「寄稿、ぽいずん☆やみ、と。……あー、筆がノらなーい」
エンターキーを強く弾いてメールを送信。なんとか原稿は書き上げたけど、記事を書くための刺激が足りない。琴線に触れる新しいバンドとか見つからないかなぁ。それこそ、今時プログレッシブ・ロックなんてフォローするような超絶技巧派バンドとか。
毎日毎日、書くのはPV稼ぎのための半ば煽り記事ばかり。他のライターも程度の差はあれ同様か、もしくは毒にも薬にもならない三文記事か。毎度反応する読者も飽きないものだ。
「あたし、何のために音楽ライターなんてやってるんだろう」
どうにもならない徒労感に押しつぶされ、机に突っ伏す。最初は「良いバンドをみんなにも知って欲しい」なんてことも思ってたっけ。夢とか理想は分かるけど、目の前の現実はそんなに甘くはなかったのだ。
音大に入ってすぐ、プレーヤーとしての自分の才覚には見切りを付けたあたし。それでも、もっとメジャーな音楽雑誌の編集者だったり、イベントプロデューサーだったり、音楽に関わる仕事が──綺麗な音楽を人に届ける仕事がしたかったのに。
それがどうしてこんな事に……。
カタリ、と物音。顔を上げれば、腕が触れて倒れた写真立て。手に取ったそれに写っているのは、私と並ぶ不機嫌そうな少年の姿。
仮にも全国コンクールで金賞を取ったのに、贈られたのはあたしからのたったひと束の花束だけ。それだけおっかなびっくり抱えて、照れ臭さを隠しきれずに顔を赤らめている。まったく、こういう所だけは可愛げがあるんだから、と散々に弄ったものだ。……胸に刺さった棘のような記憶。
写真を撮るなんて柄でもなかったあいつとの、数少ない形に残った思い出。
ああ、そうだった、あいつがきっかけ。忘れていた訳じゃない、ただ押し寄せてくる日常に押し流されて、こぼれ落ちていただけだ。あいつに初めて会ったのは……。
腕を枕にしたまま。あたしの意識は、遥か彼方になったあの頃へ沈んでいった。
一年と少しくらい前、日差しが心地よい春先の昼下がり。まだ音大生だったあたしがライターのバイトを始めて、暫く経った頃の話だ。
個人ライターが読者の目を引くには色々な意味で苦労も多かったけど、元々文章を書くのは嫌いじゃない。就職先の勉強にもなるし、なんだかんだであたしの性にあった仕事ではあった。
地元のとある少年ピアニスト。
その噂を耳にしたのもそのくらいだった。ネットに転がっていた前情報を元に、ひとまず学校周りで聞き込みでもしようと思ったその矢先。件の相手はあっさりと見つかった。
「ちょっと、お話聞かせてもらってもいいかな☆? あたし、ばんらぼってサイトで記事を書いてるんだけど」
「フリーライター。ぽいずん・ハート・やみ、14歳……さんで、良いのですか?」
おい、歳まで読むなや。
内心のツッコミはさておき、学校裏すぐそばの公園。その少年は何をするでもなく、日陰の生垣にぼうっと腰掛けていた。
手渡した名刺の端を摘んで訝しげに眺める彼は、首を僅かに傾げてぽつりと呟いた。
「名は体を表すとはよく言ったものだ。あと、態々詐称した年齢を表記しても無駄だと思いますよ」
「う、うるせー!こちとらキャラ立てに苦労してるのよ!」
「悪名は無名に勝る。印象に残るという意味では、まったく無駄とも言えませんか」
『名は体を表す』ってどういう意味よ!? 確かにこちとら、胡散臭いというかふざけたペンネームなのは否定できないけど! ウケを狙って盛大に滑った感は否めないけど!
キャラ設定を早々に投げ捨てたあたしにも、彼の表情は微動だにしない。その仏頂面のまま、無駄に納得したように鼻を鳴らした。
「こんな逸れ者相手に取材したところで、面白い記事になるとも思えませんが」
「まあまあ、無理にとは言わないけどさ。お姉さんとお茶するくらいに思ってくれれば良いよ」
「……「お姉さん」、ね」
こんな無礼な奴の癖に、その容姿はそれだけで一記事書けそうなほど。
長い睫毛に退屈を湛えた流し目。艶やかに揺れる濡羽色の髪。日本人形のような、生気の薄く冷ややかな美貌。姿勢を崩したはずの佇まいにさえ一本芯が通っている。
一目見ただけで噂の彼だと分かる、「令嬢」と称されるのが決して大袈裟ではない美少年。それがむしろ腹立たしいんだけど。
大手メディアが取り上げてもおかしくなさそうなものだけど──今から思えば多分、母親が間に入って止めていたんだろう。その点、あたしみたいなお行儀の悪い個人ライターのほうが近付きやすかったという訳だ。
少年は一瞬だけちらとこちらを見やり、つまらなさそうに呟く。
「若作りをするのか、年上振るのか。どちらか一方にして頂けると、こちらも応対が容易くて助かるのですが」
ぐっ、こ、このガキ……!
職業柄、煙たがれることはしょっちゅうとはいえ、初対面でこうもあからさまに小馬鹿にしてくる奴も中々いない。流石にカチンと来たが、中学生相手にムキになっては取材どころじゃない。
「お、女の子の歳を論うのはお姉さん、感心しないなあ?」
「失礼、では「お姉さん」ということで。自分で言っておいて何ですが、成人した女性を同級生扱いは流石に居た堪れない」
「下手に出てればつけ上がりやがって……!」
能面のような表情のまま、冷ややかに悪態を吐いたクソ野郎。今にしてみても、取材対象じゃなければぶん殴っていたかもしれない。
そんな喧々諤々もそこそこに、多少の逡巡の末、彼は気怠く首を傾けた。
「それで取材でしたか。……まあ、構いませんよ」
直に帰った所で家には誰も居ませんし、かと言ってこうやって時間を潰すのも少々飽きてきた頃合いですから。
人を喰った慇懃無礼で生意気なクソガキ。何も知らないまま才覚と能力を持て余して、何に対しても熱を持てない。それが美貌と合わさって、硝子細工のような危うさを醸し出す。
桜が舞い散る公園の中、そこだけ真冬であるかのよう。あいつは──
「はあ、もういいや。じゃ、いきましょ──水木南くん!」
水木南は、そんな男の子だった。
まるで、機械仕掛けのご令嬢だ。
如何なる場面でも崩れない、精確かつ美麗な演奏技巧。感情表現に乏しく、楽譜を辿るだけの平板さ。彼を評したその言葉には、賞賛と批判の両方が込められていた。
実際に音源を聴いても、その些か辛辣な批評は──その外見への揶揄を除けば──概ね妥当なものだったと思う。子供のくせに随分と堅っ苦しい演奏をするものだと、妙な感心すら抱いていた。
早くから結果を残しながら、殻を破り切れない。当時の少年ピアニストとしての水木南の評価は、大体そんなところだった。
「指導者である母からも、「もっと情感を込めて弾け」と叱られたものです」
少し歩いた場所にあるカフェの、窓際のカウンター席。ちょっとばかり挑発して、ニュースバリューのある言葉を引き出してやろう。そう思ってぶつけた曰くに、冷ややかな失笑を溢す。そしてアイスコーヒーを一口、少年は言い放った。
「教えてください。情感とは何ですか?」
土台無茶な話だ。あいつには「なめらかに流れるように、
そもそも、彼はクラシック以外の音楽のことにも驚くほど無知だった。もちろん辞書的な知識は備えていたし、机上の音楽学的理論については、むしろあたしよりも精通していた。
けれど、流行りのポップミュージックとかロックとか、年頃の少年が当たり前に好みそうなジャンルをまるで知らない。というより、実際に聴いたことさえなかった節もある。
ただ、母親の夢だったという「ピアニスト」として在れ。その役目以外には何もなかった。それを妨げかねないすべてが予め取り除かれていた。それがあいつの周囲から人を離れさせ、あいつの世界を狭く、貧しいものにしていたというのに。
「「
そう問い返された時、あたしのちっぽけな経験と表現力では答えようもなかった。経験してもいないことを表現しろと言われても、あいつには屏風の虎を出すようなものだ。もっと言えば。
「ああいう風に喚き散らした所で、何の意味もないはずだ」
あいつの前で「感情」的になっているだろう彼の母の姿は、ひどく醜悪で滑稽なものに映っている。”そんなもの”を衆目に晒す気にはなれない。
影を色濃く纏った、冷たい嘲笑。けれどあいつの演奏の淵源が、その気持ちが理解できてしまった。
「何か、おかしな点でも?」
「い、いや……あんた、自分の周りがおかしいとか、思わないの?」
言葉が出ないあたしの様子に、あいつはやけにあどけない表情で、不思議そうに尋ねた。そして、あたしがそうせずにはいられないまま問い返した時の顔もそうだった。
「僕にそれをどうしろと言うのですか」
色の無い、透明な黒い瞳。
望みが絶たれるのが絶望だと言うなら、最初から望みを知らないあいつは、赤子のような伽藍堂だった。あいつは音楽に、何にも価値を感じてない。ただそう在れと望まれたからそう在るだけ。
「そんなんで音楽やってて……楽しいの?」
「逆に聞きますが。例えば貴女は、呼吸に一々感慨を感じますか?」
呼吸。あいつにとっての音楽は、悪い意味で「生きるために必要なもの」だった。酸素がなければ生きられないけど、でもそれ自体が身体を蝕む猛毒であるように。
不遜に質問に質問で返した少年。彼は仏頂面のまま頬杖を付いて、窓の外の青空を見上げた。
「ただたまに、ひどく息苦しくなることがあります。このまま呼吸を止めてしまえたら、それもなくなるだろうか」
後につるむようになってからも、あいつの弱音なんてほとんど聞いたことがなかった。フリーライターという袖触るような縁の相手だからこそ、それは言葉として零れたのかもしれない。
哀れみなんてしない。取材対象と適切に距離を取ることはライターの基本だから。ただ、腹が立った。生命維持のためだから仕方なく音楽をやるなんて、木っ葉ライターといえど、音楽に関わる末席の一人として許せるはずがなかった。
ぎゅっと手を握る。
「今から、時間あるわよね」
「……は?」
「着いてきなさい。教えてあげるわ、あんたの知らない空気(音楽)」
だからやめだ、この記事はお蔵入り。あいつはもう、取材対象じゃない。
……「取材対象ではない」。その中途半端さから、あの時のあたしは都合よく目を逸らした。
いつも満員でなかなかチケットが取れない、日本屈指の人気を誇るジャズピアニストの演奏会。
「彼」のライブは2時間以上ピアノを演奏する夜もあれば、開演わずか10分で椅子から立ち上がり、激しくピアノを弾き、ステージから消えてしまう夜もある。それゆえ「彼」の演奏は希少で、最早チケットにはプレミアが付きつつある。
そんなチケットを、あたしは伝手を頼りに何とか譲って貰っていた。「彼」の演奏を聴かせたかった理由は幾つかある。あいつに一番馴染みやすいだろうピアノの、クラシックとは別ジャンルの先達。単純に、あたしに元々ある程度の知見があったというのも大きい。
ただ一番の理由は、「彼」の演奏にはあいつに欠けているものが備わっていると思ったからだ。その演奏技術はプロとして申し分ないものの……実際の所、「彼」より技巧に秀でたジャズピアニストは日本人に限ってもそれなりに居る。
『For Tomorrow』──演奏が始まる。
それでも尚、「彼」の演奏は多くの人々を惹きつけてやまない。
彼が居るのは奇跡の隣。
出会いは雨のような旋律となり。
別れは突き刺さるほどに尖り。
銀の長髪を振り乱す「彼」の背中に、あたし達は初めて生命に出会う歓喜を見る。その旋律には、時に大切な何かを失ったような痛みが伴う。鍵盤を走る指からは、突然に襲い来る理不尽への、やり場のない怒りと悲しみさえもが垣間見える。
生と死を隔てる、たった一枚の帷。
──それでも、たとえそうだとしても。
『その小さな命の温もりが』
『明日に繋がると僕は信じています』
「彼」はその小さな何かを守り慈しむのだ。その暖かな情熱が、「彼」の奏でる音には込められていた。
名は体を表す。「彼」の演奏は、すべての生命の誕生への賛歌だった。
「彼」の演奏に、何がその暖かさを与えているのかは分からない。けれど、あたしの隣で口元を抑えて、戦慄くことしかできないあいつに。伽藍堂の透明な眼をしていたあいつのどこかに、その熱が伝わってくれたらよかった。
演奏会の帰り道。オープンスペースに置かれた、簡素なアップライトピアノ。
会場から黙り込んだままだった少年。彼はくるくると両手を見回して、言葉もなくこちらを伺った。玩具で遊んでいいか尋ねる子供みたいに。
ひとつ頷けば、あいつはふらふらと覚束ない足取りでその前に座った。それまでの人を食ったような姿には似ても似つかない朴訥とした仕草。その様子に小さく笑ってしまう。
「彼」の演奏の熱気が抜けきらないのだろうか。震える両腕を抑えながら、恐る恐る鍵盤に触れる。演奏された曲をなぞって、少年は見様見真似に鍵盤を叩き始めた。
──さあ、イメージ、イメージ、イメージ。
弱々しく、種子の殻を叩くような頼りない音。それが少しずつ輪郭をはっきりとさせ、白い根を土に突き刺す。己の居場所を確かめるように。
……上手い。初めてにしては、なんて枕詞をつける必要もない。このままその辺のステージにあげても問題なく演じ切ってしまうだろう。それなりにプロの演奏を聴いてきたあたしをして、あいつはピアノに関しては本当に天才的だった。
ただ、その時のあいつはジャズの即興演奏のルールを知らない。それをクラシックの文法で無理矢理に継ぎ接ぐから所々綻びが出る。その萌え芽に水をやり、添木を当てるのはあたしの役目だった。
「そこの繋ぎは、ジャズじゃこうやるのよ。見てて、例えば」
「……ああ、そうか。なるほど」
「あたしもちょっと齧っただけだけどね。やってみて」
大学の授業でほんの少し触れた程度の基本のイロハ。それを教えてやりさえすれば、あいつはまさに水を得た魚のようにスウィングに乗り始めた。
──喩えろよ、塗り替えろよ。
殻を脱ぎ去り、大気の下にその子葉を晒した後は、もはやその旋律を留めるものは何もない。雨に葉を震わせるように音階は流れ、地に根は伸びる。
あいつは新しい音を、瞬く間に我が物としていく。そばで聴いているだけのあたしが付いていけない。それほど自由闊達で型に囚われない、何も知らないからこそ何物にも邪魔されない感性的な演奏。その柔らかな枝葉を伸ばすように、十の指は鍵盤の上を縦横無尽に跳ね回り、天衣無縫に駆け巡る。
──芸術でも、文学でも。
──掃き溜めのスクラップにだって。
名残を惜しむように指を止め、打鍵は響きを残して去っていった。
一人の演奏家の誕生。
そこに立ち会えた言いようもない心の揺れ。暫し浸っていると、いつの間にか出来ていたギャラリーからは喝采が上がった。座ったまま呆けていたあいつは目を丸くして。
「何驚いてんのよ。……良い演奏だったわ」
「……」
自らの胸元を握りしめるあいつの黒い瞳は、もうあの冷たい伽藍堂じゃない。まだ小さく弱いものだけど、そこに確かに灯る碧い輝き。
それを見て、今まで漠然と思っていたことが明確に輪郭をかたどった。
「あたしの夢は、あんたみたいな奴に少しでも綺麗な音楽を伝えること。あんたが今やって魅せたみたいな音楽を、みんなに伝えること」
あいつみたいな、何もかもがつまらないと思っている奴にこんな顔をさせてあげられたら、それはどんなに素敵なことだろう。あいつの演奏は、あたしの中にも何かを芽吹かせたのかもしれない。
「どう? 「知らなかった」でしょ」
「「知らない音楽」……確かに、こんなのは知らなかった」
こちらを向いて僅かに上気した姿。いつもスカした顔ばかりしていたからか、初めて見せた子供のような笑顔は、とくに印象に残っている。
「しかし、「ぽいずん♡やみ 14歳」さんとお呼びして本当にいいのですか? 割と台無しといいますか」
「今それを言うんじゃないわよ!」
まあそんな余韻は、すっとぼけ顔のトンチキでぶち壊されたんだけど。まったく、あのクソ生意気な舐めた態度は最後まで変わらなかった。
「ったく。……佐藤愛子。愛子でいいわよ」
それからというもの。街路樹の側のカフェを何とはなしの目印にして、あたしはあいつを色んな場所に連れ出した。
流石に「彼」のチケットは取れなかったものの……。取材と称してロックバンドのライブや、変り種では和楽器の演奏会なんかに連れて行ったこともあったっけ。クラシック以外は本当に何も知らないので、一々説明するのに苦労したものだ。でも、逆にそれがあたしのライターとしての修養となっていた所もある。
一度教えてしまえば呑み込みが早く、その意味でも天才肌だった。新しいジャンルを知るたびに、あいつは瞳を艶やかに輝かせて。そして乾いた砂が水を吸うように、そのエッセンスを貪欲に自らのものとしていった。……アイドルのライブに連れて行った時は、流石に難しい顔をしていたけど。
そんな風に季節は過ぎて、カフェから見える街路樹の葉は青々と繁り、そして色付いていく。その枝が伸びるように少しずつ、あいつの世界が広がって。根が這うように少しずつ、あいつの演奏に深みが生まれて。
「頑張んなさい、南。アンタ天才なんだから」
とある全国規模のコンクール。若木がやがて大樹となり、大輪の花を咲かせた時。
結果と正しさしか見ない大人達は、芽生えた子葉を摘み取ってしまうかもしれない。
あいつを弱者として扱うことで、かえって深く傷付けてしまうかもしれない。
そう恐れて、あたしは本来通すべき筋から目を逸らした。
『先方は表沙汰にしたくは無いと仰っている』
正しい処断だったのだろう。
どんな事情があろうと、親に無断で中学生を連れ歩く。そんなことが許されるはずがなかったのだ。やり方を間違えたその代償として、あたしはあの時芽生えた夢を自ら手折った。
今なら分かる。真に少年のことを想うのなら、一人の大人として彼を守るべきだったのだ。責任を持って踏み込んでやるべきだったのだ。
あたしはただ逃げ場を用意しただけ。その時のあたしは大人になれない中途半端な子供で、水をあげることで精一杯で……あの木陰の居心地が良過ぎて、そこから踏み出すことが出来なかった。
後は、語るほどのことはない。
大学からの勧告に従って自主退学したあたしは、そのまま実家を飛び出して。いつの間にか、八つ当たりのようにアーティストの批判記事を書く底辺ライターになっていた。潰えてしまった、夢の残滓も捨てきれないまま。
あたしの規準はとても不確かなものでしかなくて、水木南の才能は、物差しとするには眩しすぎた。
「──今じゃ、PV稼ぐのが主目的になってるんだけどねぇ」
橙色を帯びた日差し、残暑が残る九月の日が傾き始めた。自嘲とともに背伸びすることで生温い空気を拭い去って、回想から上体を起こす。
そうだ、今夜は新宿FOLTでSICK HACKのライブ取材のアポを取っていたんだった。SICK HACKはその力量に対してなぜか取材記事が全然出回らないので、底辺ライターとしては穴場を狙わない理由はない。……というかあのバンド、実力自体はとっくにメジャーでやれてるはずなんだけどなあ。
如何せんジャンルが一般受けしないし、何よりリーダーであるベーシスト兼ボーカルのアクが強すぎてメジャーレーベルから敬遠されているのだろう。逆に言えば、バンドとして一本芯があるということ。そういう点は嫌いではなかった。
サイケデリック・ロックそのものは特別愛好している訳でもないけど。この倦怠感を吹き飛ばすには、あのハチャメチャなライブパフォーマンスは丁度良かったのかもしれない。
けれど、ライブに一人で行くのか。あの頃は、半ば強引にあいつを連れて行くのが常だった。……あいつは今、何をしているのやら。
結局、お別れの挨拶もできなかった。現実的に会う訳にもいかなかったし、それに身から出た錆だと分かっていても、あいつを傷付ける言葉が零れてしまったかもしれない。
不甲斐ない大人としての最後の強がり。あの伽藍堂だった少年の、せめて綺麗な思い出のままでありたかったのだ。それでも……窓の外の夕焼けが滲んで、身支度する手が思わず止まった。
あのカフェの窓際の席。あいつは──南は今も、あたしのことを待っているんだろうか。