ジャック・ケルアック『
1940年代から50年頃のアメリカの放浪生活を描いたケルアックの自叙伝的な小説で、所謂ビート・ジェネレーションと呼ばれる作品群を決定づけた代表作です。
この作品の背景として、当時のアメリカでは理想化された中流階層の家族モデル、例えば日本で言う戦後の「三種の神器」のようなもの。それに倣うことが強く要請されました。
「ゴールデンエイジ」と謳われる経済的繁栄の裏側で、人々は正常であること、アメリカ国民として「正しくある」ことに雁字搦めに縛られていた。自由の国などと言われる彼の国ですが、一皮剥けばそんなものだったのですね。
実際、劇中のトリックスターであるディーン・モリアーティことニール・キャサディでさえ、「うまくやろうとしてがむしゃらにやってきた」と述べている。彼ら自身ですら「うまくやらなければならない」と思っているのに、その日常の窮屈さに馴染めない。不器用な彼らは、うわべを取り繕うこともできない。
主人公サル・パラダイス──作者ケルアックの写し身とされる登場人物ですが、彼もまた非白人社会への漠然とした憧れと、日常の息苦しさとで葛藤します。「デンヴァーまで来て、僕は死んでばかりいた」、と。
彼らはみ出し者、ビート・ジェネレーションの苦悩と悲しみとはそれなのです。
そこに愉快なペテン師ディーンが登場。借り受けた車をベコベコにしながらぶっとばし、同乗者を恐怖の渦に飲み込ませる。大麻をキメてがむしゃらに騒ぎ立て、サルを狂った旅へと誘う。
全くもって「正しく」ない。端的に狂人ですし、廣井さんとも比べものに……いや、アルコールも広義の向精神薬でしたね。案外良い勝負かもしれません。
「ひどい! 私は車は安全運転するよ!」
「車!? お前、まさか飲酒運転とかしてねーだろうな?!」
「先輩まで!?」
ともあれ、ケルアックや当時の人々にとって、ニール・キャサディは彼らを縛る「正しさ」を打ち砕く、逸脱と非日常を体現する人物でした。
彼ら
……しかし彼らも最後には、「正しさ」の軛からは逃れられなかった。
ディーンとサルは騒がしい旅の中で、かけがえのない友情を育んだはずだった。けれど、再婚相手との関係をまた始めるために、友人との夜を台無しにしないために、お互いにお互いを置き去りにして、分たれてしまった。
「人生のどうしようもない複雑さ」のために。
……「正しくある」ために。
旅したアメリカの
──だれにも、だれにも、これからどうなるのかはわからない、見捨てられたボロのように年老いていくことしかわからない。そんなとき、ぼくはディーン・モリアーティのことを考える。
ニールも、ジャックも、このおれも。
何より大事だったはずなのに、過去の思い出に置き去りにしてしまった。そんな人は、誰のなかにも居るのではないでしょうか。
それでも、僕にまだできることがあるのなら。
キングクリムゾン、『Neal and Jack and Me』。
主旋律が、鍵盤に並んだ十の気筒が軽快に回り始めた。左側バンクは既に過熱気味だが、いつものことだ。
一つ一つは単調な拍子の繰り返しが、多気筒エンジンのように複雑に折り重なる。
I'm wheels, I am moving wheels.
I'm a 1952 Studebaker coupe.
I'm wheels, I am moving wheels.
I'm a 1952 Starlight coupe.
まったく皮肉だ、僕もそのようなものだから。機関銃のように乱反射する歌詞に乗せて、古ぼけて、草臥れ切った車。それが黒い森を切り開いて、追憶の荒野を巻き戻すように突っ走る。
校舎の片隅、小さな海。
ストリートアートの下一休み。
バックヤードの床のくすみ。
路上演奏、青い霞。
階下を赤く染めた憧憬。
そのままには写せなかった関係。
八景。説明できない光景。
暖かな家族は遠くへ。
批評家の冷徹。
聴衆の前の明滅。
ガラスが割れる断絶。
色褪せて、なにもかもなくして。ひとりぼっちだった僕の旅路はいつの間にか、色取り取りの思い出で彩られていた。
嵐のような即興節。
郷愁が滲む狂詩の完結。
だからこそ。
Hotel room homesickness on a fresh blue bed.
And longest-ever phone call home.
あの子の深く揺れる青眸。不安と──そして確かに映る希望。まだだ、まだ焦げ付いてくれるな、我が十の気筒。
No sleep.
No sleep, no sleep, no sleep, no sleep.
No mad video machine to eat time.
A city scene I can't explain.
The Seine alone at 4 AM.
それでも、羨ましい。羨ましい。
初めから持ってないのに、胸が痛んだ。
元々の高く歪むギターリフの片鱗。雨の如く降り注ぐ旋律。全て低く受け止める臙脂。ついにはオーバーヒートするエンジン、それでも。
目が見えないのに、全てを感じ取った。あの時と同じ、懐かしい声がする。こんな所に居るはずもないのに。
かつての僕の幼い希望。
あの夜、芽生えた二つの子葉。
ぎちり、ぎちり。機械仕掛けの嘲笑い。お前は工業製品なんかじゃない。壊れたものは直らない。あの頃の僕には戻れない。
それでも左手の傷が痛んでやまない。僕達は叫ばずには、弾き鳴らさずにはいられない。
僕達はもはや同じものだ。
夕陽が沈む。夕景が終わる。廣井きくりの渦巻く瞳が雄弁に語る、どこまでも往けと。
赤緋を乱し、
清酒を煽り、
ベースを低く掻き鳴らす。
The Seine alone at 4 AM.
Insane alone at 4 AM.
どうでもいい訳なかったのに。
ニールも、ジャックも、このおれも。
母も、貴女も、このおれも。
Neal and Jack and me.
Absent lovers, absent lovers.
見捨ててしまった。
どうしようもなく、見捨ててしまっていた。
──ずっとディーンのことを、やつはどういう気持ちで汽車に乗って三〇〇〇マイルものひどい大陸を帰っていくのか、考えていた。そもそもなんで来たのか、ぼくにはわからなかった、ぼくに会うためという以外。
『頑張んなさい、南。あんた天才なんだから』
死にたいほどの夜。……だからこそ、今夜貴女に会いたかった。
リフレインとともに去っていくアウトロダクション。『路上』の幕を閉じるケルアックの、エイドリアン・ブリューの、そしてこのおれの静かな回想が終わる。
ぼんやりした視界。僕の全てを吐き出したことを感じて、ぐらり。地面が横倒しになった浮遊感に、もはや抗いようもなく。
「少年!」
腕を抱えたその声は、廣井さんか。そのまま崩れるようにもたれ掛かった僕の肩を支えて、なんとか立たせた。
「大丈夫か、少年!」
「ええ、……もう、指一本動かせませんが、元気いっぱいですよ」
「ははっ、なんだそりゃ。……凄い演奏だった。競演できて光栄だ」
彼女は僕のくだらない軽口に苦笑しながら肩を抱いて、そっと僕の耳元で囁く。
「君の傷と痛みを想像さえしてなかった。ロックでみんなを救えるなんて、とんだ思い上がりだった」
「いいえ。……確かにロックは僕を救ってくれた。こんな光景が、また見られるとは」
あの日、胸に芽生えた二つの子葉。見まわせば、疲労困憊した僕への心配と、それでも隠せない高揚に包まれた聴衆。何もかもあの日のまま。
汗か、涙か、何で濡れているかも分からない顔を袖で拭って、精一杯の痩せ我慢で両の脚へ力を込める。結束バンドのみんなに、店長、PAさん。……そして、とめどなく瞳の青をこぼして、震えている後藤さん。聴き届けてくれた彼女らへ、感謝を示さなければならない。演奏家としての最後の責務だ。
「みんなごめん! ライブはここでお開きだ。聴いてくれてありがとう!」
廣井さんの声に合わせて頭を下げれば、みんなから歓声と、盛大な拍手が鳴り響いた。
冷めやらぬ拍手がついには止んで、聴衆が疎に散って行って……いつもの面々以外に。最後に、しゃがみ込んで泣き伏せる小柄な女性だけが残っていた。
ふらつく足取りで、彼女の前に立つ。
「来て頂けるのなら、最初からそう返事をしてくださればよかったのに」
「……今更合わせる顔なんて、ないわよ」
僕の揶揄に顔を乱暴に拭って、会いたかったその人……愛子さんはすっくと立ち上がって、顔を真っ赤にしてこちらを見上げた。睨め付けたその眼から、すぐにまた雫がこぼれた。
あたしがいなくなった後、あんたは一人で「正しい音楽」を弾き続けなきゃいけなかった。あたしの夢を台無しにしたって、それが役目だって、抱え込んで。でもそんなの続くはずがない。
「だからその手も、お母さんの夢も。あんた自身も、全部見捨ててしまった。……見捨ててしまった! 全部、あたしが悪いんじゃない……!」
「なんだ。最初から居たんじゃないですか」
「うるさい、茶化すな、馬鹿っ……!」
僕の傷のことや、後藤さんとのやりとりを見ていなければ、そこまでは分からないと思うのだが。この身に重くのしかかる倦怠感を努めて無視して軽薄に混ぜっ返して、噴き上がる彼女を揶揄う。懐かしいやり取り、何もかもがあの時のまま。
大まかに言えば彼女は間違っていない。確かに僕は弾き語ったその通り、母も、彼女も、僕自身のことも見捨ててしまった。あの歌で、僕は自らをそのように叙した。けれど結論だけは違う。「正しい音楽」からの逸脱でもなく、彼女と出会ったことですらない。
大事だったものすべてを見捨ててしまった。
それこそが僕の間違いだった。誰が悪いかなんて、そんなことはもうどうでもいいのだ。
ゆっくり、後ろを仰ぎ見る。
「僕にはもう一度、音楽をしたいと思える仲間ができました」
僕を忘れないと言ってくれた、山田先輩が名残りを惜しむように頷く。
僕がひとりぼっちなのはいやだと願った、喜多さんの目を潤ませた笑み。
伊地知先輩は、まあアレだ。僕みたいなのを叱ってくれる方は案外稀少というか。内心の粗雑な扱いに気付いたのか、黄色の先輩は微笑に青筋を混ぜた。
それはともかく。
「もう二度と、見捨ててしまいたくない人ができました」
僕に隠れるようで、本当は傷を庇ってくれていた桜色の少女。僕のために心動かしてくれた人。おろおろとこちらに一歩踏み出そうとする彼女を手ぶりで制して、不恰好に笑って見せる。
ありがとう、後藤さん。けれどこれだけは、僕とこの人だけで終わらせなければいけないから。
傷付けてしまった、かつての恩人に相対する。
「愛子さん。貴女の夢を台無しにしてしまって、ごめんなさい。僕達の音楽を台無しにしてしまって、ごめんなさい」
「どうか、もう一度僕がピアノに触れることを許してはくれませんか」
もう一度。疲労と痺れがまとわり付いた身体を虚勢で動かして、ゆっくりと頭を下げる。
取り返しのつかない失敗をしたとして、それでも謝る。そして、今できることを精一杯やる。許されなくても、償えなくても、それでも一歩を踏み出すために。
どれくらい沈黙が続いたのだろう。愛子さんの震える声が小さく響く。
「馬鹿ね。あたしのことなんて、忘れちゃえばよかったのに」
「ふざけるな。貴女を忘れるなんてできない」
それだけは聞き逃せなかった。ずいと一歩踏み出して、よろけながらも、彼女の紫の瞳を見下ろす。
愛子さんは安堵したような、悲しそうな、そのどちらの感情も混ざった微笑みを浮かべて、僕の傷へと手を伸ばした。
「あんたはそういう奴よね。生意気で、偏屈で、何でも抱え込んで」
優しく、僕の手の甲を撫ぜる。
「痛かったでしょう? 辛かったでしょう?」
「……はい」
「謝るのはあたしのほう。あんたを守るつもりで、かえって傷付けてた。南を置き去りにして、最後まで守れなかった。ごめん」
僕の弱さと痛み。それに触れたまま、愛子さんは首を垂れた。深い後悔を滲ませて、伏して俯いていた。
謝っているのはこちらなのに、仕方がない。
「それで、あたしはこんな底辺のライターにまで落ちぶれて、腐って。失望したわよね」
「いいえ。貴女がライターを辞めないでくれていてよかった」
「えっ……?」
愛子さんが顔を上げる。
──あたしの夢は、あんたみたいな奴に少しでも綺麗な音楽を伝えること。あんたが今やって魅せたみたいな音楽を、みんなに伝えること。
何もかもなくした、台無しにしてしまったと思っていた。けれど、どんなに小さくても、弱々しくても、蘖のように僕達の夢は芽をつないでいた。
「まあ、記事の内容は端的に言ってひどいものでしたが。僕をバンド叩きの棍棒にしないで頂けませんか?」
「ぐっ、こ、コイツ、今それを言うんじゃないわよ! あたしだって書きたくてあんな三文記事書いてる訳じゃないわ!」
ただいかんせん、その夢はあらぬ方向に迷走しているようだったが。ページビュー稼ぎのためだろう激しい煽りと、恐らく僕を基準とする辛辣が過ぎる批評。
反発から晒された住所。それ故に、情報端末を持たない僕が愛子さんへの手紙を出せたというのが皮肉というか何というか。
しかし、僕も他人のことは言えまい。やろうと思えばいつでもできたのに、彼女の連絡先を調べられなかった。僕達の夢を壊してしまったこと、それを目の当たりにするのが怖くて目を背けていた。そんな自身の情け無さに苦笑する。
「それでも貴女はどんな形であれ、僕達が見た夢を諦めないでいてくれた。貴女が僕を覚えていてくれたようで、嬉しかった」
「……当たり前でしょ。あんたみたいな奴、忘れたくても忘れられないわよ」
ばつが悪そうに目線を逸らしながら、愛子さんは傷から手を離した。
僕が見捨ててしまった夢を、彼女は見捨てないでくれていた。それだけに僕のカッコ悪さ加減も一塩というものだが、今更だというのも、既に確認していたことだった。
「これからどうするの、南」
「今日まではこのライブのことで精一杯でしたし、今後のことは何とも」
愛子さんからの問いに、未だ虚脱感の抜けない両手をぐったりと掲げる。
とくに長くもないロックの二、三曲でこのザマだ。僕がコンペティブな舞台に上がることはもうないだろう。初めから分かっていたことだし、それ自体にはとくに未練もない。
とはいえ。こちらの様子を少し離れて見守っている、赤い駄々っ子に横目を遣る。
「そこの彼女に文化祭の個人ステージに無断で参加させられてしまったので、一先ずはそれを片付けようと思います」
「うぐっ」
「ふーん。まあ、あんたみたいな偏屈者を動かすには、多少強引にでも引っ張り出したほうが早いのよねぇ」
「流石先達は仰ることが違う」
むしろそれが正解だと言わんばかりに、愛子さんは意地悪く目を細める。あんたも何だかんだ乗り気みたいだし。いつも僕を強引に連れ出していた彼女は、あの頃のようにからからと笑った。
ふっ、と柔らかく微笑んで。
あの人は僕に向き直った。街路樹が見えるカフェでの日々とも、今度こそお別れだ。
「南。一度なくしたものは、簡単に取り戻せなんてしない。あたし達は過去には戻れない。でも」
その弱さと痛みこそが綺麗な音楽になるのかもしれない。……あたしが、みんなに伝えたかったものに。
あの頃から、少しだけ年月を経た眼差しを交わす。
「だから頑張んなさい、南。あたしもあたしなりに、なんとかやってみるから。……あんたとの思い出に、頼りっぱなしにならないように」
文化祭、聴きに行くから呼びなさいよ。そう言って強がって、愛子さんは花のような笑みを作った。そして一度だけ振り返って手を振って、彼女は夜の街の雑踏に消えていった。
色褪せたまま止まってしまっていた、僕達のあの頃と一緒に。
針を巻き戻した、十二進法の夕景は沈んで。
少女趣味の服装をした女の人──「お節介焼き」のあの人が見えなくなっても。後ろ髪を引かれるように、演奏家はいつまでもその背中を見送っていた。
こらえきれずその背中に縋り付く。あんな演奏の後だし、上の空だったのかもしれない。わずかによろめいた彼はそれで放心から覚めたのか、小さく息を吐いた。
「最後まで聴いてくれて、ありがとう。……ありがとう、後藤さん」
「……うん。帰ろう、水木くん」
汗で濡れて、そして夜風で乾いたシャツの感触。演奏の熱が去った、ひんやりした温もり。水木くんのにおい。ぎゅうっと顔を埋めた私に、泣き出しそうに掠れた感謝を重ねて。彼は私を背に隠したまま、半身だけみんなのほうに振り向けた。
「さーて水木君。そろそろあたし達にも色々説明して貰おうカナ?」
なーんで傷のこと隠してたのかとか、ぼっちちゃんと結局何があったのかとかね?
「痛ッ、痛い痛いッ。あ、あの伊地知先輩、今左手はやめて下さい」
「さっきは自重したけどな、お前一々水臭ぇんだよ! こっちがどれだけ心配したと思ってんだ!?」
「あとあの方誰ですか。女の子には優しくして下さいって言ってますよね?」
「三股とは恐れ入った。このクソ野郎が」
「痛い痛い。あの人とはそういう関係ではないですし、三股とはどういう事ですか。あと石畳で正座はちょっと」
いつの間にか彼の懐に踏み込み、その左手を容赦なく鷲掴みにした虹夏ちゃん。その満面の笑みには無数の青筋が張り付いていた。
普段と違って割と本気で痛そうに悶える水木くん。そんな彼をみんなは容赦なく取り囲んで、無理矢理正座させようとしている。
「ええ……」
「あーあー、折角イイ話だったのに。少年も悪いんだけどさ」
そのどうにも間が抜けた光景に、お姉さんも遠巻きに呆れている。……まあ、うん。私はある程度事情を知っていたからまだいいけど、いきなり諸々ぶち撒けられたうえに説明も投げっぱなし、となればみんなが怒るのもむしろ当然というか。
ドン引きしていた私の側で、珍しく、暗く落ち込んだ声がした。
「後藤さんは、……水木君の怪我のこと、知ってたのね?」
「き、喜多さん。……は、はい」
夜の電灯の影を隔てて、喜多さんは肩身が狭そうに身を縮こませていた。路上ライブで有耶無耶になっていたけど、参加票のことを水木くんにも揶揄混じりに釘を刺されたのもあるんだろう。
でも、私だって隠し事をしてたんだし。色々あって頭が冷えた今となっては、喜多さんへの申し訳なさのほうが大きかった。
「その……黙ってて、ごめんなさい」
「ううん、私こそごめんなさい。文化祭の参加票、彼の分まで勝手に出しちゃって」
「あー、そういうことか。ぼっちちゃんもごめんよ。そりゃ少年を庇うよね」
目を逸らした私に、喜多さんもおずおずと頭を下げる。私達の様子に色々察したらしいお姉さんも、開き直ったんならみんなにも言っといてよ少年、と苦々しくぼやいた。
ぽつりぽつりと落ちる喜多さんの声が、ぶるぶると震えだす。
「知らなかったの。水木君があんなケガしてたなんて。それでも私達のこと、助けてくれてたなんて」
「……喜多さん」
「どうして、な、なくなっちゃうのかなあ? あんなに、あんなに、特別なのに」
キラキラした瞳から雫がぽろぽろこぼれ落ちて、喜多さんはしゃくり上げた。後悔と悲しさと、胸に溢れる熱いもの。
激しい痛みのように駆ける伴奏。置き去りにしてしまった追想。繰り返し旋律は差異を反復する。すれ違ったまま、喪失は埋めがたく。
それでも、何かできることがあるのなら。
彼の演奏、その献身に心揺さぶられて。
「水木君は、……なんで私のわがまま、聞いてくれたのかなあ? 自分で、た、立てないくらい、ボロボロになっちゃうのに」
「キミらが聴いてくれるからさ」
「えっ……?」
なーんて、キザったらしー。照れ臭そうに酔いで熱った頬を掻くお姉さん。すっと見開かれたその目は、大人のような色をしていた。水木くんが怖くない訳がない。辛くない訳がない。
「左手は満足に動かせない。ブランクも長い。あのライターの子が来るって保証もない。謝ったとして、許して貰えるなんて虫がいい」
お姉さんは気弱そうに──どうしてだろう。むしろそちらが素顔であるかのように、その臙脂の眉尻を下げた。私の歌なんて、誰にも聴いてもらえないかもしれない。一番届けたかった人に、聴いてもらえるはずはない。そんなの
「それでも、少年が弾き鳴らせたのは」
『本当は、本当は、水木くんの弾き語りが聴きたい。聴きたい、です』
「私達が、私が……彼の音を聴いていたから」
拭い難く染み付いた、自身への不信を乗り越えて。お姉さんは当を得たとばかりに頷く。
『水木くんがいるから。水木くんだけは、ちゃんと私の音を聴いてくれるから』
『見届けてやってくれ。それだけで、あいつは何も怖くないんだ』
私達の初ライブに、水木くんがいてくれたように。店長さんが背を抱いてくれたように。演奏家にとって聴衆の喝采こそが希望。私達のわがままな願いこそが水木くんの道しるべ。
そうであるなら。……しくしく滲みる痛みとは違う。彼の演奏で芽生えた何かが、静かに胸の中で脈打つ。
「喜多さん。水木くんの参加票、どうして出しちゃったんですか?」
「水木君が、水木君がひとりぼっちなんていやだ。彼だけ居ないなんていやだ」
「うん。……私だっていやです」
喜多さんはごしごし目元を拭って答える。その瞳には、彼女らしいキラキラした輝きが瞬いていた。
今日もあの特訓の時も、水木くんは怒ってなんていなかった。私達の中に何か残ればいい──なんてカッコ付けていた彼のほうを見やれば、虹夏ちゃん達に囲まれて結局正座させられていたけど。締まらないなあ……くふふ。
意地悪で、トンチキで、自分のことを「負け犬」だなんて嘯くいいカッコしいの偏屈者。痛みと疲労で立っていられなくて、醜い嫉妬と後悔の感情を曝け出して、脂汗と涙でぐしゃぐしゃで。それでも、水木くんは最後まで演奏家だった。
見捨ててしまった。──凍てつくほどに熱い痛みを詩に託して。
「水木くん、カッコよかったな。カッコよかったなあ」
心に芽生えた何かが噛み合って震える。胸が高鳴ってやまない。頬は熱に浮かされたように蕩けてしまう。お姉さんが、リョウさんが羨ましい。水木くんといっしょにギターが弾きたい。水木くんの隣で、彼のことを助けてあげたい。
「私もあんな風にライブ、……できるかな」
「できるさ。ロックは、地球だって救えるから」
「水木君だけじゃないわ! 後藤さんだって、私にとっては「特別」だもの!」
「あわわっ、は、はいっ」
思わず溢れた憧れ。お姉さんは苦味を噛み締めた穏やかな笑みで頷く。喜多さんは私の手を取ってその輝きを強める。思わず目を逸らしちゃったけど、でも。
視界の端に──私の瞳の奥に、青く燃える炎。
「喜多さん、……文化祭ライブ、やりたいです。お姉さんも、見にきてくれませんか?」
「ええ、やりましょう! 絶対成功させましょうね!」
まだしくしくは止まないし、STARRYより大きいだろう舞台への怖さは消えない。でも、それよりもっと大きなものが奥底で震えている。
文化祭ライブ、やるんだ! 私だって、水木くんみたいになりたい。この胸の高鳴りを、水木くんに返してあげなくちゃ。
お姉さんは満足げに頷いて、懐からチケットの束を取り出した。私もロックを始めた初心に帰れたし、今日のお返しっていうのも変だけどさ、と。
「私らの今度のライブも、よかったら聴きに来てよ。みんなの分もあるから」
「あっ、じゃあお金……」
「いいっていいって! これでもインディーズじゃ結構売れてるバンドだし、高校生からお金取るなんてしないよ」
「えっ? で、でも、この間の電車賃は……?」
私のつぶやきに、水木君を詰めていた店長さんがこちらに振り向く。
「……おい廣井。どういうこった」
「あっ、先輩……やっべ」