君の弾き語りが聴きたい   作:待ってください

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一部ご都合主義的な設定・展開があります。ご了承ください。


『インディシプリン』

 ポケットのなかに隠した左手が、冷たく疼く。

 

 人生の大半の時間を拘束したモノクロの鍵盤。機械だの令嬢だのと下らない揶揄が纏わりつく、その程度には無味乾燥としていた僕の音楽。それもなくしてしまえば、ひどく寒々しい。

 

 どうでもいい。そのように全て投げ捨てた今となっては、身体の奥底が冷え切って、何をしようにも動く気になれない。家から半ば追い出され、流れ流れて、この下北沢の片隅で。

 

 僕は死んでばかりいた。

 

 色褪せて冷え切った感覚。ただ身体に染み付いた訓練の成果として、指だけは未だ思考を要せず動く。空虚で、何の意味もない。……きっともう会えないあの人は、今何をしているだろうか。

 このスタジオの外では、じんわりとした初夏の日差しが新緑の街路樹を照らすのだろう。僕はその色と熱とが欲しかった。

 

 

 

「出てきてー! もうちょっと練習すれば、なんとかなるかもしれないから!」

「や、ややや、やっぱり私には、無理ですっ! 今日のところは、おかえりくださいー!」

「ここあたしの家なんだけど?!」

 

 ゴミ箱の中で泣きべそをかきながら駄々を捏ねる少女。伊地知と名乗った先輩は、彼女をなんとか引っ張り出そうとてんやわんやしている。

 眼前で繰り広げられるスラップスティックコメディ。控室のパイプ椅子に腰掛けて、我ながらひどく冷淡な静寂とともにそれを眺めていた。

 

 後藤ひとり。

 

 昼休みの自在闊達さが嘘のような、まるでチグハグで雁字搦めの演奏。それに一番ショックを受けたのは彼女自身のようだった。幾許かのやり取りの末、伊地知先輩と山田先輩の励ましで震えながら立ち上がりはしたものの、逃げ込んだゴミ箱から出ることができないでいる。

 

 おそらく後藤さんは一人で演奏することが殆どで、他人と合わせたこともなかったのだろう。まあ、あの悲憤と諧謔たっぷりの弾き語りを思えば、彼女の経験の乏しさは決して不思議ではない。

 

 あれだけの技量を持つにも関わらず、人も寄り付かない物置で、一人震えながらでしかギターを弾けない。……ぎちり。椅子が軋む音と共に立ち上がり、彼女に問い掛ける。

 

「後藤さん。悔しくはありませんか」

「水木君、そんな言い方」

「アッイエ……これが私の実力なんです……。私は所詮ギターでもダメダメなプランクトンなんです……」

 

 ゴミ箱の中で立ち尽くす少女。ジャージは細かな塵で薄汚く、髪は乱れ、顔は涙と鼻水でもうぐちゃぐちゃだ。その、いっそ哀れなまでの醜態を晒して、しかし前に進もうとしている彼女。

 

 何もかも投げ捨てて、死んでばかりいた僕とは決定的に違う。

 

「僕は悔しい」

「……えっ」

 

 その醜態にも関わらず些かも色褪せないあの演奏を思う。息を吸う度、心臓が何かと噛み合って軋む。

 目の前で怯えと恐れに震える少女。その長い髪が桜色に輝く。情けなく泣き言を涙に湛える水色の瞳、その深い部分が揺蕩う。

 

 この子はこんなにも脆く、弱々しく、そして美しい。

 

 この僕を一瞬で魅了した弦捌き。なのに、バンドメンバーの一人すらも集められない。

 

 

「そんな貴女が爪弾く弾き語りにこそ、僕は惹かれたのだ」

 

 それが──

 

「敢えて言いましょう。それがたかが場末の、駆け出しバンド如きに侮られている」

「……」

「見返したくはありませんか? 目に物見せてやりたくはありませんか?」

 

 この鮮やかな色が僕の心を震わせる。振動が熱を生む。それでも、目の前の少女の青い瞳はなおも躊躇いがちに視線を外れた。

 

「でも、でも、わ、私、どうしても先走っちゃうんです。みんなに合わせられないんです……。やっぱり、無理なんじゃ」

 

 

 

 なんだ、そんなことか。

 

 

 

「僕がなんとかしますよ」

「……あっ」

 

 自分でも意外なほどあっけなくその言葉は飛び出した。音楽はやめたはずなのに、とっくの昔に見捨てて、置き去りにしてしまったはずなのに。この熱と色のためなら、僕の過去など些細なものに思えた。

 

 顔を紅潮させ、心ここに在らずと蕩けたような表情を浮かべる後藤さん。

 

 僕の言う「なんとかする」などは所詮付け焼き刃だし、リズム組であるお二方には多大な負担をかけることになる。が、所詮は急造バンド、そして後藤さんに声を掛けたのは伊地知先輩なのだ。その程度は甘んじて受け入れて貰おう。

 

「楽譜は──よろしい、十分です。簡易のキーボードがあると仰っていましたよね。お借りさせて頂きたい」

「やっぱりバンドマンじゃないか」

でもちょっとだけ、あんなこと言われてみたいかも…… ゴホン。野暮かもしれないけどさ、ピアノは辞めたんじゃなかったの?」

「一夜限りの復活、とでも言いましょうか。『よくあること』でしょう?」

「米※CLUBとかね」

 

 顔を少しばかり赤らめながら、しかし僕を楽しそうに揶揄う伊地知先輩の、その金髪のサイドテールが揺れる。僕の言い訳が苦しいのは承知の上だが、山田先輩の例示もなかなか皮肉が効いている。

 

「けど、「如き」とは聞き捨てならないな」

「お気に障りましたか?」

「上等。吐いた唾飲まんとけよ」

 

 彼女はベースを構え、挑発的に微笑みながら群青の視線を差し向ける。旋律に色が加わる、面白くなってきた。あの頃のように指が動くかはわからない。しかし、そんなことすらどうでもいい。

 

「いいでしょう。──後藤さん。貴女が僕達に合わせようとする必要はありません」

 

 上手く取り繕った演奏など糞喰らえ。何度でも言うが──

 

「僕は、貴女の弾き語りが聴きたいのだ」

 

 

 

 ……

 

 

 

「突っ走るギターを無理矢理調和させるための、ジャズ流即興演奏か」

 

 演奏の幕は下りた。

 

 

 後藤さんが先走ってしまうというなら――全員突っ走ってしまえ。

 

 

 言葉にすれば単純だ。ドラムの伊地知先輩には悪いが、破滅的なアップテンポのまま強引に走り抜かせて頂いた。

 

 ギターそのものに力はあるのだ。ならばリズム隊を、観客すらも狂奔して駆け抜ける、そんな筋道を継ぎ接げばいい。

 最低限の、為しては崩れる仮初の秩序(Indiscipline)をその場凌ぎの即興で揺れ積み上げる遊戯(ゲーム)。それがピアノの──決してキーボードとは名乗れまいが、ともかく僕の役目だった。

 

「無茶苦茶、全く無茶苦茶だ。あのクソピアニストめ、付け焼き刃もいいとこだけど」

「まあしかし、存外に楽しませて貰ったよ」

 

 珠のような汗を浮かべ上気しながらも、僅かに挑発的な笑みを浮かべる山田リョウ。その姿は非常に絵となっていただろう。

 

 僕の狙いを即座に理解し、ギターへの援護体制を共に構築しながらも、その秩序を確信犯的に擾乱して遊戯を乗っ取ろうとする。その挑発的なやり取りが僕達の演奏に色を加える。

 

 頼もしくも、後ろ手に懐刀を隠した同床異夢のベーシスト。流石に言うだけのことはあった。

 

「ふ、……ふ、ふざけんなー!どいつもこいつも勝手なことしてんじゃないっ!ドラムがどんだけ、どんだけ大変だったか……!」

「虹夏、ボロボロ」

「開き直るな! ドラマーを労われこの奇人共!」

「嬉しくないし」

 

 滝でも浴びたかのように全身汗まみれ、息も絶え絶えに髪を振り乱した伊地知先輩の怒声。

 土壇場で普段と比較にならないアップテンポを強要された上、彼女以外のキーボード、ベース、そしてギターによる変則的に連続する即興。それに伴う異様な変拍子。これでドラマーにまともな仕事をしろというほうが酷だ。

 

 それでも彼女は、どんなに楽器隊に振り回されようと最後まで手綱を離しきることはなく、秩序の最低限の土台を堅持し切った。今回僕が一番割を食わせ、恃みとしたのは間違いなく伊地知虹夏だった。

 

「ヒュ、ヒュー、コヒュー、シ、シンジャウ……」

「ああっ、ぼっちちゃんが液状化してる!?」

「人間って液体になれたんだね」

「感心してる場合じゃないでしょ?!」

 

 そして今回の主役はといえば、人前での初めての演奏、そのストレスに耐えかねてだろうか。輪郭どころか、文字通り身体を溶解させる怪奇現象を引き起こしていた。

 

 破茶滅茶なアップテンポをむしろ追い風として、何処までも突っ走るリードギター。その六弦の嵐が制御不能に陥る前に、臨界寸前の彼女を慰め、宥め、演奏という遊戯の円環の中心に据え続ける。その無理難題は僕達をして相当に堪えた。

 しかし彼女は観客に背中を向け俯きながら、リズム隊を背に置き去りにしながら、僕に対してだけは常に眼を開いていた。その信頼は嬉しかった。

 

 総じて言えば、もはやライブというよりはジャムセッション。客観的には曲の形はズタボロで、バンドとしても纏まりを欠く。及第点未満の酷い出来としか言いようがない。

 けれども、そんなことはどうでもよかった。

 

「はっ、はっ……凄く緊張して、怖くて、全然上手く弾けなかったけど……でも、た、楽しかった、です……!」

 

 本来青白い頬を紅潮させ、目には涙を滲ませながら、後藤さんはそれでもステージの上で精一杯だろう笑みを咲かせていた。

 

 伊地知先輩と山田先輩も、僕が今しているような、清々しい苦笑を浮かべたことだろう。

 

「よーし、ぼっちちゃんと水木君の歓迎会兼反省会するぞ!」

「ごめん眠い。……というかアレとぼっちの相手して疲れた」

「あっ、わ、私も……」

「結束力全然無い!?」

 

 

「というかさ。……アイツどこ行ったの?」

「へっ?」

 

 

 

 

 左手の感覚がない。

 

 ただ指の周囲で血管が爆ぜ、静電気が持続して指先を包んでいる。その最早痛みと形容すべき事態に、僕はほうほうの体でライブハウスを抜け出していた。

 

 道端の自販機でなんとか買ったアイスコーヒーの缶を指に押し当てると、冷たさの刺激に呻きが漏れる。焼けた石に水をかけるようなそれでやっと、左指は疼きと呼べる程度の感覚を取り戻すことができた。

 

 

 手の甲に走った、醜い傷跡。

 

 

「はあ、……全く。覚悟はしていたが、こうもポンコツだと嫌になるな」

 

 脱力そのままに自販機脇の壁にもたれ、ずるずると滑り落ちるように地べたに座り込む。脂汗でへばりついたシャツが気持ち悪い。ブランクの長さと、動かなくなっていく左手を無理矢理に駆動させたことによる疲弊。あのライブの余韻に、こんな醜態をさらして水を差す必要もない。

 

 まあ、いつも纏わり付いていたあの冷たい気怠さに比べれば、この熱い痛みのほうが幾らかマシだ。

 

 

 温い夜風も、汗を撫ぜれば疲労に上気した身体を冷やして、多少心地よくはある。それに現を抜かして……いったいどれだけ呆けていたのだろうか。

 

 僕の頭上から掛かる、か細い鈴のような声。

 

「……水木、くん……?」

「ああ……後藤さん、ですか」

 

 疲労と左手の痛みに伴う意識の混濁。迂闊なことに、ライブハウスから帰路に就くだろう後藤さんのことを失念していた。彼女の視線は当然、左手──その甲に刻まれた、裂けるような醜い傷に向く。

 

「……って、あ、ああ、ててて、手が、手が! だ、だだだだ、大丈夫、ですか?!」

「えっ、あ、痛っ……!」

「あ、あばっ、あばばばば、ご、ごめんなさい!」

 

 彼女が傍にしゃがみ込み、僕の左手を取るその些細な衝撃ですら、今の僕には缶を取り落としてしまうに十分。泣きそうになりながら震える後藤さんの声で、僕はやっとまどろみから覚めた。

 

「落ち着いて。……大丈夫、これ自体は古傷ですから」

 

 膝を立てて姿勢を正し、彼女が落ち着くように目を合わせ、声をかける。涙ぐみながらも一先ず震えは収まった後藤さんの様子を確認して、自販機の前に立ち上がる。

 

 しかし失笑ものだ。こんなものを見せるつもりはなかったのに。

 

「何がいいですか?」

「あっ、こ、コーラで……その、すみません」

「僕のほうこそ、驚かせてしまいましたから。これはそのお詫びとでも」

「は、はい。……えっと、その手は」

 

 自販機に硬貨を入れ、所望されたコーラの缶を手渡す。缶を開けておずおずと口を付けた彼女は、それで幾分か落ち着いたように見えた。

 

 疼痛とそこから来る倦怠感。正直立っているのにも気力を要するのだが、後藤さんの目尻に残る雫を溢してしまう訳にもいかなかった。取り落とした缶を地面に立てて蓋を開け、彼女の隣に並んで壁にもたれた。

 

 左手の古傷を大仰にかざして見せる。

 

「利き腕は右ですし、日常動作程度なら支障はないんですが。流石にピアノの演奏のような負荷となると、どうも」

「あ、えと、水木くんは、だからピアノを……」

「ええ。短めの邦楽の2、3曲でこれなら、コンクールの課題曲を弾き切ることなどできません。となれば、ピアニストは廃業でしょう?」

 

 そう手のひらを返して戯けて見せた僕に、後藤さんはかえって元々青白い顔色を真っ青にした。そういう反応をさせたい訳ではなかったのだが、まったく彼女の弾き語りの諧謔が羨ましい。

 

「そんな……ご、ごめんなさい。私のせいで、その、無理にピアノ、弾かせちゃって……」

「そういうのは無しにしませんか。僕は、自ら望んでステージに立った訳ですから」

「で、でも……」

 

 再び泣きそうになりながら頭を下げた後藤さんの肩を、右手で撫でるように軽く叩く。ピクリと肩を跳ねさせ顔を上げた彼女と、丁度向かい合うような格好になった。

 

「実のところ、音楽に嫌気が差していたというのもあながち嘘ではない」

「……水木くん」

 

 実際、左手(これ)が御釈迦になったその時には、ある意味では清々したものだ。

 

 ──あの人の夢も、僕の役目も、彼方も此方もみんな御破産。さて、願いましては。

 

 そんな破滅的なカタルシスを感じたことは事実だった。その代償こそが、あの冷たく色のない日々だったのだが。

 当然に音楽が好きなのだろう、彼女は僕のその言葉を聞いて俯いてしまう。

 

「けれど、貴女の弾き語りを聴いて、貴女の姿を見たから、……僕は、鍵盤を叩かずにはいられなかった。いられなかったんですよ」

 

 あの弱弱しくも美しい後藤さんの姿を見たからこそ、僕はピアノを弾かずにはいられなかった。左手の怪我も、過去のしがらみも関係なく、僕は彼女の爪弾く姿にどうしようもなく心惹かれた。

 

 

あの時もまたそうだった。もっと大きな何かに駆り立てられるように、弾き鳴らさずにはいられなかった。聴衆も、母も、あの人も僕もピアノも全てなくなって、ただ鍵盤を叩くその充実。

 

 

 懐かしい清々しさに、ふっと失笑が溢れた。

 

「後藤さんはどうでした?」

「えっ、……は、はい! わ、私も、楽しかった……楽しかった、です」

 

 ステージの上、僕の真正面で俯き震える少女。観客の視線を直視できなかった彼女は、観客席に背を向け、僕に相対する形で、それでもステージに立っていた。不安に揺れる後藤さんの瞳、そこに映った青い炎は僕に向けられていた。

 

 元の青白い頬を紅潮させ、声を震わせて、探るように朴訥と語った少女の言葉。

 

「僕も最後の最後で、音楽の楽しさを思い出せました。ありがとうございました」

 

 この手に残る色と熱。僕にはそれで十分すぎる。

 

 伝えるべきは伝えた。左手の痺れは残るが、これ以上ここで丘を巻く意味はない。瞳を見開いて呆けている後藤さんがやけに愉快に映った。

 残っていた缶コーヒーを一気に煽り、足元の鞄を拾う。彼女に背を向けて、下北沢の駅へ歩み出す。

 

 

 

 

「あっ、……あの!」

 

「え、えと、ひ、左手。あの、さ、触っても、……いい、ですか?」

 

 そんな僕の足は、上擦った声で縫い止められた。

 

 彼女自身、顔を赤くしながら目を白黒させて──顔のパーツが物理的に動揺しているようにも見えたが──最後には決意を込めて、澄んだ水色の瞳がこちらを見据えた。

 

「左手、ですか?」

「その、なるべく痛く、しませんから」

「……どうぞ。特に面白い物でもありませんが」

 

 どうしてよいものか。おずおずと左手を差し出した僕に、彼女は小走りで駆け寄ってきた。

 甲を中心に、四方に大きく走る亀裂のような傷跡。僕の手を両手で包んだ後藤さんの、その柔らかな指は壊れ物に触るよう。

 

「治ら、ないん、ですか?」

「はい、おそらく」

 

 傷に目をやって、俯いた彼女に端的に答える。

 

 最近はサボりがちだったものの、それなりにリハビリは重ねている。それでも幾らかの機能向上はあり得るのだろうが……無理だろうな、と他人事のように思っていた。

 

「音楽、やめちゃうんですか?」

「はい」

 

 細く柔らかな指先が、傷から指の背へと滑らかに流れる。その問いへの答えには、僕をして声の僅かな震えは禁じ得ない。

 

「もう、演奏、……聴けない、んですかっ?」

「おそらく」

 

 声の震えが伝わったのだろう。じわっ、と両の眼に涙を貯めて、目の前の少女はその手で優しく僕の左手を引く。嫌だ、行かないで、とでも言うかのように。

 

「どうか、そんな顔をしないでください」

「だって! ……音楽の楽しさを、お、思い出したって、言ったじゃないですか」

「……」

「ああやって私の手を引いておいて、私をバンドに引き込んでおいて。なのに自分だけ勝手に満足して行っちゃうなんて、そんなの嫌です! 意地悪です!」

 

 単なる同情ならば無用と笑い飛ばせた。失われたものへの哀悼ならば感謝を示せた。けれど彼女はそうではなく、あれで最後なんて嫌だと言った。もっと僕のピアノが聴きたい、僕とギターが弾きたいと駄々を捏ねていた。

 長い前髪に隠れた瞳が、意志をもって青く輝く。まるでライブの時のような青い炎が瞬く。そして、そのためなら──

 

「最後だなんて、言わないでください。一曲だけでも、片手だけでも、いいから」

 

「わ、私が、水木くんのこと、……た、助けますから!」

 

 

 ──。

 

 

「……僕を、助ける?」

 

 その言葉に、息が止まった。

 

 左手に触れた後藤ひとりの指の温かさ。胸の奥からあふれ出す奔流に、思考が激情で染まって──怒りか悲しみか、いや、それらでは表現しきれない。

 

 僕が知らない感情の波。それが身体を駆動させてしまわないように、それがあふれてしまわないように。僕は努めて、息を吐き出し瞑目する。

 身体中に、冷たくも熱くもあるような何かが溢れ出しそうになる。

 

「あっあっ、ご、ごごごめんなさい私ナンカジャ駄目ニ決マッテマスヨネ下手ッピノクセニイキッテスミマセンスミマセンスミマセン……」

「後藤さん。……後藤さん。不快に思った訳ではないので崩れないで下さい」

「あっはい」

 

 気が付くと、目の前の後藤さんはぶるぶると震え上がり、肩のあたりから細かい粒子のようなものに分離しそうになっていた。

 ……思いがけず低い声を出して怯えさせてしまったが、流石にこの子は怪奇現象を発生させすぎではないだろうか。

 

 どうにも毒気を抜かれてしまって、後藤さんの崩れる身体を右腕で抱え抱いた。ポカンと僕を見上げる彼女の様子が妙に可愛らしかった。

 

「ありがとう。けれど今は、お気持ちだけ」

「そんな……」

 

 本意ならず怖がらせてしまったが、一息吐いた今なら、彼女の好意を素直に嬉しく思う。けれど今の僕は、自身が音楽を奏でる様を思い浮かべることができなかった。

 もうピアノを弾くことなんてない、その資格もない。そう思っていたが、しかしまだ残り火は僕のなかに残っていた。

 

 

 まだ、僕にできることがあった。

 

 

 仄かな熱にも似た感慨。これを満足というのなら、確かに僕は「自分だけ勝手に満足している」のだろう。悲しげに俯いた後藤さんに込み上げるものが、我ながら滑稽だった。

 

「ただ、今夜のような。ピアノを弾き鳴らさずには、音楽がなければいられないような。そんな夜が、また来るかもしれません。その時には」

「は、はい! 私もそれまでに、水木くんの左手の、か、代わりになれるような。そ、そんなギタリストに、なって見せますから!」

 

 弾き鳴らさずにはいられない夜が来る。

 

 一流の演奏家は、どんな心無い言葉にも自分の演奏を曲げることはない。だが、あの子供のような駄々には──無邪気な聴衆の心ばかりの喝采にだけは、彼らをして恭しく首を垂れ、促されるがまま鍵盤を弾くより他ないのだ。

 

 弱気な表情ばかりしていた彼女の、しかし決意を込めた勇ましくもある笑顔。後藤ひとりが僕の左手であるなら、それは。

 僕は込み上げる衝動に──

 

 

 

「まあ、昼のような素晴らしい弾き語りに伴奏させて頂けるのなら、たとえこの手が砕けようと──痛ッ、痛い痛いッ」

「あ、あんな弾き語りするくらいなら、今ここで砕きますっ!」

「痛い痛い……あの、今は割と本気で痺れているのですが」

「水木くんは意地悪です! すっごい意地悪です!!」

 

 顔を真っ赤に染めた後藤さんは、未だ手の中にあった僕の左手を強く握り締めた。

 

 ……そのひどい痛みで僕はやっと、腕の中に居た彼女から手を放すことができた。

 

 

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