していたようだが、僕は妹様を丁寧にお見送りしたまでである。
「……ってちょっと水木君! 伊地知先輩のこと引き留めてよ」
「引き留めるも何も、僕は事情も存じ上げませんし」
「まあ、どうせ店長とライブに出す出さないで口論になったのでしょうが」
「分かってるじゃない!?」
「他人事って顔だな」
「貴女方の問題ですから」
喜多さんからは不満が上がったものの、僕にどうしろと。伊地知先輩は昨日辺りから浮かれ気味にライブの話をしていたので、当然と言えば当然の推測に過ぎない。
「雑用程度する」とは言ったが、僕は基本的に一介のファン、ないしはアルバイトの同僚に過ぎない。バンドとしての課題は彼女達自身で乗り越えて頂くのが筋というものだ。
「ちなみに、店長が人形を抱かないと寝ることができないというのは本当なのですか?」
「うん。多分これのこと」
「あらかわいい」
「おいやめろ! それを蒸し返すな!?」
どちらかと言えば、伊地知先輩が去り際言い放ったことのほうが興味がある。差し出された山田先輩の携帯の画面に映るのは、草臥れたパンダのぬいぐるみを描き抱いて眠る店長の寝姿。
黒い服を纏った女性──僕達アルバイトのスタッフからは役職でPAさんと呼ばれる彼女が、それを見てくすりと忍び笑い。確かに可愛らしい姿だが、個人的には携帯を奪おうとする店長の必死の形相のほうが好みではある。おお、可哀想に……。
その一悶着を眺めていると、ふと、少し体温が高く、柔らかな少女らしい感触。いつの間に僕の腕にふわりと絡んだそれは、おもむろに肘と手首を可動範囲の反対に──
「あの後藤さん、痛い痛い。なぜ腕を折ろうとするんですか」
「や、役得……なっ、なんでもないですっ」
後藤さんからの唐突なアームロック。いや振り解こうと思えば降り解けるのだが、他人に関節技を掛けて「なんでもない」なんてことは無いのでは。
首だけ振り向けて背を見やると、むすっとした彼女は隠れるように、僕の背中に顔を埋めてしまった。
結局、彼女たちは伊地知先輩を追いかけることにしたらしい。ご機嫌斜めな後藤さんも、喜多さん達に続いて階段を駆け上ってしまった。
……腕の痛みと背中の温度、それらに名残惜しさを感じてしまうのは我ながらなんともはや。そして密かに鳴ったシャッターの音を僕は聴き逃していない。
開店前の静寂が戻ったカウンターから、店長の白い目線が刺さる。
「他人様の妹に白昼堂々粉掛けやがって。ぼっちちゃんって子がありながら……」
「それを仰る前に、どうかその携帯の中身を見せては頂けませんか?」
「……」
「……」
放っておけば伊地知先輩が階下へ落ちてしまったかもしれない。そんな最悪の事態を避けるための緊急避難であり、結果的に抱き止める程度は不可抗力である。
そもそも、どさくさ紛れに後藤さんを盗撮するような輩にとやかく言われる筋合いはない。
「どっちもどっちですよ。店長は普通に犯罪ですし、水木君もこの間妹さんに怒られたばかりでしょう。女の子には優しくしてあげてください」
「丁寧な振る舞いを心掛けてはいるつもりですが──分かりました。善処しますよ」
「あ、あたしは自分の店の風景を撮っただけだ。……まあ、アイツを助けてくれた礼は言っとく」
互いの邪さを論って睨み合う僕達を、PAさんが呆れ混じりに諌めた。店長はまだしも、僕はむしろ伊地知先輩を助けただけなのだが、そのじっとりとした視線には閉口するより他なかった。
店長に指示され、PAさんとはその作業を補佐する間柄ではあるのだが……。
『いやあ、あのライブは凄かったですねぇ。私は無茶振りされて大変でしたけど。大変でしたけど』
『大変申し訳ありませんでした』
最初の顔合わせでの会話。美人が怒ると怖いというのか、盛大に青筋を浮かべた彼女の笑顔は特に印象に残っている。
作業に加わって改めて痛感したが、音響の調整というのはライブにとって極めて重要かつ繊細な作業である。あの時はその場のノリでやらかしてしまったものの、本番直前で想定外の楽器の乱入など言語道断なのだ。
彼女の眼から逃れるようにキッチンへ入り、取り落とした手提げ袋を覗く。……幾つかの商品は買い直さなければならないな。
「それで、やはりオーディションの話で揉めたのですか?」
「聞いてくださいよ水木君。店長ったら、妹さんに『一生仲間内で楽しく放課後やっとけよ』なんて言っちゃうんですよ? まったく身内だからってひどいと思いませんか?」
「うっせ、身内だからだっての」
僕が逸らした話題に応じて、口を尖らせたPAさん。彼女の非難にも、店長は不機嫌そうに出口のほうを見据えたままだった。字面だけを見れば、確かに中々酷な物言いではあるが。
ガシガシと荒っぽく頭を掻いた店長は、苦虫を噛み潰したような表情で独白する。
「内輪でやるだけならまだしも、プロを目指す以上は楽しいことばかりじゃない。昔から虹夏は妙に楽観的というか、見通しが甘い所があるからな。今のうちに一度ガツンと言っとかないとダメなんだよ」
店長による伊地知先輩評。それ自体には一理あるとは思う。
『来月ライブできるようお姉ちゃんに頼んでくるね!』
『えっ、まだ言ってなかったんですか!?』
『だいじょーぶ! この前もすぐ出させてくれたもん!』
事実、小耳に挟んだやり取りによれば、伊地知先輩は身内であれば無条件に出演枠を割いてもらえると期待していたらしい。店長がお遊びでライブハウスを経営しているはずもなく、先輩が手酷く遇らわれたのもむしろ当然ではあった。
しかしそもそもの話、『前回は思い出作り』だったそうだが。
「結局身内贔屓じゃないですか。元はと言えば、貴女が甘やかすからそうなるのでは?」
「うるせぇ、それがなきゃお前もステージに上がってねえだろ」
呆れ混じりに半目を向けた僕へ、店長は逆上気味に開き直った。僕への対応といい、彼女も大概優しいというか甘いというか。それが良い所でもあるのだろうが、今回は悪いほうに出てしまったと見える。
「大体、半分はお前のせいでもあるんだぞ。最初のライブなんて恥かいてなんぼだってのに」
「過大評価と言いたい所ですが、仰りたいことはわかりますよ」
揶揄への不服以上に、店長もあのような物言いは不本意だったのかもしれない。無事な荷物を取り分け、背後の棚へ納めることで僕は店長から目を背けた。
聞く所によれば、5月のライブは意外に評判が良かったという。演奏の出来そのもの、そしてそこに僕の力がどれだけあったかは怪しいとはいえ、「失敗から反省と奮起を促す」意図は挫いてしまったらしい。その意味では店長の仰る通りなのだろう。
「助太刀を責められちゃ水木君の立つ瀬がありませんよ。それに彼がいなきゃ後藤さん、ステージに立てなかったんじゃないですか?」
「けっ。もう半分は八つ当たりだ」
PAさんのフォローに面白くなさそうに吐き捨てた店長は、おもむろにタバコを取り出す。彼女は手の内で弄んだそれに火を灯しながら、んで水木、とその鋭い眼をこちらへ差し向けた。
「お前はアイツらのこと、どう見る?」
「僕の見解をオーディションの参考にされても困りますよ」
「たりめーだ、ただの雑談だよ。ぼっちちゃんと喜多はお前のほうがよく見てるだろ」
所詮一介のアルバイトに過ぎない僕如きが結束バンドのオーディション合否、ひいては彼女達の将来に責任など負えない。そう諸手を挙げた僕を、店長は鼻で笑い飛ばした。
……その割に、お二方の目から真剣味が消えないのが少々嫌な感じもするが。ひとまずはその言葉通り、情報共有だと思っておくか。
「そうは言っても水木君、下手なインディーズバンドよりも場数踏んでそうな雰囲気してますけどねえ」
「まさか。多少コンクールに縁があったという、その程度ですよ」
PAさんはくすくすと悪戯そうな忍び笑いをするばかり。僕はただの演奏家崩れに過ぎないのだがな。
それはさておき、暇潰しの思考実験としては悪くない余興ではある。身体を過去へ潜らせ、あの音達を呼び起こす。五月のあのセッションへ、彼女達との規律・訓練へ──
──やりたい放題に暴れ回る六弦の嵐。
──協奏者を後ろから刺すベース。
──散々に振り回されズタボロのドラム。
──その混沌へ飛び込む初心者ギターボーカル。
……嗚呼。
「どうするんですかこれ。僕抜きでまともに演奏が成り立つのか」
「お前あたしより酷い言い草してんな」
「来週土曜13時よりオーディションが実施されます。そこでブックの可否を決定するとのことです」
待ち合わせスポットとして有名なとある広場の一角。
「今はあたしの話なんか聞きゃしないだろ」という店長の指示を受けて、僕は結束バンドの面々に言伝を伝えていた。
愚痴を並べていた彼女達を見つけるのはさほど難しいことではなかった。幾ら下北沢広しといえど、衝動的にスタジオを飛び出した高校生が屯できる場所は限られている。
「な、なーんだ、ライブに出られない訳じゃなかったのね」
「ふっ、そんなことだと思ってた」
「役得……」
なぜか後藤さんはこちらを目にするや否や、一目散に僕の背中に隠れてしまった。果たして機嫌を直して頂けたのだろうか?
ともかく、胸を撫で下ろした喜多さんの一方、冷ややかに鼻を鳴らした山田先輩。……しかし、そのこめかみからは一筋の冷や汗が垂れる。大体、オーディションに合格する保証などどこにもないのだが。
「……だったら最初からそう言ってくれればいいじゃん」
一方、行儀悪くジュースを泡立ててむくれていた伊地知先輩。
「店長曰く、伊地知先輩は発想がお花畑のクソ甘っ垂れなので、一度現実を思い知らせる必要がある、と」
「んだとぉッ!?」
──そこまでは言ってねえよ!?
そんな彼女も、店長の無体な物言いには地団駄を踏んで憤慨した。無体なのはお前だという抗弁も空目したが、「一生放課後やってろ」なんてのも大概暴言でしょうに。
まあ、店長に言わせれば僕が悪くもあるのか。我ながら柄でもないのだが、……背中の後藤さんに身振りで少し離れてもらった。あんな説教をかましてくれた癖に、仕方のない先輩である。
「というのは流石に誇張ですが。しかし前回のライブで僕が恃みとしたのは伊地知先輩、貴女ですからね」
「えっ?」
瞑目しつつ、端的にそう告げる。
確かに技量こそ山田先輩には及ばないかもしれない。だが、あの六弦の嵐による破滅的なアップテンポと、即興の変拍子の
「そんな貴女が店長からの非難を良しとしたまま不貞腐れている。それは僕としても残念なのです」
あの最初の演奏を自身らにとっても「特別」なのだと仰ったのは伊地知先輩ではないか。そう薄く差し向けた眦に、先輩は気まずげに頬を染めた。
「それとも、店長に「放課後」などと言われっぱなしで構わないのですか?」
「うぐっ、……わ、わかった、わかったよ! やりゃいいんでしょ!?」
呻いていた彼女もついには居直ったらしい。白目を剥いて噴き上がりながらも、ともかくやる気にはなって頂けたようで何より。しかし「顔だけはいいんだからなあチクショウ」とは心外だ。
本当の気持ちを伝えろという、貴女の薫陶を実践したのみなのだから。……まったく、柄でもない。
「落として上げてオトす。あれがバンドマンのやり口だからな」
「悪いバンドマンですね!」
「役得……」
あと、人付き合いの経験が少ない
僕とて結束バンドの背を押す一人。彼女達の活躍をステージで観たいのは当然だし、そのリーダーには発奮して貰わなければ困るのである。
「……あれ? よくよく考えるとガッツしか褒めてなくない?」
別に嘘は吐いていない。あの時の後藤さんは勿論、山田先輩も信頼はともかく信用は一切できなかったからな。いわゆる相対評価という奴だ。
またしても猫の目のようになった伊地知先輩の視線から、僕はすっと目を逸らした。
閑話休題。
「何にせよ、オーディションに受かればいいのよね! 後藤さん、頑張りましょう!」
「あっ、は、……はい!」
「……」
駄々っ子の初心者ギタボと我らが六弦の嵐。僕をしてそれなり以上に手を焼いた彼女らが和気藹々とはしゃぐその光景に、伊地知先輩はなんとも言えない表情を浮かべた。
「この二人が一番不安なんだけどなあ、って顔」
「ギクッ」
まあ、前回の被害担当艦として嫌な予感を覚えるのはお察しするが。
「誰が被害担当艦か。というかお前が言うなお前が」
「僕が恃みにしたのは伊地知先輩ですから」
「コイツ……!」
「まあ実際、郁代もぼっちも頑張ってるし。虹夏もうかうかしてられないかもね」
「リョウもリョウで、高見の見物みたいな顔しやがって」
「高みにいるからさ……!」
後輩からの思わぬプレッシャーに呻く伊地知先輩の悪態にも、山田先輩は余裕綽々といった様子。彼女は青髪を手櫛で流しつつ、微笑ましげにフロント組のじゃれ合いを眺めていた。
僕としても、先の放言は半分以上冗談だ。
伊地知先輩は上で述べた通り。後藤さんは先の特訓で他人と合わせることを覚え始めたし、山田先輩の仰る通り、喜多さんの技量の伸長も目を見張るものがある。先輩御自身も僕相手だから
以前のライブを思い返す。
積んでは崩れる仮初の秩序を積み上げ続ける綱渡り。そんな彼女達がどんな秩序を作るのか、中々想像がつかない。そこが不安であり、楽しみでもある。
『お前そういうのやめろよ。一々笑えねーんだよ』
『冗談に聞こえなくて怖いんですよねぇ』
そうした僕の思考開示に、店長とPAさんはげんなりしながら苦言を呈された。「ただの雑談」を真面目にやれと言われても困るのだが。
「山田先輩はお高く止まってないで、お二方を助けてあげてくださいね」
「ハッ、お前と違って
「
「だから「可愛い」の意味が違うから。喜多ちゃんに刺されても知らんぞ。あとマジ舐めるなよ水木」
音楽方面の能力や知見は認めるものの、それはそれとして信用ならないのが山田リョウというベーシストだった。僕のような輩だからなんとかなっただけで、本来は協奏相手を後ろから刺すなど論外である。
若干の怨恨も込めた揶揄も、山田先輩は柳に風と受け流すばかり。腹立たしくはあるが、しかし喜多さんについての見解は一致してもいた。
……痛い痛い。伊地知先輩、御自身も該当するからと言って実力行使はやめて下さい。
「そこのクソ野郎は置いといて、お姉ちゃんも流石にあたし達全員リョウみたいに弾けるようになれ、とは求めてないと思うんだ」
「じゃあ、店長さんは私達の何を見るんでしょうか?」
「んー……熱量? あたし達のバンドとしての成長?」
軋んだ肩を回す僕を睨め付けながらも、喜多さんの疑問に思案気に答えた伊地知先輩。
実際、一週間という短期間で技術的側面を劇的に改善することは難しい。そこを敢えて挑発してまで発奮を促すからには、課題は技術以外の部分。彼女らの意識付けや、バンドとしての一体感の醸成という訳だ。
全く世話焼きな姉御様である。そう僕やPAさんから弄られる店長は実に
「認めるのは癪だけど、あの時の私達だけで5月のあの演奏はできなかったからね」
「あたし達があれからどんなバンドになってるのか。それを見るんじゃないかな」
青い金色の視線がこちらの背を鋭く突き刺す。
僕があそこへ残したものから、彼女達が自身で如何なる秩序を打ち立てるのか。畢竟それこそが店長やPAさん、そして僕が期待するものである。
「……バンドとしての、成長……」
会話の隅で小さく、俯きがちに落ちた後藤さんの呟き。それがやけに耳に残った。
「それで、貴女方は一体何をされているのですか?」
「バンドマンとしての成長をアピールするため、形から入ってるの!」
「バンドマンといえば飲酒、女遊び、煙草。そして髪型はキノコヘア」
翌る日のSTARRYのスタジオ。山田先輩と彼女に唆されたらしい後輩二人は、マッシュルームヘアにスーツを着込んだ典型的なバンドマンの男装でポーズを決めていた。
別にそういうのは期待していない。少しの時間も惜しいだろうに……。
「くだらないことをやっていないで規律・訓練をしてください。それとも、外見だけではなく身体と精神も
「ひっ!? お、鬼! 悪魔! 水木南!」
浮かれ気味に自撮りをしている喜多さんの様子には、自ずと視線の温度も下がる。
頻度こそ減ったものの、なし崩しで続いている自主練習。僕もそれなりに時間を割く規律・訓練を、こんな放埒で台無しにしようとは良い度胸である。
「C・Am・Dm・G」などと呟きながら歩み寄れば、彼女は竦み上がって例の罵倒を返してきた。相変わらず、他人の事を鬼畜生のように。
「あっ、かわい……肌、白……グフッ、ろ、ロインID教えてくださいっ……!」
「……これはまた何事ですか?」
「
「水木君は悪いバンドマンですからね」
喜多さんの醜態に呆れ返っていると、不意に傍から僕の顎に手が伸びる。形だけは女性を口説く仕草と言えなくもないが……。
必死の形相でえげつない距離の詰め方をする後藤さん。その意図を測りかねていると、形から入ったバンドマン達が失礼なことを宣った。女遊びをした覚えなどないし、これが僕の真似というならそれはそれで極めて遺憾である。
「けど、
「!?」
感心したように揶揄を飛ばす山田先輩に、後藤さんは愕然とした表情を浮かべた。別に僕は女性ではないのと、ロインも何も携帯端末を持っていない。
「ううっ、み、水木くんと喜多さんを真似しただけなのに……!」
「水木君はまだしも、私を何だと思ってるの!?」
「まあ、ぼっちは下北沢のピレパン前でけだるくギターを背負ってるタイプじゃないし。手本は必要か」
晒してしまった醜態に耳まで真っ赤にして、両手で顔を覆ったピンクのマッシュヘア。おお、お労しや後藤さん……。あと喜多さん、貴女こそ僕を何だと思っているのですか。
そしてやけに具体的な例を挙げた山田先輩だったが、なぜそこで僕を見やるのか。僕は元クラシックの演奏家であって、バンドマンでは決してない。
はあ。バンドマンのパブリックイメージへの重大な風評被害に嘆息しつつ。
掛けてあった余りのジャケットを羽織る。
コスプレ衣装特有の些か安っぽい着心地は頂けないが、形は案外重要だ、という点は喜多さんに同意してもよい。演奏家としても、演奏の際の一張羅には多少の拘りもある。
「後藤さん」
「ひぁっ!?」
そのまま、項垂れていた後藤さんの肩に手を添えた。唐突な感触に思わずびくりと肩を震わせ、前髪の奥からこちらを見上げたその青の瞳が美しい。
「いつもの長髪も美しいが、今の短髪もまたよくお似合いだ。スーツとの相性も悪くない」
「えっ、あっあっ、そ、そんな、私なんか……!」
「こうして改めて見ると中性的な魅力もありますね。僕等よりよほど男装の麗人だ」
おや、彼女はどうやら
「白い肌、というならむしろ貴女のほうだ。本当は前髪を上げてもよいと思いますが」
「! あわっ、あわわ……!?」
「おっと失礼。いや、今の貴女もまた可愛らしい」
くしゃり、と肩口からの手櫛で髪を梳る。……と、前髪に触れたところでぶるり、と後藤さんが怯んだのが指に伝わった。今はここまでか。髪を撫でつけて宥めれば、少女はたじろぎながらも林檎のように頰を染めた。とろんと滲む青い瞳がいじらしい。
うなじと承認欲をくすぐられ、その輪郭をふわふわ緩ませる様は実に僕好みだった。
「ふふ。いっそこっそり抜け出してしまいましょうか。丁度裏のスタジオも空いているはずだ」
「ふぁ、ふぁい……」
「こっそりどころか、真正面からお持ち帰りしてやがる。やっぱり悪いバンドマンじゃないか」
「リョウ先輩! と、止めなくていいんですか!?」
蕩けてしまった後藤さんの背をそっと押して促す。手本を示せと仰ったのは山田先輩であり、「スタジオでナニするつもりだ」とは心外である。僕を口説こうと言うのなら、求める対価はただひとつ。
「今なら誰の邪魔も入らない。貴女の弾き語り、とくと聴かせて頂きたい」
「痛ッ、痛い痛い。ジャケットが皺になるのでアームロックはやめてください」
「水木くんは意地悪です! すっごい意地悪です!!」
「結局ソレなのね……。ブレないというか、めげないというか」
「作詞の件で全然懲りてないな」
「……みんな何してんの?」
先日と違って本格的、そして僕をして割と脱出困難な腕緘。
あの、痛い痛い。後からやって来た伊地知先輩も呆れていないで、そろそろ助けては頂けないだろうか。ちょっと本気で折れそうなのだが。