「み、みみ、水木くん! 大変なんです! 喜多さんが、喜多さんが!」
放課後、いつもの校舎の隅の物置。彼女達を待っていた僕の階上から声が響く。珍しく、焦燥に声を大きくした後藤さんがそこに居た。
……喜多さん、か。先日のやりとりを思い出して、後藤さんが焦っているのにも察しは付く。大方、彼女は僕にも黙って文化祭ステージの参加票を出してしまったのだろう。相変わらずの駄々っ子ぶりに、思わず苦笑が浮かんだ。
「彼女にも困ったものだ。駄々を捏ねれば要求が通ると思っているのだから」
「えっ、み、水木くん……? あ、あの、だ、大丈夫なんですか……?」
何処か噛み合わない、居直った僕の態度に彼女は困惑を浮かべる。まあ、大丈夫か、大丈夫ではないかと問われれば。
「大丈夫ではないです」
「や、やっぱり! な、なら、は、早く取り消して貰わないと!」
「けれど、今はそれどころではないといいますか」
「……水木くん?」
僕の答えに目を剥いて腕を引く後藤さん。しかし、それよりもやりたいことが、貴女に付き合って欲しいことがある。
柄でもなく気分が上擦っている。それを察したのか、目の前の少女は不思議そうにこちらを見上げた。
「後藤さん! 待って!」
「喜多さんっ……!」
千客万来、僕には似合わぬ言葉だ。なんて、他人事のように考える己れが可笑しい。更に階上から、喜多さんが焦った様子で駆け降りてくる。
後藤さんは僕を盾にするように……傷を庇うように、左の腕を取って背に隠れた。彼女には珍しく、明確な隔意を持って喜多さんを睨む視線。喜多さんのやらかしを思えば当然ではあるが。
「やってくれたそうですね」
「うっ……ご、ごめん。でも」
まったく、そうやって萎れるくらいなら最初から先走るなという。
しかし、それは今はいいだろう。善意からの行為だとは分かっているし、責める気もない。
「丁度良い。喜多さん、貴女も呼ぼうと思っていました」
「えっ?」
下北沢の、とある公園の一角。
「どうも、──山田先輩、伊地知先輩」
「まったく生意気な奴だよね、南は」
「そして水臭過ぎ。……リョウもだからね。一人だけ抜け駆けしようってんだから」
そこで僕達を待っていたのは、我らが先輩達。不敵な笑みでやれやれとかぶりを振った山田先輩に、口元を緩ませながらも努めて険の籠った視線を向けてくる伊地知先輩。もっとも、それは下手くそな口笛を吹いてしらばっくれるベーシストにも向いていたが。
「しかし、お二方まで来て頂けるとは意外でした。割と無茶な呼び出しだったと思うのですが」
「店長、水木君が辞めちゃって落ち込んでたんですよ? あんまり意地悪しないであげてください」
「お前はあたしの何なんだよ。……どうせ碌な機材も持ってないんだろ? 普段はレンタル代取るけど、ツケにしといてやるよ」
そして、彼女らから話を聞き出したのだろう。苦笑しながら僕を窘めたPAさんの口振りに、鬱陶しそうに顔を赤らめながら横目で睨め付ける店長。
貸すのは私なんですけどね、と小さくごちたPAさんの傍には、今の僕からすれば望外の設備が積まれた台車があった。
「えっ、えっ?」
「えっと、今から何が始まるんですか?」
「路上ライブだって。そこのクソ野郎がピアノ貸せって言うからさ」
唐突に僕に連れられたまま、話に付いて行けず戸惑うフロント組の二人に、端的に答えたのは山田先輩だった。僕がバッグから取り出しているこの電子ピアノの元の持ち主なのだから、僕が今から何をやろうとしているかも当然ご存知な訳である。
「ぼっちちゃんにちゃんと謝ったんだよね?」
「……はい」
「わかった。ホントは聞きたいことも、言ってやりたいこともたくさんあるけど、今だけは黙って見ててあげる。やっちまえ、クソ野郎」
不満も不服も飲み込んで、ニッと笑って見せる伊地知先輩。不義理に不義理を重ねた僕に対してまったくお優しいことであり、……それに背を押されてしまった僕も、まったく以って度し難い。
「けど、やるならもっと早く言ってよ。三日前に連絡されても困るんだけど」
「お祖母ちゃんの三回忌だった」
「それ関係あるんですか?」
「コイツら……」
諸々の準備と錆落とし、後は……情けない事に、
なんとも無精な僕達に、伊地知先輩はビキビキと青筋を立てた。
『最後だなんて、言わないでください。一曲だけでも、片手だけでも、いいから』
『水木君の演奏、みんなにも見せてよ』
正直に言えば、少々悔しかったというのもある。結果的にあの二人が願う通りに動いてしまっている。僕自身が望んだこととはいえ、彼女達二人についてはちょっとした意趣返しはしたくなるのが人情というものだろう。
そして、からん、ころん。現代では珍しくなった下駄の音。主賓の御到着である。
「や、少年。みんなも呼んだのか」
「ええ、リベンジマッチの立ち合い人です。別に構わないでしょう?」
「じょーとー。……いい顔するようになったね」
「お、お姉さん!?」
廣井きくり。
『今日のセッション。君が私の勝ちだと言ってくれるのなら、「お願い」だ』
一度は僕に引導を渡して、それでも「もう一度」と「お願い」をしたベーシスト。彼女が今日の場の発端だった。廣井さんはあんな無様な演奏をした僕を見捨てず、今更の僕のお願いにも快く応えてくれた……のだが。
「まーたお前が絡んでるのか。てか、水木の様子が変だったのもお前のせいだな?」
「えっ!? そ、それは、その……」
じとり。店長の訝しげな目に慄いた廣井さん。彼女は店長から逃れるようにこちらへ腰を折り、懐から取り出した箱状のそれを掲げた。
「しょ、少年! この間はゴメン! これ、ほんの気持ちです、受け取ってください!」
「未成年のガキに酒を渡すな!」
「だ、だって私の全財産で渡せるものなんて、ベースの他にはおにころくらいしかぁ……!」
差し出されたのは「鬼殺し」と書かれた紙パック包装の日本酒。そんな酒クズに拳骨を落とす店長の仰る通り、謝罪と称して高校生に酒を渡すというのも中々正気の沙汰ではない。そもそも文字通り「粗品」としても今少しマシな品はありそうなものだ。こんな安酒を渡されても困る。
……と言うのが、本来妥当なのだろうが。喧々諤々に揉み合うお二方を他所に、手に取った紙パックにストローを差し込む。
「あっ、コラ!?」
「ちょっ、水木君!?」
そのまま一口舌に触れれば、消毒液のような匂いが口と鼻の一杯に充満した。更には棘のある苦味とわざとらしい甘味が、その匂いを打ち消すどころか相乗的に嫌味を増す。まあ、とどのつまりは。
「不味い。常飲する気が知れませんね」
「ひどい!」
「じゃあなんで飲んだんですか……?」
「貰えるものは貰っておく主義ですので」
賞味に堪えないそれとともに文字通り吐き捨てれば、PAさんからは困惑混じりの突っ込みが刺さった。開き直って両手を掲げた僕の立場としても、口に含むまでにしておかなければ色々な意味で拙くはある。
まあしかし、今回の件などまさに酔狂そのものだ。呑まなければやってはいられない。
「この酔狂に付き合ってくれてありがとう、廣井さん。それで十分です」
「……言葉通りってワケね。いいぜ、ならそれに相応しい乱痴気騒ぎといこうぜ!」
貴女の心意気は確かに受け取った。そんな滑稽じみたやり取りに毒気を抜かれたのか。廣井さんは安堵とともに、獰猛さを孕む蕩けた笑みを浮かべた。
「いいのかよ、水木」
「元はと言えば僕に非がありますから。キーボードの借りはピアノで返すまでですよ」
現金な廣井さんに呆れつつ、なおもこちらを気遣る店長。彼女から殴り付けられたとて、僕は文句も言えないはずなのだが、このお方ときたら。
『お前が感じただろうそれは、あたしもそうだった』
或いは、僕に自身を重ねる部分もあるのだろうか。もしもそうだとすれば、少しだけこそばゆかった。
「ま、……待ってくださいっ」
その僕の背に、鈴のように小さく、けれど確かな怒気を孕んだ声が響いた。
水木くんは、ぴ、ピアノはやめたんです。
「き、喜多さんも、リョウさんに虹夏ちゃんも、お、お姉さんまで。み、みんなどうして、水木くんに、ピアノを弾かせようとするんですか」
後藤さんは表情を曇らせてこちらを睨め付ける。彼女は珍しく険の籠った声色で、胸元の手を握って、肩を震わせて言葉を落とした。
「お、お姉さんもきっと、み、水木くんとセッション、したんですよね」
「ぼっちちゃん……そうだね、言い訳はしないよ」
「だったら、ひ、左手のことだって、知ってるんじゃないんですかっ!」
その指弾に、廣井さんは面目なさそうに俯く。
僕の傷、過去の間違いを深く知ってくれた少女。いつも背に隠れていた彼女は、僕を庇うように震えながら進み出た。かつて願ったことを投げ捨ててでも。
「……左手?」
「あっ! あ、あの、虹夏ちゃん、その……」
「南は左手を怪我してる。ピアノを長く弾くことはできない」
「リョウさん!?」
そこで口を滑らせてしまうのがなんとも締まらない、ある意味彼女らしいところではあるのだが。しどろもどろに誤魔化そうとする後藤さんの悪あがきは、山田先輩のしれっとした呟きによってあっさりおじゃんとなった。
「えっ!? ほ、ホントなの、水木君?」
「ええ、この通り。普段はファンデーションで隠していたんですが、皆さん意外と気付かないものですよね」
「このクソ野郎が」
「返す言葉も御座いません」
「お前らそれでいいのか」
僕もまた伊地知先輩と喜多さんが目を剥くところへ、ひらひらと手の甲をかざして見せた。我ながら他人事じみた軽薄な態度には、山田先輩からの直裁な悪態も致し方ないというか。
既に割り切ったこと……とは口が裂けても言えないが、その未練こそを今からかち割りに行くところだ。なので、山田先輩のようにバッサリ切ってくれたほうがありがたい。
「……そんな」
微妙に気の抜けたやり取り。それにこそ愕然としたようにも見えた後藤さんは、翳した左手の反対、いつもとは逆の腕にふらふらと縋り付いた。
まるで僕を引き留めるかのように。
「後藤さん、ありがとう。けれどもういいんです。今まで隠し事をさせて、ごめんなさい」
「水木くん。……どうして、どうして、ピアノを弾くんですか?」
僕の背に隠れるようで、いつも傷を庇ってくれていた少女。彼女はこちらを見上げて、その青い瞳を零れ落ちてしまいそうなほどに滲ませて、僕の過去へ問いかける。
お母さんのためにずっと頑張って、お節介焼きの人に救われて、でも報われなくて。もう、疲れたって。
「水木くんが、い、痛い思いをする必要なんて、ないじゃないですか。もう、休んでいいじゃないですか」
そうかもしれない。……自身への不信が脚を縫い留める。あの時、僕はどうすればよかったのか。
結局僕にはわからなかった。わかることなど、ひとつしかない。
「弾き鳴らさずにはいられない」
「あっ、……ううっ」
いつか、弾き鳴らさずにはいられない夜が来る。
かつてそう言葉を交わした僕に、引き止める術をなくして。表情をくしゃくしゃに歪めて、黙り込んでしまった後藤さん。
せめて腕を掻き抱く力を強めて顔を埋める、そのいじらしさが愛おしい。いつかの衝動に今度こそ逆らわず、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
びくりと身をすくめて目を丸めた後藤さんは、おずおずとこちらを見上げる。頬を赤く染める彼女の柔らかな感触。どこか朴訥で彼女らしい木の香り。
……背後で黄色い声を上げる野次馬。彼女らのことは努めて無視する。
「なんというのかな。……少しだけ、わかったことがあるのです」
腕の中の少女に、苦笑とともにごちる。
『君がそうやって変にスカして、自分の引け目や本当の気持ちを隠そうとするのは悪い癖だと思うよ』
伊地知先輩が仰る通りの悪癖である。母からの役目。あの人との夢。そんなお題目は、僕の女々しさを隠す虚勢に過ぎない。そんなもののために、僕は弾き鳴らす訳じゃない。
ただ。
「カッコ悪いじゃないですか」
「へっ?」
素っ頓狂な声を上げた後藤さんに、真っ正面から相対する。
「ひとりぼっちで泣きべそをかいて、そこの酔いどれには散々に伸され、挙句、小さくなった貴女に当たり散らして。それでようやっと自分の望みが分かったクッソダサい負け犬。それが僕です」
「え、ええ……?」
身も蓋も格好もつかない物言いに、目を白黒させる後藤さん。けれど実際、これが散々に迷走して彷徨った末の答えなのだから仕方がない。
そして無様なままで終わるつもりもない。視界の端に、碧く火片が散る。
「痩せても枯れても、僕は演奏家だったようです。悔やみながらピアノと別れるなんて嫌だ。泣きながら幕を引くなんて嫌だ」
あの人との日々に、あの人との音楽に胸を張りたい。例え間違いだったとしても、なくしてばかりだったとしても。僕はやるだけやったのだと、笑って舞台を降りたい。
最後の最後には逃げないように在りたい。あの人からも、過去の間違いからも。
「あの人にもう一度会って謝る。そのために、今できることを精一杯やる」
視界の隅で息を呑む喜多さんに目配せをして。
ぎちり、機械仕掛けの嘲笑い。今更だ、もう遅いなんて承知の上。演奏家として僕にできるのは、それでも弾き鳴らすことだけだ。
赤い少女がくれた僕なりの悟り。確かに色々と手遅れであることは否めない。しかし、それは今行動しない理由にはならないのではないか。僕は許されるために謝るのではないのだから。
僕をまなざす後藤ひとりに向かい合う。
「僕は貴女の弾き語りが聴きたい。貴女の隣で聴いていたい。だからこそ」
その青が、大きく見開かれた。
僕の本当の望みは見えた。やり方は友が示した。
「後藤さん。僕の弾き語りを、どうか聴き届けてはくれませんか」
「……うん」
貴女へ一歩、踏み出すために。
「私も、本当は、本当は、水木くんの弾き語りが聴きたい。聴きたい、です」
眼から雫を美しく溢して、後藤さんは不恰好にはにかんだ。……笑うのが下手で、それこそが愛おしい精一杯の微笑みを浮かべて。
「まーたぼっちを泣かせやがって、このツンデレクソ野郎が」
「その奇矯な罵倒は……まあ、それもまた甘んじて受けるとしましょう。貰えるものは貰っておく主義だ」
「はっ」
我ながら返す言葉もないしな。いい所で茶々を入れてくる山田先輩に軽口で返しながら、後藤さんから手を離す。彼女はどこか名残惜しそうな顔をして、それでも、眉尻を下げた彼女らしい表情で僕を送り出してくれた。
「青春だなあ。私にもあんな時期があった……あったっけ……?」
「ああ、それと」
視界の端で、なぜか落ち込んだ様子の廣井さんにははっきりと告げておく。──声の温度が下がるのを自覚した。
「泣いたクソ餓鬼呼ばわりには、今でも納得いかないんですよね。ご自身が天才だからと言って、お高く止まっているんじゃあないぞ」
「少年が私にだけ辛辣! そこまでは言ってないよぉ!?」
当然である。復讐戦もまた決してお題目だけではないのだ。
「では、そろそろ始めますか」
「おっけー。曲はどーするんだっけ?」
山田先輩にPAさんにも提供頂いた機材の準備も整い、簡単な音合わせも済ませた。夕陽に徐々に染まっていく、懐かしい白黒の鍵盤を撫ぜつつ。紙パックの安酒を吸う廣井さんに答える。
前は何も決めずに始めたジャムセッションだったとはいえ、流石に一応は観客が居る手前。このピアノを借りた時から、初めにやる曲は決めていた。
色々と因縁の多いこの場だが。
山田リョウ。
思えば貴女は、最初にやり合った時から儘ならない方だったな。張り合う相手などいなかったこの僕が流れ流れた末に出会った、最初で最後の好敵手。観客として並ぶ彼女の寂しげな微笑み。
『十二進法の夕景』
路上ライブの数日前。
「今更私だけ呼び出して、どういう風の吹き回し? 南」
「返す言葉も御座いません」
5月以来、何度か足を運んでいる喫茶店。郁代を通して私を呼び出したのは、ここ暫く顔を見せなかったツンデレクソ野郎こと水木南だった。
南は手元のコーヒーを啜り、謝罪を口にしつつも白々しく、開き直ったように瞑目する。
「まあ、別にいいけどね。タカる相手が私のファンでもクソ野郎でも、タダ飯はタダ飯だし」
「その誹りは甘んじて受けるとして、いつか刺されても知りませんよ」
ぼっちへの仕打ちだったり、「見てろ」と言った店長の好意も無碍にしてバイトをやめてしまったり、やらかしやがったクソバカ野郎。コイツのことなんてどうでもいいが、珍しく殊勝に食事が献上されるとなればその限りではない。
『ピアノを貸して欲しい』。
そして南が持ち出した用件には、……まあ、話を聞いてやってもいい。そのくらいの興味が湧いたのも事実だった。
窓際のカウンターの隣で、じとりと呆れたような半目を向けてくる失礼な後輩。その視線をかわしつつ、供されたオムライスを一口。他人の金で食う飯ほど美味いものはない。
「それで、ぼっちにはちゃんと謝ったの?」
「はい。あとは喜多さんのことも、また泣かせてしまいましたしね」
「お前、郁代にまで手を出したのか。死ね」
「人聞きの悪い物言いはやめて頂けませんか? そういう話ではないです」
そもそもぼっちの女心を弄ぶという意味では、南だって私のことは言えない。しかも話振りによれば、呆れたことに郁代にまで粉を掛けていたと見える。
見下げ果てた私の冷罵に、南は全く不本意そうに顔を顰めた。実際、郁代が南に見ているのは「なりたい自分」の投影で、恋愛感情ではないのはその通りなんだろうけど。
「しかし、我ながら酷い話だ。後藤さんのことが……貴女方のことが妬ましいなんて」
咎めるようにスプーンの先を指し向ければ、南は視線を逸らすことなく、苦々しく、しかしどこか清々しさも併せて頷いた。
「オーディションの時も、ライブの時も。僕は貴女方に「頑張れ」と言えなかった。置いていかれる気がして、……ひとりぼっちになってしまう気がして。それが怖かった」
南の独白。あいつは隠していた孤独と恐れを、今や素直に吐き出していた。
なんとなく、根拠もなく、ここにいてはいけないと思っている。
自身への不信、劣等感。自らを糊塗する惨めな虚飾。ロックという音楽の基盤をなす昏い悪感情。スカした顔して虚勢を張っていても、南もまたそういう類の負け犬だったのだ。
置いていかないで。
そんな想いをひた隠しにして。
「彼女に僕の醜い感情を見せたくなかった。貴女方の足を引っ張りたくなかった」
「……」
「けれど、それは後藤さんも、喜多さんも同じだった」
『私を置いていかないで』
『水木君がひとりぼっちなんていやだ』
南は、伏せていた瞳をこちらへ真っ直ぐに向けて言った。黒曜石の鈍い輝きのなかに、碧く火片が瞬いていた。
南は間違えてしまった。大事な人達、大切だったもの。どうでも良い訳なかったのに、全て諦めてしまった。置き去りにしてしまった。
だからこそ。
「僕はあの子達まで置いて行きたくない。どうでもいい訳ないのだから」
ぼっちという、同じ孤独を抱えた少女の想い。
郁代という、憧れを見出した少女の願い。
それが頑なに絡まってしまった少年の心を溶かしていた。南は結局、弾き鳴らさずにはいられなかった。
まったく。
「そこまで分かってるんなら、私から言うことはないかな。この二股クソ野郎」
「だから人聞きの悪い物言いはやめて頂けませんか?」
「黙れ」
私のバンドをまた解散させるつもりか、という私の面罵を太々しくはぐらかす南。ふん、調子が出てきたみたいじゃないか。
私自身、思う所が無いわけじゃないけど。
背負っていた役目も、希望を見出したピアノもなくして、どこにも行けなくなった南が最後に見つけた小さな海。それがぼっちの弾き語り。
「居場所がなくなる怖さは、私も知らない訳じゃない」
ザ・はむきたすが解散した後、屋上で一人見上げた曇り空。もしもあの時、虹夏がいなかったら。
灯台下暗し。最も身近なはずの相手こそ、時に疑ってしまう。大事なものはなくしてしまった後に気付く。そんな南の弱さと痛み。知っていたはずのそれに、私は踏み込んであげられなかった。
「だから南が弾き鳴らすって決めたなら、私はそれでいいよ」
「虹夏は怒ってるけど」
「それは怖い。が、大人しく正座してきますよ」
憑き物が落ちたような顔。いつもはぼっちにだけ向ける、やわらかな微笑み。何となく癪で当て付けた呟きにも、南はそれもまた嬉しそうに飄々と白ばっくれた。しばらくはおかず抜きだな、いい気味だ。
本当に認めるのが癪だけど、あいつが言ったとおり。南はぼっちのようになりたいのだ。郁代のようにやりたいのだ。臆病で怖がりで泣き虫な負け犬が、最後の最後には逃げないように。
いや、……演奏家は、自分の最後は自分で決めるのだろう。
「ふう。ご馳走様、南」
「……くそ。貸しがあるからと言って、好き放題頼みやがってくれましたね」
久々に味わう幸福な満腹感に浸りつつ、喫茶店から出た私。残暑が後を引く夕暮れの空気の火照りも、冷房で冷えた身体にはむしろ心地よく感じる。
一方、南は自分から言い出した癖に未練がましくレシートを睨み、苦虫を噛み潰していた。まったく、他人の金で食う飯ほど美味いものはない。
「ところでさ。どうして私だったの?」
ピアノを貸すのは別にいい。有象無象の相手ならともかく、コイツなら雑に扱って傷モノにするなんてこともないだろう。
けれど、今回の件なら店長辺りに頼むこともできたはずだ。自分で言うのも何だが、店長なら私が奢らせたような対価も必要なかったと思う。……あの人地味に凹んでたし、一発殴られるくらいは覚悟しなきゃいけないか。
そんな私の問いに、南はゆっくりとこちらへ向き直った。
「貴女には不義理を働いてしまいましたから」
……不義理? 頭によぎった疑問符も置き去りに。西陽を背にして、その少し長い濡羽色の前髪が表情を隠す。夏が残る夕暮れの街路に、凍てつくような熱が奔る。冷たく、熱く、優しい音が甦る。
私が二度対峙して届かなかった、黒い演奏家が立っていた。
「僕の痛みを理解してくれた貴女の言葉を、僕は信じ切れなかった」
自らの不明を恥入るように、演奏家はそのこうべを深く垂れる。
枯れ果て朽落ち掛けていた筈なのに、それでも私の歌に応えてくれた。いつか消えてしまう前に、その献身を私だけは覚えておこう。そう思っていたのに。
呑み込み切れないまま、僅かに残ったわだかまり。……でも。
「今なら、素直に受け止められる」
夜へと進む十二進法の夕景。その赤みが、三たび相対した彼を照らす。
私は南を忘れない。
「ありがとう、山田先輩。貴女がそう言ってくれたから、僕は僕を信じていける」
貴女のような好敵手が惜別を贈るに足る演奏家。それが僕だったのだと南は笑う。拭い難く染み付いた、自身への不信を乗り越えて。今、私の想いが南に届いた。
「遅いよ、南」
「申し訳ありません」
「いい。……思う存分、弾き鳴らせ」
そして、今度こそお別れ。
名残惜しく、背に抱えたバッグを手渡す。南はひどく懐かしそうにそれを受け取って、私へ深く一礼した。
演奏家は、長く伸びた赤い夕暮れの中を歩いていった。その影が南を追いかけ、南の歩みを、思いを、存在を真似した。
──さあ行け すべて灰になっても
──自分で消した時が最後に
──君の最後になる
胸に抱いたときの湿った髪の感触、残り香。
冷たく、暖かな温もりの記憶。
「……本当に遅いよ。このクソ野郎」
──誰のせい?