「おーい、喜多ちゃんに水木君も!」
「おや、伊地知先輩。何かご用件でも?」
「ううん、飲み物買いに来ただけだけど。喜多ちゃんは……」
文化祭ライブへ向けた自主練習が終わった後。飲み物でも買おうかと日が落ちた街路に出たあたしは、並んで帰路につく喜多ちゃんと水木君を見かけて声を掛けた。
「#$%&@*€£!」
「おお、可哀想に。山田先輩との訓練はまだ少し早かったようですね」
「他人事みたいな顔しやがって……」
おお、もう……。こちらに振り向いた喜多ちゃんの顔は、無惨にもしわくちゃに萎れきっていた。
練習の疲弊のせいか、名状し難い謎の言語で辛うじてこちらに応えた我らがギターボーカル。その隣で会釈する水木君は、喜多ちゃんの様子になぜかほっこり微笑ましげだった。だからお前その反応おかしいよ。
ここしばらく、水木君からの課題をこなすためにぼっちちゃんが練習に来れない。その間少しでもギターを上達するべく、喜多ちゃんはリョウと水木君に自主練習を申し入れていた。
最初は二人ともそれなりに丁寧に指導はしていたんだけど……。どういう経緯か、突如発生した
「山田先輩も困ったものだ。しかし、教えた基本コード進行を応用すれば着いていくことは可能な範囲でしたよ」
「絶対嘘だ……。最後のほうなんか、違うリズムが互い違いになってたじゃない!」
「ほう、お気付きになりましたか。成長されましたね」
「〜〜ッ!」
責任をリョウに擦りつけつつ、無駄に茶目っ気たっぷりに開き直った鬼教官。疲労困憊とばかりに項垂れていた喜多ちゃんは目から光を消して、声にならない悲鳴で彼をなじった。バシバシと彼の肩を叩く彼女に、痛い痛いと苦笑する水木君。
まったく。ぼっちちゃんへ勉強教えるのもそうだけど、あんまりやりすぎちゃダメだからね。そうぼやきつつ、自販機で買ったジュースを二人に手渡す。
「喜多ちゃん無理してない? 二人に扱かれたからって、変に気負わなくたっていいんだからね」
「ありがとうございます。でも、水木君や後藤さんにも迷惑かけちゃったし、私も頑張らないと」
飲み物で多少なりとも気が晴れたのか、我らがギターボーカルは幾らか元気を取り戻してぐっと拳を握った。キターン! と独特のエフェクトでやる気を露わにする喜多ちゃん、でも。
「迷惑だなんて、考えなくていいんだよ?」
「えっ?」
「喜多ちゃん、結束バンドに入ってからずっと頑張ってるじゃん。あんまり根詰めてると、疲れちゃうんじゃないかなって」
出足こそ躓いてしまったものの、ぼっちちゃん達との練習でギターボーカルを披露したり、リョウとの特訓も申し出たり。特に最近の喜多ちゃんは、思い詰めたようにギターにのめり込んでいる。
その熱意に感心はするけれど、……どこかに軋むような影を感じて。
「『迷惑などと考えなくともよい』。特に異存はありませんが、それは僕の台詞なのでは?」
「余計な茶々入れんな」
なんて心配も知らないで、一々混ぜっ返してくるこんちくしょう。確かにギタボの披露だったり文化祭ライブだったり、喜多ちゃんの駄々に一番振り回されたのは水木君だろうけど。
あっけらかんと肩を竦める水木君に、喜多ちゃんは小さく身を震わせた。彼を……彼の向こう側にある何かを畏れるように。
「でも、私は「特別」になりたい。……ううん、私は水木君みたいになりたい」
すごくワクワクして、この先どうなるんだろうってハラハラして。廣井さんも、リョウ先輩も、水木君も、みんな自分の全部を振り絞って、まるでひとつの生き物みたいで。そして、悲しくってどうしようもなく胸がぐちゃぐちゃになるような、そんな演奏。
あの夕暮れの問答で、あの路上ライブで胸に芽生えた「特別」な思い。それが少女の瞳で瞬いている。
視線の先の少年は、宵闇の影に静かに佇むだけ。
「水木君の分まで、もっともっとギターも歌も上手くなりたい。彼みたいな「特別」な演奏、してみたいんです」
思いを語る声は段々自信なさげに窄まっていって。胸元でぎゅっと握られたこぶしに、彼女の視線は少しずつ落ちていく。
「でも、水木君達の演奏を見て、どこまで行けばあんな風になれるのかなって。……正直、途方に暮れちゃう時もあって」
弱気になってちゃダメですよね、と彼女は強がって笑って見せる。そのキラキラした瞳の奥で、駆られるような焦りと不安が揺れているのが垣間見えた。
……喜多ちゃん。
「ならば訓練です。
「鬼! 悪魔! 水木南!」
そして血も涙もなく、あまりにもあんまりなド正論を叩き付けたクソ野郎。
そりゃ上手くなりたいなら練習するしかないってのはその通りだけど、さっきも喜多ちゃんをエグい練習で擦り潰しといて。
「まーた身も蓋もないことを……」
「流石に冗談です。彼女をかつての僕のような人間オルゴールに仕立てた所で、何の面白味もない」
「だから冗談に聞こえないし笑えないのよ!?」
白々しく掌を返した水木君を、喜多ちゃんはドブのように濁った涙目でなじった。
いや人間オルゴールって。相変わらず極端な彼の言い草には呆れ返ったものの、……「特別」への憧れ、彼への感謝と引け目。それらがぐちゃぐちゃに混ざった焦燥になって、今の喜多ちゃんを遮二無二突き動かしている。
「前も言いましたが、人に合わせたお上手な演奏などクソ喰らえ。僕のようになりたいだなんて、それこそ笑えない冗談だ」
私と同じ懸念を感じたんだろう。すっと喜多ちゃんを振り解いた水木君は、薄く苦味を混ぜながらかぶりを振った。
その呟きに混じった後悔の色。そして影の中の表情は皺枯れた、疲れたような自嘲に変わった。
「僕としたことが、柄でもなくはしゃいでしまったようですね」
少しだけ歪んだ口元に、僅かに恐れを覗かせて。
僕はギターは門外漢。そして彼女がフロントを組むのは後藤さんであって、僕ではない。そんな輩が、横から口出しする権利など本来ない。
一区切りついた後も、僕が彼女達の自主練習に関わり続けたのは……つまるところ、貴女方の隣が居心地良過ぎただけなのだから。
だから、音楽を嫌いになってしまうくらいなら。そんなことさえ、わからなくなってしまうくらいなら。
「僕の規律・訓練に付き合う必要はない。僕のようなザマになっては、もうお仕舞いなのですから」
泣きだしそうな雨上がりの匂い。彼は懺悔するように項垂れた。
「えっ……えっ!? またいつもの笑えない冗談!? それとも、更に厳しい事実の指摘?!」
「あの、ホントに大丈夫? 金欠だからって悪くなったもの食べたりしてない?」
「……」
普段は慇懃無礼を地で行くクソ野郎。そんな彼の唐突かつ妙に神妙な呟きに、かえって危機を感じたらしく喜多ちゃんは震え上がる。
あたしも正直ちょっと気味が悪い。リョウもたまに変なもの拾い食いして「綺麗なリョウ」になったりしてるんだし。
「後藤さんと言い、僕を何だと思っているのですか」
「鬼! 悪魔! 水木南!」
「それはもういいです」
ポンポンを擦るあたしを軽く引き剥がしつつ、心底不服そうな顔をした水木君。山田先輩と同列扱いは勘弁して下さい、と嘆息しつつ、彼はガリガリその黒髪を掻いた。
「別に僕とて、自分の至らなさを認めるくらいはします。所詮人間なんて、自分が知っていることしか知らない」
「……それって」
「喜多さんに課した訓練は、僕のとくに幼少期のそれを基にしたものですが」
少年の独白。何でもないように淡々と紡がれる、機械仕掛けの過去の記録。
「ある高名なギタリストはこう言ったそうです。『どうやって速く演奏するか?
It is impossible to achieve the aim without suffering.
Discipline is never an end in itself, only a means to an end.
演奏家は己の製造過程をそんなふうに曝露した。影となった表情の奥で、黒い眼差しだけが昏く瞬く。
『自分が知っていることしか知らない』
開き直ったようにも聞こえるけれど、でも、なんとなく分かってしまった。
水木君は喜多ちゃんに敢えて厳しくしていたんじゃない。そうではなくて、彼にとってピアノとは
……なら、きっと。
「水木君は、ピアノが嫌いだったんだね」
「そう言い切れたなら、むしろ話は簡単だったのかもしれません」
街灯が照らす光の外側。そこに立った彼と、あたし達との決定的な断絶。胸に当てた手の内の寂しさ、それと同じものを噛み締めて、少年は努めて微笑む。
それでも少しだけ声を震わせながら、喜多ちゃんは彼との差異に一歩踏み出した。
「でも、……だったら、水木君はどうしてピアノを弾いていたの?」
ピアノへの、音楽への複雑な感情。なら、どうして彼はピアノを弾き続けたんだろう。何を求めて、何をなくしたのだろう。
「それが僕の役目のようなものだったから——というのでは、納得されませんか」
「だってそんなの、君なら大して気にも留めないでしょ」
「だから僕を何だと、と言いたいところですが」
『本当はね、あんたに役目なんて何もない』
思い出のなかの大事な言葉が、それを肯定する。
実際、この目の前のクソ生意気な後輩なら、何だかんだと理屈を付けて、のらりくらり躱してしまうだろう。想像そのままにはぐらかそうとするクソ野郎をじっとり睨め付ければ、彼は苦笑混じりに首を傾けた。
そして心許なさげに言葉を探す、幾ばくかの逡巡の後。やがて夜の暗がりに表情を隠して、水木君は諦めたように嘆息した。
『僕はどうすれば良かったのでしょうか』
前に一度だけ見た泥のような嘲笑。奈落の底を映す澱み切った目。
「我ながら馬鹿馬鹿しく、未だに認め難い話ではあるのですが。それらしい理由を探してみたとき、僕の中にはこれしかなかった」
多分、きっと、おそらく。
「母に笑って欲しかった」
……えっ?
あんな大仰な訓練。それが大言壮語や法螺話の類じゃないのは、彼の怪我をしてなお驚異的な演奏を見れば分かる。その理由が——。
「ええと、意外と普通なのね?」
「僕はごくごく普通の人間です。ただ」
言葉だけをなぞれば、おずおずと答えた喜多ちゃんの言うとおり。誰にでもありそうな平凡な動機。でも、水木君のお母さんって。
こちらに目配せをした彼は、表情の影を色濃くしながら小さく頷く。
「伊地知先輩のご懸念のとおり。中学へ上がる頃には既に折り合いは悪くて、母はただ疎ましいだけの存在になっていた」
『合間時間に課題曲を聴く程度しか許されませんでした。それに母はGPSで位置情報などを逐一追跡して来そうな人でしたので』
『まあ、僕にそんな人は存在しなかったので想像ですが』
『母は、どうやら娘が欲しかったようでしてね』
今まで断片的に出て来た話だけでも、水木君とその母親との関係がどうしようもなく壊れてしまっていたことは分かる。朗らかにご飯をよそってくれる。枕元で優しく寝かしつけてくれる。ともすれば平凡で朧げで、けれど大切なお母さんとの思い出。それさえ、かつての水木君には与えられなかった。
けれど、最初はそうじゃなかったはずだ。
「幼い頃見たはずの、ぼやけて思い出せなくなった笑顔。それがもう一度見たかった」
もっとも、そのことさえ忘れてしまっていたのですが。瞳の先に追憶を映して、彼は口元を歪ませる。
「母は「正しい演奏」を求めた。僕は、ただそれだけのために刻み続けた」
一つ積んでは、母のため。
身体を、魂を縛る「
『正しい演奏ではない』
けれど彼は、自身の演奏をそう断じた。「正しい演奏」とは何なのだろう。そんなもの誰が決められるのだろう。水木君はきっと、その正解のない問いに疲れてしまったのだ。
そしてお母さんのことも、お節介焼きの恩人も、彼自身の最初の願いも。大事だったもの全て置き去りにしてしまった。見捨ててしまった。
……ぎちり、ぎちり。機械仕掛けの嘲笑い。
「つまらないじゃないですか。くだらないじゃないですか」
演奏家は自嘲を宵闇に隠して、憧れを向けられた少女へ柔らかく告げる。夜の帷が隔てた、その青褪めきった優しさが痛々しかった。
あたしのお母さんはもういない。
それと同じように、辛く苦しい訓練をずっと続けて、刻み付けて、心の奥底で恋焦がれて。彼が一番欲しかった笑顔もまた、もう二度と得られないのだろう。
水木君が初めて打ち明けた後悔に、何も言えないまま立ち尽くした喜多ちゃん。彼が積み重ねた時間は、思いは、どこへ行ってしまうんだろうか。報われないままなんだろうか。
そのまま、冷たい沈黙がその場に満ちて……。
「ぼっちちゃん直伝! 井之頭式アームロックァ!」
「がああああ」
あたしはおもむろに彼の腕を取り、くの字型に折りたたんだ!
「最近は腕を捻る機会もなかったからね! ノルマはちゃんとクリアしとかないと!」
「伊地知先輩、色々それ以上いけないです」
わざとらしく苦悶の声を上げた水木君に、あたし達の唐突な奇行に引きつつも突っ込む喜多ちゃん。だーから一々水臭いんだよこのクソ野郎!
いい所で腕を解放すれば、彼は腕を振りつつ不服そうにこちらへ半目を向ける。でもそんな顔をしたいのはこっちのほうじゃ。
「あたし言ったよね? 「くだらない」なんて言ったら、今度こそ許さないって」
「それは、……皆さんの演奏に対してであって」
「聞く耳持たんわ! 「あたし達」には当然君も含まれてるに決まっとろーが!」
たじろいだ様子の水木君の胸倉をぐいっと引き寄せる。その黒い瞳には困惑が浮かんでいる。この期に及んで分かってない唐変木に、はっきり言ってやらなきゃ気が済まなかった。
「あんな凄い演奏が、つまらない訳ないじゃんか! そこまで積み上げた努力が、くだらない訳ないじゃんか!」
身体に、魂にまで刻みつけた、どんな場面でも崩れないリズム。鋭利な指先に宿った技術。見捨ててしまった、その凍てつくほどに熱い痛み。壊れてしまったとしても、願いが果たせなかったとしても、だから意味が無いなんてことにはならない。
喜多ちゃんが言ってたじゃんか。彼女が見出した「特別」を、水木南を馬鹿にするなって。
というかだな。
「君が特別なんかじゃないなんて、とっくの昔に分かっとるわバーカ」
「ぐっ……」
胸ぐらを離してじっとり睨め付ければ、彼は決まり悪そうに呻いた。あたしも喜多ちゃんも、君がカッコ付けてばっかのクソ生意気で慇懃無礼で、本当はクッソダサい寂しがり屋で、だからカッコいいツンデレクソ野郎だって知っているのだ。
……まあ、以前「本音を晒せ」と言ったのはあたしなので、武士の情けで自意識過剰だとは言わないでおいてやるけど。
拭い難く染み付いた、自身への不信を乗り越えて。顰めっ面を赤く染めつつ胸元を整える水木君に、喜多ちゃんはもう一歩歩み寄る。
君は
「あの特訓も、今の練習だって。大変だったけど、でも、本当に楽しかったのよ? 本当に嬉しかったのよ?」
ああでもないこうでもないって失敗して、それでも少しずつ、みんなでできることが増えていく。わめきながら試行錯誤して、みんなでどうすればいいか考える。
それが楽しかった。ぼっちちゃんと水木君が助けてくれて、嬉しかった。
「だから、私はギターが好きなのよ?」
喜多ちゃんはそう言い切ってみせる。
一人孤独に、自らの身体と魂を刻み付けていたかつての少年。でも、あたしにお姉ちゃんが居たように、リョウにあたしが居たように。喜多ちゃんにはぼっちちゃんと水木君がいた。
「僕も楽しかった。本当に楽しかった」
『柄でもなくはしゃいでしまった』。鸚鵡返しに認めた彼もまた、彼女の特訓に熱を上げていた。
みんなが居たから、辛い練習だって楽しかった。
5月のあの最初のセッションだってそう。即興の激しい変拍子の繰り返しで、ドラムは付いていくのも精一杯。けれど必死で、訳もわからないまま地力以上の何かを引き出されてるような気さえして、とにかく楽しかった。あたしだって楽しかったのだ。
バラバラだったみんながひとつの音楽になる。それがあたし達なんだから。
「その楽しさを、みんなで一緒に見つけて行こうよ。きっと、それが喜多ちゃんがやりたい「特別」なんじゃないかな?」
「はい。……はいっ、伊地知先輩!」
喜多ちゃんが咲かせた笑みに、焦りの色はもう見えない。彼女は水木南になりたいんじゃない。彼がやってみせたような「特別」がやりたいんだ。
最初の思いを見つめ直せたなら、喜多ちゃんはもう大丈夫。辛くて苦しい練習だって、みんなでならきっと楽しくて大事な思い出になる。過去の失敗や後悔でさえ、誰かを心動かす「特別」になる。
そんな革命寸前の未来だなんて、紛れもなく確かな希望だ。
「ならばやはり訓練です。笑ったり泣いたりできなくしてやる」
「鬼! 悪魔! 水木南!」
「一々台無しにしやがって……。だからやり過ぎちゃダメだからね!」
そして性懲りも無く鬼畜な宣言を下すクソ野郎。喜多ちゃんは今日何度目かも分からない、悲痛な叫び声を上げた。
楽しければもっと負荷を掛けてOK、とかそういう話じゃないから。
なお、一時は文化祭への参加も危惧されたぼっちちゃんの試験結果について。
結果から言えば五教科平均55点、赤点もなし。
限りなくグレーな試験対策と超体育会系の詰め込み型教育の甲斐もあって、彼女の補習でライブができないという最悪の事態だけは回避された。
なんだけど……。
「#$%&@*€£!」
「#$%&@*€£!」
「東大受験する。ベースなんてやってる場合じゃない」
「おお、可哀想に……痛ッ、痛い痛い。伊地知先輩、問題は解決したではないですか」
「やり過ぎんなって言っただろーが! ウチのバンドを潰す気か!」
「山田先輩は伊地知先輩の所為でしょうに」
ギターと勉強。内容の差はあれ、規律・訓練によって身体と精神を型に嵌められ、名状し難いビープ音しか出せなくなったフロント組二人。そしてその様を謎に満足げに眺める偏執狂。
勉強でベースの弾き方を脳内から弾き出されたリョウも加えて、半壊した結束バンドの惨状にあたしは頭を抱えたのだった。
「やれやれ。まあ、あの様子なら潰れるということもなさそうですね」
「ったく、気安くなったのやら、もっと厄介になったのやら……」
鬼教官から逃げ出さんと足早に去っていく喜多ちゃん。その背中を見送りながら、水木君はくつくつと苦笑いを浮かべた。一応彼女を気やってくれてはいるんだろうけど、自分で訓練を仕込んでおいて呆れた言い草である。
「まあでも、ありがとね」
「……何のことです?」
「前に言ったよね。君が弱みだったり、本当の気持ちを隠そうとするのは悪い癖だって」
普段カッコつけてばかりのツンデレクソ野郎。この期に及んですっとぼけるソイツへ、じっとりと横目を向ける。
路上ライブで、ぼっちちゃんが言っていたのと同じ。置いてけぼりにされたようで、本当はあたしも寂しかった。
理屈では分かってる。あれは彼自身が決着をつけるための場所。あたしが口出ししたところで協力できることなんてたかが知れてたし、リョウみたく演奏に乱入できる腕もない。
「でも、それでも。あたしは助けてって言って欲しかったよ。頼って欲しかった」
「伊地知先輩」
「だからさ。今日は、打ち明けてくれて嬉しい」
言いにくいことだったろう過去の後悔を晒した、クソ生意気な後輩の微笑ましい成長。感慨深く頷くあたしに、彼は居心地悪そうに目を逸らした。にひひ、コイツも出会った頃から随分と表情豊かになったモンだ。
そのありがとうついで。最後に、どうしても気になった心残り。
「水木君はさ、……頑張ったんだよね? お母さんのために、何年も何年も練習したんだよね?」
「結果が伴わない努力に意味はないでしょう。僕は母が望む演奏家にはなれなかった」
自身への不信を乗り越えても、彼自身の結末にはどこまでも冷淡で、いっそ他人事のように突き放している。愛子さんの件もありましたし、いっそ清々もしましたがね、と水木君は肩を竦めて吐き捨てた。それは確かに一面の事実かもしれない。
でも。
「喜多ちゃんにも、ぼっちちゃんにも、君はそんなことを言うつもりなの?」
「……」
縋るように見上げたあたしに、頑なだった演奏家は目を伏せる。
頑張って失敗して、それでもめげずにギターを弾く。そんなぼっちちゃんの弾き語りを、水木君は愛している。彼が二人の努力を貶せる訳がない。だったら、君自身が頑張ったことも認めてあげてよ。
僕の
「分かりましたよ。僕の負けだ」
水木君はまさに白旗を掲げるように、大袈裟に両手を上げて見せた。彼もまたぼっちちゃん達に「特別」を見出した一人。あの二人を持ち出されれば、彼はどうやったって勝てないのだ。
若干ヤケクソじみた雰囲気は感じるけど、まあいいや。ようやっと強がりを外した水木君に満足して、ふふんと鼻を鳴らす。
「分かればよろしい。じゃあ、ちょっとそっちに立って」
「また何をされるおつもりですか?」
「いいから。……よっと」
屯していた道の脇に彼をやって、あたしはその傍の縁石に登る。身長差が逆転して、怪訝そうにする水木君をちょっとだけ見下ろす形になった。
あたしのお母さんはもういない。
あたしの喪失と彼の傷とは違う痛みだ。まして、お母さんの代わりなんてなれるはずがない。それでも、泣き喚くほどに恋焦がれたその切なさはわかるから。重ねた時間が、最初の願いが、何も報われないまま消えてしまうなんて寂しすぎるから。
くしゃり、くしゃり。柔らかな髪を優しく掬う。
影が照らされたその素顔は、意外なほどに幼いまま。……一人でずっと頑張ってたんだね、水木君。
「えらいぞ」
言葉もなく、少年はあたしを見上げる。
もうお母さんの笑顔を見られない。そんなあたしだけは、せめて、彼のことを褒めてあげたかった。