「おはようございます。早いですね水木君」
「お疲れ様です。雨で電車が止まってしまいそうでしたから」
「あー。……結局、台風直撃しちゃいましたねぇ。店長は?」
「あそこで伏せっておられます」
結束バンドのライブ当日。服に付いた雫を拭いながら降りてくるPAさんの仰るとおり、下北沢の街には激しい暴風雨が直撃した。その湿気に、彼女達が作ったてるてる坊主もマーカーが滲んでホラーじみた顔になってしまった。
彼らが吊り下がるその下には、妹様の晴れ舞台の巡り合わせの悪さを嘆き、机に突っ伏す店長の姿。カウンターの周囲には呪怨のような陰気が色濃く漂っている。
おお、可哀想に……。
「昼間から特殊性癖を曝け出すのはちょっと」
「人聞きの悪い物言いはやめて頂けませんか?」
こちらから身を庇うように腕を翳してくるPAさんにはまったく閉口ものである。僕は店長に同情しているだけであって、妙齢の女性が落ち込んで弱り切っている姿を愛でている訳では決してない。
「それはともかく、我々スタッフが難儀するようでは、集客は厳しいですか」
「チケット買ったお客さんも来ないでしょうね。みんな、お客さんの入りを見て折れないといいんですけど」
流しましたね、というPAさんの半目。それを見なかったことにしつつ集客を懸念する僕達に、むくりと起き上がった店長は厳然と言い放つ。
「言ったろ、プロを目指すなら楽しいことばかりじゃないって。バンド続けるならこんな理不尽山程あるんだから、どんな状況でも乗り越えられるようにならないと」
「……店長、ハンカチ要ります?」
「あっち行ってよ……」
それはどちらかと言えば、自身に言い聞かせるような声色だったのだが。見かねたPAさんがハンカチを差し出すも、店長は滲んだ眼を隠すように再び顔を伏せてしまった。ふむ、こういう時はいつもネガティヴなあの子に倣おう。かたわらのゴミ箱を掲げる。
「後藤さんがよくやりますが、この中は狭くて暗いので意外と落ち着きますよ」
「昼間から特殊性癖を曝け出すのはちょっと」
「うるせえなお前ら?! あっち行けっつってんだろ!?」
実際、暗い閉所に囲まれる感覚は中々悪いものではなく、やどかりぼっちになる気持ちも分かると感心したものだ。しかし残念ながら、PAさんと店長には大変不評なようだった。
やどかり店長、妙齢の女性がそれをやるという点まで含めて大変
「まーたメジェドになったのか」
「ああなったお姉ちゃんを弄る度胸があるのも、ある意味凄いけどさあ」
怒った店長にゴミ箱を被せられた僕はカウンターから追い出され、テーブル席で屯していた結束バンドの面々と合流していた。その暗い視界の向こうからは、先輩方の呆れ返った声がくぐもって聞こえてくる。別に揶揄った訳ではないのだが。
「遊んでる場合じゃないでしょ! 私の友達もみんな来れないのに……」
「店長には割と真剣にお薦めしていたのですが。実際、この包まれ感は中々悪くない」
「で、ですよね水木くん! あっ、このダンボールも狭くて好き……!」
「ええ……」
喜多さんからの非難への反論。隣の後藤さんも賛同したうえ、彼女もどうやら新たな殻を見つけたようである。並んだメジェドとマンゴー仮面(?)に、喜多さんからは困惑の声が漏れ聞こえた。
今更焦った所で天候は変えられないのだ。どうしようもないことで神経を尖らせるくらいなら、閉所に籠って精神を落ち着かせたほうが幾らか建設的というものだろう。
などという僕達の深謀遠慮は理解されなかったようで、喜多さんと伊地知先輩は無情にも僕達の殻を引っ剥がしてしまう。開けた視界を見回せば、哀れ住処を追われたやどかりぼっちが。おお、なんてひどいことを……。
そんなところへ、頭上から声が掛かる。
「ひとりちゃーん! 来たよぉ〜」
「あっ、お姉さん……!」
現れたその女性は、雨に濡れたジャケットとワンピースを着崩し、三つ編みに纏めた臙脂の長髪を肩に掛けている。
要素だけ挙げれば整った容姿と言えるのだろうが、頬を赤く染め、不規則に身体を揺らすその様子……というか、明らかに昼間から泥酔している人物を美人と評してよいものだろうか。
──八景のあの光景。
嗚呼。あの女性には、確かに見覚えがある。
「えっお前、ぼっちちゃん目当てで来たの?」
「そうですよぉ。ところでぼっちちゃんってひとりちゃんのこと? じゃあ私もそう呼ばせてもらうねぇ、ぼっちちゃん!」
でも「ぼっち」なんてひどくないですかぁ? などとゲラゲラ笑いながら店長に絡んでいる彼女。酩酊している割には至極真っ当な指摘(当の彼女もそう呼んでいるが)はさておき。
「店長さん、お知り合いなんですか?」
「ん? あたしの大学の時の後輩」
「廣井きくりちゃんでーす! ね〜ね〜今日の打ち上げするよね、居酒屋もう決めたぁ? 居酒屋いい場所知ってますよぉ!」
「お前、しばらく会わないうちに面倒臭い奴になったな」
後藤さんの問いに答えた店長の隣に座り、酔っ払いの絡み酒の典型のように肩を組んだその女性、廣井きくり。店長は鬱陶しいと言わんばかりの呆れ顔でその腕を振り払った。
その様子を苦笑いしながら眺める……喜びとともに、どこか憧れの色を映した後藤さんの青い瞳。ちくりと左手が痺れて、目を逸らした。
「ひとりちゃん!」
「あっ、来てくれたんですか!?」
「もちろん! 私達ひとりちゃんのファンだし!」
「えっ、わ、私のファン!? ぐへ、ぐへへ、ふへへへへへ………!」
その後藤さんはいつの間にか、自身でファンを獲得することにも成功していたらしい。悪天候にも関わらず駆けつけたその二人の女性。もっとも、承認欲求を刺激されて物理的に身体を蕩かした人外の姿に、彼女達は盛大に身を引いていたが。
「後藤さん、蕩けちゃってるわねぇ」
「ファンの方が増えるのは良い事ですがね」
大量のイマジナリーフレンドが後藤さんを称える。ファンであるというそのお二方が早速ドン引きするその光景にも最早慣れてしまったらしく、軽く苦笑を浮かべるだけの喜多さん。しかし、彼女の声に感じる微かな震え、そして似付かわしくない青白い顔色。
「それはそうと、大丈夫ですか?」
「えっ? ……ごめん、やっぱり緊張してるかも」
「当然だとは思います。とくに貴女にとっては本当に初めてのライブですから」
それとなく指摘すれば、彼女は俯きがちに身震いしながら身をかき抱いた。
この会場に立ち込める冷たい沈黙。ただでさえ悪天候でテンションが下がる所へ、オープニングを務めるのは無名の駆け出しバンド。観客の間に蔓延する白け切った空気を前に、彼女が萎縮してしまうのも無理はない。
「そういや、あの時は喜多ちゃん逃げちゃったんだっけ」
「うぐっ、い、今それを蒸し返すのは勘弁してくださいよぉ……!」
「えっへへ、ごめんごめん。でも大丈夫、喜多ちゃんもあれから頑張ったんだから!」
傍から彼女のキズを弄ることで、努めて明るく振る舞うのは伊地知先輩。なるほど。
「別にコンクールやオーディションの類でもありませんしね。一々講評を垂れる無粋な輩など居ません」
「お前が言うな」
であれば、と先輩に乗っかってぶち上げた極論は、山田先輩の肘鉄で退けられた。
「水木君はピアノのコンクールとか、出たりしたの?」
「多少の機会はありました。最初の頃は、それなりに緊張もありましたか」
「そりゃ飛び込みでジャズ流即興演奏なんてやらかす輩に緊張もクソもないわな」
喜多さんの疑問に答えれば、僕の過去の所業を思い返して呆れた目を向けてきた伊地知先輩。他人のことを何だと、と言いたい所だが、あの時一番割を喰わせたのは彼女ではある。そして確かに、その場の空気に一喜一憂するような熱など、あの頃の僕は持ち合わせていなかった。
「しかし、そういう機械的な冷たさは、演奏家としての欠陥でもあったのでしょう」
裏返った刃に思わず失笑する。「どうでもいい」と他人事じみた冷笑を以て、自分自身を見限っている。そんな甘ったれた演奏に喝采をくれてやるほど、批評家という人種は温くはない。
──"ガチ"じゃないのよ。
脳裏に走った懐かしい声。
その怠惰と傲慢こそが、かつての機械だの何だのという揶揄の所以である。そして後藤さんのお陰で……山田先輩のお陰で。残り火に過ぎないとしても、僕はその色と熱とを思い出していた。
思う所があるのか、ないのやら。傍の山田先輩は柔らかく、その切れ長のめを細めた。
「上手く取り繕った演奏なんてクソ喰らえ。そうだったよね、南」
「ええ。だから喜多さん。まずはあのステージから見える景色を、どうか楽しんできてください」
「はい! ありがとうございます、リョウ先輩!」
緊張も不安も、期待と希望の裏返し。山田先輩の言葉を承けて頷けば、僕の後ろを追う赤の少女もまた不安と期待に瞳を輝かせた。
「なぜ山田先輩だけなんですか」
「じょ、冗談よ冗談」
彼女へ向ける視線の温度が下がる。喜多さんはやや引き攣った笑みとともに両手を翳したものの……。感謝を求めた訳でもないので構わないが、このところ僕の扱いが粗雑な気がしてならない。そんな僕達の漫才じみたやりとりに、伊地知先輩はクスクスと含み笑いした。
「でも水木君も、ちょっと変わったね」
「……そうですか?」
「うん。最初会った時はびっくりしたもん。あんな冷たい声、聞いたことなかったから」
『後藤さんに、何かご用件ですか』
彼女に初めて会った時に掛けた声。後藤さんが詰め寄られていたあの絵面も悪いとはいえ、確かに僕にとって、端に映る他校の生徒のことなど心底どうでもよかった。それは変人ぶったベーシストも、ただのクラスメイトも同様だった。
視界の全てが色褪せていた。
「それが今じゃ、喜多ちゃんのこともちゃんと見てくれるんだから」
「はい! えへへ」
「代わりにクサい台詞が増えたけどな」
「余計なお世話です」
そう言って、伊地知先輩がくしゃりと微笑み、喜多さんも照れくさそうに頷く。いつものように山田先輩がこちらを揶揄すれば、顔に熱が集まったのを自覚して思わず顔を顰めた。まあ、それは以前佐々木さんにも指摘された通りなのだろう。
こちとら頬をはたかれたり、正座で説教されたり、路上演奏を無理強いされたり。結束バンドの面々には散々に振り回されたものだ。全く業腹である。
「業腹ですが、僕も楽しかったですよ」
満面の笑みを咲かせる喜多郁代。
不敵に口角を上げる山田リョウ。
悪戯っぽくはにかんだ伊地知虹夏。
「よし。じゃあ、行こうか喜多ちゃん!」
「はいっ! 後藤さんも蕩けてないで行くわよ!」
「はっ!? ……はっ、はい」
照れ臭さを誤魔化すように僕に背を向けて駆け出した伊地知先輩。それに着いていく喜多さんに、後藤さん。彼女達の背に思わず一歩踏み出して……左手が疼いて、脚が止まる。そこはもう、僕が登ることのない場所。
胸を掻きむしりたくなる、懐かしく打ち寄せる冷たい拍動。その込み上げてくる何かに寄り添って、青い残り香が背を撫ぜる。
「南がどうしようと勝手だけど」
「
一歩を踏み出せない僕へ、青い少女は横顔だけ振り向けて言った。
「弾き鳴らさずにはいられないんだろうけどね、南は」
寂しげな微笑み。その金色の眼差しに想いを託して、彼女はここからは見えなくなった。
私は南を忘れない。
最初で最後の好敵手。彼女が残してくれた言葉。
──けれど、自身への不信は拭い難く。
「ねえねえ。キミ、ひとりちゃん達のお友達なんだよね?」
一応、僕の今日の本分はアルバイトであるが、この客の入りの悪さときたら。結束バンドの面々と分かれて直ぐにドリンク販売も一回りしてしまい、カウンターで手持ち無沙汰となった頃合い。
僕に話しかけてきたのは、後藤さんのファンを名乗ったあのお二方だった。
「ええ。確かに、僕は彼女達の友人ですが」
「いやあ、さっきは「ファン1号2号」だなんて言っちゃったんだけどさ」
「キミのほうが先にひとりちゃん達を応援してたんなら、なんかごめんね」
なんとも気まずそうな顔をされていたので、何か不手際でもあったのかと内心身構えたのだが、聞いてみれば何のことはない。些か心配性が過ぎる彼女達に、思わず苦笑が溢れた。
「いえ、そんなまさか」
大事なのは彼女達を応援する気持ちであって、単なるナンバリングに差したる意味はない。記号に拘るなど不条理というものだ。
そうかぶりを振りながら低く喉を鳴らす。
……しん、と空気が青褪めきった。
「僕は結束バンド結成以前、最初に出会ったその瞬間から後藤さんのファンなのですから。謂わば「0号」と言ったところか」
「こだわってるじゃん! 私達が悪かったからその笑い方やめて!」
「ひぇっ、で、出会った瞬間から!?」
それはそれ、これはこれである。理屈の上ではどうでも良く見えたとしても、感情として譲れないということは間々存在する。
そう嘯きながら、僕はお互いを掻き抱く彼女らへ差し向けた目を細めた……。
「──なんて。今更、そんな子供じみた意地など張りませんよ」
勿論冗談である。
所謂「推し」というのか。それを共有する同志への、ちょっとした茶目っ気という奴だ。わざとらしい作り物の薄笑いを収め、僕は諸手を掲げて見せた。
「絶対嘘だ……目が全ッ然笑ってなかったもん! 「ガキが潰すぞ」って目だったもん!」
「流石に拗らせるの早過ぎない?」
「人聞きの悪い物言いはやめて頂けませんか?」
にも関わらず、どうしたことか。
ファン1号と2号は顔を真っ青にして、涙目でこちらへ捲し立ててきた。そんな竦み上がるようなことは何一つ言っていないはずなのだが、PAさんと言い、周囲の人間は僕を一体なんだと思っているのか。折角ファンになってくれた貴女方に、下らない因縁を付けた所で何にもならないではないか。
まあ、こちらも少々悪乗りが過ぎた。お二方の不興を買うのは僕も本意ではない。
「それにしても。些か不躾な質問ではありますが、お二方はどのような経緯で彼女のファンになられたのですか?」
手櫛で髪を軽く掻きながら、話題を切り返す。
後藤さんがチケットノルマを消化できたのは、
「そうだなあ……。私達の地元でひとりちゃん、路上ライブやってたんだけど、ひどく不安そうにしてて」
「思わず、頑張れって声かけちゃったの。そしたら、音楽のことは分からないけど、人が変わったみたいに音に迫力が出て!」
ファン2号を名乗った女性の、花が咲くような満面の笑み。1号のほうも感慨深そうにこくこくと頷いている。
「その場の観客みんな引き込まれちゃったんだよね。カッコよかったなあ、ひとりちゃん」
「私達の応援に応えてくれたんだって、すごく嬉しかったんだ。だから、これからも頑張れってファンになっちゃった」
後藤さんの演奏を思い返して、彼女達の声が僅かに震える。……応援、か。
鍵盤と指がひと繋がりの複合となる快楽。難曲を完璧に弾きこなす達成感。それらもまた応答であって、それらが自らに呼びかけるものも、確かに演奏の喜びではある。しかし演奏家が最も「嬉しい」瞬間とは、きっと。
自らの演奏が、誰かの心を動かしたとき。
ならば観客もそれに応えて、演奏家へ何かできることがあるなら、それは代えがたい歓びなのかもしれない。……できることがあるのなら。
「頑張れ……ですか」
「キミも、ひとりちゃんの演奏を聴いてそう思ったから、あの子のファンになったんだよね?」
口から知らず溢れた鸚鵡返し。カウンター越しにファン2号女史が眼前で、おっかなびっくりこちらを覗くのも目に入らなかった。
僕が後藤さんのギターが好きな理由。もちろん、彼女を応援したい気持ちはある。けれど、彼女の幼い妹に独白せずにはいられなかったその通り。同じように弱さを抱えた、そんな後藤ひとりがそれでも弾き語る。そんな姿に憧れた。
──もしも、彼女のように在れたのなら。
「お兄さん?」
「水木君、ちょっとこっち来てくれませんかー? 機材動かすの手伝って欲しいんですけど」
PAさんが僕を呼ぶ声。呆けていた僕は、それで堂々巡りの絡まった思惟から引き戻された。無駄な煩悩に構っている暇はない。彼女達が壇上に登る以上、フロアで仕事を回すのは僕なのだから。
「はい、只今。すみません、呼ばれてしまいましたので」
「あっ、ごめんね。お仕事中に」
そぞろな会釈を交わして、ファン1号2号達との会話に背を向けた。
「頑張れ」。その純粋な応援が眩しくて、この胸の中に澱む何かとの落差を見ないふりをして、僕は目を背けた。なぜ僕は、後藤ひとりの詩に希望を見出してしまったのだろう。なぜ僕は、彼女から目を離せないのだろう。
ぎちり。機械仕掛けの嘲笑い。
今更だ。全部、今更だというのに。
「彼、大丈夫かな……」
「そうねえ。大分厄介ファンな感じもしたけど」
「そうじゃなくて。なんか、……最初のひとりちゃんみたいだった」
本番まで、あとほんの少し。
フロアに漂うじめついた冷たい空気。真綿で首を締めるような息苦しさから一息置きたくて、虹夏ちゃんに一言言って、控え室を出た私。
その控え室のドアを閉めて振り返った、廊下の薄暗がりに静かに佇んでいたのは。
「……水木くん?」
「お疲れ様です、後藤さん。宜しければ、少しお話ししませんか」
「えっ? あっ、はい」
表情を薄く隠したまま、ひらひらと軽くこちらへ手を振る水木くん。フロアではお声掛けできませんでしたしね、とこぼしながら、彼は廊下の壁にもたれた。うん、ファンの人やお姉さんの相手をしてて、水木くんとは碌に話せてなかった。
おずおずとその隣に並ぶ。でもお話しって、な、何の用だろう……あっ。
「も、もしかしてっ! やっぱり飛び入り参加とか!?」
「勘弁して下さい。リハーサルも終わりましたし、今度こそPAさんに〆られます」
「で、ですよねー……あはは」
脳裏に閃いた思い付きは、肩を竦めながらの苦笑によってあっけなく退けられた。仕事のお手伝いをしているからか、水木くんはPAさんにほとほと頭が上がらないみたいだった。
「彼女達の様子はどうですか?」
「え、えっと……あんまり、良くないかも。お客さんの愚痴が聞こえちゃって」
『一番目の結束バンドって知ってる?』
『知らない。興味なーい』
『観とくのたるいね』
ふと何気なく聞こえてしまった。悪気がないのはわかる。わかっているけど、だからこそフロアにいるその人たちが遠くに感じてしまった。
オーディションの身も凍るような水木くんの言葉。けれどそれは、彼が私達の演奏に真剣に向き合うからこその言葉だった。批評家の冷徹よりも遥かに残酷な無関心へ、今から踏み込まなきゃいけない。ばくばくと鳴る心臓の噛み合わなさに身震いする。
胸元をきゅっと握った私に、けれど水木くんは意外だとばかりに鼻を鳴らした。
「しかし、貴女は案外落ち着いていますね」
「えっ?」
「そういう周りの様子が見えている。てっきり、貴女が一番動揺するものだと思っていました」
「まあ、やどかりになったり、大量の
「私のことをなんだと思ってるんですか!」
これだから、これだから水木くんは! こういう時くらい素直に応援してくれてもいいじゃないですか!
私の痴態をからかって混ぜっ返す、相変わらずの唐変木っぷり。思わずむくれてバシバシとその肩を叩けば、水木くんはその様子こそが可笑しいとばかりにくつくつと喉を鳴らした。そんな、いつも通りの何でもない時間が浮き足立った心を鎮める。
……うん、私は知ってる。お姉さんが教えてくれたこと。
「「敵を間違えるな」。この人達は、私の演奏が聴きたくて集まってくれたんだって」
「廣井さんと仰いましたか。良い先達を得られたようですね」
敵なんていない。どんなに無関心に見えても、私の、私達の音を聴きに来てくれた人達がいる。だから今は両目を開けていられる。
ふっと、隣で息がこぼれた。振り向けば、水木くんの口元は弧を描いている。
「この悪条件でどうなることかと思いましたが、今の貴女なら心配ない」
わずかに輪郭が揺れるその横顔。本番、楽しみにしています。ありきたりな言葉を残して、水木くんは背を向けた。私も、もう戻らなきゃ。
でも。
「……まって!」
彼の背中にしがみついて顔を埋める。何処かひんやりしてて、でもあったかい。そのしなやかな感触は最初に出会った頃のまま。私もあの時の、弱虫な私に戻ってしまった。
「お、落ち着いてるように、見えますか? こ、怖くないみたいに、見えますか?」
ぶるぶると身体が震えて、心細くて、支えがなければ立っていられない。
今でも、大勢のお客さんの前に立つのは怖い。こんな私のヘタクソなギターなんて、暗いばかりの歌詞なんて、誰も聴いてくれない。そんな不信に呑まれそうになる。隣に水木くんがいてくれたら。
『僕がなんとかしますよ』
あの時みたいにそう言ってくれたら、どんなに安心だろう。どくどくと心臓が鳴る、幾許かの沈黙の後。水木くんは息を吸って、吐いた。深い深い深呼吸、その吐息はわずかに震えていた。
「ごめんなさい、後藤さん。当たり前だ、怖くない訳がない」
「……うん」
「実の所。……僕も怖いのです」
……えっ? 思わず顔を上げた私。ぶるりと、細い背中が揺らいだ。
「水木くんが、怖いんですか?」
「はい。妙な話ですが、僕自身が経験したどんなコンクールよりもずっと」
「できることがない。それが、こんなにも心細いものだとは」
背を向けたまま、少し肩を落として俯いた少年。いつもは背筋が伸びて、弱みを見せない彼の弱音。誰もが他から見ればなんでもない、でも切実な悩みや弱さを持っている。私の弾き語りに彼が見出した小さな救い。水木くんも私と一緒なんだ、隣にはいなくても。
でも、違うよ。ぎゅっと彼の背中を掻き抱く。私が落ち着いてるように見えるなら。
「水木くんがいるから。水木くんだけは、ちゃんと私の音を聴いてくれるから」
顔を埋めた夜空のような視界に、ちらりと瞬く青い炎。私は、水木くんを助けられるギタリストになるって決めたんだ。だから──もう、行かなきゃ。
水木くんの背から身体を離す。半身だけ振り向いた彼は目を丸く見開いて、名残惜しそうにくしゃりと笑った。
「僕にまだ、できることがあるのなら」
差し出された右手。包帯のような優しい嘘。
「僕も何も怖くはない。全く、僕が励まされてはどうしようもありませんね」
「ううん。ありがとうございます、水木くん」
その手を握る。よくよく見てさえいれば、彼の表情は案外わかりやすい。私を怖気付かせないための、震えひとつ見せない柔らかな強がり。水木くんも私と同じ。
『僕は貴女で、貴女は僕なのかもしれませんね』
私はあなたで、あなたは私なんだ。だから私も、怖いけど怖くない。
「最高の演奏を期待します」
「はい。……行ってきますっ!」
私も精一杯の不格好な笑みを浮かべて。彼の手を離して、わずかに残ったひんやりした温もり。それだけ握りしめて、私はもう振り返らなかった。
その時の私は見過ごしてしまっていた。彼の表情はわかりやすくても、彼が何を考えているのかは……わからないってことを。
僕の前ではにわかに活気を取り戻したかに見えた結束バンド。僕の背中からステージの壇上へ飛び出した後藤さん。けれど、彼女の言う通りだったのだろう。フロアに蔓延する冷たく湿り切った倦怠の前では、彼女達の虚勢は脆くも崩れ去ってしまった。
演奏の骨格を為すはずが、萎縮からリズムを乱したドラム。それを立て直そうとして逆に引き摺られ、翻弄されるベース。主旋律もリズムも見失って、一人取り残されてしまったバッキング・ボーカル。おろおろと泣き出しそうなリードギターがマシに思えるくらい、結束バンドの演奏は端的に言って空中分解していた。
「……くそっ」
そんな有様の壇上に観客が心動かされるはずもなく、彼らの冷たさに更に身体が固まっていく悪循環。その無残な光景に、隣で店長が顔を歪める。
「……」
廣井さんは何も言わず、彼女達のステージを見据えている。
不利な状況、プレッシャーを跳ね除ける精神力。そこまで含めてバンドの実力。そう言ってしまえばそれまで。努力が結果に結びつかないことなど珍しくもなく、才覚が無関心に踏み躙られることなどありふれた話。冷たい底無し沼で彼女達が足掻く姿を、せめて最後まで見届けること。それ以外に、できることはもう何もない。
なぜか、安堵する自分を見つけて。
『お、落ち着いてるように、見えますか? 怖くないみたいに、見えますか?』
唇を噛みちぎる。湿気にぼやけた脳髄を、痛みのような冷気が切り裂く。赤熱した感情が斑に入り混じり、セピア色の視界が鮮明になる。
認められない。彼女達の音が、あの子の歌が。
……背の温もりが、こんな理不尽に塗り潰されていいはずがない。
聴衆が演奏家へ、なにかできることがあるのなら。
『自分だけ満足して行っちゃうなんて、そんなの嫌です! 意地悪です!』
『水木南を、馬鹿にするな!』
僕はそれに救われたのではなかったか。
『そうしてはじめて、動かせるものだってあるんじゃないかな』
『私は南を忘れない』
それこそが人を動かすのだと、僕はそう教わったのではなかったか。
『水木くんだけは、ちゃんと私の音を聴いてくれるから』
まだ、僕にできることがあるのなら。……視界の隅に映った、飲み残しのタンブラー。
「店長。先に謝罪しておきます」
「何する気だぁ、少年?」
「お前、まさか飛び入りとか言うなよ」
「そんな無粋な真似はしません」
どいつもこいつも、僕を何だと思っているのか。ただこれから少しばかりの不躾を働く、それだけのことだ。そう彼女達に答えながらタンブラーを掲げ、
──僕は手を離した。
喜多さんのぎこちないMCが途切れた、その間隙。
ガラスが砕ける、澄み切った音。
この場の全員が虚を突かれる、一瞬の意識の割れ目。壇上の、青く揺らめく瞳を射抜く。みんなが耳を傾けずとも、僕だけは貴女の音を聴いている。
「そう言ってくれたのは、貴女じゃないか」
猫背の虎。瞳に青い炎を灯した少女。遠い壇上かららしくもなく、しかし彼女は、六弦の嵐のまま獰猛に笑った。まだ一曲目が終わっただけ。
──私だって……このままじゃ、嫌だ!
いつか隣で聞いた、静かなナチュラルハーモニクス。空気を切り裂くカッティングフレーズ。一瞬の割れ目を掴み、ステージを遮二無二駆け上がり、荒々しく存在を歌い上げる。ひとりぼっちのロックンロール、「ぼっち・ざ・ろっく!」が叫んでいる。
他に何も聴きたくない、私が放つ音以外。
ひとりのギターがそのまま青い炎の嵐となって、会場の何もかも暴力的に巻き上げていく。誰も彼もが、後藤ひとりのギターに目を奪われている。あの時のように──
「蒼い惑星」がそこにある。
弾かれるように、後藤ひとりの勇気に背を押されてシンバルは鳴り響く。彼女達の演奏はもはや、当初のそれとは一変していた。
「ははっ、やるなーぼっちちゃん! ここの雰囲気全部持っていきやがった。それに」
「あのギターリフの巧みさ、爆発力は言うまでも無い。けど……きっかけを作るための、不興を買わないギリギリ」
廣井さんが楽しそうにからからと笑い、店長もニヤリとほくそ笑んだ。
計算の上というのは間違いない。普段なら音楽とフロアの喧騒にかき消される程度の音だが、今この時に限れば確実に全員の意識を奪える。そして所詮アルバイトの粗相と流せる、無粋にならない際の一線。
「それがあのタンブラーか」
もっとも、僕は飽くまできっかけを作ったに過ぎない。綻びに手を掛け、醒めた空気を焼き尽くしたのは後藤ひとりのギターの力だ。観客の首根っこを掴んで目を離せなくさせたのは、間違いなく彼女達の色鮮やかな演奏の力だ。
「中々粋なことするねぇ少年」
「ライブ中にスタッフが音を立てるとか言語道断だけどな。まあ、アイツらの演奏に免じて弁償は勘弁してやるよ」
「五月蝿い。今良い所なので黙ってください」
「この野郎……」
そして、そんな些事にかかずらわっていられる余裕など今の僕には無い。青筋を浮かべているらしい店長ですらどうでもいい。
汗を迸らせ、猫背のまま力強くギターは吠える。彼女が巻き上げる青い炎の熱に浮かされたように、僕はステージから目が離せなかった。結束バンドの……あの子の姿は本当に輝かしくて、美しくて、恋焦がれるようで。
だからこそ、もう目を逸らせなくなった。
僕が欲しかったあの色と熱とが、あのステージの上で溢れている。それはフロアの冷たい倦怠を吹き飛ばして、グレースケールの退屈な視界も塗り潰して、──そしてこの僕の曖昧な虚飾をも暴き出す。
『僕は貴女で、貴女は僕なのかもしれませんね』
かつて後藤ひとりに打ち明けたように、どこかで僕はそう思っていた。彼女達が、あの子があそこで掻き鳴らす姿に自分を重ね合わせていた。なんとなく、根拠もなく、彼女達と一緒に歩んでいけると信じていた。
けれど、ドッペルゲンガーなどいない。
あの壇上に僕の出る幕はない。今度こそ、僕にできることはもう何もない。最初から分かっていたことだ。いくら境遇を重ねようと、思いを重ねようと、あの子は後藤ひとりで、僕は水木南なのだから。
息苦しく感じていた、あの正しい音楽だけで生きては行けなかった。だからこんなザマに成り果てた。なって仕舞うことを望んだのだ。
それでも、羨ましい。羨ましい。
嫉ましい。