『お、お姉さん。……た、助けたい人がいるんです』
夜空に花火が明滅する、海辺のプロムナードの一角。
私と同じように夢を追いかける、大きな才覚を秘めた少女。彼女は別れ間際、その青い瞳に薄く火花をちらつかせて……俯きがちに、けれど決意を秘めて問いかけてきた。
『隣に行きたい人が、一緒に演奏したい人が、いるんです。……でも、どうすればいいか、どうすれば彼に届くか、わからなくて』
『届くさ』
私は断言した。
『君が本当に心を込めてギターを弾けば、どんなヤツの心だって動かせる。ロックは地球だって救えるんだぜ?』
何もかも色褪せた、つまんねー奴だった私だって、ロックは救ってくれたんだから。
ぼっちちゃん達の初ライブ。台風でお客さんの入りこそ悪かったとはいえ、演奏の出来はまずまず成功。最初はフロアの空気に飲まれちゃったけど──それも”駆け出しバンドあるある”で懐かしい(泣)──ぼっちちゃんのアドリブソロで一気に巻き返しちゃった。
いやあ、あれは見ものだったなあ。若い子の成長っていいよね……。
尊くもほろ苦い感慨はともかく、みんなは先輩の奢りで打ち上げに行くらしい。自他共に認める
「ベーラ・バルトーク『アレグロ・バルバロ』。中々渋いチョイスだねぇ。それにそんなキーボードでよくもそこまで」
ライブハウスのスタジオ、その奥から僅かに漏れた、叩きつけるような荒々しい輪舞。安物のキーボードじゃだいぶ無茶な曲目でも、彼はその暴力的な構造美をほぼ完璧に弾きこなしている。
それに引き寄せられた私は、演奏を終えた少年……水木、と言ったっけ。彼の独演に惜しみない拍手を送っていた。
軽く乱れた呼吸をゆっくりと整えた少年。盗み聴きを咎めるように僅かに目を細め、黒髪を薄く汗で湿らせたその横顔。まるで女の子と見紛うほどの美貌だ。改めて、若いって羨ましい。
「……バルトークをご存知なのですね」
「いやあ、私これでも昔ピアノをやっててさ。『ミクロコスモス』やったなあって」
「なるほど。確かに現代でも教育用に扱われる曲ですからね」
私が上げた喝采にも、少年は淡々と答えるばかり。彼が見せた極めて高度な演奏技術には全く相応しくない。控えめというより、心底どうでもいいとでも言いたげな、投げやりな態度だった。
「そして、当店は既に営業を終了しております。酩酊しておられるようですし、どうか、速やかにお引き取りを」
「カタいこと言うなって。営業終了ってんなら、少年だって使っちゃダメじゃん」
「……」
丁寧に腰を曲げつつも、容赦なくこちらを追い出しにかかる少年。表情こそ変えないものの、億劫というか、何処となく滲み出る気怠さは隠せていなかった。
絡んでる私が言うのもなんだけど、その慇懃無礼さは接客業のバイトとしてはダメなんじゃないかなあ。
それに私としても、彼に用事がないわけでもない。
「君も、ぼっちちゃん達の仲間なんだろ? それがどうしてこんな所でメソメソ泣いてるのさ」
涙どころか泣き言ひとつ溢さず、何でもないような顔をして、けれど隅で隠れて泣いている。
少年は薄く困惑した様子で首を傾げる。
「泣いている?」
「さっきの演奏、確かに良いモン聞かせてもらった。実際、キーボードってことを差し引いても高校生離れしてたよ」
「けどさ。何となく音が泣いてるんだ。冷たい、寒いって」
指遣いに、音の表情に、冷たく激しい嵐のような激情が乗せられている。ピアノは弾いた後の音を曲げたり、伸ばしたりはできない。なのに彼は、その指遣いと間合いだけで声もなく泣き喚いていた。
皮肉なものだよね。彼の優れた技巧と表現力、その澄ました顔より遥かに表情豊かな鍵盤捌き。だからこそ、私には少年の嘆きが手に取るように分かってしまったんだから。
「随分、感傷的な批評をされるのですね。『アレグロ・バルバロ』はむしろ打楽器的なリズムと音響、その反復にこそ特徴があるように思いますが」
「そういうことを言ってんじゃない。分かっててしらばっくれるのは、おねーさん感心しないなー」
「……」
彼が白々しく両手を掲げるのに、少々語気を強めてひと睨み。少しばかり鼻白んだらしい少年は、けれど開き直って鼻を鳴らした。
「それで、この僕に一体何のご用件でしょうか。態々お小言を賜りにいらっしゃった訳ではないのでしょう?」
「燻ってる天才君が居るって先輩から聞いてねぇ。打ち上げの集まりにもいないから、どこ行ったのかなーって」
「店長め、余計なことを」
表情を影で暗く隠した少年。ライブを聴いていた彼の揺れる横顔を思い出す。
先輩を五月蝿いと切って捨てる程に没頭していたのに、最後には瞳の輝きが失われて。ぼっちちゃん達の演奏を見届けた少年は、そのままキッチンの奥へと引っ込んでしまった。
彼はその時、何を思っていたんだろうか。
「僕など放って、貴女もそちらへ行かれるのが良い。今日の主役は彼女達だ」
「そりゃそうなんだけどさ。おねーさんとしては、やっぱり泣いてる子を見掛けちゃ放っとけないんだよ」
心なしか刺々しい嘆息、そこに纏わりつく郷愁の匂い。その自らの感情にこそ、彼は苛立ちを隠せないと見える。
私だって最初はそのつもりだった。けど、あんな演奏を聴いて放っておけるほど……先輩ほど出来た人間じゃない。
『煮え切らない奴なんだ。才能を持て余して、つまんねー顔して。あたしらと同じものをアイツも見たはずなのに、一体何に義理立てしてやがるんだろうな』
『ふーん。先輩ならそういうの、ブン殴って修正するんじゃないですか?』
『うっせ』
ぼっちちゃん達の後のバンドの演奏。そのステージを眺めていた先輩は顔を伏せる。昔は見たことがない、歳を取った眼をしていた。
『「バンドがあれば、仲間と夢があればそれでいい」。あの頃のあたしもそう思ってた。その他全部、どうでもよかった』
学校やバイト、家族との時間。一見なんでもない、普通で、ともすればわずらわしく感じられるもの。過去や今の私を否定する訳じゃないし、この道を選んだことも後悔なんてしないけどな。そう呟いて、先輩は寂しそうに笑った。
『でも、今になって思うんだよ。それは本当は大事なものだったんじゃないかって。あいつが言ってたように』
『先輩』
『あたしは最後の最後、本当にダメになる一歩手前でそれに気付けた。あたしはな』
『泣いてる虹夏が──母さんが。どうでもいい訳なかったんだよ』
そう言ったきり、彼女は静かにステージに視線を戻した。
ロックじゃ救えないものがある。憧れていた、けれど大人になった先輩にそう言われてしまった気がした。
いいや、そんなはずはない。
ロックはあの頃のあたしを救ったように、きっと地球だって救えるんだ。ロックンローラーとしての意地。いや、大人になり切れない半端者の強がりのような感情があった。
「賭けをしないか。勝ったほうが相手にひとつ「お願い」できる」
「僕が泣いている等という妄言はさておき。ジャムセッション、そしてベースですか」
ケースから命より大事な我が相棒、スーパーウルトラ酒呑童子EXちゃんを取り出し、構えて見せる。なんとも不遜な反応だけど、おうおう、そうとも。この私こそは人気インディーズバンド『SICK HACK』のリーダー!
「私はちょーっとは名の通った天才ベーシスト、廣井きくりちゃんなんだゼッ!」
クラシックも良いけど、
「自分で言っていれば世話は無いです。ここも閉めますので、早く出て行ってください」
「あっ、スルーしたなぁ!?」
あと誰が陰キャですか、なんてボソッと呟きながら、私の決め台詞にそっぽを向いた少年。ここまで話を盛っておいてシカトなんてひどい! そういう陰湿な所とか、まさに陰キャじゃないか!
「私はホームの箱じゃ器物損壊の常習犯なんだぞ! 放置すると酒の勢いで、何をしでかすか分からないんだぞっ!?」
「だから自分で言っていれば世話は無いですし、強請りの論理も滅茶苦茶です」
挑発を無碍にする気満々、あまりにも冷淡な態度。地団駄を踏んで喚いたところで、彼は表情ひとつ変えてはくれない。ベーシストはみんなこんななのか、なんて呆れ返った様子で吐き捨てている。
うぐぐ、仮にもロックの先達に対して、なんて不敬なヤツなんだ!
──だが。
そんな私を横目で眺めていた彼は、キーボードの鍵盤に手を置いた。
「貴女にお引き取り願うには、その賭けとやらに乗るのが一番手っ取り早いようですね」
照明の半分切れた薄暗いスタジオ。
濡羽色の黒髪。爛々と輝く黒曜石の眼差しを。
青褪め切って凍てついた空気に──まさか対流のせいだろうか──背景が歪んでさえ見える。
「……おっかねー。やる気になったのは良いけど、こりゃ堪んねぇなあ」
鍵盤を挟んで対峙する、薄く微笑を湛えた少年。影を纏ったその姿には、昏く、恐ろしいまでの美しさがあった。
思わずぶるりと身震い。まるで背中に氷柱を突っ込まれた気分だ。ぼっちちゃんもあの奇行はともかく大概だったけど、彼も想像以上に底がしれない。
──けどなあっ! こちとら才能の枯渇と借金の影に怯えながら、それでも鬼ころ片手に戦ってるんだ!
「今日の僕は虫の居所が悪いらしい。貴女が泣く羽目になっても知りませんよ」
「ハッ、上等! このスーパーウルトラ酒呑童子EXちゃんで、溜め込んだモン全部吐き出させてやらあっ!!」
内心の鬼胎、結滞。鬼殺しとともにぐいと呑み干し、黒く、暗く、昏い少年をのぞむ。
片手にいつもの鬼殺し!
我が大酒呑みの酒呑童子!
対峙するは恐ろしい颪!
タンブラーをかち割って、ぼっちちゃん達に活を入れた。そんな熱を秘める彼なんだから、きっとその頑なさだって鋳溶かせる!
「うわああん! ごめんよ、ごめんよ少年ー!」
「はあ。自分で言っておいて何ですが、本当に泣き出されても面倒臭いですね」
──電池切れ人生、忽ちLet’s Party!
頓痴気なジンテーゼ、飽くまでただの八つ当たり。
迫り来る地響き。悶え狂う低音が僕を呑み込み、焔のような熱に包む。その目眩のような奔流は主旋律を乗っ取り、セッションを所狭しと駆けずり回る。この身を焼き焦がして、その癖もっと飛ばせと無責任に煽る。
廣井きくり。
山田先輩との時とは真逆。その力強くも幻惑的で狂ったような音楽の前に、僕は翻弄され、圧倒されていた。こんな即興演奏でもなければ、蹴られてしまうだろう無軌道な音律。それでいて、心の奥底を惹きつけてやまない。
遮二無二三味線の撥を弾くベーシスト。薄暗いスタジオの影に佇み、こちらを獰猛に見据えながら、しかし彼女は酒精と音楽の快楽にその端正な顔を蕩かしている。
もっと、もっとだ! 出て来いよ、そんな所に居るより絶対楽しいぜ。
その渦巻いた瞳を爛々と輝かせ、頬を酔狂に染めて、僕へふわふわと手を差し伸べる。こちらは想像上のアルコールに浸る暇すらありはしないというのに、酩酊者とは始末が悪い。
脳が揺れる。
骨の髄まで臙脂に染まった音。揺れうごいて、しかし芯に貫かれた不条理な低音が侵食する。侵略する。
独覚兎に角ニルヴァーナ。
月下の煩悶、言わぬが花。
どっか行けなんてつれないわなぁ!
突貫・突撃、タカマガハラァ!
即興の変奏。ランダムな変数。要素が差し代わり、空回り、千鳥足。
悩が揺らぐ。
No sleep No sleep No sleep.
No mad video machine to eat time.
A city scene I can’t explain.
煩悩に殺される。
変幻自在の技量、奔放な即興。その佇まいとカリスマ性。身体がビリビリと揺れ、血が燃え、左手が疼く。
わかっちまうんだよ。ピアノ、辞めるに辞めらんないんだろ? それ以外何も要らないんだろ?
息苦しくて、生きながらに死んでいくようで。才能ばかり持て余したまま、誤魔化す術も知らないんだろ? そうだよ、他ならぬ私がそうだったんだ!
だったら!
カラカラ空回る思考回路。
きらきら星と夜空の回廊。
身投げの快狂。
自己への配慮。
けれど視界は灰色で。
熱い奏低音が、僕の薄っぺらな虚飾を溶かして、引き剥がしていく。そしてそれ以上に、この快楽に傅いてしまいたくなる。
この熱の前では、軋みを増したこの指でさえ、弾き鳴らさずにはいられないではないか。
──完全主義の皆々様方。
──右脳が死んでます?
ぎちり、ぎちり。機械仕掛けの嘲笑い。
どうかしている。
背筋が凍った──僕が泣いているだと。「泣いてる子を放っておけない」、だと。僕は後悔などしていない。してはいけない。
この僕に、自業自得の負け犬なんぞに、今更流すものなど何もない。上段から差し出された手なんぞ、握ってなどやるものか。
「……少年?」
転調。相対する廣井きくりを、改めて俯瞰する。
興が乗った。
本来専門外だが、面白い。僕なりのロックンロールと行こうではないか。所詮手慰みで身に付けたに過ぎない余技とはいえ、些か下世話が過ぎる酔いどれには丁度良い冷や水のはずだ。
ゆっくりと両手を精確に、異なる速さで走らせる。此処は狂った涅槃でもなければ、黒く深い森の中でもない。あらゆる価値が相対化した、機械的な都市の表象。スタジオから熱が消える。廣井きくりの、酒精に火照る頬が醒めた。
ポリリズム。
それぞれは単調な、しかし拍を違うフレーズの繰り返しが絡まり合った複数の主旋律。それらは一片たりとも狂うことなく、精確に、規律的に織り合わさる。だからこそ狂っている。
Qua tari mei , Thela Hun Ginjeet.
Qua tari mei , Heat in the Jungle.
彼女もまたその一セクションに過ぎない。
軋みを上げる指。それを刺し貫く灼熱を、無理矢理に鍵盤の上を駆け巡らせる。視界は赤く明滅し、思考のノイズは消える。神経をこの白黒の帰還回路へ張り巡らせる。鉄のように思惟は冷えていく。
語るに落ちる涅槃寂静。
路肩に転がる都市の不条理。
瑣末な通報、無駄な苦情。
これ、ポリリズム!? 即興で!? 嘘だろッ!?
その目が見開かれた。
明らかに様子の変わったセッションに狼狽しつつも、廣井きくりはなおも旋律を揺らそうとするが──歯車が軋む嘲笑い。近代のその後、意味の解体。
「地獄のように練習するだけだ」
──伝説的なギタリストの、その速弾きについて。
物狂いの酔狂には、偏執狂こそがお似合いなのだ。あの母が望んだ在り方とは、つまるところその産物で、やはり僕の芯を成していたものだった。
疼きを増していく左手。冷え切っていく主旋律が、その通奏低音ごと廣井きくりを覆う。
Discipline is never an end in itself, only a means to an end.
It is impossible to achieve the aim without suffering.
正しい演奏。
規律訓練の二律背反、自足し得ぬ禁則。
歯車のような差異の繰り返しに拘束され、その低い通底音は悶えるように身を捩る。それでも失われない熱に上辺は燃え尽きて灰になって、冷たい鉄の秩序だけになって。
『「敵を間違えるな」。この人達は、私の演奏が聴きたくて集まってくれたんだって』
あの子の声が脳裏を過って……敵とは誰だ。
この人はなぜ此処にいるのか。
指が、竦んだ。
待ってくれ。どうか、一人でいかないで。
止まってしまいそうだった主旋律を、眩暈のようにうねるグルーヴがかき抱く。泣き出したいほどの優しい抱擁。
痛い。
Still, by the window pane.
Pain, like the rain that's falling.
She waits in the air.
俯瞰するような乖離から、痛みを取り戻して。
僕はやっと、目の前の廣井きくりの──廣井さんの哀しげに揺れる眼に気付いた。彼女は僕を待っていた。ずっと僕の痛みを、隠せなくなった疵を眼差していた。
冷え切っていたはずの身体に、眼に熱を感じる。とめどなく何かが溢れる。動かなくなった左手の後釜に、廣井さんの太くしなやかな重低音が座る。そのまま僕たちはすれ違ったまま走り出した。
都市の固いコンクリートのひび割れから再び萌芽が芽吹く。冷たい旋律の重なり合いに熱が生まれる。
拍子の間を保ったまま、ベースとキーボードのポリリズムは駆けていく。
廣井さんの緩やかに迸るリズム・セクションに背を押されるように、僕の右手の主旋律もまた奔り始めた。求められた
けれど楽しい。今この時も、
後藤さんとの最初のライブを思い出す。喜多さんとの特訓が、山田先輩との路上ライブが蘇る。動かせなくても、もはや痛みすらなくなっても、それでも左手を止めたくない。僕の全てで奏でていたい。
ひとりのことだけ心に留めて
楽しい。痛い。楽しいのが痛い。
秩序とは差異の体系。ならば、今の僕と彼女はもはや
愛しのそれすら、頭にない。
最後の最後、それが結節した。
残響のような、反復する打鍵の乱反射。
すれ違い、折り重なった私たちのセッションのその終わり。たどたどしく、弱々しく、それでも少しでも見目麗しく整えるよう、丁寧に奏でられるアウトロ。とめどなく流れる涙を拭いながら、私はそれを聴き届けていた。
その手に走る大きな傷跡。……少年に、演奏家としての未来はない。
だからこんなスタジオの片隅で、静かに一人で泣いている。そんな痛みなんて、これっぽっちも考えなかった。もはや私は立っていられず、その場にしゃがみ込む。彼に合わせる顔がなかった。
一糸乱れぬ冷たい鉄の規律、機械のような精確性。それでも私の手を取ってくれた、垣間見えた仄かな優しい熱。それら全部、なくなってしまうなんて。
ぱったり、アウトロが途切れて。ばたり、彼は仰向けに倒れ込んだ。
「ははっ、あははっ、あはははははっ!!」
狂笑。
思わず顔を上げれば、少年は虚空を見上げて、壊れたように笑っていた。腹の奥底からの昏い響き。はじめからこうなるのはわかっていた、馬鹿馬鹿しい、愚かしいと、演奏家は嘲っていた。
痛々しく、身も凍るような光景。けれど、それが楽しい夢を見た子供のようにも聞こえたのは、私の願望でしかないんだろうか。
最後に思う存分、弾き鳴らせたからだと。
「ああ。負けた、負けた。これほど手酷く打ち負かされたのは初めてだ」
どれほど笑っていたのだろう。少年はむくりと半身を起こして、呆けたままの私へ顔を向けた。疲弊に濁った瞳に、苦痛が滲む脂汗。それまでの狂笑と、この青褪めた静寂との落差が恐ろしかった。
「人前に出すのは初めてのとっておきだったのですがね。即興で尻拭いまでされては完敗だ」
「ぐすっ、ごめんよ。ごめんよ、少年」
「はあ。自分で言っておいて何ですが、本当に泣き出されても面倒臭いですね」
いくら何でもそれはひどいよ……。
座り込んだまま、こちらへ半身を向けた彼へと項垂れながら呟いた謝罪。上っ面を取り繕うこともやめた少年は心底億劫そうに溜息を吐いて、力無く両手を掲げた。疲労と倦怠がまとわり付いた、滑稽じみた仕草だった。
「笑ってください。自ら望んでこうなった負け犬です。同情には値しない」
「出来るわけないだろっ! 君が、どれだけの思いでここまで積み上げて、それを──」
あまりにもあんまりな言い様に思わず立ち上がって、そこまで言って、
言葉が詰まった。──えっ?
「自ら、……望んで?」
絶句した私の様子に、少年は影のなかで口元だけの苦笑を深める。
「この手は、文字通り僕自身で砕いたんですよ」
「な、なんで……?」
「何故でしょうね。……酷く、疲れていたのは覚えています」
傷だらけの左手を掲げて、少年は僅かに笑うように吐息を溢した。困憊と諦めが籠った音だった。
「完璧に調律された譜面の再現。古典の再演。「正しい演奏」。母は僕にそれを求めた。それが僕の役目だった」
一つ積んでは、母のため。
ジャンルは違えど、さっきまでの演奏と根本は同じ。自分自身を殺していく冷え切った音楽。それが少年の役目。それが自らを叙べたあの規律の音楽、その淵源。
「僕にとって、音楽は呼吸のようなものでした。それをしなければ生きていられないが、それ自体が身体を蝕む猛毒を取り込むような」
ロックは、音楽は根暗で将来に何の展望も無い、つまんねー私を救ってくれたもの。楽しいことばかりじゃなかったけど、苦しみながら走り続けなきゃいけないけど、それでも、叫ばずにはいられないもの。
けれど少年は文字通り、ピアノを弾かなきゃ生きていけなかった。
「そんな僕に、僕の知らない音楽を教えてくれた。そんな方が居たのです」
僕のようなつまらない顔をしている奴に、綺麗な音楽を伝えること。それが夢だと。彼は少しだけ影を薄くして、遠くを見据えるように眼を細める。
「なにもかも、もうどうでもよかった。あの人が教えてくれた色と熱とが、全てが噛み合ってひとつになった」
彼だけが知っている、彼とその人だけの音楽。
完璧な規律。逸脱する、斑らに入り混じった仄かな熱。その矛盾、二律背反こそが少年の本質。この身で味わったから痛いほど分かる。
きっと、少年もそうだったんだ。仲間がいて、夢があって、美しい音が溢れていて。それさえあれば、他にはなにも要らない。
けれど、少年は顔を伏せる。先輩の言葉が脳裏によぎる。
『泣いてる虹夏が──母さんが。どうでもいい訳なかったんだよ』
「あの人と出会ったのは間違いだった」
先輩は本当にダメになる前に気付けた。
「母は至極当然の道理として、正しくあの人を処断した。彼女の夢はそれで潰えた」
少年は、そうではなかった。
彼は俯いたまま、顔を手で覆った。嗚咽も、涙も見せないままに哭いていた。
「僕はあの母のために「正しい演奏」をしなければならない。それが僕の役目」
けれど。
恩人の夢を自らの手で壊してしまった。そして彼らが見出した音楽も、その手で塗り潰さなきゃいけない。
その絶望に少年は折れてしまった。大切だった音達さえ色褪せてしまうくらいなら、せめて綺麗なまま、思い出のなかに仕舞うことを望んだのだ。
彼の懺悔に、私は何も言えなかった。何も言ってあげられなかった。私達は、確かに同じものだったはずなのに。
「だというのに、今更」
凍てつくような沈黙のなか、ゆらりと、少年は立ち上がった。
「やはり僕は、一介のファンに戻るべきなのでしょう」
「えっ……?」
「思えば、オーディションの時もそうだった。彼女達の演奏を素直に賞賛できなかった。「頑張れ」と言えなかった。それは、僕があの子達を妬んでいるからなのだ」
後藤さんのファンを名乗ったあの二人のように、もはや素直に彼女達を応援することはできないだろう。羨ましい。妬ましい。自分で壊して、そんな資格もない癖に。あんなに、優しくしてくれたあの子達に。
「貴女にそれをしたように。いつか僕は僕の中の悪意を、最悪の形で彼女達へぶつけてしまうでしょう」
だからその前にお別れを。……そんな、絶望的な独白。
俯いて影に隠していた表情を見上げれば、彼は薄く笑っていた。今にも割れてしまいそうな、ガラスのような笑顔だった。
「最後に貴女と演奏ができてよかった。僕などのために泣いてくれる。そんな優しい方に、引導を渡して頂けましたから」
「私は、そんなつもりでセッションしたんじゃない! 今だってそんなつもり、ない!」
一人で勝手にそんなこと、決めつけるなっ!
確かに過去は変えられない。終わってしまったものはどうしようもない。でも、彼がもう一度手に入れたものだってあるはずなんだ。それはまだ終わってないはずなんだ。
「ぼっちちゃんはどうするんだよ! あの子は、君を助けたいって言ったんだぞ!」
「──」
ぼっちちゃんが助けたいのは少年だ。根拠もなかったけど、でもきっとそうだ。終わってしまった過去から彼を助け出したいんだ。少年は一瞬悲しそうに、嬉しそうに、表情に痛みを混ぜ込んだ。
けれど次の瞬間には、笑みはガラスのそれに戻ってしまった。
「救われましたよ。むしろ甘え過ぎた」
「少年……」
「あの色と熱。それだけで、僕には充分過ぎる」
私に背を向けて、スタジオの戸締りをテキパキと進める少年。彼はセッションの前の仮面を取り戻していた。それどころかますます冷たく、固くしてしまっていた。
沈黙がスタジオに満ちて……それきり、私と彼に会話はなかった。
翌る日のSTARRYのバックヤードに、店長の唖然とした声が響く。
「は? 此処を辞める?!」
「貴女に良くして頂いたことは重々承知ですが、少し、所用が出来ました」
赤く険しい視線が僕を突き刺す。低く鋭い声色の中に、それでも僕を案じる配慮が隠れていた。
「廣井と何があった」
「いいえ。ただ優しく、引導を渡して頂いただけのことです」
「ぼっちちゃんのこと見てろって言っただろ」
「……申し訳ありません」
己の往生際の悪さに、思わず失笑を溢してしまった。ただ今の僕には、最早あの子は眩し過ぎる。
怒りとも困惑ともつかない表情を噛み殺し、店長は手元の煙草に火を付けようとして、……それはくしゃくしゃに握り潰されていた。
「チッ、……好きにしろ。ただし、今月残ってるシフトには入れよ。そういう義理は果たせ」
「……はい。ありがとうございます」
クソ野郎が。……あんな泣きそうなガキの面なんて、後味悪過ぎて殴れねぇじゃねえか。
ドアを閉じる間際、そんな声が耳に残った。
身体が凍り付いて、拍動さえ止まってしまった感覚。それに身を任せて廊下の壁に凭れ掛かる。いっそ殴られたほうがマシだとさえ思ったが、それこそ甘ったれた考えだった。
「あ、あの、み、水木くん」
「……後藤さん」
項垂れたまま動けない僕に、不意に掛けられた声。ドアを挟んだ向こう側には、もじもじと手元を弄りながら、顔を赤く青褪めさせた後藤さんがいた。僕がバックヤードから出てくるのを待っていたのだろうか。
彼女はこちらの様子も目に入らない程度には動揺しているらしい。しどろもどろに言葉を詰まらせ、俯きながら、けれど決心したように僕を見上げた。
「そ、その、今度、ど、どどど、どこか、あ、……遊びに、行きませんか……?」
気弱で内気で、一人の友達もいなかったという後藤さん。そんな彼女が勇気を振り絞って、精一杯に伸ばした手。
「申し訳ありません。今夏は、全てアルバイトの予定を入れてしまっているのです」
「あっ……そ、そうですよね。あ、あの、じゃあ、つ、次の自主練習の日なんですけど」
「丁度良い。それについてですが」
それを僕が取ることはない。
目線を逸らしていても、しょんぼりと眉を下げた顔が手に取るように分かる。それでも喜多さんとの規律・訓練に触れた彼女を、僕は遮らなければならなかった。
「喜多さんの規律・訓練もこの辺りで切り上げましょう。後は貴女と山田先輩が居れば十分だ」
「えっ……? な、なんで」
「なし崩しのまま続けてしまっていましたが、初ライブも終えましたし、良い区切りだ。元々門外漢の僕が居る意味も最早ない」
僕は後藤さんに背を向ける。
「ま、まって」
合わせる顔がない僕の手をきゅっと握る感触。泣き出しそうに震えた声に足が止まった。貴女から差し伸べられた手を嬉しく思わないはずはない。それを振り払うのが、僕のエゴに過ぎないこともわかっている。
「わ、私、私、な、なにか、わ、悪いことしちゃったんですか? ……私達のライブが、だ、ダメ、だったんですか?」
「それは違う」
その瞬間、絡まった感情も強張った思考も抜き去って、身体は彼女のほうへ向き直った。
「貴女方の、貴女の演奏は最高だった。確かに序盤、出鼻を挫かれたことは否めません。だが、貴女がそれを立て直して魅せた。ビブラートを効かせて歌い上げるかの如く揺れるギターリフに殴りつけられたようにすら思われたそして何ですかあの新曲聞いてないのですがというかアレ最早全編ギターソロみたいなものですよね貴女の独壇場じゃないですか尤も全体のバランスを考えると些かならずやり過ぎな感はありましただがそれがいい最高ですか貴女は」
「アッハイ」
「……失礼」
思わず我を失った。彼女の両肩を抱いたまま、捲し立てるように並べてしまった想い。後藤さんはポカンと丸めた目を白黒させた。その青い瞳の輪郭が、見る見るうちに滲んでいく。
「……わ、私、み、水木くんのこと、知りたいって、思ってます。……でも」
赤らんだ頬に、雫が一筋こぼれ落ちた。
「わかんないよ。私馬鹿だから、言ってくれなきゃ、わかんないよ」
そう呟いたまま長い前髪に顔を隠して、後藤さんは俯いてしまった。
貴女は何も悪くない、全部僕が悪い。でも、貴女に手を伸ばしたくても、痛くて触れていられない。彼女の肩から、そっと手を離す。
「暫く、一人にさせて欲しい」
貴女には仲間がいる。僕とは違って、もうひとりぼっちなんかじゃない。
「どうか、貴女の歌を好きなままで居させてはくれませんか」
再度、後藤さんに背を向ける。今度こそ僕は振り返らなかったし、もう彼女が背に縋り付くこともなかった。
……それを期待していたことに気付いて、酷く吐き気を覚えた。
スタジオを片付け、街の中へ一人去っていく少年の背中。
ポリリズムのように、私と彼はすれ違っている。同じものを見たのに、ひとつになって音を重ねたのに。……今更、ぼっちちゃんの気持ちが分かる。
先輩は本当にダメになる前に、最後の最後で引き返せた。私はただの強がりかも知れないけど、まだ自分が間違えたと認めていない。だからこそ間違ったまま終わってしまった少年に、私のロックは届かない。
それでも。
「少年」
鬼ころを一口、アルコールの苦さを感じたのは何時ぶりだろう。左手が痛むだろうに、それを顔にはおくびも出さず、少年はゆっくりと振り返った。
「今日のセッション。君が私の勝ちだと言ってくれるのなら、「お願い」だ」
その青褪めた、刃の切先のような横顔が私を写す。
インディーズでも人気のバンドだの、天才ベーシストだのと宣ったところで、所詮大人になり切れない半端者。ロックで誰かを救えると思い上がった挙句、彼の包帯のような嘘さえ剥ぎ取ってしまった。傷を開き暴いたまま、優しい言葉ひとつ掛けてあげられなかった。
それでも、同じものを見た同士として。君の心に土足で踏み込んだ情けない大人として。
私にまだ、できることがあるのなら。