『路上ライブをやります。どうか、聴きに来ては頂けないでしょうか』
今時珍しい手書きの便箋。その差出人の名前を見た時、思わず目を疑った。
あたしが過去に置き去りにしてしまった少年。せめて綺麗な思い出のままであって欲しいと、別れも告げられなかった小さな
連絡先も渡してなかったはずなのに。いや、ライターとしての連絡先は公開している。彼から連絡を取ろうと思えば、幾らでもできたはずだった。それを今までしなかったのは……なんとなく、察するものはある。
あたしの顛末をアイツもまた知ってしまったのなら。自業自得で潰えたあたしの夢を、自分のせいだと抱え込んでしまったのかもしれない。母親から課せられた役目を10年以上背負い続けて、本当は好きでもないピアノの訓練を重ね続けた。口では文句や生意気を言いながら、結局は母親のために、あたしとの約束のために鍵盤を弾く。あいつはなんだかんだ、そういう奴だった。
それが今になって。それも、路上ライブなんて柄でもないことをやろうとしている。きっと、あいつなりにあの日々を糧にして、何かをもう一度始めようとしている。
……けれど、だからこそ。
あたしはその手紙を棚に仕舞い込んだ。
あんな大仰に夢を語っておきながら、底辺ライターにまで落ちぶれて腐った今のあたし。隠れ家を作るだけで、あいつを守ることも、救ってやることもできなかったあたし。
今更、あいつに合わせる顔なんてなかった。
私だって、本当は水木くんのピアノが聴きたい。私を優しく導いた、あのひんやりして暖かい音楽。もう一度聴けるのなら、聴きたいにきまってる。
『妬ましい。貴女が、嫉ましい』
でも、疲れ切って、打ちのめされて、何もかもなくして。私への、私達への羨望と嫉妬を隠して、広場の隅に隠れて泣きながら過去を打ち明けた水木くん。その姿を見たらもう、無邪気にピアノを弾いて欲しいなんて言えなかった。
『でも安心して! 水木君のもついでに出しといたから!』
だから喜多さんが勝手に彼の参加票を出しちゃったって聞いて、結束バンドのそれよりもっとびっくりした。
自販機の側の壁にもたれ、片足を投げ出して。街路が薄く暗闇を照らす側で、一人力無く座り込んだ少年。5月の初めてのライブ。いつの間にかSTARRYの控え室からいなくなっていた、水木くんの弱々しく項垂れた姿。
それが咄嗟に頭に浮かんで、……ひどいと思った。みんな怪我のことを知らないから、仕方ない、けど。でも喜多さんも、虹夏ちゃんも、リョウさんも、お姉さんも。みんなひどいよ。
水木くんはもう十分、頑張ったじゃないですか。もう十分、応えてくれたじゃないですか。どうしてみんな、彼の傷付いた手を引っ張ろうとするんですか。どうしてみんな、疲れ果てて眠っている彼を叩き起こそうとするんですか。
『後藤さん。僕の弾き語りを、どうか聴き届けてはくれませんか』
でも、水木くんはそれでももう一度鍵盤の前に立った。縋り付いた私の肩を抱いて、聴き届けて欲しいと言った。
その睫毛の長い眼に迸る碧い焔。遠くをまなざす冷め切った諦めも、自らを嘲笑う色褪せた倦怠もない。上っ面の虚勢も澱のような失望も捨て去った水木くんは、年相応の少年みたいに穏やかに笑った。
光る朝から踏み出して、死にたいほどの夜さえ越えて。彼にとって今こそが弾き鳴らさずにはいられない、十二進法の夕景。
水木くんは意地悪だ。そんな顔を見せられたら、「行かないで」なんて言えないよ。
「あなたのことを助けられるようになりたい」って言ったのに、「置いていかないで」って言ったのに。冷たくて熱い決意を纏って、少年は自身の過去へ時計の針を巻き戻していく。
でも、それでも、本当に止めなくてよかったんだろうか。……靄のような不安が、胸にこびりついて離れないのも事実だった。
──そんな不安は、二人の演奏の前に吹き飛んでしまった。
期限切れかけの電池で鈍る毎日
絶縁
リセットしたアラーム・タイマー
愛想もなくすぎる日々だけ
穏やかに歩み出すイントロ。絡まった感情も、雁字搦めの過去も、そのまま全て織り合わさって秩序と為した黒い森。
砂時計の砂の如く精確に刻む拍節。深々と降り積もる白雪。向かう先も見通せない。
彼が刻む規律にひりつく臙脂。不規則に揺れるのに、不可思議に崩れない転置。繰り返しが生む差異の快楽、機械仕掛けを動かす電池。静かに時を刻む間奏から、積もりゆく雪は勢いを増す。
十進法で巡る想いを
どこかで追い抜いた針を
巻き戻して
ふたつ心に付け足して、進めて
rhymeの発狂、快楽の活用。
狂ったように針は巡り、瘋癲、酒呑童子を手繰り、はちゃめちゃ八十八ヶ所巡り。八十八鍵並ぶカラムに、はらはら風花が白く絡む。
演奏家の冷徹、ベースの苛烈。それらが斑らに入り混じって、酒乱の修羅が彼を見初める。シュヴァルツヴァルトを朱に染める。
デジタル時計、数字の列に溶けて
振り出しまで僕を舞い戻すように
朝焼け、凍り付いた海に月が沈んで
光る太陽に僕は迷子になる
凍てつく規律。赤熱する旋律。あの光る朝から夕景へ。往け、時計の針を巻き戻して、その身を賭して、演奏家として。
プログレッシブ・ロック。規律訓練が髄を
サイケデリック・ロック。四苦八苦が脳を焼く。
規律と放埒、為しては崩れるインディシプリン。
秩序とは差異の体系。
夕景、夜が音を立てて追い出す影
君をやり込めるように
さあ行け、全て灰になっても
自分で決めた時が最後に
君の最後になる
なら、彼らはもはや同じ
全て灰になったとしても。
──誰のせい?
「イェーハァー! これがSICK HACK廣井きくりと少年が贈る、キミらのためだけのミニライブだぁ!」
──これが、これがお姉さんと、水木くんの本気の音楽!
すごく、すっごくカッコいい!! 二人が指を止めて、お姉さんが鬨の声を上げたその頃には、私は不安も、みんなへの憤りも忘れて、彼らの演奏にすっかり夢中になっていた。
「へっへー、相変わらずやるな少年。んじゃあ次は私の曲だけど……イケるかい?」
「……まだまだ。それに、貴女の本領を見せてもらわなければ復讐戦の意味がない」
「そうこなくっちゃな」
けれどやっぱり本気を出せば、左手の傷は平気という訳にはいかない。
お酒で顔を赤くしながら、普段のおちゃらけた振る舞いからはかけ離れたオーラを放つお姉さん。晩夏の夕暮れを演奏家の冷徹で歪めて、彼女に一歩も引かず対峙する水木くん。でも、僅かに息を乱す彼の顔は少しずつ青褪め、脂汗が浮かびはじめている。
お姉さんもそれは気付いているはず。だけど敢えて言葉にはせず、紙パックのお酒を一口啜った。……それだけ、水木くんの覚悟を買ってるんだ。
ただ、それはそれとして。
「なんで彼、物理的に空気を冷やせるんでしょうか?」
「心臓に悪いのよぉ……」
PAさんが困惑混じりにぽつり。……うん。私もオーディションの時とかで薄々感じてたけど。水木くんがやる気になると、空気がそのままの意味で凍りつくのは一体どういうことなの……?
普段の訓練がトラウマなのか、喜多さんは半泣きになりながら季節外れの悪寒に身を竦ませていた。
と、そのセッションの間の休止符に割って入る青い人影。
「──待った」
「リョウ先輩!?」
「おっ? 君は山田ちゃん、だったね」
「はい。SICK HACKのファンです。アルバム全部持ってます!」
いつの間にベースを携え、不敵に一歩踏み出したのは我ら結束バンドが誇るベーシスト。彼女は目を丸くしたお姉さんに、サインくださいと太々しくアルバムCDを差し出している。す、すごいなあリョウさん……まあ、上機嫌でサインを書いているお姉さんも悪い気はしてないようだけど。
そんな二人とは裏腹に、水木くんはいささか唐突な彼女の行動に怪訝な視線を送る。
「何をするおつもりですか?」
「お前は物忘れが激しい奴だな。言ったろ、「
「リョウ、そこまで見越してベース持ってきたのね……。変なトコで用意周到というか」
「飛び入りか。いいぜ、前のライブでもキミのベース捌きは印象に残ってた。二対一でもなんでも掛かってこいやぁ!」
彼にピアノを貸したリョウさんなら、その目的も当然知っていたはず。さっきからやけに訳知り顔で水木くんに絡んでたり、ベースを用意していたのもそういう訳だったんだ。
だからこその助太刀。呆れ顔の虹夏ちゃんやボルテージをさらに上げたお姉さんを他所に、ちらっと、リョウさんは悪戯そうに私のほうへウィンクをした。
──ぼっち、南借りるよ。
そんなふうに言われた気がして、ちょっとドキッとした。リョウさんはどこで彼の左手のことを知ったんだろう。いつから、彼のことを「南」って呼び始めたんだろう。
「「お別れ」じゃなかったんですか。前話でせっかく綺麗に締めたのが台無しだ」
「うるせー、メタ発言やめろ。貰えるものは貰っとく主義なんだろ」
一方、助太刀されたはずの彼はどういう訳か嫌そうに渋面を作った。妙にぞんざいに扱われて不満顔のリョウさんは、今日何度目か分からない罵倒を放つ。よく分かんないけど、その発言こそ色々台無しにしている気がするよ?
「……まったく、どいつもコイツも」
まあ、この格好の付かなさこそが僕らしさか。……そういう風に呟いた水木くんは、口振りとは裏腹にとても嬉しそうに見えた。
凍てつく熱に鮮やかな青が入り混じった、涼やかなそよ風。どこか似通った金色と黒の流し目が交わされて。
「しかし、敢えて聞きますが。──着いて来れますか?」
「はっ、青息吐息で何言ってやがる。──後ろから刺してやる」
「いいね、盛り上がってきた。じゃあ行くぜ野郎共ッ! 『ワタシダケユウレイ』ィッ!」
そんな二人をモノともしない、渦巻く臙脂の圧倒的な存在感。その三つが正面から対峙して、演奏の第二幕が上がった。
「こ、これ、どうなってるんですか……?」
「あたしも訳わかんないけど、もしセッションやるとしてこの面子には絶対入りたくない。今度こそあたしが死ぬ」
喜多さんが目の前のパフォーマンスに付いて行けず、虹夏ちゃんも以前のライブよりさらに悪化した混沌具合に顔を顰める。
──間違い探しの夜更かし、あら楽し。
──おかしみ、小粋な世話焼かし。
──貴女はただの冷やかしでしょうが。
……えーと、その。
我らがベーシストの乱入によって、路上ライブは斜め上の方向に過熱していた。いや、あらゆる意味で常識離れした技巧の応酬、それだけは間違いないんだけど。
元の曲のメロディラインをまるで無視した即興フレーズの応酬。リョウさんが吹っ掛けた挑発にお姉さんが乗っかり、酔っ払ったように不規則にグルーヴを揺らす。リョウさんはリョウさんで、主旋律に背反するスラップを繰り返す。
──気儘な独角独立独歩。
やっぱりちょっぴり寂しいし。
──
こっちを向けよ嫉妬しい。
──独覚は一人にして頂きたい。
どちらにしても鬱陶しい。
「何だこれ。前よりひでぇ」
「曲の原型なくなっちゃいましたね……。まさにジャムセッションとしか」
滅茶苦茶をやる臙脂と青の通低音、そのツケは全部ピアノに向く。というかリョウさん、水木くんの助太刀に入ったんじゃないんですか……?
店長さんの困惑混じりの呆れのとおり、ここまで来ると演奏というより、三つ巴のフリースタイルバトルの様相を呈していた。
「けど、確かにえげつねえな」
乱痴気じみた無秩序を前に水木くんは痛みに顔を青褪めさせながら、それでも不敵に口角を上げる。演奏家の冷徹な指捌きは、雪崩のように殺到する低音達を静かに切り裂く。彼にとってこんな状況は初めてじゃない。
六弦の嵐。
彼は私のギターをそう呼んでいた。入り乱れる四弦達の捻れ狂うフレーズを返して、成しては崩れる最低限の
都市の灼熱。Thela Hun Ginjeet.
戯論寂滅。Sartori in Tangier.
二心を懐く三意の逆説。Three of a perfect pair.
一見矛盾する技術の両立。
冷たいのに熱い音楽。それが演奏家の真骨頂。
「リード的な強い主張こそ乏しいですけど、シーケンシャルなのに即興的な二律背反」
「これがあいつの本気か。そして、失くしちまったものか」
袖を口元に当てて目を見開くPAさんの隣で、店長さんは複雑そうに眉尻を下げる。
音楽を仕事にする二人をして驚異的な彼の演奏。でも、どうしてだろう。あんなに凄い演奏なのに、ちくりと胸に棘が刺さったようで。
「どうしたの、ぼっちちゃん」
「……水木くんの演奏、凄くカッコよくて」
水木くん達の演奏は本当に凄い。凄くカッコいい。
彼の弾き語りが聴きたい。だからギターを掻き鳴らすんだって、私はそう思っていた。この演奏こそ私が聴きたかったもの。
……そのはずなのに。
「私の助けなんて、要らなかったのかな」
あのひんやりした温もりがまた遠くに行っちゃう気がして。雨が降るように胸がしみて、しくしくして仕方なかった。
置いていかないでって言ったのに。
「違うよ」
「お姉ちゃん。……ぼっちちゃん」
「ったく、あのクソ野郎め。ぼっちちゃんを散々泣かせた癖に、テメーだけ憑きモン落ちたような面しやがって」
穏やかに、けれどはっきりと店長さんは言い切った。呆れ混じりに半目を向けたその視線をなぞって、私もおずおずと目線を上げる。
お姉さんとリョウさん、そして水木くん。彼は隠しきれない痛みを滲ませて、それでも瞳に碧く火片を宿す。
あいつはあたしなんだ。店長さんはそう、独り言のように声を落とした。
「母さんからも虹夏からも逃げたまま、本当に大切なものを取りこぼしちまった。あいつはきっと、そういうあたしの"もしも"なんだ」
『STARRYは、お姉ちゃんがあたしのために作ってくれた場所なんだよ』
ライブの後の打ち上げで、虹夏ちゃんが教えてくれた二人の過去。店長さんは虹夏ちゃんの手を離しはしなかった。
……水木くんは間違えてしまった。大事なもの全部、なくしてしまった。
「見届けてやってくれ。それだけで、あいつは何も怖くないんだ」
あたしもそうだった。そこに夢があって、仲間がいて、それで十分だった。何も怖くなかった。……何も怖くはなかったんだ。
店長さんは寂しそうに、眩しいものを見るように目を細めて、私の背をそっと抱きよせた。そのぶっきらぼうな感触で、少しだけ胸のしくしくが収まったような気がした。
「店長、後藤さんは未成年ですからね? 同い年の水木君とは違うんですからね? まあ彼も大概アウト寄りですけど」
「あ、あたしは先達として助言してるだけだ! あんなスケコマシと一緒にすんな!」
「聞いてくださいよ伊地知先輩。彼、私の友達にも例のセトリを陳列してたみたいで」
「何をしとるんじゃ、あのセクハラクソ野郎。それも含めて説教だからね」
PAさんに言い訳するように当て付けた店長さんをきっかけに、この場全員水木くんへの視線が冷え切った。喜多さんと虹夏ちゃんもハイライトが消えた瞳で彼を睨め付けている。というか陳列って……。
──人聞きの悪い物言いはやめて頂けませんか?
なんて、いつもの白々しい抗弁が聞こえるようだった。
「一度ならず二度までも。本当に後ろから刺す輩がありますか」
そんなこんなでなんとかセッションをまとめ切ったものの、色濃く影を纏って、不機嫌そうに非難の刃を向ける水木くん。そりゃまあ助けるどころか、確信犯的に演奏を引っ掻き回してジャムセッションみたいにしたのはリョウさんだけど。
「結局最後まで凌ぎ切りやがって。ムカつくんだよテメー」
「ギャハハ、君も面白え奴だなぁ山田ちゃん! いいぞ、もっと来いやぁ!」
「廣井さんも煽らないでください。これでは左手を休ませるどころじゃない」
「そんなことしたら殴る」
いや、居直って悪態を吐く彼女に、助太刀のつもりなんて最初からなかったらしい。ただ、水木くんと思う存分やり合いたかっただけ。ロックにも程があるリョウさんに、お酒を啜りながら同調して大笑いするお姉さん。そんな奔放なベーシスト二人に彼は閉口して、始末に負えないとばかりに大きく嘆息した。
……彼が本当に辛そうな場面では、二人ともさりげなくフォローに回ってはいたんだけど。この場のみんな、素直じゃない。
「このポンコツ的に次が最後です。この曲まで滅茶苦茶にされては堪ったものではないので、下がってください」
「しょうがないな。……またやろう、南」
左手の指を確かめるように順に動かしつつ、リョウさんの退場を告げた水木くん。やれやれと両手を掲げながら、彼女はふっと相好を崩した。
悪態と相反した信頼と名残惜しさが覗く、きれいで柔らかな微笑み。
「当然、出入り禁止ですが。まさか、あの内容で次があるとでも?」
「おい」
「だからお前らそれでいいのか」
そしてそれを一蹴したツンデレクソ野郎。
ええ……。なんだかんだいい感じに収まりそうだったのに、いやそうなるのも分からなくはないけど。そっぽを向いた水木くんの無体極まる返しに、流石のリョウさんの声も険しい。
ふん、と鼻を鳴らして。
「冗談です。愉しかったですよ」
「このクソ野郎が。……忘れてなんてやらないからな」
水木くんは小さく、碧い火片を散らしてまなこを閉じた。つれない彼に苦笑いした青いベーシストは、演奏家と最後に小さく言葉を交わす。そしてストラップを外しながらこちらへ、聴衆の立場に帰ってきた。
もう少し「まともに」──いや、こういうのも悪くはないか。もはや、「正しい演奏」なんてないのだから。
滝のような汗を拭いながら、皮肉気に……楽しげに目を細めてそれを見送った水木くん。夕陽の影に、彼もまた惜別を隠して。
さっとケースにベースを納め、隣に立ったリョウさん。彼女はこちらを一瞥して、不意にくしゃくしゃと私の頭を撫ぜた。
──ぼっちもごめんね。ありがとう。
そんな風に言ってる気がして。
「……いいなぁ」
三人とも、とってもカッコよかった。見るものを圧倒する、知的なのに暴力的な低音と打鍵が織り成す仮初の秩序。矛盾を孕んで、けれど
お姉さんが、リョウさんが羨ましくて、羨ましくて。私ももしも一歩踏み出せたのなら。胸元でぎゅっと手を握る。
フロアから私達を見ていた水木くんも、きっと、こんな気持ちだったんだろうか。
「少年。次の曲について、みんなにも話しといたほうがいいんじゃない?」
不意に、お姉さんが水木くんにそう促す。見回せば、あの激しい即興パフォーマンスに引き寄せられたんだろうか。私達だけが観客だったはずの路上ライブには、いつの間にか、たくさんの人達が集まっていた。
──っていうか、あれSICK HACKの廣井きくりじゃね? 何でこんなところで。
──あの男の子誰?
ざわつく観客から漏れ聞こえる会話。あ、あれ、も、もしかして、お姉さんってかなりの有名バンドだったりする……?
密かに戦慄いている私を他所に、聴衆を一瞥した水木くんは意外と集まるものですね、と何でもないように軽く苦笑を浮かべた。
「ご指摘はごもっとも。かなり古い曲ですし、何ならオマージュ元は既に古典でもある」
「正直、私は今でもよく分からんし。っていうか酔っ払いに文学なんて読めるか!」
「貴女ねえ──と、言いたい所ですが」
身も蓋もなく開き直りながら両手を上げるお姉さんに、みんながどっと吹き出す。その様子に呆れを隠さなかった水木くんだけど、顎に手を当て、少し考え直す仕草をする。
「まあ、無理もありません。あの曲、というよりその元となった小説は、本当は1950年代アメリカ社会の背景を理解しないことには読み解けない作品ですからね」
けれど、どうしてもこの曲がやりたかった。残念そうに、寂しそうに。夕陽が沈んでいく宵闇に想いを残して、水木くんはそう溢した。
「こんな突発の路上ライブに、態々足を止めて頂いた。そんな皆様には出来る限り楽しんで帰って貰うのが、演奏家のせめてもの努めというもの」
MCの真似事など柄でもありませんが。彼は首元のマイクに手を伸ばして、改めて感傷たっぷりに聴衆に一礼した。
そして演奏家はゆっくりと語り始める。これから自らが奏でる物語について。
「少々長くなりますが、皆様、どうか暫しお付き合いください」
ご存知でしょうか。
この曲の詩想となった、古く草臥れた放浪譚を。
何より大事だったはずなのに、お互いを置き去りにしてしまった二人を。