2. ミシェル・フーコー『監獄の誕生 監視と処罰』田村俶訳、みすず書房、1977年。
──もう、どうでもいい。
自らの役目も、愛子さんと見出した夢も、この僕自身も投げ捨ててしまった。潰してしまった左手では、もう満足にピアノを弾けない。そもそも自身で潰しておいて、今更ピアノを弾きたいなど、どの口がほざくのか。
だから僕はピアノに、後藤さんに背を向けた。それらは眩しすぎたから。
「馬鹿野郎! どうでもいい訳ないに決まってんだろうが、お前だって……!」
端的に語られた僕の過去と、その決着。店長は僕を怒鳴りつけて、そしてやり場のない憤りを吐き捨てながら顔を両手で覆った。
「あの、これは一体どういう場なのでしょうか」
翌る日、STARRYのフロアの一角。改めて諸々の申し開きをするべく、僕は床に正座していた。それはよいとしても、感情移入のあまり泣き出してしまった店長にはどう対処したものだろう。
その様子に伊地知先輩やPAさんも苦笑いしている。彼女達も相応にお怒りだったはずなのだが、人は自分より取り乱している相手を見ると、かえって冷静になるものらしい。
「ギャハハ、先輩ガチ泣きしてる! ライブは良かったんだしいーじゃん!」
「うるせえぞ廣井! そういう問題じゃねーんだよ!」
そもそも廣井さんはなぜいらっしゃるのだろうか?
「でも、突然此処を辞めるだなんて言い出して、ぼっちちゃんとも仲違いして。みんな心配したんだからね。ちょっとは反省してよ」
「……それは理解していますが」
「というか、店長の反応のほうが自然だと思いますよ? 自分で手を潰すって普通に壮絶ですし」
唐突に路上ライブをやるとか言い出して、自分一人でみーんな終わらせちゃったんだから。
そう口を尖らせた伊地知先輩。特に彼女には、結局直前まで言い出せなかった訳だしな。僕は目を逸らすより他なかった。
……まったく。
「終わったことだと思っていたんですよ」
僕と母と愛子さんとの関係は、いかなる形であれ既に清算したはずだった。過去を変えることなどできないし、そもそも貴女方には関係のない話だと。
そんなことで僕の醜い感情を晒して、貴女方に迷惑を掛ける必要はない。そう思っていた。
僕の独白を聞いた店長はギョロリ、とその真っ赤になった眦を釣り上げた。
「お前は本当に馬鹿野郎だ……! お前はあたしなんだ! 母さんからも、虹夏からも逃げちまったまま、本当に大切なものを取りこぼしちまった! お前は、そんなあたしの"もしも"なんだよ……!」
「はいはいお姉ちゃん、一回落ち着こ?」
「水木君、割と本気で困ってますよ?」
怒られるならまだしも、そこまで同情というか、同化されては僕としてもやりようがない。居心地悪く肩を窄ませた僕を哀れに思ったのだろう、先輩とPAさんが店長を宥めた。
けれど伊地知先輩が語った過去によるなら、店長もまた母親を事故で失っている。あの歌の詩想であり、そして僕もまた想いを託した物語。ニールも、ジャックも、このおれも。
『何より大事だったはずなのに、過去の思い出に置き去りにしてしまった。そんな人は、誰の中にも居るのではないでしょうか』
店長にとって、彼女の母親こそがそうだったはずだ。僕のことを色々と気にかけて下さり、今も心を動かしているのは、僕の中に同じ傷を感じ取っていたからなのかもしれない。
そして、伊地知先輩と目が合った。泣き出しそうな眉尻を無理に吊り上げて、口元で怒りを堪えるその表情。
……あの路上ライブの後、その時も結局正座させられた説教の末。僕を真正面から抱きしめて、伊地知先輩は震える声で言った。
『勝手にいなくなるんじゃない。君だって、あたし達の仲間なんだから』
結局、僕はライブの場に彼女達を呼び寄せずにいられなかった。同じ痛みを知っている二人ならば、僕の音を聴いてくれはしないか。そう身勝手に甘えてしまっていたのだろう。
「ったく、説教されてる癖に妙に嬉しそうにしやがって。もう二度とぼっちちゃんを泣かすんじゃねーぞ」
「水木君がツンデレクソ野郎なのは今に始まったことじゃないけどさ。ぼっちちゃんには素直に優しくするんだぞ」
「はい。……ありがとうございます」
店長が落ち着きを取り戻し、伊地知先輩からもひとしきり説教を賜ったことで、あの路上ライブの後始末もようやく区切り。しかし過去に決着を付けたところで、学期であったり、アルバイトのシフトであったり、今を刻む時間の配分は容赦なく我々を責め立てる。
あるいは、それに忙殺されることこそが現代の救いなのかもしれないが。
そんな訳で説教とは別に、とくに伊地知先輩にはご助力賜りたい事情があった。
「事情?」
「バイトのシフトは入ってなかったですよね? まあ、特に用事はなさそうな方もいらっしゃいますけど」
「失礼な! 私はお風呂とタダ酒って大事な用事があるんだから!」
「帰れ」
PAさんに抗議する資格のない廣井さんはさておき、僕は確か此処を退職していたはずなのだが。
「おい」
「ホント水臭いですよね、水木君って」
ンなモン破り捨てたわ、という店長達との軽口はさておき、首をかしげた伊地知先輩に答える。
最近色々と立て込んでいたとはいえ、我々学生の本分とは勉学と試験。
「とどのつまり、中間考査に向けた
「その大仰な言い方やめなよ。まあ、珍しく殊勝な頼みだし、助けてあげたいのはやまやまなんだけど。リョウがね……」
彼女が目をやる先には、机の前で頭を振り、カラカラと謎の音を立てる山田先輩。その目の前のペーパーには赤く大量のバツ印が刻んである。あの様子では、伊地知先輩は彼女にかかりきりにならざるを得まい。
喜多さんはともかく後藤さんの成績は中々難儀なことになっていたので、伊地知先輩のご助力があれば助かったのだが、そういうことなら致し方ないか。
なに、規律・訓練は僕の本領。喜多さん経由のブツもあることだし、僕一人でもどうとでもなるはずである。
そのお二方はと言えば。
「私は悪くない。だって私は悪くないんだから……」
「知らなかったんです……。いや水木くんがアレなのは知ってたけど、知らなかったんです……」
「お前、あの二人に何したんだ。ぼっちちゃんはいつものとしても、喜多も相当おかしくなってるけど」
「昼間から特殊性癖を曝け出すのはちょっと」
「僕を原因と断定するのはやめて頂けませんか?」
並んで瞳を曇らせ、ぶつぶつと独語を続けるフロント組の不穏な様子。大人達の失礼な反応は全く心外だった。
話は昼休みまで遡る。
「……ンミャッ」
「休み明けの小テストで、五教科合計50点満点中、7点……」
「いくら小テストとはいえ、これはちょっと」
いつもの校舎の端の物置の奥。何処から持ち出したのか、棺桶の中に収まってしまった後藤さん。その傍で、僕と喜多さんも彼女のあまりに凄惨な成績に頭を抱えていた。
「赤点を取ってしまえば、それなりに長い期間を補習で拘束されますよね」
「そうね……。ライブに向けた練習も出来なくなっちゃうかも」
成績が悪いだけならまだしも、それでライブに支障を来してしまうとなれば、僕としても由々しき事態である。
今にしてみれば、もっと早い段階で介入していれば良かったのかもしれない。しかし僕とて、この秘密基地でくらい学業の煩わしさという余計な狭雑物から解放されたかったのだ。
「念の為確認しておきますが、喜多さんは問題ないでしょうね?」
「小テストだと……えーっと、42点は取れてる。水木君は?」
「50点」
「イヤミかッ」
これで喜多さんも補習候補となれば目も当てられなかったが、優等生との噂通りそれなりに点は取れていた様子。これなら、ひとまず彼女の心配をする必要はないだろう。……将来においてはその限りではなかったのだが。
僻みに口を尖らせる喜多さんはさておき、問題は棺桶に横たわった哀れな少女である。
平均点や赤点がどうこうというレベルではなく、一教科当たり2点も取れていない。しかも解答を放棄している訳でもなく、真面目に問題を解こうとしているのがむしろ深刻だった。
「な、何にせよ諦めないで頑張りましょ! 後藤さんはどこが苦手?」
「あの……わ、わからないところがわかりません……」
少々空元気気味に後藤さんを抱き起こした喜多さんだったが……なるほど。
現状を整理しよう。中間試験まで残り一週間。後藤さんの学習到達度は
「……」
「……」
「学年が変わっても、先輩なんて呼ばなくていいからね……?」
「ニールも、ジャックも、このおれも」
「み、見捨てないで! 見捨てないでください!」
喜多さんの瞳に絶望の色が細く渦巻く。かくいう僕もまた、ある意味タイムリーな慨嘆は禁じ得ない。我ながら薄情極まる宣告に、後藤さんは半泣きで縋り付いた。おお、可哀想に……。
笑えない冗談はともかく。無論彼女へ
「後藤さん、モールス信号で答えを教えるから一緒に覚えましょう! つーとん、つーとん、とんとんつー……!」
「喜多さんが乱心した!? 水木くん助けて!」
「落ち着いて下さい。我々は違うクラスなので、暗号通信によるカンニングは不可能です」
「突っ込む所はそこなんですか!?」
動揺のあまり錯乱し始めたお二方を見渡し、嘆息をひとつ。流石にカンニングは論外だが、……是非もない、か。
「策はあります。しかし、それには喜多さん。貴女の協力が必要だ」
「きょ、協力はもちろんするけど、……なにするつもり?」
何度も使える手ではないし、僕自身にはそもそも現実的な策でもない。だが、喜多さんが持つ“とある能力”を上手く活用すれば、あるいは。
協力者を煽動、もとい説得するべく、訝しげに一歩後退った彼女を見据える。「抵抗」のためには我々が置かれたこの状況自体を問い直すべきなのだ。
「まず、今の後藤さんは文化祭ライブにあたっての非常事態にある。これは論を俟たず、ご理解頂ける所だと思います」
「な、なんか凄い大袈裟な物言いだけど……まあ、そうね」
ドイツの法哲学者カール・シュミット。彼がその「例外状態」論で理論化したように、災害や紛争などの例外的な非常事態では、通常の法規範の適用を停止してでも危機へ対処することが是認されうる。
何が言いたいかといえば、今の状況もまた同様、
「その上で。僕達は何故、試験を受けなければならないのでしょうか」
「えっ? 」
「居直りたくなる気持ちは分かるけど、水木君まで現実逃避するのはやめてね?」
喜多さんの失礼な反応は一旦無視する。そもそも試験とは何なのか。教員は何を目的として、我々学生にそれを課すのだろうか。
フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、近代社会を監獄における監視と処罰、ないしは規律への自発的服従を促す力が隅々まで配置された社会だと看破した。近代教育はその
学習到達度の監視とその不徹底への処罰。試験とは、それらを同時に為すことを目的とする。
「故にあえて極論すれば、学校という名の監獄においては、試験とその結果が全てなのです」
「ううっ、だ、だから、勉強ができない私はゴミってことですよね……?」
「そうではありません」
しゅんと俯いた後藤さんに、しかしはっきりと断じておく。躓いて、ベソをかいて、それでも爪弾く彼女の弾き語り。それにこそ僕は救われたのだから。
実際の所、僕達は囚人でも何でもない。所詮獄吏や囚人どもの道理に、クソ真面目に付き合う必要など欠片もないのだ。
「結果が全てということは、結果さえ出せば良いということです」
「?」
トートロジーにしか聞こえないだろう物言いに、後藤さんは不思議そうにこちらを見上げる。その青い瞳は相変わらず美しい。
さて、規則からの逸脱は処罰の対象である。しかし先程確認したように、この
ならば。
「過程や方法など、どうでもよいのだ」
「僕じゃない。僕じゃない。僕じゃない」
「これも水木南って奴の仕業なんです……」
「それで、何やら喜多ちゃん達がまーた死んだ目をしてるけど。今度は何やらかした?」
そして放課後のSTARRY。大人組の皆様に加えて、伊地知先輩からもじっとり訝しげな目を向けられてしまっている。
まったく、僕を何だと思っているのか。別に大したことはしていない。
「一年生前期の定期テスト、その過去問数年分を入手して頂きました」
「はあっ?! そ、そんなのアリ!?」
あたしは今必死こいてリョウの勉強見てるのに! と、座っていた椅子を蹴り飛ばさん勢いで噴き上がった伊地知先輩。
まるで僕達が不正行為でもしたかのような物言いだが、秀華高は過去のテスト用紙を回収も管理もしていなかった。つまり過去問は単なる公開情報に過ぎない。
「しかし、蛇の道は蛇とでも言うべきか。流石は喜多郁代、僕では先輩の伝手をあたるなど不可能でしたからね」
「私がやったみたいに言わないで!?」
実際、喜多さんの能力……すなわち人脈の力は凄まじいものだった。欠けも出るだろうと思っていた過去問を全教科、数年分に渡ってあっさり入手できてしまったのだから。
今回のMVPへ話を向けると、虚ろに呟き続けていたお二方は堪らず白目を剥いた。
「ち、違うんです伊地知先輩! 私は友達や先輩を紹介しただけで、不正の片棒を担いだ訳じゃないんです!
「まさか本当に道徳を投げ捨てるなんて思ってなかったんです! 本当です! 信じてください!」
「人聞きの悪い物言いはやめて頂けませんか?」
自分達の無実を釈明するように、口角泡を飛ばして伊地知先輩へ訴える二人。「やっぱり」と顔に書いてある先輩も含め、極めて遺憾である。
正面から話したところで、こういう反応が返ってくるのは目に見えていた。だからこその、あの詭弁じみたプロパガンダな訳である。たかが一学生の試験如きで「例外状態」など片腹痛い牽強付会。それにフーコーはともかくシュミットはナチの御用学者だ。
「先輩方にとっては紙ゴミに過ぎないものを有効活用しているだけです。
「邪悪なルビを振りやがって……」
ささやかと言いつつ、謝礼のお茶菓子代も僕には少々手痛いもの。後は交換条件として、何日かの休日を部活動の助っ人だったり、文化祭の準備だったりに駆り出されることにもなった。が、結束バンドのライブのためなら安いものだ。
「先ほども言いましたが、学校とは試験での成績が全て。規則を明確に逸脱さえしなければ、過程や方法などどうでも良いのだ」
「悪役みたいな台詞ね……」
「生徒からテスト用紙を集める程度、一部の進学塾でもやることですよ」
過去問の売買は著作権的にはグレーだし、リスクの割に学習効果の点でもあまり意味がない。普段なら敢えて取る必要もない策だが、今回は「例外」である。
「畢竟、バレなければ犯罪ではないんですよ」
「私も過去問買ってくる」
「おい。そして待てやリョウ。そりゃフケるだのカンニングだのよりは幾分マシだけどさあ」
嘆息と共に諸手を翳したものの、伊地知先輩は納得いかない様子でぐぬぬと歯噛みした。全く御行儀の良いことである。
そして外に駆け出そうとした山田先輩は伊地知先輩に首根っこを掴まれていた。往生際の悪いことだ。仮にも進学校である下北沢高校で同じようには行かないと思いますよ。
「いーかいぼっちちゃん。社会のしきたりに縛られないのがロックなんだよ」
「ええ……?」
「それがロックだ、ぼっちちゃん。虹夏も水木もまだまだ浅いな」
「ロックですね……」
「お姉ちゃん達は学がないだけでしょ」
伊地知先輩が挙げた、その真っ黒な代案を出したであろう大人組の
規則からの明確な逸脱は言うまでもなく処罰の対象である。
「あたしは大卒だぞ!?」
「私もだよ少年!?」
どうでもよい。座椅子に腰掛け脚を組みつつ、調達したテスト用紙を漫ろに捲る。
教員も馬鹿ではないので、過去の問題そのままのことはまずないはず。けれど過去数年の傾向を見るに、一部の数字や文言を変えただけの問題もかなり多いようだ。杜撰な仕事だが、僕達としては好都合である。
「秀華高は学力水準が高い高校とは言えませんし、教員の質もそれ相応ということか」
「これで成績だけは優秀だから始末に負えないのよね……」
「ゆ、優等生とは……うごご」
喜多さんとその背に隠れた後藤さんは、こちらへ困惑と畏怖が入り混じった視線を向けてくる。僕にどうしろと。
「コイツ、教師を舐め腐ってやがるな」
「大人の足元を見てるというか、私達とは別ベクトルで擦れてるというか」
「ちまちましててロックじゃない」
「何とでも仰ってください。凡庸でせせこましい悪徳こそ世で蔓延るものだ」
やさぐれ三銃士の皆様も、理解し難いものを見る目はやめて頂きたい。僕とて、何も好き好んでこんな対策を取る訳ではないし、今の後藤さんの状況では手段を選んでもいられん。
周囲からの胡乱な視線に肩を竦める。
「結局、最後は結果なんですよ。結果が過程を正当化する、そういう場面は確かに存在します」
全てがそうだとまでは言わない。だが学校でも壇上でも、結果を出せば大人は黙ってしまった。出席日数が怪しかろうと、学校行事を足蹴にしようと、成績さえ上げれば、コンクールの順位さえあれば幾らでも横紙破りが罷り通った。
『嘘吐き! 約束したじゃないか!』
──かつて浴びた、幼い失望。
音楽会で伴奏をする。そんな小さな頃の約束さえ、本選前の調整のため反故にしようとも。
もっとも、その横紙破りの主体は母だったのだが。
「うわあ」
「だから唐突に闇を仄めかすのはやめろ」
さてと、感傷に浸っている暇はない。僕の過去を一番よく知る故か、複雑そうな表情を浮かべる
「まずは軽く30回ほど繰り返し解きましょうか。喜多さんのギター特訓と要領は同じです」
「30回!? き、喜多さんと同じって……ひぃ!」
「なに、1日6時間のギター練習を継続できる後藤さんなら、苦もなく熟せる訓練ですよ」
彼女も知悉するはずの特訓の内容を連想して、後藤さんはなぜか顔を青褪めさせた。過去問があるからと言って、訓練が不要とはならない。
ああ、ある古典的映画に曰く、訓練の前にはこう言うのだったか。
「笑ったり泣いたりできなくしてやる」
「うわーん!」
規律・訓練の成果を監視し、上下関係に位置付けることを以て褒賞ないし処罰とする。ふと、脳裏に浮かんだ考えに一人失笑する。コンクールとは、なるほど「試験」そのものではないか。
そして結果を出せなかったのが僕だったな。