あっという間に時間は過ぎて、オーディションの当日。ライブハウス・STARRYの机に座る店長さんやPAさん、その側に立った水木くんの前で、私達はステージの上に立っていた。
「くどいようですが、僕は一介のアルバイトですからね。後で文句を言われても困りますよ」
「別に今更。『見てろ』って言っただろ」
「逆に聞きますけど、水木君は聴きたくないんですか? 彼女達の演奏」
「……分かりました。そこまで仰るなら、大人しく役得に与るとします」
フロアにいる彼の苦々しい嘆息。それを遠目に、私はここでアイボリーの指板を握る。五月以来のSTARRYのステージ。
もう一度、この場所でライブをやるため。私達のバンドとしての成長を示すためのオーディション。長いようで短い、機材の準備が終わる。
「結束バンドですっ。じゃあ、『ギターと孤独と蒼い惑星』って曲、やりまーす!」
少し強張った声を張り上げた虹夏ちゃん。彼女のシンバルと共に、私達の曲が始まるその間際。
──オーディションの少し前、STARRYまで続く街路の脇。
あの夜、彼が項垂れていた自販機の傍。私を見つけて、こちらに軽く手を振る水木くんがいた。
「後藤さん、お疲れ様です」
「あっ、み、水木くん。……やっぱり、来てくれますよね」
この間から、虹夏ちゃんを揶揄う水木くんになぜかもやもやしたり、あ、あんなに私をおだてておいて、結局「弾き語りを聴かせろ」なんて。一人だけドキドキしていたのがバカみたいじゃないですか!
彼があの弾き語りを馬鹿にしている訳じゃないのは知っているけど、「可哀想は可愛い」なのも間違いないのだ。ひどいよ。
そんなこんなでなんとなく気持ちを言葉にできなくて、水木くんを真っ直ぐ見れなかった。……今更、遠慮なんてすることもないのにね。
そんな彼は言えば、オーディション本番の大事な日にも変わらない澄まし顔。他人事みたいでちょっとムカつくけれど、いつも通り水木くんと話せて、ほっとしている私もいた。
「お前も来い、と厳命されましてね。役得は役得ですが、どうも店長達は僕が単なる一アルバイトであることをお忘れであるようだ」
あ、あはは……。水木くんはいっそ煙たそうに、その濡羽色の髪を揺らした。店長さんやPAさんが彼に一目置く気持ちもわかるとはいえ、当人からすればありがた迷惑なのかもしれない。
その様子に浮かんだ苦笑も、まとまらない鈍い思考の重みで、直ぐに下を向いてしまった。……普段そのままの私といえば、それまでなんだけど。
「何かお悩みでも? オーディション前に聞くことではないかもしれませんが」
「えっと、あの。……昨日、虹夏ちゃんと話したんです。叶えたい夢があるんだって」
「夢、ですか」
気遣わし気な水木くんの声。本番前に、あまり悩み込んでも良くないんだろうけど……昨日から、もやのように纏わりついて離れない。
『本当の夢はその先にあるんだけど』
『でも、まだぼっちちゃんには秘密だよ!』
武道館でライブをやる、その先にあるという虹夏ちゃんの本当の夢。隣で相槌ちを打つ彼には心当たりもあるんだろうか。バンドをやる理由、それは私にも返ってくる。私は何のためにバンドをやってるんだろう?
今時、バンドじゃなくたって音楽活動をする場はある。それこそguitar heroのような動画配信も楽しいし、ぼっちで陰キャの私には合っている。でもだったら、私はどうしたいんだろう。私は、何が欲しいんだろう?
……昨日一晩考えても、結局答えは出なかった。そんな煮え切らなさを抱えたまま、本番の朝。下北沢まで私は来てしまった。
「水木くんなら『時間の無駄です、訓練してください』とか言うんでしょうけど」
「僕を何だと思っているんですか。本番前は休息を取ってください」
なんとなくその無愛想な顰めっ面を真似れば、別に他人の悩みを一々否定はしませんよ、と彼も同じように嫌そうな顔をした。
最近気付いた。水木くんは反応が薄かったり変だったりするだけで、よくよく見てれば案外、表情そのものはわかりやすい。……何考えてるかは、相変わらずよくわからないけど。訂正するのがそこでいいんですか。
「だったら……水木くんは、どうして音楽を始めたんですか?」
わからないといえば……彼の左手の傷跡。
あの夕暮れの階段の、言外の拒絶。恥じ入るように俯いた横顔を見てしまったら、何があって左手がそうなったのか、踏み込むことなんてできなかった。
でも、水木くんはそもそも何を音楽に求めたんだろう。何が欲しかったんだろう。終わりではなくてその始まり、彼の原点が知りたかった。
「後藤さんの弾き語りですね。あれは最高です」
「すぐわかる嘘を吐かないでください! 一応真面目に聞いてるんです!」
本ッ当に何考えてるかわからない! いや、ある意味わかりやすいけど、まず時系列からおかしいじゃないですか!
こっちの気も知らないで、欲望に忠実にトンチキな答えを返した唐変木。もとい水木くんは、別に嘘ではないんですが、なんて不服そうに口を尖らせる。悪意が無いのはわかってるけど、なんだかなあ。
けれどその薄っすらとした情感を苦味で色付けて、彼は僅かに息を漏らした。
「しかし、ふむ。音楽を始めた理由、あるいはきっかけですか」
「え、ええと、言いづらかったら無理には……」
「いえ。単にあまりそういうことを意識したことがなかっただけです。ピアニストになることは、僕の役目のようなものでしたから」
……役目?
思わず浮かんだ疑問が顔に出ていたらしい。苦味に少しだけ諧謔味を足した水木くんはひとつ頷いて、それからSTARRYのほうへと歩き出した。ぼうっとしていた私も、慌てて駆け足で肩を並べる。
お昼前の街の喧騒、数拍の間奏。かつり、かつり、二足のローファーの足音が響く。
「母は若い頃、ピアニスト志望だったそうです。その夢を子に託す。よくある話でしょう?」
「でも、それはお母さんの夢で、水木くんの夢じゃないんじゃ」
「ええ、だから役目。今となってはどうでもいい話ですが」
お母さんの夢を叶えるのが、水木くんの役目。
でも、彼は左手を壊してピアノをやめてしまっていた。お手上げ、とばかりに芝居掛かった仕草で肩を竦めた後ろ姿。まるで風雨に幹を曲げて、
街路樹が日差しを遮ったその木陰に、彼は自身への嘲りを隠す。
Discipline is never an end in itself, only a means to an end.
母が求めた正しい演奏、そのために。
「僕にとって音楽とは目的のための手段でした。それより上でも、それ未満でもなかった」
『そうでなければ
リョウさんもそう言っていた。もしも他人のために……お母さんの夢を叶えるためだけに、音楽をやっていたなら。私なら早々に嫌になってしまうだろう。彼の小さな独白には、隠し切れない疲労が篭っていた。
それでも、水木くんのあの演奏を思い出す。冷徹な技量と熱い情熱。私をぎゅっと抱きしめて、鍵盤に、六弦に心を動かされる充実。あの演奏を、彼が言う「目的のための手段」だなんて思いたくなかった。
「ただ、まあ」
俯いた私の様子に、ふっと優しく喉を鳴らして。歩幅を広げて私を追い越した水木くんは、枝葉を揺らすようにゆっくりとこちらへ振り返った。
通り抜ける風に黒髪が揺らめく。少し可笑しそうに、寂しそうに。矛盾する感情を言の葉に乗せて、並木が静かに騒めく。
──僕のようなつまらない顔をしている奴に、綺麗な音楽を伝えること。
「それが夢だと言ってくれた、お節介焼きが居たんですよ」
濡羽色の髪に隠れて、影になった微笑。その黒い瞳は、それでも深く澄み切っていた。夏の大気を枝葉で冷やした、涼しい風が頬を撫ぜる。空を覆うほどに広がる枝振り。どこまでも見渡せるのに、その頂上は見通せない。
水木くんの太い幹には、もう洞が広がっている。
「僕が真に音楽に触れたのは。もしかしたら、それが最初だったのかもしれませんね」
そんな言葉を嘯いて、彼が穏やかに笑う。
嬉しいはずなのに、「音楽が好きじゃない」だなんて聞きたくなかったはずなのに。傍にいるのに近寄れない、遠くへ離れていってしまう。私には見えない追憶を瞳に映した、私の知らない水木くん。
初めてじゃない。あなたは時々、遥か遠くを眼差すような顔をする。
とめどない震えを抑えようと、胸元で手を握り締める。どうしようもなく胸が詰まって、泣き出したくて堪らなくなる。手を伸ばしたくて、一歩でも踏み出したくて、なのに脚は竦んで。
「そういう後藤さんは、どんなきっかけでギターを始めたのですか?」
「えっ……えっ?」
そんな私を知ってか知らずか、水木くんはふっと相好を崩して、おもむろに問いを投げ返した。その不意打ちに、豆鉄砲を喰らった鳩のごとく頭が真っ白になる。
あわわ、た、確かに、元の話は私がなんでバンドをやるかって話だったけど。でも私はそんな、エモくて格好がつく話なんて何もなくて……!
「あっ、その……せ、世界平和を……」
「お言葉を返すようですが、すぐわかる嘘を吐かないでくださいね」
「ひどい!」
咄嗟に喜多さんにも吐いた嘘を呟くも、水木くんはあっさり背を向けてしまった。流石にそれなりに付き合いのある彼には、私の卑賎な性根もバレているらしい。でも、本当に私の言葉をそのまま返さなくたっていいじゃないですか!
ふう、と溜息。彼の背中を追って、ふたたびスタジオへと歩き出す。私に合わせて隣で歩みを緩める彼は、もう私の知っている水木くんだ。静かに私を待ってくれる、少しばかりの沈黙が心地よかった。
それにひどく安心して……今更、飾ったことを言ってもしょうがないよね。
「あの、カッコ悪くて、情けない話なんですけど」
一言断って、私も自身の過去を思い返す。
色褪せた記憶。楽しい思い出なんて、とてもじゃないけど引っ張り出せやしない。
私は昔から何をやってもてんでダメだった。かけっこもドベだし、勉強も周りについていけない。話をしてもつまらない。仲間に入れて欲しいくせに、「この指止まれ」に止まりに行けない臆病者。そんなんだから、友達も一人もいなかった。
悔しくて、心細くて、いつも何とかしなきゃって思っていて、でも、何をしたらいいんだろう。どうしたらよかったんだろう。周りのすべてが怖かった。私はどこに居ればいいのか、わからなかった。
そんな時、いつかのテレビ番組で人気バンドのギタリストが「学生の頃は教室の隅で本読んでる暗い人間だった」って言っていたのを見た。
これだと思った。
バンドなら、私のような陰キャなぼっちでも、きっとあの人みたいな人気者になれる。みんなにチヤホヤしてもらえる。認めてもらえる。そう思って、私はギターを始めた。
……飾ってもしょうがない、とは言うものの。我ながらなんてしょうもないきっかけなんだろう。思わず自嘲の笑みが溢れた。
「へへへっ、くだらないですよね。水木くんみたいな立派な役目でも、虹夏ちゃんのような夢でもありませんし」
「別に今更。富と異性と名声のために音楽をやるなんて珍しくもない」
「身も蓋もない!」
情けなさにだんだん声が小さくなっていく。だけど水木くんはそんなもの些事とばかりのド直球で、私の引け目をバッサリ切り捨てた。
「大体、役目だ何だと言えば聞こえはいいですが、実際はただの束縛と過干渉です。後藤さん程度に俗っぽいくらいがむしろ健全なんですよ」
「ええ……」
当時を思い返したのか、辟易したとばかりに吐き捨てた水木くん。あんなに澄み切っていた瞳が、今はヘドロのように澱み、濁り切っている。
その大きすぎる落差と、あんまりと言えばあんまりな表現。それはそれでどうなのと思わず身を引くと、彼もちょっと傷ついたような何とも渋い顔をした。
数瞬の沈黙の後。話を戻しますよ、と水木くんは気まずそうに頭を掻いた。
「自分の現状を変えたいと決意して、何かを始めて練り上げた。要はそういう話なのでしょう?」
「でも……結局、私が陰キャのぼっちだってことは、変わらないし」
「変わったじゃないですか。事実、貴女はバンドを組んだ」
「……あっ」
そう言い淀む私に、こちらへ軽く首を傾けながら小さく口角を歪める。そう言えば、水木くんも知ってたんだ。
『高校生になったら、絶対バンドやるんだ〜!』
彼と出会うきっかけになった、あの弾き語り。クソな弾き語りだと思っていたけど、水木くんは大切に思ってくれていた曲。そこで私は確かにそう歌って、そして水木くんと、虹夏ちゃんとリョウさんと出会って、みんなと初めてバンドを組んで。みんなで突っ走って、かき鳴らして……。
──突然降る夕立 嗚呼、傘もないや
──空のご機嫌なんて知らない
バイトはまだ一人じゃ全然こなせないし、みんなに合わせるのも苦手。陰キャでぼっちな私は変わらない……でも。
「少しは成長、できてるのかな」
「それは今日のオーディションではっきりすることですね」
「意地悪」
口から飛び出したその言葉に、隣から鼻を鳴らす音。目を細めて頬を膨らませても、僕は事実を述べたまでです、なんてしらばっくれて。
みんなとバンドを組んで、ライブしたその後も。バイトして──熱を出しちゃって、水木くんに連れて帰ってもらったんだった。そして喜多さんをもう一回誘って、虹夏ちゃんたちとアー写を撮って。水木くんと喜多さんと三人で特訓して、セッションもして……。
「楽しかったなあ。すっごく、楽しかったなあ」
隣からふっと小さく、声にならない同意が溢れる。
「まあ作詞は大変だったし、水木くんはツンデレクソ野郎でしたけど」
「……山田先輩が変な言葉を吹き込むから。あの件は謝ったじゃないですか」
「ふへへ、水木くんが意地悪なのが悪いんです」
──季節の変わり目の服は何着りゃいいんだろ
──春と秋 どこいっちゃったんだよ
水木くんのこと、疑ったこともあった。リョウさんと虹夏ちゃんのお陰で仲直りできたし、私にとっては今はもう胸の奥底で灯る大事な思い出。
でも、彼からすれば苦い記憶でもあるんだろう。ちょっとだけ、いい気味だなんて思ったりもして。
水木くんは頬を赤らめた顰めっ面をして、それがおかしくて二人でケラケラと笑う。けどあんな風に、人に話を聞いて貰ったのもはじめてだった。
……あっ、そういえばリョウさんにお金、返して貰ってないや。
もしかしたら、人生で今が一番楽しいのかもしれない……ううん、もっと楽しいことが待っている。私がちやほやされたいのは変わらない。でも、みんなでもっとライブがやりたい。みんなで人気者になりたい。虹夏ちゃんの夢も叶えてあげたい。
そして……左手の傷跡。彼はもう、僅かばかりしかピアノを弾けない。
──息も出来ない 情報の圧力
──めまいの螺旋だ わたしはどこにいる
それでも痛みを押して、私に手を差し伸べてくれた。喜多さんの想いに応えて、特訓にも最後まで付き合ってくれた。
どうしてだろう。彼の背に隠れて、不思議なくらい心が落ち着くのに。
ひとりのことだけ心に留めて。
いとしのそれすら頭にない。
どうしてだろう。彼を想って、こんなにも心が揺れるのは。今もとくんとくんと、胸の鼓動が鳴り止まないのは。
なら、私は。
「水木くんは、今は、ピアノが好きなんですよね?」
やっぱり。よくよく見てさえいれば、水木くんの表情はわかりやすい。
彼が答えを返すまでの一瞬の間隙。髪が目元を隠して、吐息がわずかに揺れる。倦厭と親愛。苦痛と寂寞。相入れない、冷たくて暖かな万感の想い。
──こんなに こんなに 息の音がするのに
「はい。貴女に思い出させて貰いましたから」
僅かに笑みが滲んだ。私を不安にさせないための、包帯のような優しい嘘。本当の自分なんて、好きになれやしない。好きになれる訳がない。わかるよ。だけど、……だけど。
──変だね 世界の音がしない
冷たく、熱く、優しい音。
それでも私は、君の弾き語りが聴きたい。
長いようで一瞬の回想から、意識を引き上げる。
……そっか、うん。これが、これが私がバンドをやる理由。
傷を暴きたい訳じゃない。でも、側にいるのに遠くに居る、あの眩しい朝を越えたその先へ行きたい。あなたの本当の想いに触れたい。
地面を踏み締め、レスポールの指板を握る。
視界にわずかに青い火花。
だから私は……オーディションなんかで、躓いてなんていられないんだ!
──足りない 足りない 誰にも気づかれない
──殴り書きみたいな音 出せない状態で叫んだよ
かき鳴らせ、かき鳴らせ。
もっと強く、激しく、殴り書くように弦を弾く。
伝え方も分からなかった私の音。泣き出したい、叫んでしまいたい私の思い。全部、全部青く燃やして。虹夏ちゃんに、喜多さんに、リョウさんに、みんなの音に思い切りぶつけて。
息を呑む音も聞こえない。
まるで六弦の嵐だと見出してくれた、私のギター。私の全部を乗せた風が、あなたの
──「ありのまま」なんて 誰に見せるんだ
──馬鹿なわたしは歌うだけ
かき鳴らせ、かき鳴らせ!
嵐が去った夜の街灯。
今日が終わっていく赤橙。
校舎の片隅、光る朝との邂逅。
ひとりぼっちだった私を見つけてくれたのはあなただった。私の弾き語りを、弱さを、孤独を、ありのまま見てくれたのはあなただった。
『私が、水木くんのこと、……た、助けますから!』
助けたいのは……私の歌で、ひとりぼっちじゃないって笑ってくれたのは、あなただけだ。だから……
馬鹿な私は、
──ぶちまけちゃおうか、星に
「「「「ありがとうございましたっ!」」」」
演奏は終わり、フロアに静寂が戻った。
心地よい疲労の熱に鼓動が昂まり、知らず肩が上下する。
……手ごたえはある。音に力は籠められたし、リョウさんや虹夏ちゃん、喜多さん……みんなともいつも以上に合わせられた。というより、ぶつかり合えたことは感じた。
後はあの三人に、水木くんに届いたかだけ。彼はフロアの真ん中で、静かにこちらを見据えていた。深い森が微風に揺れるように。
店長さんは口を開いた。
「いいんじゃない?」
「と、言いたいトコだけど。水木」
「何故僕に振るのですか」
「お前だって言いたいことの一つや二つあるだろ」
「私もちょっと聞いてみたいですねぇ、水木君の感想。ふふ」
店長さんは頬杖をついたまま、隣で立っている水木くんへ話を振った。彼は懸念通りの展開に眉を顰めたものの、店長さんやPAさんに促されては仕方がないらしい。
水木くんは姿勢を正し、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「では、僭越ながら」
その言葉を皮切りに……彼の周りの空気が歪んで、ライブハウスの温度が下がっていく。俯きがちに表情を影で隠して、眼だけが凍てつくような光を放つ。
『まるで機械仕掛けのご令嬢のようだ』
リョウさんが言っていた、かつての水木くんを揶揄する言葉。外見や名前に多少なりともコンプレックスを感じていた彼にはひどい皮肉。
けれど、その言葉そのものは的を得ていたらしい。形容そのままの美しく冷徹な演奏家。超一流のピアニストだったという彼の、その冷たく湿った黒い瞳が私達を突き刺す。
「ドラムス」
低く、平板に響く冷たい声。
「力み過ぎです。それが打拍を粗雑にして、自らリズムを乱している。死ぬ気のガッツと、無駄な緊張は違いますよ」
「っ! ご、ご指摘、……ありがとう、ございます」
客観的な事実の指摘。正しく的確で、だからこそ反論を許さない。演奏の疲労の熱さえ奪う冷たさが身体の芯に走っていく。
虹夏ちゃんも否定できないのか、悔しそうに顔を歪めて俯いてしまった。
「リードギター」
私の番。ごくりと、息を呑む。
「リズム隊はまだしも、バッキングを押し潰している。全体で調和してこそバンド、貴女だけが前に出れば良いというものではない。全体のバランスを考えてください」
「ううっ……」
黒髪の影に目元を隠した、演奏家としての水木くん。彼は私のギターを冷静に、精確に批評する。そこに一切の熱はない。
確かに彼の言うとおり。もっと、もっとみんなの音を引き出さなきゃいけない。ライブは私だけじゃなくて、喜多さんの、みんなのものでもあるんだから。
でも……彼の表情がわからなくて、怖い。ぎゅうっと鳩尾が詰まる。
「バッキング、ボーカル」
視線は私から隣へ移る。
「リードギターもそうですが、前を向いてください。パフォーマンスを向けるのは観客です。後はボーカルとして、根本的に声量が足りない。リードギターに見合っていない」
「は、はい……。もっと、頑張り、ます」
分かっていたはずなのに、ぐるぐると思考が回る。冷たい悪寒に目の前が暗くなって、言われたばかりなのに視線が下を向いてしまう。
それは喜多さんも同じなんだろう。ぎゅっと口をつむんで、溢れそうな涙を耐えている。
「そして、ベース」
平板な声色に少し、険が加わった。
「ご自身の演奏に浸り過ぎです。先日申し上げた通り、もっとお二方を助けてあげてください」
「今日のぼっちの出来なら、下手に遠慮せずにぶつかったほうが面白いと思った」
「それでバッキングは見殺しですか。貴女は彼女にも手を伸ばせる器でしょう」
「……チッ」
流石にリョウさんは言われっぱなしじゃなかった。この演奏に自負があるからこそ、胸を張って彼に対峙できる。
けれど、水木くんは揺らがない。喜多さんのことも考えろという冷徹な正論に、リョウさんも舌打ちしたきり口を閉ざしてしまった。
「そ、それは私がヘタクソだからっ……!」
「いい、郁代のせいじゃない。水木が言ってるのはそういう話じゃないんだよ」
喜多さんが声を上げるのを、リョウさんはわずかに苦笑しながら諌めた。
水木くんが言った通り、全体の調和があってのバンド音楽。それは個人の腕前とはまた違う問題で、リョウさんと……私の問題だった。
もっとみんなのことを考えれば、もっと合わせられるように練習していれば、彼に届いたかもしれないのに。……後悔に背筋が凍って、身が竦んで一歩も動けない。
青褪め切った雰囲気の中、フロアとステージを凍らせていた張本人は──
「とまあ、こんな所ですか。……おや、いかが致しましたか?」
私達の様子に、キョトンと首を傾げた。
「加 減 し ろ 莫 迦 ! 相手は駆け出しバンドだぞ!?」
「も、もう少しなんというか、その、手心と言いますか……」
「改善点を指摘しないで何が講評ですか。別に無理難題を言った覚えもありませんよ」
「講評しろとは言ってねーんだよ」
目を剥いた店長さんの隣で、PAさんも冷や汗を流している。……ここまでガチの批評をするとは思わなかったのか。二人が叱り付けるのにも、贔屓や手心が混ざっては有用な指摘にならない、と水木くんはかぶりを振るばかり。
いや、確かに言っていること自体は至極真っ当だし、声を荒げたり私達を貶す訳でもなかったんだけど。か、顔が怖いよ……。
「大体、先程から何やら勘違いされておられるようですが」
彼は芝居掛かったように諸手をかざして。
「僕は単なる一アルバイトですから、先の指摘は合否の判定には一切関係ありませんよ」
凍った空気をちゃぶ台ごとひっくり返した。
えっ……?
「「「ええええぇぇぇーっ!?」」」
「当然でしょう? それを判断するのは店長であり、PAさんだ」
「こ、この、クソ野郎が……」
「お前さあ。お前、本当にさあ……」
い、今までの話はなんだったのか。あまりの落差に目が回りそうだ……。
驚愕に絶叫した私達に動じた様子もなく「だから僕に振るなと言ったのですよ」なんて白々しくぼやく水木くん。あのリョウさんがしなしなと肩を落とし、店長さんも眉間を押さえる。
「はあ……。じゃあ、講評とか抜きの素直な感想はどうなんですか?」
同じく疲れ切った様子のPAさんに聞かれた水木くんは、フンと嘆息したまま目を閉じる。
バラバラな個性を束ねた、ひとつの音楽。
はらはら胸を焦らす、次節がどうなるかもわからない期待と不安。
婆娑羅の如く昇華した解放のカタルシス。
──CLAP、CLAP、CLAP。
「実に貴女方らしい。荒削りだが、嵐のように痛快な演奏でした」
最初に出会ったあの時に戻った少年は、拍手とともに柔らかく、満足そうに微笑んだ。正しく、揺れず、それ故に冷酷な演奏家。でも彼は意地悪で、変で、だから優しい。あの薄暗い物置の、私が知っている水木くん。
……いや、いくらなんでも意地悪が過ぎるし、「アンコールはありですか?」なんてどさくさ紛れに要求してくる辺り満足もしてないかもしれないけど。
「ったく、最初にそれを言えっての……。まあ、あたしもお前らがどんなバンドかは分かったよ」
「合格、でいいですよね。流石にこれ以上焦らしたら可哀想です」
「合格、合格! だが、水木が言ってたことも正しいからな。それは今後直していけよ」
水木くんからの最上級、だけどふてぶてしい賛辞。苦い疲弊を滲ませつつ、店長さんとPAさんは微笑みながら私達のオーディション結果を告げた。──合格。
……えっと、その、それ以前の所で必死で意識から飛んでたけど。これってつまり、ライブ、出られるってこと?
「やったあっ! 合格ですって!」
「わわっ、は、……はいっ! 」
「もう、もう! 水木君って本当に、本当にツンデレクソ野郎なんだから!!」
戸惑いが勝って、上手く状況を飲み込めずにいた私に、隣から少し涙ぐんだ喜多さんが抱きついてきた。その大袈裟な抱擁でやっと、私達がオーディションに合格できたことを理解して。
歓喜以上に、胸の奥から込み上げてくるもの。
「うっ!? す、すすすすみません、き、喜多さん……」
「えっ、ご、後藤さん?」
喜多さんを振り払って、フラフラとステージの端へ必死に辿り着いた私は──
「うげぇぇぇぇ……!」
「きゃあっ!? 後藤さぁん!?」
「いつもの演奏とは全然違った……と思ったんだけど、気のせいかなあ」
「……」
普段はとてもできないような演奏、そして水木くんの講評のあまりの落差。ストレスから分泌された大量の胃酸に耐えられず、私のダムはあっけなく決壊してしまった。
背を擦ってくれる喜多さんに、大丈夫大丈夫、と後始末してくれる虹夏ちゃん。ううっ、やっぱり私の成長なんて所詮こんなものだった……でも。
「おお、お労しや後藤さん。緊張と安堵の落差に耐えられなかったのか……痛ッ、痛い痛い。お二人とも、本気の槌拳はやめて下さい」
「お前のせいだろうが! マジでこういうのやめろよ! ぼっちちゃんが可哀想だろ!」
「今回ばかりは私も怒りますよ! 女の子には優しくしろって言ってるじゃないですか!」
嘔吐の苦痛に朦朧とした意識の端。変な話だけど、店長さんとPAさんの折檻に身を屈めた、トンチキな水木くんの姿に安心する。
私は彼のピアノが好き。あの不思議な伴奏、その温かな冷たさに救われたから、私も水木くんを「助けたい」って思ったんだ。
だからその冷たい部分。
私が知らない、冷たいほうの水木くん。あなたのことも助けてあげたい。