下北沢にある公園の一角。
ライブを来週に控えた結束バンドの面々がミーティングのため、後藤さんの家へ集合しているその頃。僕はなぜか山田先輩に呼び出されていた。彼女は何故かそちらには合流しなかったらしい。
「なぜ、貴女の路上ライブに僕が付き合わなければならないのですか」
彼女にはドラムセットを抱えて下北沢の街を連れ歩かされたり、カラオケのセトリとしてセクハラソングを紹介されたり。下らない悪戯をされてはいるものの、僕も伊地知先輩とは違う形で少なからず面倒を掛けている。「雑用程度はする」と言った手前、別に設営を手伝うこと自体は全く構わなかった。
「ぼっちと郁代とはセッションしてたじゃん」
「あれは罪滅ぼしと訓練の一環です」
しかし、彼女が明らかに弦楽器用ではないケースを取り出した辺りから雲行きが怪しくなってくる。見ればキーボードではなく態々電子ピアノを用意していて、呆れた周到さではあった。
背筋に霜が降りるように、我が事ながら機嫌が急降下していく。腹の奥底に淀む冷たさを極力無視しながら、白々しく恍ける山田先輩に背を向けた。
「帰ります。設営だけならまだしも、演奏まで付き合う義理はありません」
「まあ聞け水木。私も何の理由もなくピアノを弾けと言ってる訳じゃない」
僕の背後から肩を抱き、やたら馴れ馴れしい口調で囁いてくる山田先輩。どうせ碌な事情ではないのだろうが、耳に触れる僅かな吐息と、その蠱惑的なウィスパーボイスが僕の足を縫い止めた。
くそ、これが彼女の卑怯なところだ。所作ひとつひとつに人を思わず動かしてしまう魔性の美しさがある。しかもそのことを自覚した上でそう振る舞っている節があるから性質が悪い。
「お前もSTARRYでバイトしてるなら、バンドに課せられるノルマは知ってるな」
「ブッキングライブのチケットノルマでしたか。先日、無事全て捌けたと聞いていますが」
「ああ、そう。それなんだけど」
悔しさと不機嫌さを最大限込めた僕の視線を無視して、山田先輩は切れ長の秋波に憂いを浮かべる。外見“は”見目麗しいことこの上ない。
ブッキングライブにおいて、バンドにはライブハウスに動員を保証するためにチケット販売数のノルマが課せられている。今回の場合20枚、1人当たり5枚だったはずだが、言い淀んだその内容から推量するに、まさか。
「ごめん、捌けていない」
「何をやっているんですか貴女は」
またくだらない虚勢を。せめて先週の段階で打ち明けていれば、いくらでも対処のしようはあっただろうに。この間は後藤さんや僕のことを「ぼっち」だの除け者だのと散々に論っていたのがなんてザマだ。
隣でふざけたことを抜かしてしなだれかかってくる群青の髪の女。僕はそれを強引に振り解いた。
「除け者は貴女じゃないですか。さっさと伊地知先輩なり喜多さんなりに頼ればよかったでしょう」
「簡単に言いやがって。虹夏に言えばおかずが減るし、私だけ郁代頼みなんて先輩としての威厳が……!」
「既に手遅れです」
奢ってもらえなくなっちゃう、といけしゃあしゃあと目を潤ませるのには言葉もない。
何度か見かけた、山田先輩が喜多さんと連れ立ってSTARRYから出て行く姿。あれは奢らせていたのか。元々彼女は先輩に憧れてバンド活動を始めたくらいだし、「仲良くしているようで何より」くらいに思っていたのが間違いだったらしい。
……まあ、伊地知先輩が作るおかずへのペナルティを恐れる気持ちだけは理解できる。
「まったく。後藤さんの家に行かないのは何故かと不思議だったのですが、そういうことか」
「お前だってそうだろうが。畜生、ぼっちが言い出すタイミングで「実は私もなんだ」って場を和ませる手筈だったのに、勝手に一抜けしやがって……」
山田先輩は両手をわなわなと震わせ、身勝手な理屈で後藤さんを逆恨みし始めた。それと僕はSTARRYで彼女達のシフトに代わりに入るよう、伊地知先輩に頼まれたが故の居残りである。自業自得の貴女と一緒にしないで頂きたい。
……あの、八景の海を背にした光景。
あれ以来この身に纏わりつく、胸に穴が空いたような虚脱感。それにどう向き合えば良いのか分からない。今は、伊地知先輩からのお願いがむしろありがたかった。
ともあれ、最早突っ込む気力も湧かない僕を他所に、ひとしきり憤って気が済んだらしい。先輩はそれはそれとして、と困ったように腕組みして、艶やかな唇に指を当てる。本当に仕草だけは一々様になる方である。
「実際、ぼっちはともかく、郁代に路上はまだちょっと早い。あとベースソロは昔学園祭でスベッたから嫌」
「知りませんよ」
ベースソロが受けるかは構成次第だが、奇矯な振る舞いを好む彼女のことだ。どうせ内輪ノリで、その技巧を見せびらかすような演奏をしたのだろう。大体、普段の素行自体若気の至りそのものな貴女が、今更何を恥ずかしがっているのか。
「ギターなり持ち込めば済む話ですよね。それに貴女なら鍵盤楽器もそれなりに扱えるでしょう?」
「バンドのライブチケットを売るんだから、バンドでの本業を演らなきゃ意味ないだろ」
「その理屈なら僕は部外者だろうに……」
現代で作曲を効率よく進めるには、鍵盤楽器の知見が重要になってくる。山田先輩ほどの音楽的素養があれば、ピアノもそれなり以上には扱えるはずだった。
とはいうものの、バンドでの本業の楽器を演奏すべきだという主張には一理はある。自分の失態の尻拭いのために一方的に無茶を要求してくる割に、言うこと自体は筋道立っているのが腹立たしい。
思わず顔を顰めた僕に、彼女も彼女で追い詰められているのだろう。一筋冷や汗を垂らし、珍しく目を剥きながらぐいと顔をこちらに寄せてきた。
「いいのか、このままじゃ私のチケットは売れ残ったままだぞ。結束バンドは損失を出して、今後の活動に支障を来たすぞ。ぼっちのギターが聴けなくなってもいいのか」
「よく僕のことをクソ野郎呼ばわりされますが、貴女も大概他人のことは言えませんよね」
なんだこの女、よりによってバンドメンバーの活動を掛け金にするのか。それ以前に強請りとしての論理も滅茶苦茶なのだが、今の山田先輩には本当にチケット販売を投げ捨てかねない無駄な凄みがある。
……はあ。
肉体的なそれとは異なる疲労を覚え、重い溜息を吐く。別に彼女の名誉を守る義理はないし、放置した所で伊地知先輩辺りが尻拭いするはずではある。しかし、万が一にも結束バンドの活動に影響が出るなどしては馬鹿馬鹿しいにも程があるし、こんな輩に振り回される先輩が少々不憫にも思えてきた。
……後から思えば、この胸の靄でどこか思考が捨て鉢になっていたのだろう。どうでもいい、と。
「速攻で売り捌いて帰りますよ、山田」
「おい、先輩には敬意を払え」
「ご自身の行状が果たして尊敬に値するものか、今一度顧みられてはいかがでしょうか」
身体を向き直し、投げ遣りに電子ピアノの鍵盤を撫でる。そんな僕に不服そうな声を上げた山田。五月蠅い、要求は呑んでやっているのだから文句を言うな。
荒んだ感情とは裏腹に、真夏の空は不愉快な程に晴れ渡っていた。
普段は後背に回るベースを、敢えて前に押し出す。
「バンドでの本業を演らなきゃ意味がない」とこじ付けた私への当て付けだろうか。いや、変な所で義理堅いアレのことだ。本当に私のベースが評価された上でチケットを売らなければ意味がない、と思っているのかもしれない。生意気な奴め。
実のところ、別に私一人だってチケットは売れる。ザ・はむきたすの頃だってそうしてきたんだし。……まあそうやって呑気してたら、いつの間にかライブの直前になってたんだけど。スタンド攻撃か?
ともかく、だからどちらかと言えば、あの屁理屈に近い強請りであいつをもう一度セッションに引き摺り出すことのほうが重要だった。癪だけど。
水木南は生意気な奴だ。
ぼっちのことは諌めたけれど、でも私自身は納得しきれなかったのかもしれない。
この私すら手玉に取るような才覚を秘めながら、満たされない倦怠を瞳に滲ませて、ぼっちを……私達をそこに映すことで慰めとしている。似合わない歳を取った眼。
そんな奴に負けたくない。ウダウダ管を巻くのは勝手だが、あれだけ好き放題された挙句勝ち逃げを許すなんて、私のプライドが許さない。
エレキベースと電子ピアノ。変則的な構成ではあるものの、しかし演奏に何ら瑕疵はない。華奢なはずのピアノの繊細さが、綱渡りのようなバランス感覚でベースの力強さを強調する。それは地鳴りや雪崩の如く、身体の芯から響く音をセッションに与えていた。
濡羽色の髪、雪を欺く白い肌。
鍵盤の白黒を身に映して、演奏家はゆっくりと音を歩ませる。緻密で規律正しい演奏。だというのに──だからこその反=構造。
木々の植生が傍目には無秩序に積み重なり、その実有機的に織り合わさる差異の体系。余人が立ち入ることを許さず、しかし深く豊かな黒い森。
複雑に入り組んだ硬質なフレーズ。けれど私ならば応えられるはずだろう? ああ。その挑発、プレシジョンバスで受けて立つ。
楽譜とは開かれた謎。解き明かされるべき秘密をなぞる。一旦潜り込んでしまえば、ピアノはしなやかに私を導く。木洩れ陽の影に私を隠して。
剥き出しの本気。"ザ・はむきたす"の頃にもない。
──だからこそ、思わずにはいられない。
届かない。
即興でリズムを揺らしたところで、大樹はまるで揺らがない。主旋律は語らない。その必要がない。深々と降り積もる夏の雪、溶けてしまうほど繊細な指。冷徹な拍節に陽射しの熱さえ忘れる。
彼は白と黒の枝々をざわめかせ、
私も
掻き鳴らす。掻き鳴らせ。らしくもなく指板に熱が迸る。四弦が震わす地響きに、雪崩の如く鍵盤が応える。熱が斑らに入り混じる山背。それが我が背を押して止まない。降り積もる雪に身を染めながら、静かに演奏の中心に佇みながら、仮初の秩序を差配する黒い演奏家。
シーケンシャルな即興。規律の下の放蕩。
Indiscipline in discipline.
それが面白くて仕方がない。
楽しい、悔しい……楽しい。
真夏に降る雪のなか、分け入っても分け入っても底が見えない整合性。複雑に編まれた生態系。黒い森の樹の温もり。冷たいのに熱い音楽。
それが水木南という演奏家だった。
──些細な指運びの遅れ。
気付かなければそれまでの、僅かな澱み。小揺るぎもしないはずの旋律に覚えた脆い戦慄。森の最奥。黒い演奏家を象徴する、森の中でも一際大きく、老いた大樹。
天をも覆うかのように広がる枝葉。でもその葉は、積もる雪に末枯れている。
そして傍で朽ちて埋もれた徒花。
『水木くんは、水木くんは、本当は──』
かつて無粋と遮った、ぼっちの告白。
鍵盤の低音側。汗で流れて、斑らになったらしい化粧から覗く──
深い傷跡。
振り返って、視線が交わる。いつもは表情ひとつ変えない顔を青褪めさせて、背を異常な量の冷や汗で濡らしている。軋みを上げて、動かなくなっていく指を無理矢理に駆動させる痛み。震えを旋律に伝えてしまわないよう、瞳に宿る黒曜石の艶やかな光。
『手折れてしまった演奏家の成れの果て』
そうか、お前は。
──いざ踏み込め
──自慢の武器などひとつもないけれど
念のため付けた、胸元のピンマイクへ指を伸ばす。
構想中の未完成の曲に仮でつけた詩。即興のインストルメンタルだけで、歌うつもりなんてなかった言葉達。溢れ出して、溢れ出して止まらない。
──幼い心を明日に運ぶのさ
鍵盤を走る指は止まらず、黒曜石の輝きだけをこちらに差し向ける。眦と共に弦を叩き、スラップを返せば、あいつも薄く口角を吊り上げた。
脆さを覚えた指運びに、青褪めきった響きのなかに、斑らな熱。
嗚呼。
──カラカラ騒ぐ思考飛ばして
随分と発声練習なんてしてないし、マイクの調整も碌にしてないけれど、関係ない。歌詞の意味なんてないかもしれない。それでもこの胸からあふれる何かを伝えたくて、身体に、目頭に迸る熱い何かを振り絞って、私は声を震わせる。
ちっぽけなプライドも、悔恨も感謝も今はどうでもいい。走れ四弦。血を吐くあいつにベースで負けてなるものか。
──前借りしてるこの命を使い切らなくちゃ
冷え切っていく旋律に熱を灯せ。私が水木を支える。南を支えろ。
あいつは本来、こんなところで腐っているようなキャリアは積んでいない。それに相応しい力量も、まさにこのセッションが証明している。認めるのが悔しいほどに深く張った根、太い幹と枝を広げた大樹。その心に広がった、黒く深い森。
『僕は失敗した人間だ』
けれどその左手は深く傷付き、動かなくなっていく。積み重ねた研鑽も、花開いたはずの才覚も、すべて実を結ぶことなく落ちてしまった。
洞が広がり末枯れた老樹に、次の春はもう来ない。
──今、この時も
そして水木南という演奏家は、自身が最早朽ちていくだけの存在なのだと理解して、既にどうしようもなく受け入れてしまったのだ。それが瞳の奥底、あの冷たい倦怠の正体。
なのに今、あいつが演奏をやめないのは。
表情も隠せなくなって、歯を食いしばって黒い瞳も閉じて、背を丸めながら、それでも指を走らせ続ける。その左手が痛んでも、この旋律を止められない。この旋律は止めたくない。
あの時も、今も文字通りに骨身を削る献身。そこに籠った思いが、私にも理解できてしまった。
──ダラダラ過ぎる日も愛して
──きっと君に会いに行く
老いた大樹には様々な生き物が隠れ棲まう。その枝葉や、傷から広がった洞であってさえ、彼らが風雨をしのぐ寄る辺となる。南は震えるぼっちに手を差し伸べたし、郁代の願いにも応えて見せた。そして今、私にも。
演奏家には、ぼっちが、郁代が、虹夏やこの私さえもが愛おしい。鳥が歌い、獣が眠る。それは花を落とした老樹が遺せる、ただひとつのものだから。
──いつか消えてしまう前に
冷たく、熱く、優しい音。頬を伝った一雫。
チケットはあっさりと売り切れた。
当初の悶着はなんだったのかと言いたい所だが、山田先輩のあの歌の前では当然のことだろう。
僕をしてそう思わせる程度には、彼女の詩には美しく感情が込められていた。認めるのは今の左手に勝る痛恨とはいえ、この痛みのような灼熱を捧げることも惜しくはない。
聴衆も捌けた公園のベンチ。熱に浮かされた微睡みのなか、僕は左手の中の缶コーヒーを弄ぶ。
「だから、お前は音楽をやめたんだな」
「はい。……こうなるから嫌だったんですよ。貴女を二度は騙せない」
「このクソ野郎が」
僕の手の甲、汗で糊塗できなくなった醜い傷跡。項垂れる僕の隣で、山田先輩はいつものように吐き捨てる。その言葉尻には、似合わない苦味が滲んでいた。
「ぼっちもこのこと、知ってるんだね」
「ええ。貴女にもお見苦しい所を見せてしまった」
「お前はどうして……そう冗談が下手クソなんだ」
何故そうなった。顔にそう書いてはあるが、それが僕の個人としての問題で、そして既に意味のない問いであることも彼女は悟っているようだった。くしゃりと歪めたその表情すら美しくて、思わず見惚れてしまう。貴女も大概だとは言ったが、やはり山田先輩の言う通り、まったく僕はクソ野郎なのだろう。
会話が途切れて……どのくらい、微睡んでいただろうか。
低く鼻を鳴らして。山田先輩はその整った二重瞼を僅かばかり細め、此方を睨め付けていた。
「ひとつだけ聞かせて。なんでお前は、私に付き合ってくれたの?」
「……貴女がそれを聞きますか」
「私は罪な女」
こうして無様を晒しているのは一体誰のせいなのか。あの歌を聞かされた以上、言葉にするような無粋は憚られたものの、白い目を向けることは禁じ得ない。まあ、山田先輩はまさに白々しく開き直って下さったのだが。
しかし気のせいか、僅かばかり此方を気遣うように向けられた言葉。それには、流石に虚を突かれた。
「でも、適当に加減するとか……お前なら、右手だけでもなんとかできたろ?」
……ククッ、くはははは。
我ながらタガが緩んでいるのか、純粋な驚きで思考が止まった。
確かに、言われてみればその通り。山田先輩の我儘に付き合う義理など欠片もないと、僕自身思っていたではないか。そしてそれに露程も思い至らなかった事実そのものが、僕には痛快で仕方がなかった。
「……」
突然固まったかと思えば、目元を抑えて笑い転げ始めた後輩。山田先輩が憮然とするのも当然だとはいえ、馬鹿にしている訳ではない。勿論、そんなモノ貴女にはすぐバレるということもあったけれど。
「当たり前だ。そんなことしたら殴る」
「また理不尽を仰る。……単純に、そんな発想はなかったんですよ」
自分で言っておいてそれは無いだろう。不満を露わにしたまま拳を晒す彼女の不条理はさておき。失笑を噛み殺して遠くを見据えた僕は、あの山田リョウの歌を思う。
短刀を背に隠した同床異夢のベーシスト。好敵手との挑発的な音の重ね合いに、知的な快楽を感じたことは間違いない。けれども僕を駆動せしめた何かは、それともまた違うものだ。
ああ、何と言葉にしたものだろうか。
「綺麗だった」
──私は信頼されている。私は信頼されている。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!
「貴女のベースが、貴女の歌に籠った色と熱とが、とても綺麗だった。だから僕はピアノを弾かずには居られなかった」
あの最初の夜のように……
山田リョウの低く気儘な音が、艶やかに響く声が僕を支える。その僕のための色と熱とがあまりに綺麗だった。だから貴女は、僕をしてピアノを弾かずには居させなかった。手を抜く事など不可能だった。
「……ぼっちにも、そんな歯が浮くようなこと言ってるの?」
「僕なりに伊地知先輩の薫陶を実践しているだけですが」
「お前は本当にクソ野郎だな」
山田先輩は僕の答えにしょっぱそうに顔を顰め、呆れた様子で此方を揶揄する。陳腐な言葉になったことは認めるが、なぜそこで後藤さんが出てくるのか。
本当の気持ちを伝える。難しいものだが、僕なりの本心と感謝を述べたつもりだった。彼女の青く切ない色と熱。それが僕が感じていた胸の穴を埋めてくれるように思えた。あの5月のライブの時のように、僕は「まだ動けた」。
僕が鍵盤を叩くことで、彼女達に応えることで、何か残るものがあるのかもしれない。そうであるなら……許されるのではないか。
醜い自己正当化。しかし、彼女が見せた音楽と、そこに乗せられた美しい感情が毀損されることはない。それだけは救いだった。
「けどやっぱり、お前はそういう奴なんだな」
不意に、山田先輩が微笑む。
「ごめん、南。そしてありがとう」
私は南を忘れない。
名を呼ばれて僅かに目を開いた僕に、しなやかな細い腕が伸びる。仄かな柑橘の香り。
山田リョウは柔らかく、僕をその胸にかき抱いた。
あのセッションから数日後。
「結局Tシャツはいい案が出なかったので、私の案になりました!」
ライブ前最後の全体練習。彼女がデザインしたという結束バンドのTシャツを、得意げに披露する伊地知先輩。文字の一部がいわゆるタイラップと一体化したロゴがプリントされており、素人仕事としてはなかなか見栄えのするものではある。
しかし、妙だな。
「僕が提案した四字熟語はどうしたのですか」
「どうしたもこうしたもあるか! 『呉越同舟』やら『面従腹背』やら、結束のケの字もないものばっかり提案しやがって!」
「お前はどうしてそう冗談が下手クソなんだ」
一応、僕も山田先輩を通してTシャツのデザインは提案したのだ。いや、これだと単なるキャッチフレーズか。
「結束バンド」のように、バラバラな音を一つに束ねて音楽にする。そんな彼女達にはある意味ぴったりだと思ったのだが。『同床異夢』のベーシストが仰る通り、僕に諧謔のセンスは無いようだった。
あのセッションの後も、山田先輩は僕に対する飄々とした態度を変えなかった。別に変に意識されたり、まして彼女からこの傷を慮られても嫌というか想像ができないので、そちらのほうが都合が良いといえば都合が良い。
それと引き換えにひとつだけ、変わったことがあるとすれば。
「にしても、リョウが水木君と一緒だったなんて珍しいこともあるよね。しかも名前呼びなんていつの間に仲良くなってるんだか」
「Si、俺達はいつでも二人でひとつだった。地元じゃ負け知らず。そうだろ南」
「ええ。俺達は昔からこの街に憧れて、信じて生きてきた。ですよね山田」
「調子乗んな」
「あからさまに誤魔化しやがって……。水木君が気にしないならいいけどさ」
お前ら地元違うじゃんという突っ込みから目を背け、仏頂面のまま肩を組んだ僕達。まあ山田先輩としても、チケットノルマを誤魔化していたのが伊地知先輩にバレたら拙いのだろう。
そして僕の不遜な態度には直ぐに肘鉄を加えられた。なんとも儚い青春である。
僕への呼び名。彼女の歌に、その呼び名に込められた青く切ない色と熱。それに比べれば、過去のくだらない古傷などちっぽけなものだ。そもそも、あえて触れずに居てくれたのが山田先輩なりの優しさなのであって、僕はそれに甘えているだけなのだろう。
「後藤さんに続いて、水木君まで抜け駆けしてリョウ先輩と仲良くなってる! ズルいわ!」
「抜け駆けも何も、名前呼びはあなたが先でしょう郁代さん」
「名前で呼ばないで!」
「はいはい、水木君も面倒くさいからって喜多ちゃんの怒りのツボを押さない」
けれど山田先輩が後輩への威厳を保ちたいのなら、喜多さんへ奢らせた分はどんな形であれ早めに返すべきだ。そして毎度の如く僕に絡んでくる彼女は彼女で、先輩とのとくに金銭面での関係は、一度落ち着いて見直したほうが良いように思う。
ぎゃあぎゃあと騒がしいスタジオのかたわら、後藤さんは一人ぽつんと俯いている。いつの間に会話の輪から外れた山田先輩が彼女へ耳打ちする姿は、僕の目には入らなかった。
ぼっち。あんまりぼーっとしてると、……取っちゃうかもよ。
えっ? ……!?!?
なーんてね。ほら、ぼっちも呼んでやりなよ。南って。
ふと気付けば先輩に背を押されて、おずおずとこちらへ寄ってくる後藤さん。プルプルと恐れるように震えて、けれど何かを期待して。頬を染めながらいじらしくこちらを見上げる、深く青い彼女の瞳。
しくしくと疼く左手の冷たさ。それでも、後藤さんといつものように向かい合える。そのことがとても感慨深く思えた。
「み、みみみ、みみ、みな、みみみみみみみ!」
「おや、ミンミンぼっちですか。そろそろ本格的に暑くなってきましたからね」
「あんな惚気ておいてこのクソボケは……」
目を逸らしているだけだとしても。