1. 打つ、叩く。
2. 1950年代アメリカの作家・詩人による文化運動。Beatnik。
3. ひどく疲れている。打ちのめされる。
4. つまらない。どうでもいい。
「何も成せなかった負け犬の、つまらない失敗談です」
『えらいわ、南! 上手く弾けましたね!』
恐らくは喜色を浮かべているのだろう、塗り潰された母の笑顔。
母は若い頃、ピアニストを志していたという。親が果たせなかった夢を子に託す。よくある話で、そして大抵は「親子と言えど結局は違う人間だ」という当然の事実と、子供らしい飽きっぽさによってあっけなく投げ捨てられる。
所詮はそんな儚い夢に過ぎないし、それすらもよくある話だ。
だから母にとって間違いなく不幸だったのは、僕に中途半端に才能があって、その夢から覚めることができなかったことなのだろう。
もう戻れやしない、近いようで遠い回想。
「あっ、guitarheroさんの更新来てる。どれどれ……おお、今回もテクいわねぇ。流石ギターヒーロー!」
色付いた葉もそろそろ枯れ落ちつつある、晩秋の街路樹。それを望むくらいしか特徴のない、何処にでもあるような喫茶店の一角。
書籍に向かうのに飽きたのか、スマートフォンからイヤホンを伸ばして卒業論文の作業をサボる少女趣味の女性。彼女とつるむようになって、既に半年程が経った頃の話だ。
『
「難儀なものだ。そうやって集中を切らすから、後で例の如くのたうち回る羽目になるのに」
「うるさいわね!? 息抜きよ息抜き! guitarheroさんの動画は私の活力の元なのよ!」
毎度切羽詰まった彼女の手伝いに駆り出される、こちらの身にもなってもらいたいものだ。数度見せられたその動画で披露される演奏技術が、確かに相当高度なことは察せられたが。
両手を掲げた僕に、現実を見せるなこのクソガキがぁ……! などと白目を剥いて憤る。そんな彼女、ぽいずん♡やみ こと佐藤愛子を弄るのも大分お馴染みのやり取りとなっていた。
「まあ、出版社への就職も内定している訳ですし。ここが踏ん張り所という奴ですよ」
「わかってるわよ。……こんなんでも取材やら論文やら、役には立つのよね。役にだけは」
彼女は業界最大手とはいかないものの、比較的ニッチな分野を得意とする中堅の音楽関連出版社への就職が決まっていた。第一志望だったという大手は音楽専門という訳でもなく、音楽関連の記者を志望する彼女にはむしろ良縁だったのだろう。
不貞腐れたように頬杖をついて、愛子さんは僕を褒めるような貶すような、よく分からない悪態を吐いた。……別に、大したことはしていない。現代のクラシックの潮流を概説したり、彼女の雑な仮説を音楽理論の側から検証したりした程度だ。
『あたしの夢は、あんたみたいな奴に少しでも綺麗な音楽を伝えること。あんたが今やって魅せたみたいな音楽を、みんなに伝えること』
あの夜語られた彼女の夢へと、愛子さんは歩みはじめた。それに、不思議な胸のざわめきを感じていたことを覚えている。
「そっちもそろそろコンクールの本選でしょ? 準備は順調?」
「技能賞辺りでお茶を濁す程度ですかね。いつもどおりですよ」
「……あんたねえ」
その感情の揺れを隠したかったのだろうか。頁に指を挟んだままつっけんどんに両手を掲げた僕に、愛子さんは呆れ返った顔をした。
我ながら不遜な物言いだが、当時の僕の率直な実感でもあった。事実として、直近3つのコンクールで連続して技能賞を獲る。その程度には僕の演奏は画一化されていたのだから。
「自分が出るコンクールなのに、なんでそう他人事なのよ」
「実際、半分以上は他人事ですからね。まるで賽の河原だ」
一つ積んでは、母のため。
母は僕に「正しい演奏」を求めた。
西洋古典音楽において、作曲と演奏が分業されるようになって久しい。正統な演奏家に求められるのは楽曲を「正しく解釈」し、再現することだ。いわゆるポピュラー音楽の演奏者とは、その目的において大きく異なっている。
けれど。
「「正しい演奏」とは、一体何なのでしょうね」
実のところ、母もまた演奏の「正しさ」とは何なのか、分からなかったのではないか。そしてかつての僕はと言えば。
楽譜通りに音階を辿れるような、規律正しい身体の訓練。厳密に拍節を保てるような、規則正しい感覚の調教。それによって「正しい演奏」が得られるのだと、僕は愚かしくもそう考えていた。
「貴女に色々と誑し込まれなければ、こんな疑問も懐かない程度には蒙昧でいられたのでしょうが」
「人聞きの悪い言い方やめてくれない?」
それはもう。僕の皮肉に苦々しく目を細めた彼女だったが、一般的には確実に悪い影響と見做されるはずである。
あの夜「彼」のジャズを受けてから。そしてあの見窄らしいアップライトピアノで弾き鳴らしてからというもの。それまで何ともなかった規律・訓練が、退屈で仕方なくなってしまった。
それこそ、『Discipline』の一人二重奏が気慰めになる程度には。
「どの道
「所詮は小手先の誤魔化しですがね。そういう訳で、既知の厳密な再演という僕自身の役目が、少々馬鹿らしくなってきたんですよ」
「……役目」
80年代キングクリムゾンなんて何処で琴線に触れたんだか、教えたのはあたしだけど。と、愛子さんは呆れを深めるように顔を顰めた。
楽譜とは「開かれている謎」である。多少の訓練を受けさえすれば、その指示そのものは誰でも読み解ける。むしろ手元に置いたこのくたびれた本のほうが、あの頃の僕には理解しがたかった。
だが「正しい演奏」という真実に至るためには、それだけでは全く足りないらしい。
だからこそ、演奏家は無限回の解釈と演奏を重ねなければならない、とはいうものの。
「ったく、しょうがないわね。この不良少年」
そういう僕の冷めた倦怠を感じ取ったのだろう。小さくサイドを纏めた長髪をガリガリと掻き、愛子さんは回転椅子をこちらに回し向けた。
「あたしも何が「正しい演奏」だなんて知らないけどね。……今のあんたは間違ってる」
紫の瞳。童顔にも見える、けれど僕よりも多少なりとも経験を重ねてなお真っ直ぐな眼差しがこちらを見据える。そういう目をした彼女にだけは、僕は楯突くことができなかった。
「あんたの音源。前に聴いたけど、イマイチ入ってこなかったのよね」
なんでなのか、……今なら分かるわ。一瞬彼女は躊躇って、それでも。
「"ガチ"じゃないのよ」
愛子さんは、僕が向き合ってこなかったその瑕疵を容赦なく暴き立てる。
「演奏家の心持ち程度で音が変わるなど。所詮、空気の振動でしょうに」
「話を逸らすな。あんた、自分の演奏にちっとも真剣になってないじゃない」
鋭く尖らせた視線。詭弁を弄しながら本へ視線を逸らした僕を、愛子さんは逃がさない。
彼女は音楽を、音楽を奏でる人の力を信じている。僕自身への不信は、拭いがたく染み付いていた。
「確かに楽譜は再現できてる。それだけ見れば完璧かもしれない」
彼女はすうっと、息を吸って。
「でもあんたがそこにいないなら、まず水木南の演奏として正しくない」
……確かにその時、僕は何処にもいなかった。
「「どうでもいい」。そんな甘ったれた演奏を評価するほど、
愛子さんは僕を睨め付けたまま、ずいと顔をこちらへ寄せる。本気の目。本気の言葉。一流の批評家には常に愛と怒りがある。
彼女は、音楽に対してはいつだって真面目だった。
「あんたがお母さんを疎んじる気持ちは分かる。だからあんたにはそれ以外の音楽を教えた」
「けどね、だからってクラシックを軽んじていいなんて一言も言ってないわ」
ピアノが嫌いなら、最初からコンクールなんて辞退してしまえ。
クラシックを舐めるな。音楽を舐めるな。
「お高く止まってんじゃないわよ、南」
嗚呼、その直言こそが好きだった。
なまじ技量があるから指摘されなかった……いや、できなかったのかもしれない。けれど、言ってしまえば「真面目にやれ、他の演者を馬鹿にしているのか」。その程度の諫言さえ、僕に与えてくれる人はいなかったのだ。
そしてその時の僕はもう、音楽を呼吸のようには思わなくなっていた。
「あの時の演奏はあんたの全身全霊がそこにあった。ジャンル云々以前に、あの時の南の全てが込められてた」
あんたはもう知ってるはずよ。
僕の中に芽生えた二つの子葉。雨粒にさえ揺れてしまうような、心許ない小さな芽。
あの夜のように。「彼」の、生命の誕生への賛歌のように。それは──
「それを、……やっても、いいのですか?」
「正しい演奏」。母の思う演奏をすること。それが僕の役目だったというのに。
こつん、と僕の頭が小突かれる。なーに似合わない顔してんの、と。
「本当はね、あんたに役目なんて何もない」
俯いた顔を上げれば、愛子さんがその目を細めていた。そこに乗っていたのは、何もわかっていなかった僕への呆れだったのか、それとも。
視線を緩めて、へらりとはにかんで見せるその顔が忘れられない。
「あたしが教えた全部、あんたが糧にした全部をぶつけなさい。それが、南にとっての「正しい演奏」なんだから」
上手く取り繕った演奏なんてクソ喰らえ。季節に似合わない、花が咲いたような笑み。
「頑張んなさい、南。アンタ天才なんだから」
身も蓋もなく、何の保証にもならないその激励。なぜあれほど心が動いたのだろう。なぜ、胸の震えが止まってはくれないのだろう。
「ってな訳で、あたしも行くから覚悟しときなさい。寝ぼけた演奏したら張っ倒すからね!」
「……それは構いませんが、卒業論文の提出日も近くでしたよね。落としても知りませんよ」
「分かっとるわ! 全くこのクソガキが……!」
回転椅子ごとそっぽを向いて混ぜっ返せば、愛子さんは白目を剥いて食ってかかる。
顔に集まる熱を認めるのが癪で、格好悪くて……けれどそういう騒がしさが、僕は嫌いではなかった。
その胸の震えを言葉にするには、僕はあまりに幼かった。秘密の関係の居心地が良過ぎて、目を背けた。
しかし、僕は向き合うべきだったのだ。
とある全国コンクール、最終審査。
晩秋の朝の冷たい空気。しんと青褪め切ったホールの中心。強い照明の下、照らし出されたグランドピアノの白黒のコントラスト。その眼前に僕は座っていた。
指に、身体に、魂に刻み込まれた譜面の再現。母が求めた「正しい演奏」。それが僕の役目、そのための場。
──つまらない。
ああそうだ、つまらない。ただ惰性で続けていた人間オルゴールのような演奏。そんなものはつまらない。
あの「彼」のように、愛子さんが教えてくれたように。僕の全身全霊を此処にぶちまけてしまえば、全て御破算にしてしまえたら。
役目からの逸脱、放埒。それすらぞくぞくと背筋を焦がし、熱を煽る。視界に碧く焔が灯る。
『頑張んなさい、南』
どこかで僕を見ている、背中を押した彼女の笑み。嗚呼、愛子さんに言われたではないか。『寝ぼけた演奏をしたら張っ倒す』と。
上手く取り繕った演奏なんてクソ喰らえだと。
歯車が鳴る。
残響に掻き消えた僅かな宣誓。役目も、コンクールも、「正しい演奏」なんてのも。もう全部どうでもいい。退路は断った。橋は全て落ちた。なにがどうなろうとかまうものか。
全霊を。ありったけを。愛子さんが教えてくれた、僕達の音楽を。鍵盤を奔る指先に青く炎がともる。冷たく悴むばかりだった身体に、どこか火照りの混じる冷涼な血が流れる。
──四万年だって君は歌い続けるかい?
ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。
ぎちりと、機械仕掛けの嘲笑い。それさえ、この熱のような何かを留め置くことは叶わない。語るに及ばず、まだ陽は沈まぬ。誰も僕には付いて来れない、けれど誰もが僕を追って走り続ける。走れ、付いて来い!
──五千年だって君は文字を綴れるかい?
それはピアノからすごく豊かな夕立のようにばらばらとあふれてきて、あふれ、あふれ、海のようになった。
この狂気の行きつく先は、どこでもないところだろう。
僕の全てを、愛子さんとの全てをぶつけて。ひとつのために、ひとつが全てに。
──百年だって君は彼を愛せるかい?
冷めやらぬ指を下ろす。感じたこともなかった身体の過熱と困憊。
喝采が上がった。コンクールで歓声などナンセンスなはずなのに、それでも僕達は声を抑えることができなかった。溜め息と歓声をすべて聞き取り、目が見えないのにすべてを感じ取った。
あの人が笑った。
──二、三年だって君の声は響くのかい?
コンクールからしばらく経った後。
母に呼び出された僕は身が凍った。薄暗い書斎の机に、興信所の封筒と共に投げ出された数枚の写真。そこには街を並んで歩く僕と愛子さんの姿が写っていた。
自主退学。
母は淡々とつまらないものを語るかのように、彼女の命運を告げた。
『あんなもの
『汚らわしい』
西陽を背に影となった母の顔。心底見下げ果てた顔。愛子さんを、かけがえのなかった彼女を踏み躙る侮蔑の視線。明滅する視界。地面がなくなって、落ちていくような感覚。
母は身動ぎ一つしなかった。彼女にとって、あるべきものが正しくあるべき所へ戻っただけのことだった。
僕はそこで、手を差し伸べてくれた人の破滅を知った。
……母は更に何かを言い募っていたようだったが、僕の耳には入らなかった。
『あたしの夢は、あんたみたいな奴に少しでも綺麗な音楽を伝えること。あんたが今やって魅せたみたいな音楽を、みんなに伝えること』
そう言って隣で笑ったあの人を。セピア色の空気しか知らなかった僕に、あんな色と熱をくれた愛子さんの夢を、僕は台無しにした。
あの嘲笑は正しかった。彼女と出会ったことがそもそも間違いだった。その代償としてあの人の夢は壊れて、この先ずっと僕は母の夢を──あの人を嘲笑った母が思う通りの音楽を、あの鍵盤で叩き続けなければならない。
それが「正しい演奏」。
何と言い表すべきだったのだろうか、腹の奥底からの真っ黒な感情が僕を染め上げる。
もはや僕に背を向けて独語を続ける母。傍の棚に置かれたトロフィー。それを握った僕は、高く、高く振りかざして。
「……」
振り下ろすことはできなかった。……身を染める波濤をそのままぶつけてしまえたら、もしかしたら良かったのかもしれない。
しかし、僕は向き合うべきだったのだ。どれだけ疎もうと、ピアノから離れることはできなかった。母からの強制など、とっくの昔に振り解けていたはずなのに。
……数瞬、答えを探して。そうか、おれは。
もう一度、母の笑顔が見たかった。
母の夢を叶えれば、きっと母は笑ってくれる。見えなくなったあの笑顔が見えるはずだ。だから僕は鍵盤を叩いていた。
最初に抱いた幼い希望。それにこそ、僕は向き合うべきだったのだ。
けれど、それもまた最早どうでもいい。
滑稽な話だ。規律正しく刻み付けても、規律正しさを乗り越えても、母が望む「正しい演奏」は得られなかったのだから。
母の笑顔はついぞ塗り潰されたままだった。あの人の夢は僕が触れたために潰えた。
疲れた。
僕は机の角に左手を置いた。もう一度トロフィーを高く掲げて、そして。
このまま役目通りに音楽を続けて、思い出さえ色褪せて。鮮やかだったあの色と熱さえ、塗り潰されてしまうなら。
だからこんなザマになり果てた。せめて、なって仕舞うことを望んだのだ。
「僕はどうすればよかったのでしょうか」
片瀬江ノ島駅前の広場、その片隅のカフェ。疲れ果て、打ちのめされた少年はメンダコになった私に問い掛けた。
水木くんの黒い瞳が揺れている。後悔に、自己嫌悪に澱んでいる。俯いた彼は表情を影で隠して、凍えるような悪意を言葉に乗せる。
「僕は、何を間違えたのでしょうか」
冷たさに身がすくんだ。目の前の私を射抜いて、もっと向こうの何かを希うように瞳をぐらぐらと煮え沸らせて、水木くんは声を落とす。僕にはピアノしかなくて、貴女にはギターしかなかった。僕は貴女で、貴女は僕のはずだったのに。
『僕のようなつまらない顔をしている奴に、綺麗な音楽を伝えること』
そう言ってくれた、あの人の夢さえ台無しにした。僕の手で駄目にしてしまった。どうして、僕は上手くやれなかったのだろう。どうして、何もなくなってしまったのだろう。
痛切にこぼれ落ちる言葉達が、つららのように私を切り裂く。胸が痛い。寒くて、悲しくて、でも瞼が熱い。彼を見上げたまま目を逸せない。
「妬ましい。貴女が嫉ましい」
「……結局こうなるのか。馬鹿か、おれは」
歯軋りをして、顔を青褪めさせて、水木くんはその輪郭を揺らがせた。
貴女を妬んで、この悪意をぶつけて傷つけてしまうことが怖かった。だって、惨め過ぎるだろう。無様過ぎるだろう。僕を助けるといってくれた貴女のことさえ、逆恨みしてしまうだなんて。
「僕はそれを悟られたくなくて、あんな酷いことを言って、貴女を突き放したんだな」
「……きっと、精一杯の勇気だったはずなのに」
秘めたままにしたかった悪意、嫉妬心。水木くんが本当に恐れてやまなかったもの。その自分の言葉にこそ、彼は打ちのめされたようだった。
最初のあの夜、私の音達を優しく抱いた旋律。私達は同じものだったはずなのに、……こんなに近くて、こんなにも遠い。優しい言葉ひとつ掛けてあげられない。
でも。
役目なんてもうないのに。できることなんてないのに。左手は壊れてしまったのに。
それでも、あなたはピアノを弾いてくれた。あの夜ゴミ箱の中で震える私を見て、水木くんは弾き鳴らさずにはいられなかった。傷付いた手を差し伸べずにはいられなかった。
それは、どうして?
私の問いが届いたのかはわからない。でも、掠れた声に乗って、彼の気持ちが溢れ出す。
「貴女が羨ましかった」
思い切りギターを弾ける貴女が羨ましかった。
背を丸めながら、それでも弦を震わせて精一杯に吠える貴女が好ましかった。あの校舎の隅で隠れて、囀るように歌う貴女が愛おしかった。
死にたいほどの夜。
光る朝の……君の孤独の向こう側。
「貴女のようになりたかった」
貴女のように、最後の最後には逃げないように在りたかった。僕は最後の最後で諦めてしまった。見捨ててしまった。母も、あの人も、このおれも。
どうでもいい訳なかったのに。
自分の気持ちをひとつひとつ紐解くように、水木くんは吐き出し続ける。
「馬鹿か、おれは。……馬鹿か、おれは」
額を押さえて、俯きながら自嘲を重ねる水木くんの気持ちがわかる。
羨むしかなくて、妬みたくなくて、私を傷付けないための精一杯の虚勢。それでも私の歌だけは貶せなかった。それがあの時はわからなかった彼の本心。
……うん、冷たくされて悲しかった。ちょっとだけ怒ってる気持ちもある。ヘンテコで、何考えてるか分からなくて、面倒くさくて。でもその風変わりな強がりさえ私のため。
メンダコになっちゃった私は、どんな言葉も伝えられない。だけど。
机の上に投げやりに放り置かれた彼の左手。その上に飛び乗って、その手の筋を精一杯摩る。身体が小さいから、あの階段でやったようにはできないけれど。薄く化粧が乗ったその下に走る大きな傷跡をなぞるように。
「……はは」
何度だってギターを弾いてあげる。ひとりぼっちではないのかもしれない。そう言ってくれたあの暗い歌みたいに、君の弾き語りが聴きたい。今みたいな、本当の気持ちに触れたい。
だって、私は。
「こんなに小さくても、やっぱり貴女は後藤さんなんですね」
私をきゅっと抱きしめるように、優しく彼の右手が被さる。見上げると、水木くんは震えていた。眉間をくしゃくしゃに歪めて、整った顔が台無しで、でも帰り道を見つけて安堵した少年の顔。
『私に言わせればあんな奴、虚勢を張って強がってるだけの、ただの良いカッコしいなんだけど』
リョウさんが言った通り。強がって、私達から離れることでしか虚勢を保てなくなった水木くん。でも、小さなメンダコになってしまった私の前で、彼はやっと弱音を吐くことができた。
「ごめんなさい。ごめんなさい、後藤さん……」
しなやかでひんやりして、でも暖かな不思議な指。水木くんは5月のホームと同じように、冷たくて、あったかかった。
昼下がりの駅前広場の片隅に小さな嗚咽が響く。私はいつまでも彼の傷を撫でてあげていたかった。
うさ……、ごとうさ……後藤さん。
「後藤さん」
「ハッ?! ……あ、あれ、み、みずきくん? あっ、か、身体が、もとに」
優しく肩をゆすられて、意識が微睡みから覚める。いつの間にか眠ってしまっていた私を起こしたのは、私と同じ大きさの水木くんだった。
見回すと夕暮れ時、会社帰りの人達で混み合い始めた電車の中。もちろん、みんな私と同じ大きさだ。
「あの、私メンダコに見えてませんよね?」
「……えっ?」
「あっいえ、なんでもないです」
私の突飛な質問に驚いた顔をした水木くんだけど、ひとまず元の身体に戻っているようで一安心。
落ち着いたら、前後の状況も思い出してきた。喜多さんに案内されて江ノ島を一巡りした私達は、駅の傍のカフェでうたた寝をしていた水木くんを見つけて、一緒に帰ることになったんだった。
『色々言いたいことはあるけど、まずは後藤さんとちゃんと仲直りすること!』
『じゃないと本気でSTARRY出禁にするからね』
『このツンデレクソ野郎が』
『だからその罵倒は何なのですか』
STARRYのバイトがあるという彼に、喜多さんと虹夏ちゃんは私を送り届けるよう強引に言い含めて。それで二人きりになったんだけど、気まずいまま疲れて眠っちゃったのか。
……夢、だったのかな。ま、まあ、いくらなんでも私が小さなメンダコになっちゃうなんて、ありえないけど……。
「そろそろ降りますよ」
「あっはい……って、あれ、八景? な、なんで……?」
「僕も、最寄り駅で降りようと思っていたのですが」
電車の電光掲示板を見ると、「金沢八景」の文字が。送り届けると言っても、彼はいつももっと先で降りているはずなんだけど。
私の問いに、水木くんは少し困ったように視線を私の脇に移す。……絡みつくように組まれた腕。いつの間にか、私は彼の腕をかき抱いて眠っていたらしい。
「あっ……その、ご、ごめんなさいっ!」
「いいえ。気持ち良さそうに眠っていた貴女を、態々起こすのも気が引けましたので」
「ううっ……」
頬を熱くしながら頭を下げた私を他所に、水木くんは淡々と流れる窓の外の景色を見つめている。この間ほど冷たい声色ではないけれど、夢の中の彼よりもどこかぎこちなく、距離を感じる会話。
夕焼けの陽が落ち、その赤橙色が宵闇の帷に染まっていく。電車は着いてしまった。
「では、僕はこれで。貴女もお気をつけて」
「はっ、はい。……また明日」
ホームを登った改札階で、水木くんはそれだけ言って、踵を返して反対のホームに向かっていく。夏休み最後の一日も、もうお終いの時間。
──それで、いいの? 水木くんは……。
違うっ。私は、たとえ夢の中だとしても、彼に何度だって弾いてあげるって言ったじゃないか。夏休みは、まだ終わってない。
「まっ、……まって!」
私は背を向けた彼の左手を取った。
「あ、あの……夕食、う、うちで、食べて……行きませんかっ?」
「っ……しかし、それはご迷惑になるのでは」
「ま、前も、家まで送ってくれましたよね。お、お母さんとお父さんが、また遊びに来て欲しいって」
こちらに半身だけ振り向いた水木くんは、でも躊躇いがちに顔を伏せた。
初めてのバイトの時、帰り道で熱を出した私に付いて、家まで送り届けてくれた。寒くて、苦しくて……それ以上にみじめで、自分で自分を嫌いになりそうだった。そんな時に、ただ私の側にいてくれた。
「水木くん。わ、私のこと、……妬んだっていいです。恨んだっていいです」
水木くんの息を呑む音。鋭い針が刺さったように胸が痛むけど。
いつもそうだ。初めてのセッションも、喜多さんとの特訓も、8月のライブの時も、いつもあなたが傍にいた。隣にいなくても、いつも背中を押してくれた。
なのにあなた自身はひとりぼっち。何も言ってくれないまま、どこにも行けないまま、ひとりきりで立ち尽くしている。そんなのいやだ。
彼の手を取った右手をぎゅっと握る。
「そういうのも、全部知りたい。あなたのそばに行きたい」
私だって、あなたみたいに、あなたを助けられるようになりたい。あなたが抱えてるもの、全部吐き出せるのなら。メンダコみたいにちっぽけな私だから吐き出せるのなら。瞼が熱い。夕焼けが滲んで声が裏返る。
「わ、私は、私は、あなたを助けられるギタリストになるって決めたから」
だから、水木くん。
「わ、私を置いて、いかないで」
大きく見開かれたその瞳に、黒曜石のような艶やかな輝きが宿る。夢の中で見た、帰り道を見つけた少年の顔。
眩しい朝の、君の孤独の向こう側。私が一番見たかったもの。
「いつか、弾き鳴らさずにはいられない夜が来る。……僕がそう言ったのでしたね」
声を震わせて、まなこの輪郭が崩れて、揺れて、溢れそうになって。
彼は目元を拭って、身体をこちらに向け直した。不器用にはにかんだその顔は不格好な私みたい。胸に灯った何かを伝えたかった、あの光る朝のような。
一歩、二歩、躊躇いがちに距離をせばめて。そのひんやりした温もりに身を委ねた。
「後藤さん、ありがとう。そしてごめんなさい」
「……うん。あの時、断られて……冷たくされて、悲しかったです」
少し怯んで後ずさった水木くんを、でもぎゅっと離さない。胸に顔を思いっきり埋めて、それから彼の、真っ赤になった目を見上げた。
散々雨に降られたって、笑っていられる。君と一緒なら。
「もういいよ。今日一日、楽しかったから」
「……はい。僕も楽しかった。先輩方や喜多さんとは、何処を巡られたんですか?」
「後藤さん」
「は、はいっ」
「僕には今、躊躇ったまま先延ばしにし続けていることがあります」
夕陽が落ちる海岸通りに、並んだ影が伸びていく。今まで良くしてもらったお礼と、お詫びも兼ねて。どこにも行けなくなった少年が、それでも一歩踏み出すために。
どうか少しだけ、僕の昔話に付き合ってはもらえませんか。
「何も成せなかった負け犬の、つまらない失敗談です」